〈西暦2018年 ミクロネシア連邦 チューク州〉
遠い日本では、春は別れの季節らしい。
しかしミクロネシアに季節はない。雨がよく降るか、降らないかの違いしかない。
だから瀬戸月ヒナタは、あの夜のことを考えていた。
『これじゃ私たちは人殺しよ!』
あの夜、おそらく幸せだった偽りの景色が全部崩れてしまったあの夜。瀬戸月ヒナタは家族の事を信じられなくなった、あの夜。
父は変わらない、いつも通りに仕事に行って、いつも遅く帰ってくる。
そして「お姉さん」だった人物は「義母」になった。なにが彼女にそうさせたのかは分からないけれど、今思えば、引いていた一線が消えてなくなったのはあの夜から。
「ヒナちゃん!」
お姉さんの声が聞こえる。見つからないように身を縮めるが、その声はどんどん近づいてくる。
お父さんは追いかけてこないのに、お姉さんは追いかけてくる……そりゃそうだ、だって私はお父さんの子供じゃない。お姉さんは「あなたはお父さんの子」と言ってくれたけれど、多分それは、お姉さんも騙されているからで。
「ヒナちゃん? そこにいるんでしょ」
「いません。帰ってください」
そんなヒトと話したいとは、とてもじゃないけれど思えなくて。
でも、突き放せるほど。瀬戸月ヒナタは強くなかった。強くなるために本土への進学を選んだのだから、なおさら。
「もう帰ろ? お父さんに謝れなんて言わないからさ。お風呂に入って、ベッドで寝よう?」
「一晩くらい
だから、ただ放っておかれることを望んだ。そうすれば明日の船便で本土に行ける。偽物だらけのこの島から、逃げられる。
「うーん、そうだなぁ……じゃあさ。これは私の独り言なんだけれど」
なのにお姉さんは、逃がしてくれなかった。
「多分だけどさ。あなたのお父さんは誠実であろうとしたんだと思うよ」
「……」
「バカなヒトだよね。本当の誠実は、ウソをずっと隠しておくことなのに……」
「……ウソは良くないって、お父さんは言ってました」
「そっか。じゃあ、私も隠し事はやめるね」
誠実に、真摯に。残酷に。
私に事実を突きつける。
「実はね、子供が出来たみたいなの」
だからきっと、わたしのせいなんだ。
「ちがうよ」
〈西暦2036年7月14日 ソビエト社会主義共和国連邦 サハリン共和国〉
考えていた。生まれた意味を。
探していた。遺された意味を。
「直撃……流石です、
体内のありったけの
そして弾頭に付与された霊力を以て波長を中和、単なる水に成り下がった針穴ほどの空間から弾芯が飛び込み、防殻を逆手に取って内部で乱反射。
そして防殻が崩れる頃には、そこには何も遺されてはいなかった。
思い出したようにサイレンがポロナイツクの街に響く。爆発音も、減ってはいない。
「あ、そうか。ここの群れは斬首が効かないんだっけ」
なら、全部殺さないと。
陽炎は海へと向かう。
艤装も、敵も、みんな海で待っている。
「酷い顔ですね、先輩」
誰よ。とは今更言えなかった。廊下から差し込む光が煌々と、彼女の影を際立たせる。
「群司令の
「懲役終了」ですよ。おめでとうございます。
そんな文字列が、ポートモレスビーの共犯者から聞こえる。
「人手が足りない、って和訳するべきなんじゃないの?」
「ですが、あなたを司令部要員に復帰させるのは大きなメッセージですよ。国防軍はもう、先輩を不当に扱ったりはしない」
「あなたらしくもない楽観論ね、夕雲」
陽炎の言葉に、夕雲は丁寧に編まれた髪を揺らしてみせた。深い海色の作業服を飾るのは、陽炎と同じ1等海尉の階級章。
コツ、と半長靴が床を鳴らす。存在を知らせるわざとらしい足音が、陽炎のうずくまるベッドの脇を通りすぎていく。
「先輩はご存じだったハズですよ? 今回の任務は先輩の『復帰試験』だったと」
「でも、アイツらは私を使い潰すつもりだった」
「させませんよ」
音を立ててカーテンが開かれる。窓からも太陽光が降り注ぐ。夏のサハリン、透き通った空。
「貴女のおかげで沢山のヒトが救われた」
『子供』だけじゃない。鎮圧の過程で生まれたであろう戦死者、戦線の後退で生まれたであろう難民。
ポートモレスビーの
「だから、貴女をこんな場所で朽ちさせたりはしない。保護者は片桐1佐だけだと思いました?」
「保護者だなんて」
反論しかけて、そういう意味ではないかと思い止まる。変な穴を掘るところだった。
「確かに貴女は世界を変えてしまったかもしれない。けれど変化とは、なにも悪い方向にばかり進むものではありません」
そうは思わないけれどと返せば、既得権益の中枢たる
「知ってます? ポートモレスビーの件を受けて、ソロモン諸島が
世界中に対立が満ちているなら、漁夫の利を得ようとする輩も必ず現れる。アメリカとアジアを繋ぐ連絡線であるソロモン諸島は、かねてから主権侵害を盾に駐留軍から譲歩を引き出す前線国家として有名であった。日本もそれなりの
「見捨てられる恐怖に怖じ気付いたんでしょ」
「だけれど、日本はまだ誰も見捨てていない。だからこれは、良い変化なんです」
まだ?
ミクロネシアとマーシャルは見捨てたクセに?
胸の底から沸き上がった感情を陽炎は押さえ込む。それはもう
「だから先輩、胸を張ってください」
そして過去を知らない後輩は、陽炎を否定するどころか肯定する。
「貴女のおかげで風雲さんが助かった」
その代わりに、国防軍は長大な戦線を抱えたまま消耗を強いられている。
「貴女のおかげで国防軍は『子供』の問題に向き合う気になった」
その代わりに、
「世界は変わるんです、変えられるんですよ。先輩」
そうか。これは夢だ。
だって夕雲は、
司令部付きの件は南サハリン緊急展開群の司令となった小河原から直接聞いたし、懲役終了なんてからかうのは片桐くらいだろう。ソロモン諸島の件はもう2年も前の話だし、そもそも夕雲は『子供』の件を知らない……知らないハズだ、たぶん。
影法師がまとわりつく。陽炎の足元からそれは生えていて、ベッドから立ち上がっても、廊下に駆け出しても離れてくれない。
もちろん廊下には誰もいない。天井はなくて、底無しの空が広がっている。
振り替えると、先程まであったハズの寝室も消えていた。
心地よい潮風が肩を撫でる。これはきっと、故郷の風。
「……明晰夢なんて、本当にみるのね。ビックリだわ」
それを振り払いたくて、陽炎は口を動かした。幸いにも、口は自由に動いてくれた。
「にしても、なんで夕雲なのかしら。私そんなに、あなたにコンプレックス抱いてたかなぁ……」
いや、思い当たりはある。
夕雲には「空母艦娘としての適性」があった。陽炎、瀬戸月ヒナタが求めてやまなかったものを持っていた……にも関わらず、彼女は空母にならなかった。駆逐艦乗りになりたいのだと、彼女は語っていた。
駆逐艦にしかなれなかった陽炎。
駆逐艦にこそなりたかった夕雲。
「あはは、コンプレックスの塊だ。そーよね、アンタはいつも優秀で」
そして、
決して追い付かれまいと。
決して抜かされまいと。
「……なにやってんだ、私」
力が欲しかった。
国防軍における力は、階級章だった。
指揮権なんて明確なものを求めた訳じゃない。ただ、絶対的な価値として君臨する階級章ピラミッドを駆け上がろうとした。
だから国防大学に進んだ、特務神祇官の幹部は階級が上がりやすいと聞いたから。
だから片桐に誘われても
そうして気付けば、
階級は上がったけれど、力なんて得られてはいなかった。
でも。
「うん、そうだ。軍隊の
考えなくてよかったから。
物理的な「力」だけは手に出来たから。
富良野に行った。大地を疾走する地上の王、無限軌道に均された広大な北海道。
習志野に行った。飛び降り台は恐怖よりも興奮が勝った。筋が良いと言われ、迷わず水上空挺の資格を取った。簡単だった。
嘉手納に行った。エアパワーとは物量が物を言う。勝利を担保するだけの物量は、見ているだけで清々しい気持ちになった。
そんなもの、ひとつも自分の力ではないというのに……私はどうしてか、それを自分の力と誤解していた。
そして、本当に力が必要な時が来てしまった。ひらりと舞う書類。国防省の定める書式番号が記載されたA4再生紙。再生紙比率が高すぎて黒ずんだそれは、使いなれた特務艇艤装の使用申請書。
これにサインのひとつをして、承認印を押すだけ。それだけで
武力を行使するには、拳銃のひとつすらも必要ない。
「『
「!」
声が聴こえる。記憶から合成された、それにしては明瞭な英語。
「
そういえば、彼が武器を持っているのを見たことなんてなかった。彼は部隊の司令官で、命令を出して力を行使する立場で。
風が吹く、申請書が空に舞う。大手新聞社の朝刊、グラビアで飾った週刊誌、インターネット記事のコピーが空を飛ぶ。
『ミクロネシア連邦陥落』
『醜態さらした撤退戦!「英雄」瀬戸月ミナトは核攻撃の「真犯人」!?』
『継承権を悪用、副司令に支配されたチューク諸島の地獄』
そんな流言飛語で埋め尽くされたペーパーが、義父の姿を覆い隠していく。
「ごめんなさい、私は、信じてあげなきゃいけなかったのに」
もう何処にもいない義父に許しを乞う。
返事はない。赦されるハズもない。
『知らないッ!』
幼くて愚かな
「……ちがう、
手のひらにゴツゴツとした感触。見れば国防軍制式の9ミリ自動拳銃。流石は明晰夢というべきか、私の欲しいものをよく分かっている。
昨日までの私は、引き金に責任を持っていなかった。誰かの命令で絞る引き金は軽すぎた。
けれどもう、違う。私は私の意思で――――――
「ちがうよ」
拳銃に手が添えられた。
細い手、白い手。いつの間にか私の方が使い込んでしまった手。
「おかあ、さん」
顔が上げられない。彼女の顔を見る余裕がない。ぎり、と拳銃ごと
「だめ、だめ、やだ。やめて」
強引に照準がねじ曲げられて、愚かな少女から外される。
「だめっ、だめだよ! やめて! お願いだからッ!」
そして銃口は、彼女の腹部へ。
「謝るから、わたしが悪かったからッ! ごめんなさいっ、やめて、そんなことしないでッ!」
でも。
『父さんの子供じゃない』
『子供が出来たみたい』
私はまだ。
あなた達の『子供』で、いられたのかな?
〈西暦2036年7月15日 ソビエト社会主義共和国連邦 サハリン共和国〉
扉枠が叩かれた。
「瀬戸月1尉、起きてるか?」
寝付ける訳がなかった。外に出れば嫌でも硝煙と腐臭――――もちろん駆除した深海棲艦によるもの――――で吐き気がするから、ベッドの外へ逃げ出すことも出来ない。
「なんでしょうか」
「酷い顔だ。やはりオンラインでカウンセリングを……」
「結構です」
知り合って数週間の上司に心配されるほど酷い顔をしているのか、私は。
「深海棲艦を殺すのは、慣れていますから。それで、ご用件は」
さっさと済ませてくれと言わんばかりに顔を上げれば、小河原海将補は溜め息。
「……その深海棲艦についての話だ。少し外を歩こう」
つまり、ある程度の機密を含む話ということか。黙って従い外へ出る。砲撃が直撃したのだろう、廊下の壁は一部が崩れ落ち、朝焼けに染まりつつあるポロナイツク市街を見渡すことが出来た。
「統合幕僚監部は、昨日討伐された目標を正式に乙種目標であると認めた。ナンバリングは乙308号目標となる」
相変わらずこういう仕事だけは早いなと小河原、陽炎の胸に湧くのは違和感だった。
乙種目標とは、極めて脅威度の高いとされる個体に割り当てられる
「……乙種という割には、随分と簡単に討伐できたようにも思えますが」
「今回の脅威は個体そのものの脅威ではないからな」
そこで言葉を区切る小河原。まだ破片の片付けきれていない街路へと出る。
「戦闘の経過は聞いている。斬首作戦の通用しない群れ……なるほど厄介だ。しかし単純な動物に過ぎない奴らに、なぜ斬首作戦が通用しなかった?」
問いかけの体をとってはいるが、答えを待つわけでもなく小河原は続ける。
「答えは『教育』だ。奴らは
「では、乙308号は討伐されていないと?」
「それどころか、まだ連中はオホーツク海に潜んでいると
「……」
理解が追い付かない。
追い付かなくて、少し先に行った海将補が振り向くまで陽炎は動けなかった。
「な、なーんだ。じゃ、じゃあ。私が独断専行してまで倒したヒト型は単なる伝令だったってことですね? それじゃあ、勲章ものだって話もチャラですか? 私はまた、国防省の隅っこで飼い殺しですか?」
「やけに饒舌だな、瀬戸月1尉」
「……いやですね海将補、これでも私、飼い殺しは結構、というかかなりストレスだったんですよ? せっかく終わるって思ったのに、戦果は実は挙げられてなくて……これじゃ、テストは不合格ってことですよね。私は、わた、しは……」
視界が霞む、瓦礫の埃が眼に入ってしまったらしい。思わず擦ると、
「わたし、もう……」
あんなに沢山、
「それはそうだろう」
そしてそれを、小河原は信じがたいほど当たり前のように肯定する。部下のフォローも上官の仕事かとため息を吐いて、彼は続ける。
「配食に含まれる動物性タンパク質がどれほどあると思っているんだ? ハエが飛んでいたら叩き落とすし、ゴキブリが出たら潰すじゃないか」
「そんな屁理屈は聞いていません」
そもそも、そんな話じゃない。
「アレが群れの長だったかどうかはどうでもいい、私は、アレと『
「ヒトみたいだから『ヒト型』という分類があるんだろう。今更なにを言っているんだ」
そうじゃない、そうじゃない。
「あんなの『ヒト型』なんて生易しいものじゃありません。知性があって、感情がある。ヒトの模倣じゃないんですよ、あれじゃまるで」
「
小河原の視線が突き刺さる。上官に対して滅茶苦茶なことを言っているのは分かっている。それでも、一度そう思ってしまったら許せないのだ。
――――――人殺しが。
それを「いまさら」許容してしまった、己の浅はかさが。
「…………君は若いな、瀬戸月1尉」
軍人としては致命的なほどに、と小河原は溜め息。
「羨むべきなのか、蔑むべきなのか分からなくなる。君は本当に純粋で、素直だ」
人気のない早朝の街路に、小河原の声が転がる。
「最初期から、奴らが哺乳類としての特性を備えていたことは明らかにされていた。高度な学問であるはずの弾道学を経験則とはいえ命中させるまで洗練させることの出来る発達した記憶能力、複数の子機を操れるだけの処理能力」
なんの話かは分からないが、深海棲艦の話をしていることは理解できる。
「しかし、学会は頑なに奴らが知性ある生物であることを認めなかった。昔から疑問だった。なぜ学会が、あそこまで頑なに深海棲艦の知性を否定するのか」
特にヒト型が出てからは顕著だったな。ありとあらゆる傍証を捏造しては人間とヒト型の違いを示そうとしていた。そう小河原は言う。
その時代を、
「深海棲艦はヒトを殺す。直接的にせよ、間接的にせよ……
ああ、その通りだ。深海棲艦がヒトを殺すのは当たり前だった。
陽炎が
『ナラ、忘レロト? ――――――我ラノ、
昨日までは。
「そんなにも知性が、感情がある動物を殺すのは悪いことなのか?」
「悪いこと……では、ない、はずです」
だって、そうでなければ。この戦争を肯定できなくなってしまう。
ミクロネシアを維持した
『子供が出来たみたいなの』
2人が守ろうとした、
もっと早くに
「……
「ええ、そうですよ。正しいわけがない」
「貴官には権利があるはずだが?」
家族を殺されたから、殺す権利があると?
家族を奪われそうだから、堕ろす権利があると?
まさか、あり得ない。そんな権利――――――存在しては、ならない。
『子供が出来たみたいなの』
なにせ、命は素晴らしいものだから。
『父さんの子供じゃないんだ』
私は本来、存在するべき
だから怨むのは正しくない。怨むべきは無力な己、正しくないのは、見捨てた己。
……
つくづく歪んでいる。ヒトとして大事なナニかが欠けている――――陽炎は嗤う。
「海将補。私を命令違反で処罰して頂けませんか。あなたの命令を待たず、市民の残る市街地への発砲を命じた、瀬戸月ヒナタ1等海尉を」
「その件は済ませたはずだぞ。的確な状況判断であったし、そもそも君は幹部艦娘だろう。幹部艦娘は指揮を執るために存在する」
「ですが」
「――――――そんなに正義が大事か、瀬戸月ヒナタ」
「ッ!」
顔が強張るのが分かる。国防海軍の海将補、小河原アツシが睨んでくる。
きっとそうなのだろう。
正義が大事なのだろう。
『でも、
『ご両親はミクロネシアの英雄だった』
『艦娘は悪者じゃなきゃいけないんですか、棄てられる筈だった子供を助けて、何が悪いんですか!? 私たちは、私たちは……そんなに悪者ですか?!』
『すまない、ヒナタ』
『そうよ。私は運が良かった。幸せだったのよ』
『本当の誠実は、ウソをずっと隠しておくことなのに』
『お前は、父さんの子供じゃないんだ』
正義が大事ということにしておかないと、大切なヒトを恨んでしまいそうで。
――――だって、義母さんは正しいことをした。
義母さんが戦わなければ、きっと日本は滅びていた。
だって
優しい2人を。
なんで私を見棄てたのって恨まないといけなくなって。
そんなこと絶対、ゼッタイにイヤだ。
「正義を、為さなければならないんです。私は『瀬戸月ヒナタ』ですから」
悪いことは、悪い。
そうでなければ、私は
「そうか」
ストンと落ちるような声。
「ならば正義を与えてやろう、瀬戸月ヒナタ」
正義を与える? どうやって?
「『子供』たちを救いたいのだろう? ならば、我々に協力しろ。美しき家庭計画を葬り去る」
新ソ連の正統性担保、ポートモレスビー事件の公表、平和条約の締結、北方領土問題の解決――――――全てを片付けると、彼は宣言する。
「それで『子供』たちを救うための名目がつく。
「そんなの、感情論じゃないですか」
現実は違う。日本は明確にロシア領に兵力を進出させていて、これから更に進出を強めようとしている。
「その通りだ、瀬戸月1尉。正義とは
「それは違います!」
思わず声が出た。だって戦犯扱いしたのは、他ならぬ私なのだから。
「みんな、みんな騙されていたんです。だから今はもう、名誉だって回復されているじゃないですかッ!」
それは、ミクロネシア疑獄の話。
ミクロネシア戦役に端を発する2020年代の混乱。戦役で支払った軍事的、経済的損失が今の日本を消極的防衛策に回らせたという通説は厳密には誤りだ。
日本が本当に引き摺られているのは戦役そのものではなくその後の「ミクロネシア疑獄」。
2020年代の日本はこれの処理に全ての政治的リソースを割いたと言っても過言ではなかったし、その間に国防軍も随分と変質した。反戦色を隠さない南洋戦友会や艦娘派の中でも特に強硬な戦中任官艦娘グループ、戦前からの自衛官たちが徒党を組んだ中立派……そしてポートモレスビー事件が示す通り、前線の部隊すらも主義主張のために武装蜂起を起こしかねない。
そして現実に、
「正義が無意味なことなんて知ってますよ。海将補、あなただってそんなこと、ご存じのはずだ」
「だが貴官がそうであるように、正義は大事だ。ひとつの組織をまとめるのに、正義は多いに役に立つ」
「……ですが、かつて人々は正義に力を与えなかった。違いますか」
絞り出した反論は借り物*1。
借り物の命令、借り物の引き金、借り物の
「なるほど。ようやく己が圧政者たり得ることに気がついたか」
だから、いとも簡単に論破される。
「
私を彼は『子供』扱いする。
その結果を、私は受け入れるしかない。事実として、ポートモレスビーは誰もを不幸にしただけだった。あの武装蜂起を軟着陸させただけで、墜落したという事実は変えられなかった。
「手綱を握れなかったからこそ、余計に分かるんじゃないのか? 力を手にした正義がいかに恐ろしいか。正義がどれほど陳腐なものか」
…………じゃあ、なんだ。今の私が全部、すべて感情論100%だと言いたいのか。
親を見殺しにした私の
私の苦しみを、こうも否定するのか。
「それでも、私は。瀬戸月の娘だ」
なら私は、その否定を否定する。
「……何を言いたいのか分からないな」
「売られた喧嘩は買う、そう言っているんです」
義母は喧嘩っ早くて、それで強かったと。そう片桐は教えてくれた。
その剥き身の刀に勝る者はいなかったと語ってくれた。
「ミクロネシア撤退戦で、なぜ瀬戸月司令代理が撤退を拒んだか。背中に住民が、守るべき人たちがいたから……ヒトを守ることすら
本当に、とんでもない喧嘩の仕方だと思う。誰もが使うことを避けていた核兵器を、いとも簡単に太平洋に投じた義母。
「誰かを守るためなら、手を汚す。それがあの人の正義だった」
「目的は常に手段を美化すると?」
「まさか。なら私は、もっと早くに手を下してた」
腰に手が延びる。ホルスターには当然、制式の9ミリ拳銃が収められている。
「そうだ、君には権利がある」
射撃場で繰り返した動作。引き抜き、右手で握り、スライドを動かせば薬室に初弾が送られる――――――が、左手はマガジンリリースを押していた。
スルリと抜ける弾倉、スライドを動かして排莢口から弾丸が入っていないことを目視で確認。
「言った筈だ小河原アツシ、瀬戸月ヒナタはその権利を行使するつもりはない」
なぜなら、私は臆病だから。
臆病だから逃げた。
臆病だから助けようとした。
臆病だから見捨てられるのが怖かった。
そして臆病だから恨めなかった。過去を認めることが、出来なかった。
だから、いつまでたっても前には進めない。
あの人みたいになりたかった。
血は繋がっていないけれど、その
「私は私のやり方で、正義を守る。正義を与える? そんな正義に価値があるものか」
「
「知ったことじゃない、でもやるべきことはハッキリしている」
進むしかないのだ。誰も殺さないし殺させない。誰も恨まないし怨ませない。そんな馬鹿げた臆病者の道を、嘘を吐きながら突き進むしかない。
だから瀬戸月ヒナタは、その拳銃を小河原に差し出した。
「今はあなた方の策略に乗ってやります」
「売られた喧嘩は買うのではないのか」
「喧嘩したい相手と笑顔で握手する、そんな先輩に師事しておりまして」
「たまげた
小河原は眉をひそめると、拳銃を受け取らずに背を向ける。
「誤解されては困るが、私はひとりの
小河原アツシは、静かに裏路地へと入った。空を
全くもって。鉄砲玉も楽ではない。
「ましてや、
「悪いわね、小河原クン」
ポン、と肩を叩いたのは片桐だった。暗がりから現れた彼女を、小河原は暗い眼で睨む。
「悪気があるなら、最初から私を頼るな」
部下の管理も上官の仕事じゃないと嗤う片桐。心底嫌そうにため息をつく小河原に、彼女は手を振りながらフォローしていく。
「いやぁごめんねぇ? 私ってば憎まれ役は苦手でね~」
「情が移って
「…………私は、あの子の親じゃないよ」
「知るか。だがこの私を鉄砲玉にした対価は払え、いいな」
「当然。感謝してるよ、小河原閣下」
そう言いながらホテルとは逆方向に立ち去ろうとする片桐。小河原は待てと呼び止める。
「……私が彼女の親なら、もう辞めろと言うところだ。なぜ彼女に戦わせる、なぜ戦い以外の選択肢を与えない?」
今回の騒動で、瀬戸月ヒナタが負った心的ダメージは明らか。既に彼女が役立つ場面は終わっている以上、このまま後送しても小河原にとっては問題がない。
にも関わらず、片桐は彼女を戦場に残そうとした。傷を抉り、追い詰め、最後の反骨心を振り絞らせ、この心も凍てつく北方に残そうとした。
「ん? そんなことも分からないなんて、相変わらず小河原クンは官僚サンだ」
そして片桐アオイは、一言。
「戦えなかった結果が、私だからだよ」
「……」
「ミクロネシアで戦えなかった。仲間を助けに行けなかった。米軍の核兵器投射を止められなかった。
だから
ただ普通の子供として、
「エゴだな」
「エゴで結構。子育てのセンパイとして言っとくけれど、案外子供は、思い通りにはいかないものよ?」
その言葉に見え透いている『期待』を無視して、小河原は踵を返す。
「……狂ってるな、ミクロネシア組は」
悪態のような現状分析が、歯ぎしりの隙間から漏れた。
「…………そうよ、狂ってるのよ。私たちは」
小河原と別れた片桐は歩く。
路地を抜け、通りを越え、造成地の端、ここが日本領だった頃から使われている波止場に向かう。
「でも。逃げ出したら貴女は、私と同じになってしまうから」
耳を澄ませる。
そうすれば、聴こえる。
――――――われらの栄光も、自由もいまだ滅びぬ
「独りで戦えば、貴女はアイツと同じ結末を辿ってしまうから」
――――――若人たちよ、運命は我らにやがて微笑むことだろう
絶望の唄が。
栄光の歌が。
「だから、一緒に戦ってあげる」
――――――太陽を前にした朝露の如く、敵は滅ぶことだろう
この絶望に。
――――――同胞よ、われらに故郷を、われらの手に取り戻さん
この戦争に。
「……ねぇ、ハルカ」
耳障りな歌が止まらない。耳を塞いでも血肉を震わせ、その存在を主張する。
これは海の怒りか。
――――――自由のためならば、われらは魂と身体を捧げよう
はたまた、海に流れた血の怒りか。
「勝手にこっちがした約束だけど、約束は約束だ。娘のことは守ってあげる」
歌が聴こえる。海の怒りが、浄化されてしまった誰かの怒りが。
――――――同胞よ、わが氏族の誇りよ、わが氏族の名誉を示そう
誰かの破滅を願う、荒神の声が。
「だからミクロネシアの借りは、全部チャラにしてもらうわよ」