舞い降りし軍艦鳥   作:帝都造営

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第99話 大海原にてクリエイト

 私や秋雲がネタ出しに苦労しても、休暇申請について頭を悩ませても、それこそ段々と締め切りが迫ってきたとしても……訓練の日々は続く。

 

《こちら『きんもくせい』、貴艦を補足した》

 

 哨戒艦『きんもくせい』の無線がそう伝えてくる。今日の訓練は誘導装置を使わない手動(マニユアル)操作による接舷訓練。今の『きんもくせい』には乗員が乗っているけれど、人材不足の国防軍では哨戒艦の大半は無人化されていて、今日も無人艦艇への接舷を想定した訓練ということになっていた。

 

《夕雲、収容経路に突入します!》

 

 照りつける太陽に焼かれた艤装備え付けの無線機はそれでも異常なく訓練の様子を伝えてきていた。

 

「暇だねぇ」

 

 私の隣で、秋雲がそんなことを言う。

 

「念のため言うけれど、私たち任務中だからね」

「分かってる分かってる」

 

 本当に分かってるんだろうか。スケッチブックと鉛筆を持ったまま言われても説得力はないわけで。

 もっとも、真面目に双眼鏡を振り回す私も何かを見つけられたわけではない。敵が見つからなければ主砲に出番はないし、機関を吹かすこともない。

 

《距離100。夕雲、もう少し速度を落とせ》

《了解》

 

 訓練は本番のように、そして本番を訓練のように、そんなことを言ったのは誰だったろうか。無線の誘導を受けた夕雲さんが私たちの乗る『きんもくせい』へと迫ってくる。

 その背景にはどこまでも続く空と海。私はクリップボードに止められた紙をひっくり返した。

 

「んー? 風雲もサボっちゃうの?」

 

 スケッチブックを持った秋雲が茶化してくるが、構わず小道具入れから鉛筆を取り出す。

 

「ねぇ秋雲」

 

 私が声をかけても、秋雲は何も言わずに大事そうに抱えたスケッチブックに鉛筆を走らせるだけ。拒絶でないことをいいことに、私は話を続けることにする。

 

「秋雲はさ、どうして漫画を描くの?」

 

 多分きっと、答えは直ぐには帰ってこないのだろう。私はそれが分かっているから、紙の上に一本の線を引く。なんの線かも分からないソレ。ふと既視感を思えた私は、それが水平線であることに気付いた。

 秋雲と共犯関係(ギソウレンアイ)をして、分かったことがある。それは当たり前のことで、でも不思議と分からないこと。

 一本の線に、波が増えていく。何もない白紙に波浪が浮かび上がり、それが延々と広がっていく。

 私が何十個目かの波を描いたとき、秋雲はようやく口を開いた。それは長い時間を掛けて産み出した、会心の一本のようで……それでいて、子供が描いたみたいな、ぐちゃぐちゃの線でもあった。

 

「描きたいから、かな」

 

 鉛筆を握る手が、止まってしまった。秋雲は手を止めずに描き続けていて、なんだか負けたくなくて、私は手を動かしながら言葉を紡ぐ。

 

「そうだよね。秋雲なら、そう言うよね」

 

 そして、オータムクラウド先生もそう言うのだろう。オークラ先生は秋雲がこの世界に生み出した架空の存在だけれど、確かに『描く』を生業とする人物として電子の世界に息づいている。その意味じゃ、私たちとの違いはないのかも知れない。

 私が押し黙ったのをどう見たのか、秋雲は言う。

 

「逆に聞くけどさ。風雲はなんで絵を描いてるの?」

「いや、それは秋雲に描かされてるからでしょ」

 

 私は絵を描くのを止めたのだ。今は実務上の都合でやっているだけで。漫画を描くことにしておいた方が秋雲や巻雲との会話が弾むからそうしているだけで。

 

「でもさ。風雲は今、鉛筆を持ってる」

 

 私が視線を落とせば、そこにはクリップボードと鉛筆。そこに引かれた水平線の下半分はすっかり波で埋まってしまっている。

 

「これは、特に意味はないわよ。強いて言えば……」

 

 強いて言えば、強いて言えばなんなのだろう。

 

「……役作り、かな。恋人の」

 

 捻り出した言葉は随分と強引で。それでも何か可笑しかったのか、秋雲は笑ってくれた。

 

「別に恋人だからって絵を描かなくてもいいのに」

「でも共犯者(アシスタント)には必要でしょ」

「そうね、確かにその通り……じゃあ質問を変えて」

 

 秋雲は言葉を探すように鉛筆を回す。その先端が私を向いて、秋雲は言う。いきなり、ざっくりと。

 

「風雲は、なんで描くのを止めたの?」

「……そこ、聞いちゃう?」

 

 秋雲は遠慮なく続ける。

 

「だって、描き始めた理由なんて安直なものばっかりじゃん。遊び相手がいなかった、手頃な遊び道具がなかった……始まりなんてどうでもいいでしょ」

 

 だって大事なのは、描き続ける理由だもの。秋雲はそう言う。秋雲は、本当に遠慮がない。だけれど。

 

「描くのを止めたのは国防軍に入ったから、かな」

「それだけ?」

 

 秋雲が聞く。就職は創作を止める理由にはならないとでも言うのだろうか。そんなことはないだろう。

 

「多分、それだけ。私これでも、学生の頃は漫研に所属してたんだよ? でも軍人はそうはいかない」

「でも私は描いてるよ? こうやって今でも」

「それは……だってそれは、秋雲にはあるんでしょ」

 

 描き続ける理由が。私の消え入りそうな言葉を拾って秋雲は首肯。だから私は困るしかない。

 

「なんで、なんで止めたんだろう」

 

 なにせ困ったことに。私には、絵を描くことを止めた理由が見つからないのだ。国防軍人たるものが創作活動にうつつを抜かしてはならないから? 単純に時間がないから? それともショートランドが僻地過ぎて、画材を買うことすらままならないから?

 多分どれも違う。どれも正解だけれど、それはきっと『言い訳』としての正解なのだろう。なにせ目の前には仕事と折り合いをつけて、僅かな時間を見つけて、そして僻地なりにちゃんと機材を揃えて活動している実例(あきぐも)がいるのだ。私の理由は言い訳でしかない。

 だったら……私は。

 

「多分……初めから描く理由がなかったんだよ」

 

 秋雲は、なにも返して来ない。何を言われるか怖くてしょうがなくて、気を紛らわせようと私は鉛筆を走らせる。水平線の下半分を描き足しても不格好な海が出来上がるだけだろう。私は上半分に取り掛かる。

 雲って言うのは、意外と描くのが難しい。海には息づかいがあって、それを汲み取ってあげればいい。海をよく知る艦娘(わたし)にはそれが出来る。でも空はどうだろう。私にとっての空は、ずっと憧れの場所。

 

「そっか……雲だ」

 

 昔、なんで絵を描き始めたのか。

 私が自分の意思で絵を描いたのは、何故なのか。

 その答えは、空にあった。

 なんで忘れていたんだろう。大切なことなのに。

 

「昔……私の絵を見てくれる人が居たんだよね」

 

 秋雲はなにも言わない。同意もしてくれないけれど、茶化してくることもない。

 

「上手だねって褒めてくれて、それで……少しでも上手くなりたいって思ったの」

 

 それは本当に昔の話。私の、漁業くらいしか取り柄のない故郷での話。お爺ちゃんお婆ちゃん達はみんな優しかったけれど、優しいだけで。どんなことを話しても、どんな絵を描いても「すごいね」としか言ってくれなくて。でも、あの人は違ったから。

 

「それでさ。あの人が空を描いてくれって言ったんだよね。私の空を描いて欲しいって」

 

 私は、空を描くことが出来なかった。雲には輪郭が存在しない。掴もうとしても掴めない。だから私は、空を描くことが出来なかった。

 

「だから私は、空が描きたかったんだと思う」

 

 私の鉛筆は、確かに紙の上を走っている。さらりさらりと軽いタッチで、走って行く。境界線の存在しない空にゆっくりと雲が浮かび上がる。

 でも、それは多分、空を飛んでいる訳じゃない。紙に貼り付けられた雲を、誰が雲と呼ぶのだろう。

 

「それで、雲は描けたの?」

「描けなかったから、絵を描かなくなったんだよ」

 

 私は結局、雲を、あの人の空を描くことは出来なかった。だから私は絵を描かなくなったのだ。描き続ける理由がなくなってしまったから、止めたのだ。

 

「じゃあさ、風雲は空しか描いてこなかったの?」

 

 秋雲が、私にそんなことを聞いてくる。

 

「……それは」

 

 それは、違う。だって、空しか描いてこなかったのなら私がオータムクラウド先生と出会う事はなかったし、ましてや先生の原稿を手伝ったりはしない。

 おかしいな。昔はもっと楽しく描けたはずなのに。秋雲に散々ネタにされた特撮風漫画だけじゃない、他にも色んなイラストや漫画を描いていたはずなのに。

 いつの間に、描き方を忘れてしまったのだろう。

 

「私……惰性で描いてきたのかもしれない」

 

 だって、空が描けないことくらい、ずっと昔に気付いていたハズなのに。それなのにどうしてこんなに長く続けてしまったのか分からなくて。 

 それは問いだったのか。それとも自嘲だったのか。

 ところが秋雲は小さく息を吐くと、それからくつくつと笑う。人が本気で悩んでいるのに。

 

「笑わないでよ」

「笑うよ。だって、惰性で進む船はいつか止まるよ。進むためには機関(エンジン)を動かし続けなきゃ」

「動いてないから、止まったんだよ」

 

 私はそう反論する。だけれど秋雲は、違うと言わんばかりに私のクリップボードを取り上げた。

 

「惰性で描くヒトは、こんな絵は描かないと思うな」

 

 そこには、水平線があった。水平線に区切られて、空と海が広がっていく。私の空はペンキで塗ったような空。私の海はビーズを敷き詰めたような海。

 私が描きたいのは、こんな景色じゃない。

 

「これは秋雲サンの私見(かつて)だけどさ。風雲は描く理由、探してるんだと思うよ」

 

 秋雲のそれは、指摘のフリをした希望論。 

 

「描く理由なんて、もうどこにも残ってないよ」

「でも風雲はこれを描いた。どうして描いたの」

 

 反論する私は、近況報告のつもりの悲観論。

 

「理由なんてないよ。だってこれは、惰性だから」

 

 秋雲はちょっと困った表情をして、それから私にクリップボードを返してくる。

 それはあまりに未完成な、モノクロ模様。

 ああ、私は結局、まだ空を描きたがっているんだ。

 

「正直な所さ」

 

 秋雲が私の隣で言う。

 

「秋雲サンとしては風雲がオークラ先生の修羅場を救ってくれる救世主(アシスタント)であれば文句はないワケでさ」

 

 そんな予防線(まえおき)を張りながらも私に寄り添ってくれる秋雲は、きっと優しくて。とっても優しくて。

 

「だから秋雲サンは相談相手にはなれないよ? でも……描いてれば、見つかると思うんだよね」

 

 そんな真っ直ぐな貴女が、私は羨ましくて。

 

「なんていうかさ。創作に崇高な意味を見いだすのは簡単だと思うんだよ。文化発展だとか、豊かな生活だとか。多分そう言うのは簡単で……こう、安っぽい」

 

 秋雲はそんなことを言いながら鉛筆を止めようとはしない。それはきっと「安っぽい」の証明で。

 

「秋雲は、いいな」

「なんで?」

 

 秋雲はきっと知らないのだろう。安っぽいことも、以外と高値が付いていたりすることを。

 

「そんな安っぽいことを言って、それから本題に入れるのって、見て貰ってるヒトの特権だよ」

 

 オータムクラウド先生は、有名人だ。そりゃ政治家やテレビの人気司会者には勝てないだろうけれど、私の趣味領域では誰もが知っている有名人だ。

 私なんかとは違って、皆に見て貰える。

 だからきっと、この後に続く言葉は「閲覧数は問題じゃない」とか「大事なのは描いてて楽しいか」とかいう何処かで聞いた言葉であるはずで……。

 それなのに、秋雲は言うのだ。

 

「私は、見てるよ」

 

 その言葉だけで、全部見透された気がして。

 私は固まるしかなかった。秋雲は鉛筆を動かしてなんかいなくて、私をしっかり見据えていて。

 いいな。秋雲は。本当に真っ直ぐだ。

 

「そんなこと……ニセモノの恋人に言われてもなぁ」

 

 だから私は、逃げるしかない。さっきの秋雲と同じように逃げてみる。すると秋雲は、大事そうに抱えていたスケッチブックを私に押しつけた。

 開かれたページ、そこには風雲(わたし)

 

「どう? 似てるでしょ」

 

 私が、クリップボード片手に空を見ていた。澄み渡る空と、哨戒艦の甲板、そして海。スケッチブックの中の私は何処までも遠くを見ている。クリップボードには何も描かれていないけれど、きっとこれから素晴らしい景色が現れるのだろう。

 

似てないよ(じようずだね)

 

 ハッキリ伝えられたら、どれほど良かっただろう。秋雲はにんまりと満足げに笑って、それから踵を返して艦内へと戻って行ってしまう。

 

「あれっ、ちょっと秋雲。スケッチブックは?」

 

 大切な道具じゃないのだろうか。呼び止める私に、秋雲は振り返りもせず片手だけで答える。

 

「その隣のページに、風雲(あんた)にとっての秋雲サンを描いといてね! 恋人同士の約束だぞお?」

 

 呼び止める間もなく秋雲は扉を開けて艦内に入っていってしまう。残されたのは、くすんだ再生紙に描かれた中途半端な風景画と、きらきら輝く風雲(わたし)虚像(スケツチ)

 

「ほんと……ズルイよ、秋雲は」

 

 その言葉は、きっと誰にも届かないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 せめて、風景画だけでも完成させよう。そう思う頃には空は随分と表情を変えていて。

 

「あら、なにを描いているのかしら?」

 

 そんな声が掛けられたのは、丁度私が双眼鏡の相手に戻ろうかと思って鉛筆を置いた時だった。

 

「夕雲さん……あんまりに暇だったので、手慰みに」

「ふうん。見てもいいかしら?」

 

 ちょっと覗き込めば簡単に見られるだろうに、許可を取ってくれる夕雲さんはやっぱり優しい。私はもちろんですと了承して、クリップボードを渡す。

 それを眺めるようにして、夕雲さんは黙り込む。素敵な絵という安直な答えがこないだけ有り難かった。

 

「ありがとう」

 

 それだけ言って、夕雲さんは私にクリップボードを返してくる。「どうでしたか」と聞けば「上手ね」と返されることは分かっていて、そんな茶番(かいわ)はしたくないのに、私は「上手ね」と言われたくて。

 そんなことを言ってしまわぬよう。言葉を紡ぐ。

 

「夕雲さん」

 

 無言で次の言葉を待つ夕雲さん。こんなことを言ってもいいのだろうか。咎めたのは良心か自尊心か。

 でも多分、聞かなければ始まらないのだ。

 

「私、描きたいものが見つからないんです」

 

 描いていれば見つかるだなんて、そんなことを秋雲は言う、そんなものは絵に描いた餅で、続けることの大変さは秋雲が百も承知のハズで。

 それとも、それすらも知らずに言ったのだろうか。秋雲は『描きたい』って想いだけで勝手に描くことが出来て、私もそうに違いないからと無責任に言ったのだろうか。だとしたら本当に……秋雲はズルイ。

 夕雲さんは私の言葉をどう受け取ったのだろう。失礼するわねと私の隣に座ると、ゆっくり切り出す。

 

「……それは、秋雲さんと漫画を描いてるっていう話のことかしら?」

「まあ、そういうことになりますね」

 

 描きたいものが見つからない、だなんて。事情を知りもしない他人に聞くことじゃないだろう。そんなことは分かっている。でも夕雲さんは優しいから。答えてくれるだろうなんて、それは私の甘えで。

 そして夕雲さんは、それに応えてくれた。

 

「ねぇ風雲さん……風雲さんは、昔から絵を?」

「ええ、まあ一応は」

 

 描きたいものを描けばいい。なにを描くために描いているのか。昔と今は違くて、難しい。

 

「それじゃあ、風雲さんは秋雲さんに勝ちたいの?」

「勝ち負けとか、そういうのじゃないんです」

 

 そう否定して、それから分からなくなる。じゃあ私はどうしたいのだろう。秋雲のスケッチブックの中の私は輝いている。それは秋雲みたいで。

 

「私はきっと、秋雲みたいになりたいんです」

 

 秋雲みたいに、無邪気に、真っ直ぐに。どこまでも空を向いていられたらどれほど素敵だろう。

 私は夕雲さんにスケッチブックを差し出す。

 

「あら。風雲さんね」

 

 夕雲さんまでそんなことを言う。私は首を振った。

 

「いえ、秋雲の風雲です」

 

 端から聞けば、なにを言っているんだと言われるかもしれない。それでもこれは「秋雲の」なのだ。

 スケッチブックの中に描かれた虚像(わたし)は空を眺めている。無邪気に、真っ直ぐに。秋雲のそれと同じ。

 

「そうね。そうかも知れないわ。でもね風雲さん」

 

 夕雲さんの同意は、形だけの同意かもしれない。顔を沈める私に、夕雲さんは言った。

 

「人間っていうのは、そう言うモノじゃないかしら。だって人間(ヒト)を決めるのは結局周りの人間(ヒト)じゃない?」

 

 ここに居るのは、確かに秋雲さんにとっての風雲さんなのよ。夕雲さんがそう言う。

 秋雲には、今の私がそう見えているのだろうか。

 だったら余計に、私は約束を果たせそうにない。

 

「……実は。この隣に、風雲(わたし)にとっての秋雲を描けって言われちゃって。それで私は……」

 

 せめて、秋雲と同じ場所に立てたのなら。そうすれば私にも見えるだろうか。澄み渡る空を眺める秋雲のことが見えるのだろうか。そう思ったのだ。

 そんな理由で作品を描こうとしている私に、果たして描ける物なんてあるのだろうか。

 

「風雲さんは、なにかを描きたいのね?」

「でも、私には描きたいものなんて……」

 

 その言葉は、多分嘘だろう。私はクリップボードの風景画に満足できていない。もっと書き直したい。良い絵を描きたいって、そう願っている。

 だから私は、描きたいものがないんじゃない。

 

「いえ、私には、描けるモノがないんです。描けるような物語が、見つからないんです」

「そんなことはないわよ」

 

 なんで、夕雲さんがそんなことを言えるのか。文句を言おうと顔を上げた私に、夕雲さんは微笑む。

 

「だって、ヒトは誰しも物語を持っているもの」

「なんですかそれ、詩人(ポエム)ですか?」

 

 私の突っ込みに、ふふと笑う夕雲さん。

 

「どちらかというと哲学かしらね」

 

 そう言いながら夕雲さんは私から眼を逸らす。注ぐ先は水平線。秋雲の眺めていた世界。

 

「私ね、歴史が好きなの。歴史書は壮大な物語だわ。昔の人達が紡いだ物語が集まって出来ていて、同じ時場所でも語り手によって美談にも悲劇にもなる」

 

 私は無言で頷く。確かにそうだ。ヒトには皆それぞれの考えがあって、一つの出来事も立場によってガラリと印象が変わってしまう。

 

歴史(ものがたり)の登場人物一人一人にだって歴史があるわ。どこで産まれて、どんなモノを見て育ち、そして何を為すのか……それは物語といって差し支えのないものじゃないかしら」

 

 夕雲さんには、そう思わせるだけの歴史があるのだろう。それはきっと秋雲にもあって……私にもあるのだろうか。確信が持てない私は話を逸らすしかない。

 

「そうは言われても、スケールが大きすぎて」

「そうね……これは漫画じゃないから参考になるかわ分からないけれど。私小説なんてどうかしら」

「私小説?」

 

 脳裏に何人かの文豪が蘇る。作家の半生を書き写したような作品の数々が浮かぶ。夕雲さんは続けた。

 

「自分の歴史(じんせい)の恥ずかしいこと、自分の歴史(れきし)で悔しかったこと。それとも世間の常識(れきし)でやりきれないこと。それを吐き出したもの……」

 

 そういったものも、立派な物語になると思うのだけれど。夕雲さんの言葉を額面通りに受け取れば、彼女は私に自分の半生を描けと言っているのだろう。

 

「でも、私はそんな大層な人生は」

「あら。私はそうは思わないけれど、密告者サン?」

「……」

 

 押し黙った私に、ごめんなさいねと夕雲さん。

 

「それこそ……そう、暴露本なんてどう?」

 

 

 

『だから、いつか過ちを認めて謝ってくるって?』

 

 

 

 あの日の秋雲がよみがえる。私たちの共犯関係(ギソウレンアイ)が始まった、あの日の秋雲が言う。

 

『アンタの代わりを見つけて、それでアンタのことなんてキレイさっぱり忘れるでしょ』

「そんな、別に私はそんなことがしたいわけじゃ」

「私これでも、結構7護群(あのけん)には怒ってるのよ?」

 

 夕雲さんは、いざとなれば手伝うからと言わんばかりの調子で。そんな自分勝手なと私は呆れる。

 

「ええ。だからこれは私の自己満足」

 

 ……その言葉には、聞き覚えがあって。

 

「夕雲さん。もしかして秋雲に根回しされました?」

「さて。どうかしら?」

 

 

 

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