第106話 特務神祇官よ永遠なれ(1)
〈西暦1980年 瀬戸月ミナト 北海道に産まれる〉
〈西暦1990年 瑞島ハルカ 奈良県に産まれる〉
〈西暦2006年 瀬戸月ヒナタ 北海道に産まれる〉
〈西暦2015年 「ミクロネシア戦役」勃発〉
〈西暦2017年 ミクロネシア連邦 チューク州〉
「ヒナちゃん……大丈夫?」
今でも覚えている――――べとりとした、あの感覚。
酸素を沢山含んだヘモグロビン、血漿に溶け込んだ凝固因子がへばりつくあの不快感。どくどくと流されるその供給元は、あんまりにも温かくて。
「痛いところ……ない?」
「お姉さん……血が、血が……」
血だということは、床に広がったそれの色から。
流れているのが自分を庇った女性によるものだというのは、背中から、頭の上から、そこらかしこから流れてくる温かさから。
それを理解してしまった記憶の中の少女は、必死にもがこうとする。
その記憶を忘れないようにと、忘却の彼方へ送らぬようにと、もがいている。
「あー。慣れっこ。これ位だったら……」
けれど。
忘れられるはずがない。あの少しだけ酸っぱい香りを。
それを包み込むような、硝煙と、炎の匂いも。
〈西暦2036年 日本国 東京都〉
国防省ビルA棟は地上19階、地下4階という巨大な建造物である。
屋上には大型輸送ヘリも着陸可能なヘリポートを備え、取り巻くように配置された各庁舎と共に東京の街並みを見守っている。
その一角、ピカピカに磨き上げられたデスクにキャビネット、書類ロッカーが並べられた小部屋の扉が音をたてて――室内の調度品とは対照的に、ずいぶんと立て付けの悪そうな音をたてながら――開いた。
「本日付で配属となりました。
その声に、部屋の奥に陣取った制服姿の男性が顔を上げる。
彼が目にしたのは、比較的小柄な部類にあるであろう女性――――いや少女と見間違えそうなほどに若い幹部国防軍人であった。
「驚いたな、ずいぶんと若い――……」
「お褒めに預かり光栄です海将補。しかしながら、これは霊力再生のもたらす錯覚のようなものであります」
書類の生年月日に不備があったのか――――そんな聞き飽きた台詞が飛び出しそうであったので先手を打つ女性、いや少女。
霊力再生とは身体の物理的修復ではなく形而上学的な修復を優先するという、現代医学の権威たちが眉を顰めるような方法によって行われる治療方式である。そのため、霊力再生を受けた彼女たちは総じて
「そうか。特務神祇官を部下に持つのは初めてでね、失礼した」
「いえ」
「小河原だ。国防省大臣官房監察課行動係の係長。よろしく」
「よろしくお願いします」
そう言いながらデスクへと足を進める瀬戸月1尉。座席の説明は一切していないが、そもそも部屋には机が二つしかなく、片方には海将補が居座っている。これで間違えるのは難しいだろう。
瀬戸月が席についたのを見て、小河原海将補は手元のPCへと目線を戻す。手元の冊子をめくりながら時折PCへ何かを打ち込んでは、また冊子をめくる。
「あの、私は何をすればよろしいのですか」
瀬戸月1尉の問いかけに、小河原は応じない。
「あの、閣下?」
「君は私の階級を知っているか」
瀬戸月は己の耳を疑った。
階級もなにも、目の前の人物は国防軍の制服を着込み階級章を身につけている。
言うまでもないことであるが公的機関の階級を詐称することは禁じられており、従って彼の階級は2つの大きな桜が示す通りの海将補に他ならないはずである。
「……海将補、ですよね」
「ではなぜ将官クラスの人間が係長をやっているか分かるか? まして大臣官房監察課のポストは本来なら内局組のものだ、制服組が居ていい場所ではない」
そして、それだけ言い放つと話はそれまでとばかりに視線を冊子に戻す小河原。想定していたよりも
分かり切っていたことだ。やけに掃除の行き届いた室内に立て付けの悪い扉。配置された海将補という過剰な階級の上官に2つしかないデスク。
ここが
――――彼は何をしたのだろうか?
そんなことを考えながら瀬戸月はデスクの上に持ち込んだ大量の資料を並べる。
手元には支給品であるハンドスキャナ、特段利用価値はないが保管することになっているらしい書類をスキャンするのが彼女の仕事である。仕事に貴賤は存在しないというのが世の中の建前ではあるが、少なくとも特務神祇官たる幹部国防軍人にやらせる仕事ではなかった。
「1尉、先に謝罪しておこう」
そんなことを小河原が言ったのは、時計の短針がちょうど真上に来た時だった。
つまり午前の課業はきっかり全て、この意味があるかも分からぬ仕事に費やされたことになる――――もっとも、瀬戸月にとってそれは慣れたものであったが。
「謝罪、と言いますと……?」
何のことですか、という瀬戸月の問いは最後まで紡がれることはなかった。
なぜなら、立て付けの悪い扉が音を立てながら力任せに開かれたからである。
「貴官が瀬戸月ヒナタか!」
第一声は怒鳴るようなそれ。声の主は上半身が白、下半身が赤という国防省内部では奇抜な――しかし巫女装束と説明されれば誰もが納得するような――格好。
どうやらアクセスしやすい場所にあるとはいえないこの部屋まで全力疾走でやってきたらしく、息は荒く、頬は上気して真っ赤になっている。
「ええと、自分は確かに瀬戸月でありますが」
「よーしアンタがうちのダーリンを籠絡しに来た泥棒猫って訳ね!」
「は?」
理解が追いつかなかった。
「というか、誰ですか?」
理解が追いつかない、というより。訳が分からないと表現するべきか。
「ほうほう……自らは名乗りもせずに名乗らせようとは……」
「いや、私の名前知ってましたよね? いまさっき『貴官が瀬戸月ヒナタか』って……」
「いいだろう。そこまで聞きたいのなら聞かせてやる!」
「人の話を聞いて頂けますぅ!?」
瀬戸月のツッコミを意に介する様子もない巫女装束。そのまま瀬戸月の眼前までつかつかと詰め寄ると、顔を限界まで近づけてこう言い放った。
「私は小河原ノゾミ、お・が・わ・ら・ノゾミだ!」
「……
「小河原」の姓を名乗ると言うことは明らかにこの部屋の主である小河原海将補の関係者であろう。そう言いながら上官のデスクへと目を向ければ――――――ついと目を反らされた。
「このフロアに民間人の立ち入りは許可されていないはずですか」
「……」
現実から逃げるな。無言の追及にも彼は応じない。
「瀬戸月1尉、勘違いしているようだが私はれっきとした特務神祇官だぞ! ほらこれを見たまえ! ほら!」
巫女装束がIDカードを差し出してくる。付与されたセキュリティ
……どうしてこう、
「3等
「またそれか。海軍の特務神祇官はこれだから困る。あの化け物どもを倒すには航空攻撃がもっとも効果的なのは知っているだろうに」
「そう言われましても」
基本的に神祇官の適性を持っている人間は全て海軍の特務艇部隊に配置されるのだから、空軍所属の特務神祇官なんて聞いたことがあるはずもない。
「そもそも空軍が昨今の対処行動において次点、いやそれより低い位置づけとなっているのはなぜか? 特務艇が最適解だから――――――などという思考停止を幹部国防軍人にされてもらっては困るぞ」
「そうは言ってませんけれども」
「ほう? そう言っているようにしか聞こえなかったが?」
「……はあ。そうですか」
それは失礼しましたとでも言えば満足なのだろうか。いやそれだけで満足はすまい……なんと面倒なことかと瀬戸月は天井を仰ぎたい心持ちになった。
特務艇、そしてそれを操る特務神祇官に全幅の信頼を置くべきか――――――その議論は常に派閥争いと共に繰り広げられてきた。特務艇という「一人乗りの軍艦」を推進したい者がいれば、一方で廃止させたい者もいる。廃止とまで言わずとも、現状の特務艇偏重予算には物申したいという輩も……海軍内部ですらこの有様なのだから、空軍や陸軍の特務艇嫌いはどれほどだろうか。
「神祇官が必要とされるのはひとえに奴らが放つ特殊な波長……いや、諸君らには『異能』とでも言ってやった方がいいかな? ともかくそれが原因だろう?」
電子機器の正常な作動を阻害する波長。事実、誘導弾の終末誘導を著しく阻害し、場合によっては物理的にも『干渉』するその波長は通常兵器による対処を
「航空機が無力化されたのは『空母種』のせいだろうに」
「あっ、そういうこと言わないでよねダー……」
「小河原
「……おっと。失礼しました、海将補」
口を挟むのは小河原海将補。
航空機は快速で、大質量を前線に投射することが可能である。しかしその運用にはとにかく制約が多く――――――特に『空母種』のいる海域ではその実力を発揮できないことが多かった。
だからこそ特務神祇官という人的資源は全て特務艇艤装へと集中している。特務艇を用いて戦わない特務神祇官がいるという事実自体、瀬戸月にとっては驚きであった。
「そもそも小河原三等空佐、貴官はまだ職務中だろう。『防空網』の世話はいいのか」
「その心配は無用です小河原海将補。『防空網』を無力化するのが私らの仕事なんですから……それよりお弁当はどう? 今日の卵焼きは結構頑張ったんだけど!」
「…………あぁ、おいしいよ」
「それは重畳、大変結構!」
弁当を食べながら感想を述べる小河原海将補と一転して笑顔になる小河原3等空佐。
それをみた瀬戸月は思った――――なんだこの茶番劇。
「もうよろしいですか」
「ん? あぁいいよいいよ! 私とダーリンの関係性は分かっただろうしね! ではサラダバー!」
悲鳴を上げながら閉められる立て付けの悪い扉。
静寂。
「…………なんなんですかッ!?」
「だから先に謝っただろうに。ともかくそういうことだ」
「どういうことなんですか! ここは国防省であってご自宅ではありませんよ!」
「真面目だな、瀬戸月1尉」
小河原海将補の眼が細められる。
「少なくとも小河原空佐殿は不真面目かと思いますが!?」
「真面目だから、あんなことをしたのか」
「……っ」
再び訪れた静寂は、瀬戸月が押し黙ったことによるものだった。
「間違ったことをしたつもりは、ありません。私は部下を守りました」
「『庇いたかった』の間違いだろう。彼らは法を犯した、ならば裁かれるべきだ」
「その過程でオセアニア地域を失陥し、数千万の難民が発生するとしてもですか?」
「貴官が職務を全うすればオセアニアの失陥は免れたはずだ。なにせ貴官の仕事はクーデターの鎮圧だったのだからな」
それは、今日まで瀬戸月ヒナタに対して向けられなかった――――否、誰も向けることが出来なかった問いであった。なるほどそういうことかと彼女は理解する。
ここは、ようやく開かれることになった「査問会」なのだ。