第39話 始まりはいつも突然に
無遠慮な電子音が、肌にへばりつくような夜を切り裂いた。
「んぅ……だーりん、でんわぁ……」
「あ、ぁあ……」
そうだな、と。名残惜しそうに扉を見やる愛しいヒト。
気持ちだけと言わんばかりにうっすらと光る常夜灯の下で、筋肉の上を流れて光る汗。
本人はデスクワークで弛んでしまったと言いつつも、未だに鍛え続けているらしい腹筋は彼の見栄っ張りな性格の一端を示している。
「出て、きましょうか?」
「いや。長くなるかもしれないから、お前はもう休んでなさい」
しれっとトンデモないことを言い放ち立ち上がると彼は寝間着を巻いて外へと出て行く。
――――――これで優しさのつもりなのだからタチが悪い。
身を整え、廊下から漏れ聞こえる声に耳を任せながら横になる。
最初は事務的な調子だった彼の声が、だんだん、ゆっくりと焦りを帯びていく。
あぁ、またこの流れか。
身体の温度が抜けていくのを感じつつ、私は枕に顔を埋めた。
彼が大切な仕事をしているのは知っている。「トーゴーバクリョウブ」に行くことが「出世」であることも、それを彼が誇りにしていることも知っている。
それでも、電話の終いに出てくるあの言葉は聞きたくない。
「――――――えぇ、分かりました。すぐに行きます」
その言葉で、身体の熱は栓を抜いたお風呂のように抜けていく。分かってましたよ、どうせこうなることは知っていますよと内心で毒づきながら私は立ち上がる。
そもそも呼び出す用事でなければ、真夜中に電話が掛かってくる筈がないのだ。
「すまん、呼び出しが……」
「えぇ。分かっていますよ、ダーリン」
表情に出してはいけない。
神経を張り巡らせて表情筋を統制し、目の前の彼を安心させるための笑顔を作りだす。
今この瞬間に彼が必要としているのは行かないでと懇願する女ではない。
国家のお役に立とうと出立する旦那を支える妻なのだから。
「制服を用意します。他のご準備を」
「すまん」
その謝罪は、果たして何に対しての謝罪なのだろうか。
二人きりの時間を邪魔されたこと?
それともこうして準備に付き合わされたこと?
まさか――――――彼が軍人であること?
そんな謝罪に意味がないことは、本人が一番良く分かっているだろうに。
「いいんです」
「この埋め合わせは……」
「その前に、先週の埋め合わせをして頂きたいですね」
「……すまない」
それでも、彼は「儀式」のために口にする。
埋め合わせとやらがいつになるかは分からない。
でも、埋め合わせをするためには還ってこなければならないから。
クローゼットから制服を取り出す。
数時間前にかけたばかりのアイロン、熱はとうに霧散したけれど、ピリッと張りつめた緊張感が彼を慢心から掬ってくれるはず。
「シャツを」
「はい」
まだまだ新品の香りが抜けない白シャツを取り、ボタンを外して手渡す。
するりと袖に通される腕は、私よりもひとまわり頼もしい。同じようにひとまわり大きな指が器用に動けば、たちまちボタンが留められていく。
同じ要領でズボンを履いた彼は、すっと腕を広げた。私は制服を掲げる。
「はい」
階級章の付いた、彼を軍人たらしめる制服。それが今から、彼の肩にかかる重荷になる。
今の私が感じられる物理的な質量ではなく、1億2000万という命の重み。
それをもし、少しでも肩代わりできるのなら。
「……どうした?」
不安なんです。
そう、素直に言えたらどれほど気が楽だろう。
そして彼は、どれほど苦しむのだろう。
だから言えない。身を寄せでもしたら少しは気が晴れるのだろうけれど。それだけで彼は感じ取ってしまうだろうから。
「いいえ……大きな背中ですね、と思って」
「大迫先輩に比べれば小さいよ」
そういう話じゃないことは、きっと彼が一番よく分かっているのだろう。
それでも「そういうこと」にしてくれる貴方は、やっぱり優しすぎる。
制服の袖が彼を包む。これでもう、貴方は私の夫ではない。
国防海軍の2等海佐。そんな日本国の守護者たる彼は、私のことを顧みずに進む。
つかず離れず、二歩ほどの距離をとって後を追うけれど、そんな抵抗も玄関まで。
「お気をつけて」
「ああ」
靴を履いた彼が、くるりと振り返る。
「いってくるよ」
すっと近づいた彼に、私も顔を寄せる。
これは儀式、私が故郷の習慣だと――それ自体は事実だけれど――いうことにして彼におしつけた、小さなワガママ。
触れあう一瞬、伝え合う温もりは十全に。
「あぁ、今日は
「?」
思わず首を傾げる。
夜間の呼び出しはたいていの場合迎えが来ていて、その車に乗り込むところまでを見送るのだけれど。
「お待ちしておりました2佐、お急ぎ下さい」
扉の向こうで待ち構えていたのだろう。
顔を出したのは、艤装を背負った――――――完全武装の〈艦娘〉。
世界中で暴れ回る深海棲艦という名の化け物を倒すために産まれた、海の上を駆ける兵士。ここは、海からはほど遠い街の中だというのに。
「ま、まってください。どうして艦娘が……?」
その背中は答えない。敬礼していた艦娘に答礼すると、足早に外へと駆けてゆく。
「ダーリン! 答えて……」
「――――――家の中にいなさい!」
振り返ったその顔は、見たことがないもの。
まるで別の世界から現れた瓜二つの人物のよう。
漏れかけた「誰?」という問いかけを寸での所で呑み込む。
「鍵をしめて、灯りを消して。可能なら一階で寝なさい。念のため消火器は手の届く範囲に。もちろん、非常用持ち出し袋も」
何か大変なことが起きたのは分かる。
武装した兵士が街中を歩き回っている時点で普通じゃないし、そんな兵士に迎えられるのも普通じゃない。
そして、彼はそれに「関わるな」と命じてきている。
「……わかり、ました」
それならもう、私には従うことしか出来ない。
なにせそれは、私と彼の暗黙の取り決めだったのだから。
「すまない」
その言葉を最後に、扉がゆっくりと閉まる。
一歩でも動いてしまえば堪えていたモノが溢れ出しそうで、私は胸を押さえてうずくまることしか出来なかった。
社会には、役割というものがある。
道を行き交うスーツ姿、交差点に立つ警邏の巡査。朝刊を配達員がポストに放り込めば、地球が回って朝を連れてくる。
私の役割は、あの人の妻であること。あの人を支えること。
どうしたら私は、あの人を支えることが出来るのだろうか。
玄関の呼び出し音が鳴っていた。
時計の指し示す時間の通りなら十中八九なにかのセールスで……そうか、もうそんな時間なのかと頭の片隅で考える。
あの人はいつ帰ってくるのだろう。
いったい何が起こったのだろう。
返事のない携帯電話には役に立たないニュース記事が踊り、この国で起きた惨事をしきりに報じているけれど、あの人がどうなったかは教えてくれない。
無遠慮なチャイムは何度でも鳴る。それがうるさくして仕方なくて、嵐を耐えるようにチャイムが過ぎ去るのを待っていると――――――ガチャリと鍵の開く音。
「!」
身体が反射的に動いた。
鍵が開いた音がすると言うことは、つまり鍵を開けたということである。それが意味しているのは鍵の持ち主の帰還。
しまった、どうして私はこんな時間まで床に臥せていたのだろうか。
こんな姿を見たらあの人は私のことを酷く心配することだろう。
昼食の準備はもう間に合わないので、せめて手ぐしで髪を整え服を叩いてシワを隠す。
「ダーリン! おかえりなさ……」
けれど、私の言葉が最後まで続くことはなかった。
「……こんにちは、
ロングスカートの裾を軽く摘まんでお辞儀をしたのは義理の妹。そのワザとらしい振る舞いにこちらが脱力したのをみて、深いため息。
「バカだバカだとずっと思っていましたが。やはりお兄様は大馬鹿者です」
ダーリンのこと、悪く言わないでください。
私の反論は言葉になっただろうか。義妹は私の脇を通り過ぎてカーテンに取り付くと、引き千切らんばかりの勢いで開く。
差し込んできた太陽の光がフローリングに反射して、部屋中に拡散。思わず眼を細めた私に、低い声を効かせた彼女が聞いてくる。
「それで、食事は」
「……そんなの」
「食べてないんですね?」
それだけ言うと義妹は乱暴に冷蔵庫を開き、コンロに火を掛ける。
勝手知ったるヒトの家とはこのことだ。
「はい、食事の支度が出来ました」
そうしてたちまちトーストとベーコンエッグ、そしてポテトサラダにキャベツの千切りを添えたサラダが――もっとも、ポテトサラダは昨日の私が作ったものだけど――が食卓に並ぶ。
「お義姉様、座って下さい……座りなさい」
「……」
半ば投げやりに席に着いた私に、義妹がトーストを口にねじ込む。
これではまるで拷問である。
「――――――ふぐっ! なにぃふぅんでふか!」
「こうでもしないと食べないでしょう」
息が出来なくなってしまう前に義妹の手を振り払い、食べればいいんでしょと咀嚼する。
すると先ほどまで何も口にする気にならなかったのがウソのように、急激な食欲が身体の内から沸いてきた。
トーストを自発的に食べ始めた私をみて、義妹は何度目かのため息。
「来て正解でしたよ。お義姉様に餓死されては、ハルナの顔が丸つぶれです」
一食抜いたくらいで餓死なんて、私の反論は鋭い目付きで制される。
口は食べることに使いなさいと言わんばかりの眼光は、数時間前に私を貫いた視線と似ている……当然の話だ。なにせ眼の前の女性は、あの人の妹なのだから。
「食べながら聞いて下さい」
あの人の妹が、あの人とは異なる声音で言葉を紡ぐ。
「我が国では現在、9年ぶりの夜間外出禁止要請が発令されています。人権を極めて尊重する我が国における、事実上の戒厳令です」
急いでいたためだろう、少し焼きの甘いベーコンエッグを口に入れる。
動物性タンパクを焼いた時に広がる香りが食用油特有の匂いと混ざって食本能を刺激する。
そんな欲求を満たすための食事を続ける私に、義妹は説明を続けていく。
「近郊区間の交通は動いていますが、遠距離の新幹線や航空機の運行は早めに切り上げられるそうです。そして、今後は運休の可能性も十二分にあります」
話の行く末が見えない。怪訝な顔を浮かべる私に、彼女は酷く簡潔に言い切る。
「お義姉様には金沢へと疎開していただきます。今日、いますぐに」
嗚呼。
やっぱり、この
「……肝心なことは、教えてくれないのですね」
「気休めが必要ですか?」
「まさか」
行きましょう、カナザワへ。
それが、あの人の