かえりたい
そこにいるのは私達だけ。
飛龍をはじめとする敵艦娘は見えない。
ここが死後の世界か。
耳鳴りのような脳を揺るがす響きはついに音色となって言葉を為す。
カエリタイ
そうだ、私はまだこの世界にいたい。
それだけを願った。
ただそれだけを。
ギュウと握りしめた手からは、おびただしい緑の液体が迸る。
正体は直ぐに分かる。姉のくれた薬瓶。先ほどの攻撃で飛び散ったのか、私の全身に返り血のように弾けていた。
すぐ近くにいる磯風さんも、全身の銃痕から湧き水のように同じ液体が吹き出している。
少し遠い場所。本来であれば視える筈のない海の深くに、漂っている人影が見える。
彼女は角の生えた鬼の面をかぶり、こちらに近づいてくる。
まさしく浮上してくるのだ。永遠のはずだった
「これが……代償という事でしょうね」
神通さんと同じ声色で彼女が微笑む。正体は分からなくとも、直感だけが告げていた。
これは力であり、御し切るべきもの。
恨み辛みの奔流に飲み込まれれば、破壊者にしかなりえないものだと。
「
波に洗われたような装甲を、何処からともなく取り出してヘルメットのように少女は被る。黒髪を靡かせながら、元陽炎型は砲身を跳ね上げた。その口元が綻んだ。
「進もう。皆を護るために」
そして――――――世界がひび割れる。
再び夜の闇へと戻った。
そこに帰還したのは、私達であり艦娘でないものだった。相対する飛龍は信じられないといった風に眼を見開く。
「
「無事とか、そういうのどうでもいいんだよ。今はとりあえずあんたが邪魔よ!」
全身が旭日よりも白に染まり、纏う装束は闇すら呑み込む黒。
他人を救おうとした手を模して、髪が触覚のように蠢き始める。
それが私が指で艦載機を精密制御できるのと同じだと理解した時。海中から数多の魚が飛び出した。
いや、厳密にいえば魚ではない。飛行に特化した横ヒレを持ち、姿勢を制御するための尾ビレを持つ私の爪であり牙――――――
百をゆうに超える航空隊が、一斉に飛龍へ襲い掛かる。
練度は拮抗――――――コンディションと装備はあちらが。覚悟は私が。
一方的に負ける筈だった戦いは、深海棲艦の力というイレギュラーを持ち込んだことで仕切り直し。リベンジマッチが始まった。
人の身をかなぐり捨てて辿り着いた境地。絶望して喪い続けた私が最期に掴んだ糸。
例え私を蝕み続けるものだとしても、もう構うまい。
相手の姿どころか心まで手に取るように分かる。驚愕に染まった覆面の護衛を堕とす。これで最後。後は緋色の空母艦娘だけ。
「三対一って
毒吐いた飛龍の真横を通過するのは神通さんの牽制弾。足元には磯風さんの潜航艇が迫る。
「とんだお笑い草だ。五倍以上の戦力を用いてたった三隻を沈め損なったのはどちらだ?」
「三途の川の渡り賃。今ならお貸しいたしますよ。残念な事に先ほどは使えなかったので」
「怒りで人間としての誇りも忘れたかのッ! アメリカにいいように使われているとどうして分からない!
――――――あんたらのその身勝手が、この国を永遠に蝕むとどうして分からないッ!
そんなこと、知ったことか。
こんな状況になっても、私は冷静だった。
何が深海棲艦に飲み込まれるだ。結局、私は自分の身が可愛かっただけ。
こうして関係ない者まで巻き込んでしまっても、私はとにかく、提督さんを害したアンタが憎い。
憎くてしょうがない
「……あんたを倒すためなら私は、傾国の姫だろうが、鬼神にだってなってやるってだけよ」
「こんの売国奴め!」
味方を失った飛龍の声が空しく響く。
追い込まれた彼女が全力を出し切るように吠えた。
「あんたに、あんたらみたいな奴らに負けるわけにはいかないんだ。この国は散々に利用された。それを知ってなんで、アンタはまだ祖国を貶めるッ!」
「決まってるでしょ! 私の手の届く範囲の平和が、アンタに犯されたからよッ!」
その言葉を合図に、私の声を聞いた全ての艦載機が全速力で飛龍へと向かっていく。
「だから国を滅ぼしても許されるとッ? 勝たなければ、この国に未来はないのに!」
「冗談じゃない、この戦争に
神通さんが磯風さんが、飛龍の懐へと飛び込んでいく。
だが、まだ足りない。
飛龍の航空隊は勢いを弱めない。私の艦載機を手当たり次第に墜とし、体当たりをさせてでも武器の間合いに入らせない。
そして飛龍の航空隊は尽きるところを知らない――――――まるで本国が出し惜しみしていたすべての航空機を用いているような物量。
もっとも、
消耗戦をお望みなら相手になってやろう。飛龍の在庫が尽きるか、それとも私たちの身体が壊れるかの真っ向勝負だ。
その時、飛龍の艦載機たちの勢いが急になくなる。
先ほどまで分厚い陣形を保っていた筈の航空隊が、突然糸を失ったようにふらふらと飛び始めた。
「なっ」
飛龍の顔が驚愕に染まるより早く、彼女の艦載機は新手の艦載機に食われていく。
「防空巡洋艦の面目躍如よ、ズイカク」
更に空を埋め尽くすのは三式弾。
長門隊長の艤装を乗りこなしていたアトランタも、たった一人で深海棲艦の波を御しきったらしい。その傍らには優雅に近づいてくる女性が一人。
「ようやく来たわね。お寝坊野郎」
それが艦娘だと気付いたのは単純に海にいるから。
それはタイトスカートを履きこなしたスーツ姿の女性。切れ長の目。黒いタイを風に流しながら、救世主は微笑んだ。
「好き放題言ってくれるわねアトランタ。太平洋艦隊所属。航空母艦ホーネット」
「
金髪の女性を認めた飛龍は素早く弓を引き絞り、その殺意をを彼女へと向ける。
「遅いっ」
放たれた矢と銃弾が交錯。次の瞬間には飛龍の矢は炎の塊となって海へ落ちていく。
彼女の放った艦載機が、飛龍のそれより一瞬早く展開し打ち落としたというのだ。
「艦載機の展開技術では……どうやらステーツが一歩先をいってるようね」
どうやら、彼女の持つ長銃は私たちの弓矢のようなものらしい。
文字通り毒を制するのが私の仕事なんだから。そんな台詞を境に彼女は肩にかけていたガンケースからもう一丁のロングライフルを引き出して構える。
空が塗り替えられていく。
それにしても、どうして飛龍の艦載機たちは急に力を失ったのだろう。そんな私の疑問に答えるように、ホーネットと名乗る艦娘は私をついと見た。
「そう不思議じゃない。ヒリュウの艦載機は割合的には少ない。他の艦娘の機体を遠距離通信で隊長機に追従せよと命令を送っていただけ。つまり、中継点を叩けば……」
カールした金髪をかき上げてホーネットは嗤う。悠々と彼女は水面を歩く。飛龍が命令を下した艦載機は、まるで蚊帳に弾かれる虫のように墜落していく。
「もう、攻撃を
実際には複数の空母艦娘を束ねていたのがカラクリだという事か。
見せかけの……いや正確には実体を持つ影に追い込まれていたという事。ホーネットは銃口を飛龍に向けて構え直す。
「さぁ、選びなさい。ここで無様に逃げ帰るか、潔く死ぬか」
日本にはブシドーセイシンってのがあるんでしょ? そう問うたホーネットに、がくりと肩を落とす飛龍。諦めたのかと息を吐いたが、それは大きな間違いだった。
「ふふふ、はははっ! 武士道だって? 私にハラキリしろって言ってるつもり?」
飛龍は、この期に及んで嗤う。
「アンタは私が馬鹿な殉国者とでも思っているのでしょうけれど、私はこの国を自衛する者。誰が自分で死んでやるものですかッ!」
一瞬とも思える龍の咆哮。しかしその刹那を覆い被さる様に聞こえたのは、まさに獣の金切声だった。
水平線に大挙するのは、紅い点。その一対が一つの生命を指しているとすれば、優に千を超えるのではないだろうか。
「これが誘因作戦……って奴でしょ? アンタ達の望み通りの」
ヒュウと飛龍ですらも息を呑んだ。先程まで死線を散らした双方が、その矛を収める程の絶望に他ならない。闇夜すらも埋め尽くすのは、傍若無人な兵器達だ。
「Really? 弾薬、足りるわけないってのッ!」
「これなら第七艦隊総出でも勝てないわよね」
現状確認のアトランタ。理想を用いても撃ち負けると評するホーネット。いずれも、この状況は打破しえないとの結論だ。
「USネイビー。自分達の心配してる暇なんてあるのかしら?」
その言葉に、ハッと顔色を変えたのはアトランタだ。周囲を見回し闇を睨む。そういえば、周囲は闇に包まれていた。おかしい。先ほどまであれほど周囲に降り注いでいたはずの爆弾の雨は止み、爆発の音すらうんともすんとも聞こえない。
替わりに現れたのは対空ミサイルを模した巨大艦載機。つい数年前に超大国を敗北させた攻撃が、紅い眼を持つ者達から再び放たれたのだ。
その数は夜空を埋め尽くさんばかり。大型タンカーサイズの巨大深海棲艦にだけ許された飽和攻撃が、虚空へと駆け抜ける。
そして。
「しまった……!」
深海棲艦の射程より上を悠々と飛んでいた二機の怪鳥。その翼が火を噴いた。
アトランタは首がもげそうな勢いでホーネットの方へと振り向くと、叫ぶ。
「ちょっとホーネット! 爆撃機を守るのはアンタの仕事でしょうがッ!」
「心外ね、私は貴女の要請に従って海に降りたのよ? しかもあっちは待機してた私とは真逆の方向だし……」
「アァあ! どうせ寄り道でもしたんでしょッ! 援護のタイミングといい遅すぎるのよ!」
「合流まで時間がかかったのは仕方ないでしょ! どこにいるかも分かんない敵空母の通信網に枝をつけて逆算して、ようやく虱潰しに
別動隊に気が付けなかったのは誰のミスだと喧嘩する二隻。しかしそんなことを言い合っている状況ではない。
「少し予定は狂ったけれど……アンタ達の負けよ!」
勝ち誇るように飛龍が嗤う。
「B2が落ちれば、核の脅威は排除されるっ。お望みの泊地消滅はもうできないッ!」
巨大深海棲艦がよろめく。遅れて聞こえる爆発音。
断続的なそれは、
「さあ、これであのデカブツを止められるのは私たちだけになった。茶番は終わりよ」
私たちが手を引けば、いよいよ深海棲艦が大挙するぞと、飛龍たち護衛艦隊はそう脅す。
「日本国政府はミクロネシア連邦との新自由連合盟約に基づいて、改めて現海域に留まる全ての
そうすれば、アイツらからも護ってあげましょうと彼女は嗤う。
「御免被るな」
「えぇ、何を今更という感じです」
磯風さんは鼻を鳴らす。神通さんも、御面に似合う夜叉の井手達で構える。
米国組を見れば、
であれば、交渉決裂に他ならない。
相対する時間が惜しい。額を滑る汗を追うのがもどかしい。
しかし仁王立ちをしていた飛龍は、耳元のインカムに片手を添えて……唇を咬んだ。
「…………貴女たちの退路は断ってる。それでもう十分だわ、止めを差す必要もない」
せいぜい歴史の闇に消える事ね。そう言って身を翻す飛龍。まさしく捨て台詞だ。しかしその判断は間違っていない。彼女らには護衛艦という足がある。
対して私達は迎えを喪った哀れな生贄。放っておいてもあの深海棲艦からは逃れられない。
そしてなにより――――――このまま私達が脱出するだけでは、周辺の泊地に甚大な被害を及ぼしてしまう。
「さて、
私、計画外のフォローは聞いてないんだけど。アトランタがホーネットを睨む。
「安心して。いくら
その声に唸り声を上げるアトランタ。ホーネットは歯牙にもかけないで私へと向かい直る。
「お会いできて光栄です、ズイカク。私に海と戦う力を与えてくれたのは、貴女のアドミラルのおかげ。こうして
そうして片膝を突いた彼女は私の右手の甲をとりキスをする。あまりの事態に硬直していると、後ろからは黄色い声が聞こえてくる。磯風さんの目がなぜか冷たい。
「司令代理……どれだけ侍らせれば気が済むんだ?」
知らぬ間に日本のみならずアメリカ艦にも手を出したのか。その言葉に、顔が急に熱くなるのが感じられた。真っ白に染まったはずの頬に朱が差されていく。
「待って、待って!? これは私は悪くないじゃない!?」
「瑞鶴さんは女の子に人気ですからね。チュークに艦娘が集まるのは司令代理の人望とカリスマだという噂も……」
「そんなのやってもいないし、聞いてもいない!」
というか、そんなどうでもいい事を言い合っている状況ではないはずだ。私たちは深海棲艦に包囲されておまけに敵が迫っている。まさしく絶体絶命。
「予定通りとは行かないわね。でも、アメリカ艦娘だって諦めが悪いわよ」
「はぁ。砲身が焼き付いたら護ってあげられないから」
そうホーネットは両手の得物に力を込める。アトランタもまた、艤装の銃口を跳ね上げた。
「存外こういう足掻きも悪くないな、司令代理」
「えぇ、絶好の雷撃日和ですよ。瑞鶴さん?」
縁起でもない事を僚艦も宣う。しかし、私の心は晴れやかだった。
脳裏に浮かぶのは提督さんの姿。最期ではなく、あの白い家でくつろいでいた時の光景。
ヒナちゃんの隣で笑っている彼の口が動いた。
あとをたのむ
彼は最期にこう言った筈。
私の戦いは、果たして彼の墓前に捧げられる結果になっただろうか。
まあ、それでもいいかと私は思う。それは諦観ではない。なにせ生きる為の風向きも視えなくなった。それなら翼の折れた鶴はもう飛ぶ事はない。既に飛べなくなったのだ。
提督さんに仇為した世界で、私はもう生きられない。空気を吸うことも許されない。
それでも、私はまだこの世界にいる。生きて……貴方の見られなかった景色を見てみたい。
だからもう少しだけ、逝くのは遅くなりそうです。御免なさい。
炎の華が咲く。それは、全てを焼き尽くす閃光。彼のいた
ありがとう。さようなら。
そして、またいつか会いましょう。