ミクロネシア連邦チューク州の行政中心地、ウエノ島。チューク州に住む人口のおよそ3分の1が集中し州で唯一の国際空港を有するこの島は、もちろん商業の中心地でもある。
「いったた……」
座席の背もたれに頭をぶつけたらしい。
あたりを見回すと、バスはいよいよ非舗装区間に差し掛かったらしい。ガタゴトと椅子に窓が揺れ、気を抜いたら弾き飛ばされそうになる。
日本本土から持ち込まれた都市型バスは、まさか砂利道なんて想定している筈がなく……それにしても揺れすぎではないだろうか。
「ヒナちゃん、大丈夫?」
「うん。へーきだよ」
私の隣、窓際の席では提督さんの愛娘――ヒナちゃんが両手を窓に押し付けていた。
過ぎていくモノ全部が珍しいのだろう、興味津々といった体で夢中になって外を見ている。私も昔、姉や家族と一緒に連れられて街の商業施設に行った事を思い出す。
「買い物……ねぇ」
インフラの整っていない国で生活する日本人を支えるべく、ミクロネシア連邦では生活協同組合の配送サービスが利用できる。
従って食料品をはじめとする生活必需品はヒナちゃん一人でも大丈夫らしいのだが、雑多な消耗品はどうしても買いに出なければならない。
という訳で、提督さんからありがたく頂いた休暇を使って私達は新市街に出てきていた。市街とはまだ名ばかりの工事現場が散らばるあぜ道の先に、私たちの目指す
提督さん宅への押し掛けが続いてから、徐々に心を開いてくれるようになったヒナちゃん。ようやく、ここまでが長かった。一緒にお買い物に出られるようになったのは、過去の自分を手放しで褒めよう。雑談にも反応してくれる彼女に嬉しさを噛み締めながら続ける。
「いつも一人なの?」
「お父さんは頑張って帰ってくるって言ってる。でも、月に一回しか駄目だって」
多忙な職に就いているのだ。それも仕方あるまい。
とはいえ親の事情は子供にとっては知ったことではないわけで、少女の表情にも僅かな影が落ちる。なるほど、彼が頼むといった意味が少し分かった気がする。それはそうとして、問題は……。
「おっかいもの~、おっかいもの~♪」
「文月……周りに迷惑になっちゃだめだからねっ! 静かにしてて!」
「むぅ~。皐月ちゃんはいっつも大人なんだからー」
いやいや。そもそもなぜ彼女らが此処にいるのか。
一つ後ろの座席にいる
「皐月? 一体どういう事?」
「司令官に瑞鶴さんがこっちに来て日が浅いから、案内してあげてって言われたからさ」
「文月は?」
「私はお菓子を
皐月はともかくとして、文月は中々に太々しい。
まだ一部では工事中なのか、防音幕を被せられた建造物がいよいよ近づいてきた。車内アナウンスが目的地を告げている。咄嗟にボタンを押した私を見て、ヒナちゃんは膨れ面。
「あ……えーっと、もしかして押したかった?」
返答は無視。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
「わぁー、瑞鶴さんヒナちゃん怒らせたぁ。いけないんだぁ。お父さんに言っちゃおー」
そして筋入り棒読みをする文月。横目で流されたその視線が何を言わんとするかは明らか。
「はいはい。お菓子でもスイーツでも買ってあげるわよ」
「えへへー、交渉成立ぅ」
同じ艦娘なのだからそれなりの給金が出ているはずなのに、どうして私にたかるのか全くの謎である。まあ提督さんから預かった
「……」
ふと私を見上げる視線を感じる。隣に座ったヒナちゃんは何かを訴えるような表情。
「ヒナちゃんも欲しい?」
「でも。お父さんから、あんまりお菓子食べるなって……」
「食べ過ぎるなってことでしょ。いいわよ。何でも買ってあげるから、遠慮しないで」
「…………ほんと!?」
なんだかんだと現金な文月と違って、ヒナちゃんはしっかりと子供だ。
年齢相応の所作を眺めながら、可愛い子だなと頭を撫でる。心地よいのか、胸元にすとんと身体を預けてきた。
やがてバスは停車。
流石は基地関係者を初めとする日本人の大量移住に伴って造成された大規模商業施設というべきか、そこは日本語だらけの広告たちが踊る空間だった。
「あ! ココナッツジュース!」
バスを降りた彼女が目を輝かせる。
膨れ面をしたと思えば喜びを湛え、お気に入りを見つけると頬を紅潮させる。コロコロと変わる表情は本当に気分屋さん。こんな子を護る為だったら、いくらでも命を賭けられよう。厄介な上司の娘とて、人の子である事に変わりはない。
こんな私に母親代わりは務まるのだろうかとずっと考えていた。提督さんが自嘲していたように、私だって親の愛を知らない。それでも、この子の為に何かしてあげたい。そんな想いは確かに私の心に灯ったのだ。
「――って、こら! ヒナちゃん走ったら危ないでしょ!」
「瑞鶴さんも走ってるじゃん」
後ろから聞こえるツッコミはひとまず無視。駆け出していく彼女の首根っこを慌てて捕まえながら、私はショッピングモールに滑り込む。
オカルトに片足を突っ込んでいそうな深海棲艦に対して艦娘がオカルトじみた力で戦うように、子供と戦うには子供と同じレベルで戦う必要がある。
だからこれは、しかたないのだ。
「はい、これも持って」
「うへぇ重い。いつからボクら荷物持ちになったのさぁ」
「全然重くないでしょ……私はヒナちゃんをみないといけないから、両手を空けときたいのよ」
「お~ぼ~だ~」
「はいはい。何が欲しいの?」
「えーとね……」
それからの時間はあっという間。
年頃の女の子が買うような化粧品や、家電とは言わないまでもあれば便利なグッズ類。
それらが積み重なってしまえば紙袋に詰め込んでも両手じゃ足りなくなってしまう。
随伴の駆逐艦をお菓子で追加買収しながら次の店へと進もうとした頃、彼女に服の袖を引かれる。
「……」
「ん? クレープ屋さん?」
そこには出店のような幌を突き出した営業車。ご丁寧に椅子やテーブルまで用意して、私たちを手ぐすね引いて待ち構えている。
「どれが欲しい?」
眼とは口よりも雄弁にモノを語る。ヒナちゃんが指差したメニューと目線が異なってるのをみて、私は躊躇いなく目線の先の商品を注文。
にっこり頷いた店主がクリーム色の生地を鉄板の上に載せれば、牛乳と卵の香りが漂い始める。
本土のそれと同じ香りは、この南の島に作られた
「いただきまーす」
柔らかな生地に包まれたアイスクリン。
今にも熱気で溶け出しそうなそれにヒナちゃんがかぶりつけば、破れた切れ目からこぼれ落ちて口だか手だかをベタベタにしてしまう。それを慌てて紙ナプキンで拭った私にお礼を言いながら、彼女はどこか申し訳なさそうな顔をする。
「高かったでしょ? お姉さん」
この手の出店がやけに高いのは常識。
それでも、子供にとって千円弱という価格はなかなかの大金である。
それが彼女に遠慮させていたことは、もちろん私だって気付いている。
「いいのいいの。貴女のお父さんから、好きに使ってってたっぷり軍資金貰ったんだから」
ぐんしきん? そう首を傾けた彼女。お金の事よと言うと、また何かと考え込む。
こうした日々の会話で彼女の語彙力が拡張されていくのだろうかとしみじみ思いながら待つと、彼女は予想だにしない言葉を繰り出してきた。
「やっぱり……お金を貰うから、お姉さんはあいじんなんだ」
「ケホッ、はなにぎゃくりゅうした」
噴き出す音とともに、目頭を抑えて鼻を傾ける皐月。提督さんに遠慮したのか、奢った価格の安い炭酸ドリンクがここにきて悪手となってしまったよう。
しかしそれにしても、あいじん、愛人ときたか。
一体、この娘はどこでこんな言葉を覚えて来るのだろう。お父さんがお金を上げる相手は愛人。おませにしても程がある。
「あー。愛人じゃないわよ。元々私だって、提督さんと仲が良い訳じゃないし」
「お父さんとなかよしじゃないのに来てくれるの?」
「別に、仲が悪いわけじゃないのよ」
「じゃあ、なかよしなの?」
私と提督さんの関係とは、本当に何なのだろう。
書類上では、第3分遣隊の司令と副司令。
提督さんは分遣隊の作戦を立案し――――本来なら司令部幕僚の仕事だが、まさか自衛隊にそんな人員的余裕があるはずもない――――私はその実行者。
いや、本当は副司令は司令の補佐役なのだけれど……杓子定規に行えないのが最前線、副司令といえど艦娘なら容赦なく戦場に立たされるのが人材不足の自衛隊である。
既に教本通りの関係ではなく、後方の総指揮官と現場指揮官の関係と言った方がいいだろう。
いや、それすらも正しいのかは怪しいものだ。
提督さんが私の頭越しに直接指揮を執ることだってあるだろう。いくらなんでも作戦立案から実行まで全部提督さんに任せることは出来ないので私も作戦立案に関わることになる。
執務室で互いの意見が対立すればいがみ合いになるし、かと思えば空自や陸自、本省との折衝で共同戦線を張ったりもする。
……尤も、ヒナちゃんが聞きたいのはそんなことではないのだろうが。
「だってなかよしじゃなかったら、ごはん作りにはこないよね?」
「それは、だって。提督さんが料理できないから」
一応、提督さんの料理スキルは人並ではあると思う。
とはいえ栄養バランスなど微塵にも考えていないだろうから、
インスタント食品は悪で家庭の味が正義とまでは言わないが、出来合の食品が濃い味付けであることと糖質・脂質の過剰摂取が美容に悪いのは事実だ。
「なんで? スーパーのおかずおいしいよ?」
「まあ、それはそうなんだけれど……」
いや、私だって分かってはいるのだ。
食生活が偏るからと言い訳しての夕食作りと朝食の作り置き、掃除に洗濯それどころかヒナちゃんの勉強の手伝い。
どう考えても単なる部下と上司の関係ではない。
着任して半年にも満たない筈の私が、どうしてか押しかけ女房みたいな真似事をして、あげくに娘の面倒を押し付けられている。これではただの家族ごっこではないか。
「提督さんにとって、私は体のいい家政婦なのよ」
家族だなんて。浮かんだ関係を否定しようと、言葉だけが先に飛び出してしまう。しかし選んだ言葉が難しかったようで、ヒナちゃんは首を傾げる。
「かせいふ?」
お金を貰って炊事や洗濯、部屋の掃除をやってくれるヒトの事よと説明する私。少し慌てていた私は、その言葉を彼女がどう受け取るかまでは考えていなかった。
「……それなら、あいじんと同じだよ」
「え?」
「だって、お金をもらうんでしょ? お姉さん、ぐんしきんって言ってたよ」
「いや、軍資金というのは必要経費のことで……」
違う、そんな些細な違いの話をしている訳じゃない。
さっきの遠慮したヒナちゃんを見れば分かる。彼女の中でお金の価値は絶対。
いきなり180億円の価値を説き始めた提督さんがそうであるように、彼女にとってもお金は「何でも買える魔法のアイテム」なのだ。
「でも愛人じゃないの。私にはそんな価値すらないんだから」
自嘲気味に呟いた私の顔は自然と下がる。ヒナちゃんは無垢な瞳でこちらを見上げる。
「じゃあ、あいじんじゃないおねえさんはだぁれ?」
「只のお姉さんで良いわよ。母親って柄じゃないし」
ヒナちゃんの方が圧倒的に大人ではないか。
感情のコントロールに戸惑う私の方が子供だった。
しかし、私はあくまで境界線を引かねばならない。血が繋がっていないが故に、立ち入ってはいけない領域があると。
「でもこれだけは分かる。貴女のお父さんは……絶対に貴女を愛してる。間違いなく提督さんの子供よ。私が保証してあげる」
「ほんとう?」
「えぇ、頑固な所もそっくり」
頑なに譲らないのも同じだ。追い込まれるまで誰かに頼らないのも一緒だ。
だから、似た者同士。だからこそ私は、提督さんやヒナちゃんの間に割っては入れない。
「でも私にはお母さんがいないんだよ? だからお父さんは、お姉さんにお願いするでしょ? ヒナが好きだからお父さんがお金をあげて、お母さんの代わりをしてもらうんだよね?」
彼女の言う事が、ほとんど間違っていないのが苦々しい。表情を曇らせるヒナちゃん。眼に浮かぶのは初めて出会った夜と同じ拒絶――――――不味い、自分から地雷を踏んだ。
「お母さんの代わりがいなくても、わたしはだいじょうぶです」
お父さんと仲良くするヒト、家の家事全般をやってくれるヒト。
それが母を持たない少女が様々な情報から紡ぎ出した「お母さん」であり、彼女にとっては愛人も家政婦も、不完全でかつ「お金を払ってまで」手に入れる代替品。幼子の直感は、あまりに鋭すぎる。
その思考の組み立て方が、何処か彼のロジカルシンキングと似ていて――不意に、姉の言葉を思い出した。状況には不釣り合いに光明が差す。何だ、簡単な事じゃないか。
『あなたのことは私が守るわ』
それは姉の
姉は学業やアルバイトで時間がなくても、料理は自分で作ると言って憚らなかった。
私が作ると言えば、側に立って手取り足取り作り方を伝授してくれた。
もちろん私だって、それが「継承」であることくらいは気付いていた。
姉は母親の味を喪いたくなかったのだ。
母から教わった作り方、味付けのコツ、味見の仕方に至るまで、その料理を喪いたくはなかったのだ。
もしも私がカップラーメンのゴミを流しに積み上げたとしたら、きっと姉は私に手をあげたことだろう。それほどに姉は「家庭の味」を守ることに固執していた。
そして恐らく私も、執着している。
嗚呼――――――これでは私は、結局姉の繰り返しではないか。
「えっと、怒らないで聞いてくれる?」
その言葉に、小さく頷いてくれたのは幸い。しかし何と説明したものだろうか。もはや家政婦や愛人の説明は求められていない。彼女が私に問うているのは他でもない私のこと。
「ヒナちゃんのことね、放っておけないんだ」
姉に感謝していないわけじゃない。
「私もね、家族と二人きりで暮らしていたことがあって」
それどころか、申し訳ないとすら思っている。
「少し似てるんだ。昔の私と、ヒナちゃんが」
「お姉さんとわたしが、にてるの?」
姉は私を守ってくれていたのだろう。それなのに、私は姉を傷つけてしまった。
「うん、似てるよ」
なのにいまさら、姉の気持ちが手に取るように分かる。
きっと姉は、自分自身の影を私に重ねていたのだ。今の私がヒナちゃんに重ねているように、声にならない悲鳴をあげているのだと思い込んでしまったのだ。
固く結んだ唇、怯えと寂しさが満ちた瞳、それでも強く握りしめられる小さな拳。
それは姉にとっての守るべき自分自身であり、そして私が今、他人でなければならないヒナちゃんに感じていること。
「ごめんね。これは私のワガママなの」
片親である事に同情して、ここまで深く関わってしまった。
これでは、傷を抉る為に手を貸したと言われてもしょうがない。
だが、それでも関わろうと――――この親子の為にありたいと思ったのは嘘偽りはない。
今、この子を抱きしめられたらどんなに幸せだろう。
あなたは独りじゃないのだと、私が守ってあげると言えたのならどんなに
でもそれは出来ない。絶対に許されない。
だって、それは結局のところ過去の
そしてそもそも、私はこの子になんの責任も持てない。ヒナちゃんは提督さんの子供でしかなくて、私の過去を清算するための道具ではない。
きっとヒナちゃんは嫌がるだろう。血の繋がった姉ですら私は嫌悪を覚えたのだ、文字通りの赤の他人からこんなこと言われて、よく思うはずがない。
「……」
包み紙にくるまれたスイーツを食べるのも忘れて、ヒナちゃんは私のことをじっと見つめている。
彼女には果たして何が見えているのだろう。
昔の私なら何を見たのだろう。
答えのない問いを静かに繰り返していると、やがて彼女は口を開く。
「お姉さんはわたしのこと、好きなの?」
「へ?」
「だって。お姉さんはあいじんでもかせいふでもないんでしょ。それでご飯を作ってくれるのはワガママなんでしょ」
それで好きという結論になるのか。いや、それで好きと認めて良いものだろうか。
「……まあ、小さな妹みたいには思ってるわよ」
「妹? わたしはお姉さんの妹じゃないよ?」
「だから、家族みたいなものよ」
最初の主張とはずれるが、守ってあげたいという気持ちに嘘はない。
だから問題はないことにする。実際、今の私とヒナちゃんの関係を表すのに、家族ということばは適切だった。
「じゃあ。お姉さんが、お母さんになるってこと?」
「ぐぼふぁッ!」
またしても皐月にクリティカルヒット。
今度は振りかぶって盛大に頭をぶつけて痛みに悶絶。とりあえずこの子に語彙を与えた不届き者を、いつか見つけ出して裁く事が決定した。
「おかーさんだって、瑞鶴さん」
「いたたっ。お母さんって言うより、ご意見番みたいなイメージだなぁ……」
「そこの二人っ、聞こえてるからね! 別に私は提督さんの事なんかッ!」
「「嫌いじゃないんでしょ?」」
見事にユニゾンして何処吹く風な文月と、虫の息の皐月。
姉妹艦故か息もピッタリな挟撃に、私は白旗を揚げた。
「そうっ、だけどさぁ……」
「お似合いで夫婦みたいだよー。二人と司令官ー」
「やっぱりお姉さんがお母さん?」
「ヒナちゃん信じちゃダメっ! こっ、言葉の綾って奴よ。私と提督さんはそんな関係じゃ」
慌てて否定に入ったのを彼女は興味津々と言った風に続ける。
「あやってなぁに? 綾取り?」
「そっ、そうよ。言葉の使い方って意味よ!」
大分間違った知識になりそうだが、彼女のお姉さんをするからには後に引けない。プライドだって多少はある。
しかし、親子扱いを否定するにはまったく意味を為さない文の羅列だ。聡いヒナちゃんはもちろん気付くだろう。
それはまさしく言葉の使い方。私が厚意ではなく、好意を提督さんに向け始めていた。
「この親子には本当に敵わないわね……」
私は照れ隠しにジュースをすする。
その時。