この世界はきっと。もうとっくの昔におかしくなってる。
空は、白のまだら模様に占領されていた。
音も立てずに上空へと侵入した寒気の降らせる大空襲。鳴るべきサイレンの音もかき消して、駐屯地に並んだモスグリーンを埋め尽くしていく。
季節外れどころか、場所外れの雪。終わってしまいそうな世界の、最後の涙。
「帰りましょう。夕雲さん」
「わたしは、どうなるの?」
その問いに、どうともなりませんと返す彼女。アジア観艦式は成功裏に終わった。
でもその翌日に、世界がまたひとつ歪んでしまった。
「これからは忙しくなります。アジア連合軍が『マレー・ショック』から立ち直れるのか。深海棲艦の流入量はどこまで変わるのか……状況は予断を許しません」
見逃したクセに。
本当は防げたくせに。
その言葉はそのまま、私に跳ね返ってくる。
なにせ理性では理解しているのだ――――――きっとこれが「正しい」と。
もう、それが誰にとっての「正しさ」なのかすら、分からなくなってしまったけれど。
「強くなって下さい。夕雲さん」
またしても彼女が、無責任にそんなことを言う。
「あなたは一緒に、来てくれないの?」
「出来ないんです。大事な
身動きが取れないから、無責任なことを言う。他の責任を果たすと言い訳して、一番大切なものから目を逸らす。
それが生きるということだなんて、わたしは、認めたくない。
そんな私に、彼女が嗤う。
「夕雲さん、あなたは知りすぎました。
「……会いたくないわ。また国益のために戦わされるんでしょう?」
「ええ、ですから。強くなって下さい――――――あなたの信念のために」
貴女の心を、守るために。そう言外に聞こえて、私は空を仰ぐ。
分厚い雲。この雲の向こうには、きっと爆撃機の群れがいる。
見えない場所からいつも、365日24時間。私たちの生活を見張っている。
私はそれを、絶対に忘れない。
第9護衛隊群は、結局解散させられることになったらしい。
そりゃそうだ。存在しない部隊に意味はない。そもそもが第8護衛隊群を神聖視するあまり、欠番部隊として一つ飛ばしの9番目という歪んだ護衛隊群だ。消えてしまったところで、もう誰も困ることはないのだろう。
そして
そして私は、今―――――。
「……それにしても、まさかこの家とはね」
軍人が、それも前線で命を張るのが仕事のはずの特務神祇官たる海軍軍人には相応しくない高級住宅地。その一角で呼び鈴を鳴らすことになるなんて、一週間前の自分に言っても信じはしないだろう。
「ねぇ秋雲さん。私、強くなれたのかしら」
そう独りごちる。もしも強くなれたからこそ
この段階では
けれど住所を検索して、邸宅の前まで来てしまえば家名は当然分かる。海軍の人間、それも幹部なら知らないはずがない名前を前に、私は嘆息。
いったい、どれだけ多くの人間が
そう思いながら……しかしそんなことは表情におくびも出さず、私はカメラ搭載型のドアホンを見つめる。このカメラの向こうには間違いなく
もう既に、試験は始まっているに違いないから。
『どちら様デスカ?』
ほどなくして応じたのは、少し訛ったようなイントネーション。
使用人だろうかと私は考える。フィリピン系の出稼ぎ労働にハウスキーパーとしての仕事が含まれるのは有名な話だった。
「哨戒艦隊司令部付、山田ハナコです」
もちろん偽名である。偽名で接したところで相手の素性を考えれば意味がなさそうだが、念には念を入れてということだろうか。
『お待ちしておりマシタ。お入りクダサイ』
その言葉と同時に閉ざされていた門が音もなく開く。どうやら遠隔操作で開閉できるらしい。
「……さてと。いきましょうか?」
玄関へと続く
まさかとは思うが、バーベキューでもしたりするのだろうか。それも運動公園などではなく、個人の家で?
とても戦時中とは思えない光景。一般的な富裕層が戦争を身近に感じていないのは想像に難くないが、仮にも国防軍の高官がそのような体たらくで良いのだろうか。
……分かっている。そんなこと考えても無駄だということは。
この家は軍人というより政治家の家。質素倹約よりむしろ、いかなるときも豪奢に構える見栄が必要なのだろう。
とはいえ所詮は土地のない日本。
小路はすぐに途切れ、目の前にはいよいよ玄関が迫る。
玄関前の呼び鈴を押そうとすると、その前にカチャリと扉が開いた。
「ようこそ、ヤマダ様」
「……どうも」
応対したのは、フィリピン系のハウスキーパーではなかった。ややウェーブのかかったブロンド、整った顔立ちはアジア系のそれではない。
そしてなによりその服装。
まさかハウスキーパーがフリル付きのワンピースを着ているなんてことはないだろう。メイド服ならフリルがついていてもおかしくはないだろうが、シルクの素地をアピールするようなその服はメイドとは似ても似つかない。
「お茶を入れて参りマス。少々お待ちクダサイ」
そう言いながら通された応接間、それともリビングのような部屋。そこのソファに腰掛ける私。
輸送機や護衛艦の椅子ではあり得ないクッション性を誇るそれが体重を吸収して、硬い反発に慣れている私は何度も腰の位置を直す。それでも結局落ち着かず、浅く座ることで違和感を最小限に抑えることになった。
本当に、住む世界が違う。
見るからに高価なソファ、絨毯や壁紙にはもちろん複雑な紋様。
壁には油絵が飾られ、置き時計がその振り子に従って時を刻んでいる。
少しでも傷つけた日には1ヶ月分の給料は消し飛ぶに違いないそれらを眺める私は、ふとその一角に目が吸い寄せられる。
それは量販店では絶対手に入らないであろう繊細な彫刻が施された
正確には、その上に置かれた装飾品。
「ここだけは、私の実家と一緒ね……」
異世界とはいえ、ヒトの住む家に違いはないということなのだろう。
私はソファを立ってそこへ歩み寄る。
そこには、いくつもの写真が置かれていた。
登場人物は様々だが、主人公は一目瞭然……それは一人の少女が歩んだ
七五三の写真に始まり、小学校や中学校……時おり乗馬シーンやらイヤーマフにショットガンを構えた写真もあるが、概ね誰もが通る成長の道を記している。
そして最後の写真と思われるそれは、国防大学校の入学式。
中心に写るのはすっかり成長しきった少女の姿。その隣には海軍の制服に身を包んだ父親とおぼしき男。そして反対側には……。
「ごめんなさいね。お待たせして」
先程までの訛りを微塵も感じさせない流暢な日本語。
私が振り返った先には、写真に写っていたブロンドの女性。
迂闊だった。
考えてみれば
国防海軍重鎮のひとり、飯田コウスケ横須賀総監の妻――――――それが彼女、私が接触を命じられた人物であった。
紅茶の銘柄なんて分からないが、少なくともインスタントのそれより悪いということはないのだと、思う。
いやきっと、味も香りも良いはずなのだ。それなのにどうしたことか、味も香りも感じない。舌を火傷した感覚がないので、温度も適当なのだろうなと予想することしか出来なかった。
「良ければスコーンも食べて? 食べ盛りの娘がいなくなって以来、いつも余っちゃうから」
こんな状況で焼き菓子なんて食べても味はしないだろうが、全く口にしないのもそれはそれで失礼だろう。そう考えた私は、頂きますと会釈して焼き菓子をつまむ。
想像通りの無味乾燥。カップを傾けて口から失われた水分を補充する。
「……それで、今日はどのような仕事なのでしょうか。飯田夫人」
目の前にいるのは民間人。しかし横須賀総監の妻である。ということは総監の代理人には違いなく、下手なことは言えないとワタシは言葉を選んだつもりだった。
にも関わらず、彼女は僅かに不機嫌そうな表情を作る。それからツンと拗ねたような表情になり、砕けた調子で言葉を紡ぐ。
「ユウグモ、飯田夫人と呼んではダメでーす」
「……はぁ」
それにしても口調の安定しないヒトだなと、そう思った私を誰が責められるだろうか?
最初は訛りの強いハウスキーパー、今度は横須賀総監夫人、そして次は夫人と呼ぶな? ではどうしろというのか。
「私のことは〈ヒラヌマ〉と呼んでクダサーイ」
「……ヒラヌマ」
何処かで聞いたような名前である。しかし何処だったかは思い出せない。
首を傾げた私に、彼女はニコリと微笑んで続ける。
「戦艦〈ヒラヌマ〉。
「存在しない……戦艦」
なるほど、表向きには存在しない
「分かりました。それでヒラヌマ、あなたが
「簡単なことネ。私たちのことを知ってクダサーイ」
そう言いながらヒラヌマは一枚の書類を差し出す。そこに書かれていたのは。
「……秘密保持契約?」
「いわゆるNDA、商業取引の現場などで用いられる守秘義務契約デス。いまからお話しすることは『とある会社』に関わる情報。デスので
まさか商取引の話になるとは思っても見なかったが、これが意味することは簡単だ。
ヒラヌマはこれからある企業の秘密を話す……つまり
「どのみち、署名しない選択肢はないのでしょう?」
差し出された万年筆、書き心地はボールペンのそれで署名をする。もちろん本名、これでもう私は逃げられない。
けれど私に逃げるという道はなかった。
なにもせず、なにも出来ずにただ滅びの日を待つなんて御免だ。
私は私に出来ることをする。それが例え誰かの掌の上で踊ることだとしても、私は――――――なにもしない私でいるつもりはなかった。
「理解が早くて助かるネー」
「御託は結構、本題に入りましょう?」
もちろん、とヒラヌマは不敵に笑う。
それから一枚のパンフレットを取り出した。
「K&Iセキュリティーズ……」
そこに記されていたのは、私でも聞いたことのある企業名であった。いや私どころか、
「深海棲艦専門の
「ええ……存じておりますとも」
民間商船の警護。それは本来海軍の仕事である。いやもっと言うと、海軍は常にその職務を忠実に実行している。
とてもじゃないが、いい印象は持っていない。
「
そう言いながら差し出される名刺には、なるほど経営陣に名を連ねているらしいことが書いてある。
「……それで、あなたがこの企業の経営をしていることが何になるのかしら?」
私は口ではそう言いつつも、内心で冷や汗をかいていた。
K&Iセキュリティーズなんて駆逐艦程度の運用ノウハウしか持たない警備会社としか思ったことがなかった。それこそ軍の空気に馴染めない新人が毎年引き抜かれるので困るといった程度にしか考えたことがなかった。
しかしもし、この企業に
話はずっと、違うものになる。
「ユウグモの考えはだいたいあっているヨー?」
私の考えを見越して、ヒラヌマは嗤う。
「
出来るわけがない。K&Iセキュリティーズの運営費は船舶保険などの利点程度では打ち消せないほどに大きいはず。事業としては大赤字の非採算部門に違いがないのだ。
なにせそもそも
「さて、ユウグモ。あなたには選択肢がありマース」
「今すぐ回れ右して帰るか、それとも紅茶の『おかわり』を淹れてもらうか」
私は
この先に何が待ち受けていようと、どのような言葉が彼女の口からこぼれ落ちようと。
それを聞くために……戦い続けるために、死んでしまわないために。
ただそのためだけに、私はここへ来たのだから。
カップを手に取る。もう手は少しも震えていない。ゆっくりと口の高さまで持ち上げて、そっと舌を湿らせるように味わう。
香りが鼻腔に昇るのを感じながら、私はその少しだけ冷めた紅茶を飲み下す。
それは不思議と、まろやかな渋みを感じさせるものであった。
「……おかわりを頂きましょう。それと、出来ることなら、ご夫人の貴重なお話しも」
「えぇ、お話しいたしましょう」
そうして彼女は語り出す。
ちっぽけな歴史の一幕を。
「これはまだ
まだ彼女が