いつのまにか、面会時間の終了を告げるベルが鳴っていたらしい。
世界が真っ暗になったはずなのに。去り際に見た神通さんの表情が頭から離れない。
当直以外の職員も続々と帰っていく。
職員がドアの施錠を確認しに来る。先日のテロのせいで安全確保に過敏になっているのではなかろうか。本土ではなかった光景だ。
ここにいる私たちは間借りしているだけ。ここの建物はほとんどが日系人が管理しているとはいえ、戦闘職ばかりではない。医療品、衛生用品の強奪にはもってこいの施設でもある。
警戒を潜り抜け、
そうとなれば行動だ。
テロで発電所が吹き飛んだ関係で、節電を求められた病院の窓はいつでも開けられるようになっている。ベッドから這い出すと、重力はこんなにも負担だったかと身体にのしかかってくる。私服はないから、厚手のシーツとスリッパをビニール袋に放り込んで口を縛った。
荒くなる息を整えながら壁伝いに動く。
戸をスライドさせると吹き込むのは大雨。三階からの高さは相当だ。先に荷物を放り投げると、べしゃりと裏庭に落ちて潰れた。
「これは、飛び降りるのは無理か……」
近場にあった雨どいの接合部に指先をひっかけておそるおそる下っていく。
内側からの死角になっていたのは僥倖だった。目の端で白衣を見つけたら大人しくしていればいい。
十数分かかっただろうか。水を吸った病院着は本当に邪魔。どうにか地に降りることには成功する。
荷ほどきをしてシーツを羽織り、スリッパで足元を保護する。心もとないがないよりはマシだ。裏口にあった職員用の雨合羽を拝借して、ロータリーを抜ける。
強くなる南洋特有のスコール。傘など持たない私は、水滴を見下ろしながらひたすら走る。
バス停留所近くにいた転寝をする運転手を窓ガラスのノックで叩き起こして飛び乗る。支払いは、私の電子身分証から決済できる。自販機で飲み物でも買ったらどうかと持ってきてくれた磯風さんに感謝せねばなるまい。
「分遣隊波止場方面へ、大至急!」
何も解決しないと分かっていながら、焦りだけが募って歯噛みする。
私の身分証、そして鬼気迫る表情を見てただ事でないと気付いてくれたのだろう。運転手は大慌てで紐を引っ張る。キュルキュルと空転するスターターの音に併せるようにして、全力疾走の反動が全身を襲ってくる。
一呼吸ごとに身体が熱くなり、かと思えば冷える。
それでも、頭の中だけはハッキリと意識を保つことが出来ていた。
頭部に傷を負っていたせいかズキズキと痛み、ぐるぐると思考だけが回る。
よりによってなぜ今なのだ。私が呑気に夢の中を漂っている間に、姉の消息が不明になるのだ。攻めてきた深海棲艦が悪い? ヒナちゃんの付き添いを命じた提督さんが悪い? それとも居合わせたテロリストが悪い?
違う。不甲斐ないのは、いつこの時が来ても大丈夫と覚悟していなかった自分自身だ。
最寄りのバス停にはいつの間にか着いていた。隊宿舎に戻ろうとすればすぐに衛兵に捕まる。であれば、コンタクトの手段を持たない私がとるのは人質だった。
冷静沈着な彼の唯一の弱点。そう、ヒナちゃん。
表札を認めて門をくぐる。合鍵は持っている。浸水で壊れなかったキーカードが開錠する。家の中には住人が戻ってきたことを告げるベルが鳴っている事だろう。こんな時間にありえない筈のものが。
家主はやはりというか、血相を変えて廊下へと飛び出してきた。目のクマが悪化している提督さん。
やはり彼は働きづめだった。
そしてそれが、何かしらの作戦があった事の裏付けにもなる。
「瑞鶴……こんな時間にどうしたんだ?」
「救援が間に合わなかったって、どういうこと。提督さん」
単刀直入に突きつけた。彼は後ろめたい思いもあるのか視線を逸らす。
「……三週間ほど前の事だ。849護衛隊との定時連絡が途絶した。斥候として皐月と文月を向かわせたが、敵の層に阻まれて進撃を諦めた。近隣で動けたのはうちとウェーク島だけだ。同期に声をかけて、本部に作戦を承認させて。奪還したのは数日前だよ」
それは提督さんの中での
「849を見捨てるつもりで動いてたんでしょ? 三週間? 時間がかかり過ぎてる!」
動けた部隊が少なかった? それは戦力差を言い訳にした逃げだ。そう叩きつける。
私だって、自衛隊が
理解しているのだが、感情の堰は留まる事を知らない。
「長門も神通も出撃させた。泊地警備に最小限を残しての総動員だ。上陸を試みた敵艦隊を撃退し、地上型が根付く前に取り戻した。打つべき手は打ったさ」
「私を出撃させればよかったって事が何で分かんないのよ!」
助けられた命が他にあったのだ。私を忍ばせていたのは、情であり慢心だ。打てる手は残されていたのだ。それを怠ったと彼に対して糾弾する。
「命に関わることなのは分かっている。分かっているとも」
「嘘つき、なんも分かってないじゃない。これじゃ
どうして言ってくれなかった。
「意識が戻ってすらいないお前を叩き起こしてまで出撃させてみろ! 間違いなく沈むぞ!」
「そんな言い訳いらない! 提督さんらしくないよ! だって……」
貴方なら
図上演習がそうだ。最大限の戦果を上げる為に、彼は策を練る。そうすれば皆が幸せだった。こんな事で私が悩まずに済む。
たかが小娘一人、命令だ死んでくれとなぜ言えなかったのだ。
畳みかけようとした声は宙に浮いた。突然の事態に頭がフリーズする。彼に抱きすくめられたと気付いたのは、絞り出すような彼の声が聞こえた時だった。
「頼むから、俺の前で無為に死んでくれるな。瑞鶴」
彼が何故そんな行動をしたのか。私には理解できない。
無為に死ぬ?
違う。姉たちを救うために命をくべると宣言したのだ。彼の矛として散る覚悟はできていると豪語しただけだ。それは
「生きている意味がないじゃない! あの人は、私にとってたった一人の家族で!」
言いかけて、目の端に止まった少女の影。寝静まっていたと勝手に勘違いをしていた。最初に会った時もそう。あの時もゆうに0時を越えていたし、起きていてもおかしくはない。
「お姉さんも行っちゃうの?」
そう寝巻のまま緋色の少女は部屋の隅に縮こまる。
「やっぱり、お姉さんの事が嫌いだよ。だって、だって。仲良くなったのにいなくなっちゃうんでしょ。私とさよならするんでしょ!」
その頬には泪が光っていた。傷つけた。他でもない家族ごっこに興じていた……愛していた子供すらも裏切ったのだ。唐突に身体から力が抜けていく。私は、私は。
「違う、違う。そんなつもりじゃ」
「知らないッ!」
そう叫んで、扉が勢いよく閉められる。
後に続くのはヒナちゃんが廊下を駆けていく音。
私がしたかったのは、姉を護る事……決してヒナちゃんから見限られる事ではない。その狭間に追い詰められて。勝手に葛藤して。答えがもう出なくなった。
想いは渦巻き。怒りは昇華し。意志は砕け散った。
私はやっぱり、ただの我儘な子供ではないか。
為すべき事。やるべき事すらも履き違えて、上司に噛みついているだけの哀れな子供。
「風邪を引くからせめてシャワーだけでも浴びていけ、病院には俺から……」
その台詞が最後まで続けられる事はない。あくまで善人ぶる彼の姿を見て、抑えが利かなくなった。
全部、もう壊してしまいたい。
その要求に狩られた私は、まず手近にいた者に鎌首を擡げる。
呆気にとられてソファに倒れこんだ提督さん。後頭部を打ち付けたにも関わらず、その目はお前は何をしているんだとだけ訊いてくる。
「提督さん、忘れさせてよ。もう、ぜんぶ」
フードコートでの光景がリフレインしている。
――――――あぁ、この表情は似ている。
やはり、ヒナちゃんとこの人は親子だった。馬乗りになった状態で、彼の細い首に両手をかける。
「
せめて、幸福なままだと勘違いしたままの
血管を流れる拍動の音。その温かさ。あらたに刻まれていく傷口に痛みは感じない。
ここに来る間に無茶をしたせいか、私の頬からは脂汗が止まらない程に滴っていく。
逸る心臓は早鐘のよう。人並みの抵抗をしていた提督さんだが、やがて諦めたように動かなくなる。
それがあまりにも悔しくて、私は更に身体に力を込めた。
どれくらい時間が経っただろうか。
いつのまにか、私の嗚咽だけが部屋に響いていた。
するとどうしたことか、彼が私に腕を回してくる。
「泣くぐらい辛いなら、どこにでも逃げていいんだ。それくらいは用意してやる」
気付けば、彼の顔や衣装は落ちていく水分で浸っている。
痛い? それはそうだ。これだけ身体に鞭を打っているのだ。当たり前。
「泣いて……ないよ。だって」
それは私にとっての敗北だから。
何も成せなかったかつての自分、姉が研究に傾倒していくのが止められなかった、救援に加われなかった己の不甲斐なさが嫌いだ。しかしここで挫けては、何にも成長できていない。
不都合な事に全部蓋をして見ない振りをしてきただけの私なんていらない。
大事なヒトを護れすらしない
「お前がどんなに自己否定しようが、俺は瑞鶴を使おう」
なのに
私は投げやりに言葉を返す。
「……何それ? プロポーズ?」
「軍人が血税で働いているというのはそういう事だ」
拘束から身を起こした彼が、気だるげに私の頭を撫でてくる。
彼はもう私を抱えようとはしない。彼は私が哀れみに縋ってしまう事を知っているのだろう。
慰めなんていらない。
言葉には出さなくとも、彼は分かっていた。
「……それじゃあ、ちょっと寝かせてくれる? 疲れちゃった」
「ヒナタが起きるまでにはさっぱりしておけよ。気持ちにも整理をつけろ」
ちゃんと謝っておけよ。最後に小さく付け足す。
「うん、分かってる」
火照った身体を冷やすのには十分な寒気が襲ってくる。慣れ親しんでしまったこの家。普通はありもしない着替えを取り出して羽織る。ヒナちゃんの居る寝室は流石に気が引けた。
「お休み、提督さん」
ソファに身を預ければ、重責が外れたように睡魔が襲ってくる。彼の温もりだけが、私の心のひび割れに沁みて痛い。しかし、痛いけれど嬉しかったのだ。
「あぁ、お休み瑞鶴。良い夢を」
寝息だけが、部屋を支配していた。
そしてそんな彼女を、彼は見下ろしていた。
「……結局、こうなっちまったか」
口端から漏れたのは諦観だろうか。思えば
そして考えて見ると、あの「くれぐれもよろしく」というのは――――――。
いや、詮無きことだ。彼は考えるのをやめる。
そして静かに、瑞鶴を見つめる。
「すまない」
その謝罪は、いったい誰に向けたものだったのか。
答えはおそらく、彼すらも知らない。