「風雲の世界を見てみたかったんだ」
「なにそれ。意味分かんない」
「分かんない?」
秋雲は首を傾げた私を見ると、小さく笑いながら人差指と中指を立てて、そこに親指を添える。
「じゃあ、見せてあげる」
パチン。そんな音が鳴ったのは一瞬のことで。その途端に私たちは海の上に立っていた。
「今更驚かないでよね。世界の創造主サン?」
「あは、あはは……」
そんなことを言われても、私は乾いた笑いしか出ない。何物も飲み込んでしまう大海原と、何者も拒んで君臨し続ける空。それを見ながら、秋雲は言う。
「これ、全部風雲が描いたんでしょ?」
「うーん……それはどうなんだろう」
凪いだ海には深海棲艦も哨戒艦もいない。雲も映しそうなほどまっさらな海面と、私たちだけ。
秋雲は大きく息を吸い込んで、それから言う。
「うん、ステキだよ。敵わないや」
そんなことないよ。その言葉は謙遜で、それが秋雲を傷つけるような気がして、私は口を噤む。
代わりに私は、聞かなきゃいけないことを聞く。
「ねえ。秋雲は私を
この後はどうするの。何処かに世界の出口でもあるのだろうか。力尽くに連れ出すのだろうか。
「そんなことはしないよ。だって、
秋雲の顔が、初めて陰ったような気がした。その真意を問い詰める間もなく表情は取り繕われてしまう。
「じゃ、なんかして遊ぼっか」
「え?」
そんなことを秋雲が言うのだから、私は困惑するするしかない。秋雲は笑う。
「だって、風雲はずっと張り詰めっぱなしだったもの。このぐらい遊んだってバチ当たらないって」
私たちは、遊んだ。
この世界には整合性なんか本当はない。
秋雲が指を鳴らせば通販サイトの商品が一瞬で届き、大型映画館が貸し切りになる。書店には私たちの読んだ本しか置いてなかったけれど、互いの読書歴をひけらかし合うように読み合って、映画も沢山見て。
「たーまやぁ!」
「……さっきまでスイカ割りしてたのに花火って、流石に時間軸がおかしいことになってない?」
「いーのいーの。風雲は堅物すぎるんだよ」
そんな風に、この世界を
「それで、
秋雲が、そう言った。だから、私は――――
「もう、おわりにしよう?」
この物語は、きっと忘れ去られるためにある。
私はずっと昔に産まれた我が家に帰ってきた。ただいまと言っても誰も応じてくれない玄関口。台所へ繋がる扉の先は、実は
押し入れの荷物を引き出して改める。段ボール箱にはなにも入っていない。
「おかしいなぁ……ここにあったはずなんだけど」
「秋雲サンも手伝うよ。何処探せばいい?」
そんなことを言ってくれる秋雲と手分けをして、部屋を探す。ここはもう地図にも残っていない私の故郷で、私の記憶の地形図で創られていて。
もしかしたら、見つからないんじゃないだろうか。
そんな不安が胸をよぎる。でも、秋雲があんまりにも真剣に探してくれるから、私も探し続けて。
「えっと……あった」
膨らんだ茶封筒。お祖父ちゃんが使いなさいって言ってくれて、あの日までずっと大切にしてた宝物。
ここに、あの人が褒めてくれた絵がある。
私が絵を描き始めたのは、秋雲のいう通りどうでもいい理由で。ただ憧れのヒトに褒められたから、それが嬉しくて。もう一度描けばもっと喜んで貰えるんじゃないかって、そんな理由で。私は何回も描いた。
それが今、私の目の前にある。私が覚えていないはずのその絵たちが、確かに私の手の上にある。
「――――ヘタクソ、だなぁ」
想像よりもずっと、下手だった。それこそ、なんであの人が褒めてくれたのか分からないくらいに下手だった。あの人もしかして、美的センスが壊滅的だったりしたのだろうか。
「上手だよ」
秋雲がそんなことを言う。
「お世辞はやめてよ」
仮に上手であったとしても、それは『同年代』と比べればという話だろう。それなのに。秋雲は笑う。
「でも、あの人は褒めてくれたんでしょ?」
それはホントのことだよ。秋雲は言う。あの人はなんで褒めてくれたんだろう。どうして私は、こんな下手な絵を飽きもせず描いていたのだろう。
狭い子供部屋には、私の影。クリップボード片手にあっちこっちを歩き回った。国道沿いのタンポポ、漁船の沢山並んだ港、影の差した裏路地に、駐在さんの詰所。初めてあの人と出会った防潮堤。
「なんだか、羨ましいな」
秋雲がそんなことを言うので、私は首を傾げるしかない。秋雲は私のヘタクソな絵を見ながら言う。
「風雲の世界は、こんなに輪郭がはっきりしてる」
「そんなの、誰だってそうでしょ」
だって、ここは都合のいい世界だから。
それなのに秋雲は、違うと首を振る。
「だって自分の思い通りになる世界なら、風雲の絵は世界一になってる筈じゃない?」
「……それはないでしょ」
「でも、
多分それを、否定することは出来ないのだろう。私が自分の作品をもっと見て欲しかったのは事実だ。
「白状するけどさ」
「なに?」
秋雲はゆっくりと告げる。
「本当は、力づくで奪い返そうって思ってた」
その言葉には「そっか」としか返せない。
「秋雲サンはね、物語を作ったの」
それは私も、薄々気付いていたことで。
「
この世界は
「それでも、流石にもうアドリブの限界だよ。やっぱり主演が脚本読んでこないのは無理だわ」
秋雲サンはハッピーエンドが好きなんだって言ったじゃん。秋雲の愚痴に、私は苦笑い。
「私は秋雲みたいに、ハッピーエンドは描けないよ」
「そこ、そこだよ風雲」
秋雲が吐き出すように言う。私は首を傾げる。
「私がこの世界に来たときから、風雲は苦しんでいた。誰もいない食堂でカレーを食べてさ」
「でも、仕方ないよ。私は後悔してない」
横領の告発も、絵を描いてきたことも。何一つ後悔なんてない。やらなきゃよかったなんて思わない。ただその結果を、受け止めるだけ。
「なんで? いいじゃん幸せで。
「ダメだよ。それは整合性がとれてない」
私のクリップボードには、未完成の風景画がまだ止まっている。それは整合性がとれないから未完成なのだ。だからといって
「
「ダメだよ。私は立派な国防軍人にも、人気作家にもなれなかった。秋雲とは違うんだよ」
そう言えば、秋雲は笑う。
「うん。だから私は脚本を書き換えたんだ」
その言葉には、まったく見当が付かなくて。
私に向かって秋雲は解説を続ける。
「この世界は風雲に対して厳しすぎる。だから私は風雲を
そんなことしなくていいのに。多分それは口にしてはいけない謙遜で、私は呟くしかない。
「……ごめん」
「あやまんないで。元はと言えば秋雲サンが悪いの」
私がなにも返さないでいると、勝手に話を続ける。
「ねえ、あの時の約束、覚えてるでしょ?
秋雲はそう言う。どうやら提出期限らしい。私はあのスケッチブックを取り出した。そこには、白。
「どうしよう。私の絵、真っ白だよ」
やっぱり私は、真っ白だったよ。
秋雲には、私の世界を優しく彩ってくれた秋雲でもそれを否定することは叶わない。
「……うん、知ってる。それが風雲だものね」
私たちはいつの間にか、高台から海を見下ろしていた。もう秋雲は、なにも言わない。私はスケッチブックに鉛筆を乗せて、それから離す。
「……どうしよう。描けそうにないや」
「だったら。描かないのも手だろうね」
秋雲は私の表情を想定していたのだろう。そのまま続ける。水平線の向こうからは太陽がぐんぐんと昇ってくる。その先の空は、澄み渡りすぎていて。
「だって、この世界はこんなに綺麗だよ?」
でも、未完成だよ。私の呟きが風に乗る。
この世界には『雲』がない。あの人が描いてくれとい言った雲を、空を、私はついに、描けなかった。
「そんなこと言ったら、かの日光東照宮だって未完成だそうじゃない」
完成させればいいってものじゃないでしょ。秋雲は言う。私はそんな秋雲に甘えたくて、言葉を吐く。
「ずっと……ずっとこうやって、描いていたいな」
完成しなければ、この世界は終わらずにいてくれるのだろうか。それが私の願望で、整合性のないことで、他ならぬ
「ねえ秋雲……
「なーにぃ? 怖くなったの?」
「うん。怖いよ」
「大丈夫、怖くなんかないよ。だってこの世界には」
貴女を傷つけるものなんてないから。
「この世界は、この世界の秋雲は優しいね」
段々世界が歪んでくる。誰だ、原稿用紙を水につけたのは、ふやけてダメになっちゃうじゃないか。
私は、さっきの茶封筒を取り出す。そこにヘタクソな絵はもう入っていない。何百枚の原稿用紙が、はち切れんばかりに詰まっていて。
私は、それをばら撒いた。封筒から引き抜いて、それはもう滅茶苦茶に。
はらりはらり、原稿用紙が朝焼けの中に舞う。
とてつもなく広い世界に飛びだした私の
小さな故郷で生まれて、大きな街に逃げて。
そうして最後に辿り着いた海軍で、
こんな物語、一体誰が覚えていてくれるのだろう。
文句を言う相手もいなくて。
ああ、誰かに見ていて欲しかったな。なんて。
都合がいい話なのは分かってる。私は自分勝手な理由で絵を、そして
「私は、見てるよ」
まだ、秋雲は見てくれているだろうか。だったら秋雲はこの物語をなんと評するのだろう。ハッピーエンドからはほど遠く、でも私はバッドエンドだとも思っていない。だって別に、私は不幸せなんて思ってないから。そもそも
だから私は、
「ねぇ秋雲。
「
ああ、貴女はズルイ。そうやって読者のクセして、私にはなにも言ってくれないんだ。やっぱり他の人達にとっての物語なんてそんなものなのか
そんな私に秋雲が肩を寄せる。太陽が水平線からその全貌を露わにして、急に強くなった日差しが私たちを刺す。高台から見たこの世界はなんて眩しいのだろう。これが私なんかの世界だとは信じられなくて。
その時、不意に真っ白な原稿用紙が目に入った。
おかしい、私の人生が全部詰まってる原稿用紙に、白紙なんてないはずなのに。
「未完成なんだよ。
秋雲がふいに言った。
「誰かの人生に
秋雲がそう言う。では、一体全体誰が私の物語に結末の文字を打ってくれるのだろう。私の物語はここで終わったはずなのに、どうして私はまだ物語を紡ごうとしているのだろう。
秋雲が、笑う。私も笑った。台詞が勝手に、原稿用紙に描かれていく。
「私はね、自分勝手なの」
「うん、知ってる」
私と同じポニーテールが潮風に揺れる。
「だからね。これは私の自己満足だから」
「分かってる」
スケッチブックの上を鉛筆が走る。
「だからね、私は。後悔してないよ」
その言葉は、嘘でホント。きっと私は、この判断を何度も後悔するのだろう。私はそういう
だけれど、大丈夫。私には
これは私たちの、ギソウレンアイ。
ニセモノの物語。でも、二人で紡いだ物語。