いつの間にか、雨はすっかり止んでいた。凪いだ海はどこまでも穏やか。
「痛っ」
「動かないでください。赤城さん」
展開式の救命筏は、流石に二人を乗せるには手狭だっただろうか。救命キットで頬の傷を手当てしてやると、赤城さんは驚いたように身体を縮込ませる。
「……少しは落ち着きましたか?」
「えっと。ええ、そうですね」
そう答えながらも、赤城さんは私からそっと目を逸らす。膝を抱えた彼女は、恐る恐るといった様子で私の方を見た。上目遣いで見る姿は、どこかでみたような表情。
「えっと……怒らないんですか?」
「統合幕僚監部の認可も受けた作戦と聞いています」
それとも怒って欲しいんですか。そう問えば、まさかと彼女は首を竦める。その視線は広がる大海原に注がれていた。ゆらゆらと波打つのは海と空の境界線。
ここは音のない世界。戦闘の怒号で満たされていた空気は流れ去り、ただ生も死もない無だけが広がっている。近くで警戒にあたっている筈の萩風は珍しく気を利かせてくれたようで、何も言わずに距離をおいてくれていた。
「……なんでこんなことをしたのか、聞いてもいいですか?」
いくら適当な表現がないとはいえ、こんなこと、なんて。よく言えたと思う。
それでも、赤城さんは答えてくれた。ぽつり、と言葉がこぼれ落ちる。
「イヤ、だったんだと思います」
何がとは問うまい。戦争のこと、お姉さんのこと、艦娘母艦のこと、あの子のこと……挙げればキリはない。それほど彼女は、ずっと沢山耐え忍んできた。
「加賀さんは『偉くなりすぎた』って言ってましたよね。私も、偉くなりすぎました。それでも私は何も出来なかった。何も変えられなかった」
だから、逃げ出したくなっちゃったんですよ。そんなことを言う赤城さんは、逃げ出してはいけないことを誰よりも知っていたのだろう。艦娘の後ろに国土はない。そんな時代を生き抜いたのが私たち開戦世代なのだから。
「赤城さんは、強いですね」
その言葉に、彼女は私を見る。きっと信じられないだろう。
「私は、何も出来なかったことに耐えられなかった」
私は無力だった。恐らくは今も無力。もっと偉くなれば、実力があれば。そう何度も考えた。諦めないと息巻いて戦い続けたけれど、私は結局、赤城さんを助けてしまった。赤城さんならこの悲劇も啼かずに耐えたのではないだろうか。
「私だって、耐えられた訳ではないですよ」
「……そうですね。そうでした」
それでも、私の大切な一人がここに居ることがなによりも嬉しい。私は本当に身勝手だ。娘を、赤城さんを守る。そんな独りよがりをさも大義のように掲げてみせる。でもそれで今があるのなら、私はそれでもいいと思う。
「加賀さんこそ強いわ。あなたは『そんなことない』って言うのでしょうけれど」
「むき身の刀は、危ないだけですよ」
返事がないことが全ての答え。赤城さんは私を見つめて、ふっと小さく笑う。
私の戦いはまだ終わらない。この行いが、赤城さんを本当に救えたのか私には分からないし、肝心の戦争はこんな小さな戦いじゃ終わらない。それでも私は今日、諦めずに――――その
「赤城さんの助言に、従ってみます」
これからの戦いは、きっと益々困難なモノになる。艦娘母艦は既に暗礁に乗り上げかけているし、今回の戦いは結局のところ航空艦隊、無人兵器の活躍が評価される。
……きっとあの子が大人になるまでに、戦争は終わらないだろう。結局私は、あの人の願いを成し遂げることは出来そうにない。けれど私は、それらも全部抱え込むと決めた。私の罪は消えることはない。それなら、そこに向き合うしかないのだ。
私は諦めない。何もかも抱え込んで、戦いを続けていく。
だからこそ、私はもう少し、少しだけゆっくり歩いてみようと思う。
「赤城さん。あなたの自分勝手なところを、私に教えてくれませんか?」
私だって、別に分からず屋なつもりはない。赤城さんにとって私は面倒な
「あなたと一緒に、この国の
「加賀さん……」
ヒトとヒトとの繋がりは、簡単に言い表せるようなものじゃない。そんなことは百も承知。私と赤城さんの間にだって、立場や考えの違いで幾重もの対立項がある。
それでもヒトは手を取り合えると、私はそう信じたいから。
「そうね……じゃあ、まずは一緒に怒られましょうか」
音のない世界に、鋼鉄の鳥が羽ばたく音が聞こえてくる。
私たちの航海に、まだ幕が下りることはない。
コツ、コツ。
リノリウムの床に、靴音が響く。
それは単調に、そして威圧を伴うように。
「ミコト」
その足取りが、とまる。
何も答えまいと閉じた目蓋の向こうに映るのは、やはりというべきか先輩の姿。
「別にいまさら怒る気なんてないわ。こういう言い方はなんだけれど、よくある話だし」
よくある話。そうだ、その通り。
私たちの間ではよくある話だった。橋を掛けるため、城を護るため、人柱は文字通りにその土地を、人々の営みを支えている。
「小沢空将がミコトに伝えてくれって言っていたわ。『防空網』を解体する、って」
「……!」
私の驚きを、まさか感付かない彼女ではないだろう。ゆっくり起き上がれば、狸寝入りを咎められることもしない。
いや、もともと彼女は冗談をいうような人間ではないのだ。
「感情論が悪いとは言わないわ。私だって『防空網』なんてのを考えたのは性悪オニチク野郎だって信じてる」
けれど、それでいいの?彼女の問いは、まっすぐに核心へと迫ってきていた。
もしここで「加賀さんと戦うことにしたんです」と言えば……彼女は嗤ってくれるだろうか。ひとしきり馬鹿にした後で、彼女なりの正解を教えてくれるだろうか。
「……」
ーーーー答えは、否だろう。
なにせ、私は一人で海に向かってしまった。相談することも出来た、同盟者として共に戦ってくれということだって……。
いや、それはないか。
彼女の名前は片桐アオイ。名家の生まれという訳でもなく、私のように一族の流れを汲む者でもない。だから彼女は『防空網』のことだって知らなかった。そして本来なら、知るべきではなかった。
「……ごめんなさい」
彼女は、どこにでもいるような一般人だった。ちょっと特異で、一般人の枠から飛び出している優秀な
「私、傲慢でした」
大変なことほど表に出ない方がよい。その正しいようで間違った選択は
同盟者であるハズの彼女にそれを押し付けた。
だから、怒られる以前に見放されても仕方がない。
なにせ、最初に突き放したのはこちらなのだから。
「もう。なにしょーもないこと気にしてるのよ?」
「……」
それなのに、彼女は。
私のことを突き放してくれない。
「分かるわよ。もう、終わらせたくなったんでしょう?希望を誰かに託して……ってことは、託したのは私じゃなくて
おねえサン振られちゃったな、とおどける片桐2等海佐。特務艇〈蒼龍〉の艇長。
ああ、本当に。貴女は優しいヒトだ。
「違いますよ。私、頼られるのが好きなんです」
だからこの絶望は隠しておこう。
彼女がこれ以上、苦しまなくてもいいように。私がどうしてこんなことをしたのか、彼女は知らなくてもいいのだから。
そんなことを考える私の手を、彼女は掴む。
「ダメだよ、ミコト。貴女の
じっと注がれる視線。私に折り重なった経験が目線を逸らすなと訴えてくる。
そして降り積もった経験は、そんなことをしなくても無駄だと諦めている。先輩はこれでも、裏取りを重視するヒトだ。
「感情論で国防が決まるハズがないんだよ。いずれ艦娘母艦が通るならそこには必ず道理がある。『防空網』を解体するならそれはポスト防空網が現れたか……もしくは陳腐化して、どうにもならなくなってしまった時」
「そんなことは……『防空網』はキチンと機能しています。だからこそ、先輩たちはあんな無茶な作戦をやったんじゃないんですか?」
こんな詭弁では誤魔化せないことは分かっている。そして案の定、彼女は食らいついてきた。
「うんうん。防空網が機能しているのは事実だと思うよ?ただそれは『今』の話だ。解体されるということは、いずれーーーーいや、今は問題になっていないだけで今後必ず問題になる不具合が発生した」
違うかしら?
そう問いかける先輩の眼には確信が宿っている。
ならば、やむを得まい。そう言い訳して、私は口を開く。
きっと先輩なら、最後には結論にたどり着いてしまうだろうから。
そしてなにより、私は先輩に
「……アナフィラキシー反応」
「えっと、アレルギー物質に対する症状だっけ?」
「ええ、免疫系の過剰反応です。今回の『防空網』の暴走は、そのアナフィラキシー反応のようなものなのです」
「……なにに反応したっていうの?」
そう言いながらも、先輩。貴女はもう答えにたどり着いているんじゃないですか?
『防空網』の役目はこの国を守護すること。その対象は航空戦力はもちろん、本来なら国民、この国に住まう民にも向けられねばならない。
だが『防空網』は市民を護れない。なぜなら、レーダーが内陸を指向していないから。見えないものをみることは出来ないから。
だからこそ。
「内地に
今からおよそ10年前、東京湾に侵入したたった一体の深海棲艦がこの国の形を歪めてしまった。
対応が後手に回った空軍。疑心暗鬼に陥って身動きの取れなくなった海軍。のちに国防軍不祥事と呼ばれるその事件は、ただでさえミクロネシア戦役の敗北で揺らいでいた日本という国をさらに不安定なものとした。
「もう、お分かりではありませんか?」
「……」
その深海棲艦が
そこまでは流石に、言うつもりはないけれど。
しかしこれで、あなたには十分なハズです。先輩。
「貴女の覚悟を踏みにじるのを許してね。私は今の話を、忘れる用意があるわ」
嗚呼、本当に。彼女は
身内のことを第一に思う、私なんかに肩入れしてしまう。
貴女の忌み嫌う「ロクでもない人」にーーーー私や私の一族はカテゴライズされてしまうかもしれないのに。
「いいんです。覚えていて下さい」
「いいのね?」
「ええ、だってーーーーー」
2023年。人類の戦術を模倣したと
そこで生まれた政治的空白に滑り込んだ新田家。私の一族……そして。
本土空襲の実行犯である深海棲艦が顕現する際に
たぶんこれらは、どこか深いところで繋がっている。
それでも
「姉様は、
ならばそれは。私にとっての敵なのだ。
「でも、私は一度見ないフリをしてしまった」
だって、その道はあまりに多くの人を裏切ることになる。いくつもの顔が浮かんでは消え、そうしてまた浮かび上がる人々を裏切ることになる。
そんなの耐えられない、耐えたくない。私が身を投げ出そうとしてしまった理由の根幹は、きっとここにあって。
「…………私は、無責任な人間なんですよ」
勝手に悩んで。
勝手に利用して。
勝手に諦めて。
この世界には苦悩と悲劇を飲み下したヒトがいるのに。
この世界には戦い続けるヒトがいるというのに。
この世界には私なんかに手を差し伸べてくれるヒトがいるというのに。
「まったく。加賀からは吹っ切れたって聞いてたのに……いや、違うか。吹っ切れたからこそ言ってくれたのかな?」
「そうだと、いいのですが」
そう返せば、なんで貴女が疑ってるのよと笑われる。そんな先輩が、今はじめて
先輩は戦い続けている。ヒトの業に吐き気を催しても、身勝手な爆撃機を恨んでも。それでもそれを全部飲み下して、先輩は戦い続けている。
「確かにミコトは無責任だったかもしれない。けれどそれは昨日までのミコト。今日はもう違う、でしょ?」
彼女の戦い、その険しい道のりの先に何が待ち受けるのか。
それはきっと、先輩自身も知らなくて。
「ねえミコト。頑張ろう、私たちの未来のために……この戦争を、終わらせるために」
先輩には見えているのだろうか。
私は本当に知っているのだろうか。
この世界の現状を、この国の窮状を。
「ええ、頑張りましょう」
いや、違うか。分からないからこそ先に進む。闇の帳が降りているなら灯りを持ち出そう、遠くにあるのなら近づいてみようとする。
きっとそれが、
「まず、艦娘派を再編します。きっと今の加賀さんなら、やってくれるハズですから」
「よし。じゃあ私は
「ええ、そうですね」
そして、
裾野から
「このロクでもない世界を変えてやろう。私とあなたで、世界を変えたいと願うみんなの力で」
それが、世界をより良い方向へ導くと信じて。
本稿は2020年8月16日に初頒布した同人誌「裾野に流すはかりごと(後編)」を加筆・再編集したものです。
シリーズ最新作にて完結作は2022年12月30日「コミックマーケット101」にて先行頒布を予定しております。よろしくお願いします。
そしてオマケではありますがTwitterでの告知も開始しました!もしよければどうぞー!