もっと力があったのなら。そうどれほど願ったことだろう。
三寒四温にくすぐられて、街路の桜が冬芽を脱ぐ頃だった。
「ほんとに、赤城さんはこないの?」
首を傾げるのも無理はない。なにせこの子にとって彼女は、これまでずっと一緒に暮らしてきた同居人。理由以前に、別々に暮らすこと自体が考えられないのだろう。
「ええ。私はね、北の方に行かなくちゃいけないの」
「なんで?」
中学入試では地理分野も扱うから、恐らく千島列島と伝えてもこの子には問題なく伝わるだろう。それでも大雑把に「北の方」と言ったのは、彼女の配慮だろうか。
「でもきっと、新しいおうちにも遊びに行きますからね」
じっと見つめる私に気付いたのか、彼女は少し顔を持ち上げて私に微笑んでみせる。
きっと、彼女が私たちの新居を訪れることはないのだろう。
ないと分かってそんなことを約束する彼女の、なんと残酷なことか。
「あ、ねーお母さん。トイレいってもいい?」
と、そこで彼女が声を上げる。引っ越しの準備は済ませてある。あとは車に乗り込んで、出掛けるだけ。これから自動車で移動することを考えれば用を足しておくことも必要だ。いいわよと告げると、靴を響かせながら彼女は官舎へと駆け出していく。
その様子を見送った私。残されたのは私と、見送りにきた同居人だけ。
「加賀さん……頑張って下さいね」
「赤城さんこそ、今日まで長らく、ありがとうございました」
私が返せる言葉はそれしかない。きっと私一人ではあの子をここまで育てることは出来なかっただろう。それを支えてくれたのが私の同居人、赤城さん。
「でも、少しだけ寂しくなるわね……ねぇ、加賀さん」
私ね、大湊への転属願いを出したわ。そんなことを赤城さんは言う。それは私がこの人に転居を告げたときと同じ……相談でも何でも無い、報告。
赤城さんが何故転属願いを出したのか。その意図は本人に確認しないと分からない。
思い出深い官舎に独り取り残されるのが嫌だったのか。それとも千島列島の増強命令に従っただけなのか。それとも――――彼女が北方に赴くことで、私が関東に留まれるように仕向けたのだろうか。
「そうですか。頑張って下さい」
それが分からないから、私はそう励ますことしか出来ない。
「大丈夫よ、多分すぐ戻ってくることになるしね」
また会いましょう。お別れは十分だと言わんばかりに、赤城さんは歩み去って行く。
残されたのは私だけ。寒さの残された空に咲き始めたばかりの桜が映える。
「……ごめんなさい」
決して、あなたの厚意を無駄にしたいわけではない。それでも私は、ここを離れなくてはいけない。この官舎は、海軍の施設は、あの子が居てはいけない場所なのだから。
自動車の周りを確認する。積み込むべき小物は車に積み込んだ、大荷物は全て引っ越し業者が運んでくれた。もはやここには、何も残されていない。
「なんや、加賀。逃げるつもりか」
そんな私を引き留めたのは、一つの声。振り返るとそこには、小さな影。
「……龍驤さん。お世話になりました」
「えーよえーよ、感謝されるようなことは何もしとらんからね」
そう言いながら、彼女は私の方へと詰め寄ってくる。ずいと顔を突き出した彼女は、私に向けて「せやけどな加賀」と告げる。
「子供は親を選べんよ。そこんとこ、よーく考えた上での結論なんやろな?」
「当たり前です……あの子は、艦娘になるべきではないのですから」
この場所はあまりに戦争に近すぎる。近すぎて自由がない。周りの商店は軍人割引なんて制度を設け、あの子が通っていた小学校の同級生にも軍人の子供が何人もいる。こんな軍隊と防衛産業で成り立った街で育ち続ければ、彼女は軍人になってしまう。
「そうやない。
そして龍驤さんは、それが私の押しつけでしかないだろうと言いたいのだろう。端から見ればそうなのかもしれない。だけれどこれは、どうしても譲れない点なのだ。
「親が選んでいる訳ではありませんよ。あの子の選択肢を、狭めたくないんです」
「じゃあ、あの子が艦娘を選んだらどうするんや」
「……」
あの子が艦娘を選んだら? その質問に、私は答えることが出来ない。きっと龍驤さんは、私が答えられないと知ってそんなことを聞いているのだろう。
「それは仮定の話でしょう」
「せやな。けどその単なる仮定が現実味を帯びたから、
「違いますよ」
そんなこと考えたくもない。私たちが血を流して守っている平和。そこからわざわざ出て、あの戦場にあの子が行くというのか?
「おかあさーん。おまたせー!」
大きな声を上げて、あの子が戻ってくる。時間切れやなと呟いた龍驤さん。
「…………せます」
「ん?」
その言葉は、小さくて。
だけれど確かな重みを持っていて。
「あの子が艦娘になる前に、戦争を終わらせます」
私にとって、なによりも大切な誓いになったのだ。
そろそろ本気を出し始めた太陽が、食卓の足下まで迫ってきていた。
室内の温度が上がることを思えばカーテンで遮光すべきなのかもしれないが、フローリングに反射したそれは室内を照らす自然の照明にもなる。
『今日はさわやかなに晴れるでしょう。お出かけにはぴったりの一日ですね』
テレビのニュースは休日仕様。ニュースキャスターがお元気でと脳天気に告げる。
視聴者の眼を涼ませるための渓流が映し出されれば、スピーカーからせせらぎの音。
「お出かけにはぴったり……そうね、確かにそう」
そう独りごちれば、手元に置いた端末が瞬く。そこに表示された名前から緊急性はないと判断し、画面を閉じる。今日は休日、少なくとも数日前まではその予定だった。
戦争に休みはないが、軍人に休みはある。護衛艦や航空機ですら燃料を補給せずに動くことは出来ないし、人間ともなれば休養を取らねば始まらない。書類上の定数を見て国防軍は本当に人手不足なのかと疑問を呈する人間もいるが、それは休養という概念を見落としているだけのことに過ぎないというのに。
そんな憂鬱な思考を遮ったのは、一つの聞き慣れた声だった。
「お母さん。おはよぅ」
まだ眠りの国に片足を突っ込んでいるのか、どこか呂律の回らない調子。
私は首をくるりと渡して彼女の姿を見る。無防備なパジャマ姿で現れた彼女は、私の姿を見て首を傾げた。確かに、休日にシャツを着込んでいる人間はなかなか居ない。
「あれ……お母さん今日お仕事?」
「ええ、お仕事よ。朝ご飯出しておくから、歯を磨いてきなさい」
「はぁい」
それだけ言って踵を返していく彼女。私は六枚切りの食パンをもう二枚トースターに押し込むと、食器棚から平皿を取り出す。冷蔵庫からマーガリンと牛乳を取り出せば、とりあえずひとしきりの準備は整った。時間があれば目玉焼きでも作るところだが、残念ながらそこまで時間の余裕はなかった。
「……」
ふと、手が止まる。私はこうして、あと何回朝食の準備が出来るのだろう。
彼女もついに高校生となった。もしも地方の大学へと進学するならあと三年、ここから通える大学に行ったとしても卒業すれば就職が控えている。子供は
「駄目ね、こんなことばかり考えては」
私自身、まだ覚醒しきっていないのだろう。何もしないでいるとつい思考が負の方向へと引きずり込まれてしまう。手元の新聞を引き寄せて、椅子に座ってそれを開く。
朝のニュース番組同様、さして重要なことは並ばない一面。そこに紛れていたのは、の再建計画についての見出しが目につく。そこに書かれたのは見慣れた企業名。
『帝産HD、艤装事業を譲渡へ』
帝産HD……ここ数年業績の落ち込んでいた帝国産業ホールディングスが艦娘の艤装事業を譲渡するらしい。結局目に付くのは
「『最大規模を誇る
そんなものを読んでしまえば、自然と新聞紙を握る手に力が入るというもの。
防衛産業というのは結論から言えば「儲からない」産業である。利潤追求を第一とするはずの企業が防衛産業という事業を続けてくれるのは、ひとえにそれが国益に適うと思ってくれているから。そんな防衛産業を他社に譲渡するということは、すなわち。
「不味いわね。帝産は倒産するかもしれない」
表に出さないよう心の中だけで呟けば、その予見が胸に反響する。艤装や国内向け製品へと事業を切り替えることで踏みとどまっていた帝国産業もここまでか。
と、ふと別の記憶が思考の水面へと浮かび上がってくる。そういえば帝産グループの艤装事業で、最近大失敗した新型艤装があった。鳴り物入りでロールアウトしたその新型の評価はあまりに悪く、なぜこんなものを開発したとすら言われる始末。
当然開発費は回収できていないだろうから、この際いっそのこと艤装産業を斬り捨てることにしたのではないだろうか。
「……いえ、この際どちらでも変わらないわね」
重要なのは、帝産グループが艤装事業から撤退することである。国内で艤装生産を担う企業は僅かに七社、帝産の事業規模が小さい方だが、業界への影響が出ることは避けられない。そんなことを考えながら紙面を捲っていると、彼女がのそりと戻ってくる。
「お母さん。歯、磨いてきたよぉ」
「顔は洗った?」
「うん」
まだ眠いのか、緩慢な動きで席に着く彼女。私は新聞を畳んで、それから席についた彼女をもう一度みた。いただきますと小声で言いながら食べ始める。
「ところで、今日はずいぶんと早起きなのね」
「え……そんなことないと思うけれど」
そう言いながらパンをかじる彼女。訝しげなその眼が何か疑っているのかと私に問うてくる。別にそんなつもりで言ったわけではないのだけれど。
「いえ、いいのよ。誰かと約束しているんでしょう?」
「……まあ、うん。なんでわかったの?」
私に言い当てられたのが納得いかないのか、曖昧な返事を返す彼女。
「だって、いつもならまだ寝ている時間でしょう?」
簡単な推量である。普段の彼女が早起きをする時は必ず理由がある。それは部活動の朝練であったり、学校行事の都合であったり。今日、部活動があるとは聞いていない。
「そっか……ねえ。お母さん」
「なに?」
何か言いたいことがあるのだろうか。視線をやった私に、相手は首を振る。
「ううん。やっぱりなんでもない」
「……そう」
昔は、もっと素直に色々話してくれたのに……なんて、言ってはいけないことなのだろう。彼女はすっかり大きくなった。学校にいけば友達がいるし、親に何でもかんでも報告したり聞いたりする時期でないことは理解しているつもりだ。
「出掛けるなら、お昼ご飯はいらない? 晩ご飯は?」
「えーと、晩ご飯は食べるかな。今日は何時?」
その「夕食時間がずれる前提」の質問が少し胸に刺さる。
もちろん当人に悪気はないのだろう。彼女にとってしてみれば夕食時間がずれるのは当然のこと。仕事が毎日定時で終わるわけではないから仕方のないことではあるのだけれど。時間がずれてしまうのは健康的とは言えない。
その点、官舎に居た頃の生活は極めて規則的だったことだろう。決まった時間に起きて決まった時間に寝る。赤城さんと二人で協力すれば、食事も決まった時間に用意することが出来ていた。だけれど一人となってしまっては、それは難しい。
「七時には用意出来るわ。今日は応援に呼ばれただけだから、残業はないはずよ」
「はーい。じゃあそれまでに帰ります」
それからバターナイフを手に取ってマーガリンを塗り始める彼女。この子が私の被保護者であることは疑いようがなく、それを否定するものもいないだろう。
それでも、ふとしたとき。今のような僅かな会話の隙間に感情は滑り込んでくる。
この子は、私の
私は艦娘だ。特務神祇官たる国防軍人と定義される艦娘は、今のこの国を支える大黒柱。艦娘によってこの国は護られている。この国の国土が、国民の安全、安定した食料と燃料の供給、それらが達成されることで初めて経済活動に「安心」が与えられる。
それこそが国防の意義、誰もが未来を見据えて歩んでいける日々を守ること。
『じゃあ加賀さんは、自分の命令であの子を殺すことが出来るのね?』
――――そして、そんな未来から真っ先に弾き出されるのが艦娘だ。
艦娘は命を削って戦う。結婚適齢期は現役艦娘の絶頂期と見事に重なる。私のように未婚の艦娘は少なくないし、大抵の艦娘にとって出産と退役は
「ねえ、あなたは……」
艦娘になりたいの? なんて、どの口が言えるのだろう。
「……お母さん? どうしたの?」
「なんでもないわ。少し仕事に行きたくないだけ」
「せっかくの日曜日だもんねー」
私の内心を知らない彼女は、私の言葉を鵜呑みに……鵜呑みしたことに
この子が艦娘になりたがっていることを私は知っている。そして彼女も、多分私が艦娘という進路に反対していることを知っている。そして恐らくは、その理由も。
この子は私の子ではない。この子の本当の親は、ずっと昔、もう一五年も昔に死んでしまった。日本から遙か遠く離れた南の島で、誰からも顧みられることなく。
いつまで隠し通せるだろうかなんて考えることは随分昔にやめた。彼女はとっくに気付いているのだろう。職務上旧姓を残していると
そんな歪みを抱え込んで、この平穏な朝食風景は維持されているのだ。
お互いが口にしないことで、どうにか秩序が保たれているのだ。多分それは、これからどんなことがあっても破られることはないだろう。
そんな事情に直結しているからこそ、二人ともこの話には触れない。触れられない。
「さて。そろそろ行かないと」
私は立ち上がる。私がこの家にどんな事情を抱えていようと、
「うん。お仕事がんばってね、お母さん」
「鍵、ちゃんと閉めてから出かけるのよ」
はーいと返す彼女の声を聞きながら、私は部屋へととって返す。クローゼットにかけられた鞄を取り、ハンガーに吊された上着を着てしまえばあっという間に海軍軍人の完成だ。腕に縫い付けられた金の刺繍は、3等海佐という私の階級を示している。
「いってきます」
「いってらっしゃい!」
玄関を閉める。鍵を閉める。
これでもう彼女の姿は見えない。私が見ないあの子はどんな表情をしているのだろう。私の知らない友人と約束をして、どこに遊びに行くのだろう。
「ごめんなさいね。どこかに遊びに連れて行ってあげられればいいのに」
思えば、最近は忙しいのだと言い訳して、あの子に何もしてあげられていない。
私の友人は私に母親としての愛情が足りないなどと説きたがるが、それは概ね事実だろう。どんなに文明が発展しても親子という関係が消えないのは子供に自身を養うほどの力がないから。
では、母親としての役目は果たせているのだろうか。
とはいえ、私が為すべき事は単純だ。あの子を経済的に支える。そしてあの子の安全を確保する。その両方を確立するための手段として、私は艦娘として戦い続ける。