「ん……んぅ…………?」
無意識に閉じていた瞼を開く。
気付かないうちに眠ってしまっていたようだ。
ひとつ伸びをして、眠気を覚ます。
いけない...今朝までに作っておかなければならない資料がある。
寝ている場合ではない。
早く取り掛からないと……って、あれ?
「ここ、どこ……?」
目の前に慣れ親しんだ机と愛用のノートPCはなく、代わりに見渡す限り一面の芝生が広がっていた。
空を見上げると、満天の星空に煌々と輝く月。
辺りに灯りの類はないが、視界に不自由しない程度には明るく感じられた。
先に述べたように、私は今朝までに頼まれた資料を仕上げる為、一人トレーナー室で徹夜作業に励んでいたはず。
それが何故、こんな見覚えのない大自然に放り出されているのだろう。
「うーん……まぁ、折角だし少し散歩でもしようかな」
このままここで考えを巡らせていても何も始まらない気がした。
状況を呑み込めず、記憶もあいまい。
であれば、とりあえず周りを探索してみるのはひとつの手だ。
状況把握は大事だし、何か脱出の手立てが見つかるかもしれない。思考をまとめるのに時間も必要だろう。
なにより、こんな広い自然に囲まれた中、散歩しないのはもったいない。
そう結論付け、私は芝生の上を歩き始めた。
「ふむ……」
歩きながら、何かを思い出せないか考える。
……状況が呑み込めないと先ほどは考えていたが、少し落ち着いて考え始めると、ある一つの可能性が頭に浮かぶ。
その仮説を基に、記憶をほじくり返す。
確か私は、トレーナー室で資料を作っていて……。
――――そう、突然何か目の前をよぎった。その瞬間、身体の力が抜けていく感覚がした。
……薄れゆく意識の中で、誰かの声を聞いた気がする。酷く切羽詰まった様子の、聞きなじみのある声。
あの声は――――カフェさんだ。
――――マンハッタンカフェ。私が担当しているウマ娘だ。
彼女は度々、私の事を『何か』から守ってくれる。怪異……と呼んで良いのか、得体の知れない『何か』から。
――――普段から大人しく、感情を大きく表に出すことが少ない、そんな彼女が慌てるような事態が、あの時起こった。
そして、今私が置かれているこの状況。
先刻立てた仮説が、より強固な確信へと変わっていく。
……恐らく、ここは――――。
「……ん?」
考え事をしながら歩いていると、ふいに遠くに見慣れた光景が広がっているのを見つけた。
――所謂コース。ウマ娘達がトレーニングやレースを行う、そんな至って普通の芝コースだ。
しかし、ただの芝生しかなかったこの世界では、初めて見つけた、ある意味で特異なもの。よく確認するべきだろう。
そんなことを考え、そこへ向かって歩く。
改めて近くで確認しても、見慣れたよくあるコースだった。
――――と、見つけたはいいが、だからどうという事もない。
うーん、これからどうしようか……。
そんなことを考えていると――――。
「――――」
すぐ近くに何か気配を感じた。
気配の方へ振り向くと、そこには一人のウマ娘が立っていた。
――――パッと見、中等部にもギリギリいかないくらいだろうか。
まだ子供と言って差し支えない、そんな少女だった。
「……こん、にちは?」
とりあえず挨拶をしてみたが……特に返答は帰ってこない。
「あなたが私をここへ連れてきたのですか?」
そう聞くと、彼女は小さく頷いた。
この子が私をここに連れてきた。
――――要するに彼女が、私を現実世界からこの不思議空間へと拉致した張本人という事になる。
ここは、いわゆる現世ではない、という私の仮説は恐らく合っていたようだ。
――――ここは彼女の世界。
彼女は何か理由があって、私をこの世界に引きずり込んだ、という事だろう。
となると、彼女の願望を探る必要がある。
これまでの経験から推測するに、恐らく彼女は、私に何かして欲しいことがあって、私をここまで連れてきた。
それならお望み通り、私が彼女の望みを叶えてあげようではないか。
そうすれば、満足した彼女は私を元の世界に帰してくれるだろう……多分。
そんな訳で、まずは彼女の願望を探り当てるところから始め…………いや、わざわざ探る必要もなく分かりそうな気もする。
一面に広がる芝に、このコース――――。
「――――走るの、好きですか?」
そんな私の問いに、彼女は躊躇いなく頷く。
「なら、もっと速く走れるようになりたいですか?」
彼女は更に大きく頷く。その目は期待に満ち溢れ、キラキラと輝いていた。
――――なるほど。私を連れてきたのも、そういう事だろう。
これから先は、ただの憶測。もし、彼女に『生前』があったのならば。
彼女は恐らく、トレーナーというものを持ったことがなかった。
走る事が大好きで、レースで1着を取る事を夢見ていた。
きっと、トレセン学園に来ることも考えていたのだろう。
しかし、その願いは叶うことなく――――もとい、始まる事すらなく、潰えてしまった。
――――まあこの憶測が合っていようがいなかろうが、彼女がそれを望む以上、今私がやるべきことは一つだ。
「分かりました! 今だけ、私はあなたの臨時トレーナーです」
そう言うと、彼女は目を輝かせながら、嬉しそうに笑った。
「――――――うん、今日はここまでにしましょうか」
そう声を掛け、トレーニングを切り上げる。
彼女とトレーニングを始めてから既に数時間。彼女は私の提示するかなり厳しめのメニューを懸命にこなしていた。
私自身もこの世界に慣れてきたし、やっていることは普段の指導と何ら変わらない。
やろうと思えばまだまだ続ける事はできるが、これ以上走らせるのは疲労による怪我の恐れがある。
…………そもそも彼女に疲労や怪我といった概念は存在するのだろうか、という気もするが。
まぁ、走り終えた彼女が息を切らしているように見える以上、やめておくべきだろう。
トレーニングを通じて、彼女について分かったことがある。
一言で言うと、要領が良い。
トレーニングを始めたばかりの時は、フォームなど考えておらず、ただ走りたいように走るだけ。
ある意味で子供らしい走り方をしていたのだが……。
正しいフォームを教えれば、ものの数回走っただけでほぼ完璧に身に着け、
ペースが落ちていることを指摘すれば、次の周回では目標タイムに近付けてくる。
言われたことを何でも卒なくこなせてしまうのだ。
はっきり言ってかなりの逸材だと言える。
子供故に体はまだ出来上がっていないが、鍛えれば重賞勝利もあり得ただろう。
いや、或いは三冠を取る事さえも…………。
「――――ままならないですね……」
思わず呟いた。
彼女がこちらを向く。
「……あなたの才能は、本物だと思います。そして、厳しいトレーニングについてくる根性も、レースで勝ちたいという強い気持ちも持っている。だというのに、君はレースで走れない。私では、その願いを叶えてあげることができない…………」
走り、レースで勝つ為の何もかもを持っているというのに。
――――『命』を持っていない。
たったその一点だけで、彼女はレースで走ることができない。
ターフの上で鎬を削る白熱した勝負の楽しさも、大勢の観客から受ける大歓声、それによる高揚感も、経験することができない。
仕方のないことと分かっていても、どうにもやり切れない気持ちが残る。
――――なんて、そんなことを言って何になるというのだろう。
一度亡くした命は二度と元に戻らない。私が一番わかっている事ではないか。
こんなことを言っても、悪戯に彼女を悲しませるだけだ。
……というか既に俯いて落ち込んでしまっている。やってしまった。
「……そんなことを思ってしまうほど素晴らしい走りだった、という事ですよ」
若干無理のあるフォローを入れつつ、話題を変えようと試みる。
「さて、本日のトレーニングは終了です。お疲れ様でした。もうそろそろ帰りたいのですが、出口とかはあるんでしょうか?」
当初の目的である、彼女の臨時トレーナーとしての仕事は果たした。それに、今回の経験はカフェさんのトレーニングにも活かせそうだ。私にとっても実りの多い経験だった。
そんな訳で、そろそろお暇させていただこうと思ったのだが。
「……ト…………ニ………………」
「え?」
――――彼女、話すことができたのか。帰り方を教えてくれるのだろうか?
「ズット……イッショニ…………ココデ……ズット………………」
「――――……あぁ……そうなりますか…………」
――――『ずっと一緒に』。
ここで彼女のトレーナーになれ、という事だろう。
どうやら彼女は私を逃がさないつもりらしい。恐らくは、私の命が潰えるまで、ずっと。
しかし……。
「申し訳ありませんが、それはできません」
まだ向こうでやらないといけないことがある。ここで一生を使い切ることは出来ない。
それに。
「かえらないと、いけませんから」
カフェさんの元へ。
――――そしていずれは、『あの子』の元へ。
「……ズット……イッショ…………ズット……イッショ………………!」
(ゴゴゴゴゴゴゴ…………!!!)
「っ!」
大地が揺れる。空気が震える。耳鳴りが止まない。
彼女の周りから徐々に黒に染まっていき、瞬く間に世界は真っ暗な闇に包まれた。
その闇は止まることなく、私をも呑み込もうとする。
「ズットイッショズットイッショズットイッショ
ズットイッショズットイッショズットイッショ
ズットイッショズットイッショズットイッショ――――!!!」
「――――まぁ、納得はしてくれませんよね…………」
彼女の願いは、『ただ走りたい』から『レースで勝ちたい』に変わった。
私が、変えた。
……彼女には申し訳ないが、その願いを今すぐ叶えてあげる事は、私にはできない。
――――しかし、トレーナーとして責任は取るべきだろう。それは、他ならぬ私自身の望みでもある。
「はぁ……仕方ないですね…………」
ため息をひとつ。右手に嵌めた愛用のグローブを外しながら、彼女のもとへと歩く。
「流石に毎日とは言えませんが、時間がある時にまた、ここに来ますから。走りたくなったら呼んでください。」
「――――――――――――ットイッショズットイ…………エッ……?」
「レースについては、まあまだ目途は立ちませんけど。何とかします。いつかきっと、ここでやりましょう。約束です。」
そう言い、右手の小指を突き出し彼女へ向ける。
「はい、指切り」
「――――――」
あまりに急だったので、彼女は少し驚いているようだったが、
「……ワカッタ………………」
そう言って、世界も元の落ち着きを見せた。
今回はこれで、一先ず手打ち。納得してもらえたようだ。
――――また考えることが増えるなぁ……まぁ、何とかしてあげたいのは本当だしね……。
心の中で愚痴っている間に、彼女は戸惑いながらもおずおずと小指を出し、私の小指に絡ませ――――――。
「……レ…………さ………………」
……誰かの声が聞こえる。
「トレ…………さん………………」
――――――この声は…………。
「トレーナーさん!!」
「――――っ!」
呼び起され、意識が覚醒する。
一人の女の子が、酷く狼狽した様子で私の顔を覗き込んでいた。
「――――トレーナーさんっ! 私が分かりますか!? どこか痛む所は!?」
「……カフェ、さん」
辺りを見回すと、そこはいつものトレーナー室だった。
どうやら無事に帰ってこれたようだった。
「ふふっ、ただいま戻りました」
「……ただいま、じゃありませんよ……っ! 何、笑って、いるんですか…………」
体を起こしながら返事をする。
どうやら随分と心配させてしまったようだ。
「カフェさんは心配性だなぁと思って」
「…………トレーナーさんが、おかしいだけ、です…………何でそんな、平気そうなんですか………………」
「慣れたから、でしょうか。もう、何回目かも忘れちゃいましたし」
――――実は、今回のような事は初めてではない。過去に何度か同じような経験をしている。
「まぁ今回も無事に帰ってこれたわけですし、そんな顔しないでください」
「――――無事に…………」
私は何ともない、と安心させようと思ったのだが、カフェさんは少し考え込み、
「――――……トレーナーさん……右手を見せて、ください…………」
そう言った。
「……あぁー、それは…………」
少し躊躇ってしまう。
どうにか誤魔化せないか考えてしまうが...観念しよう。
正直これ以上心配を掛けたくないのだが、ここで断ってもより不安にさせるだけだろう。
そう考え、右手のグローブを外し、彼女に向ける。
「……やっぱり……
――――傷。
彼女の言うそれは、私の右手の小指の付け根辺りに付いている、小さな痣のことだ。
その痣はまるで、
実際には、こんなところに怪我をしたことなんてない。ましてや、一度千切れた指をもう一度くっつけるなんて、やったことなどあるはずがない。
――――それでも、数年前のあの時から、この痣は私のものになった。
カフェさんが呟いたように、この痣はある条件を境に大きくなることがある。
その条件というのは…………。
「トレーナーさん……また、してきたんですね…………『
「……えぇ、まぁ」
――――向こうの世界の住人と、約束、及び指切りをする事。
彼らは基本的に何か強い執念を持っており、それを晴らしてもらう為に私を攫う。
しかし、私もただの1人の人間。何でもかんでもスパッと解決できるわけではない。
今すぐには解決できない、或いは時間を掛けて解決するべきだ、と判断した時は、彼らと約束を結ぶことにしている。
そして約束をする際、彼らは私の小指を持っていくのだ。これが約束した証だというように。
その度に、現実で見る私の痣も少しずつ大きくなるのだ。
とは言っても……。
「別に実害はありませんし、ね」
「そうやって、いつか……約束に、囚われてしまったら…………」
「今のところ、ちゃんと順に叶えてあげられていますから」
――――以前、約束を破ったらどうなるか疑問に思い、敢えて約束に背いた行動を取ろうとしたことがある。
結果としては、そもそも約束に背いた行動を取ること自体出来なかった。
約束を破ろうとすると、頭で考えている事とは別に、勝手に体が約束を守ろうと動いてしまうのだ。
それだけ強制力の強いものだという事であり、カフェさんが懸念しているのは、この縛りの積み重ねがいつか牙を剥くのではないか、という事だろう。
私の意思とは関係なく、私を危険に陥れる。そんな『約束』を、いつか強要されるかもしれない――――。
しかし、どんな約束にも終わりはある。それは彼らの欲を満たしきった時。
要するに、契った約束をしっかり果たしさえすれば、いつか彼らは満足するという事だ。そうすれば効力は消える。
……前に私を攫ったのは、やたら健康にうるさい男だったなぁ…………。
彼の世界に誘拐されて、一体何をさせられるのかと身構えていたら、ただひたすら健康に関わる様々な事を説教され――――もとい、ご教授賜った。
自分でも食生活には気を遣っているつもりでいたし、運動だって毎日欠かさず行うようにしていた。自分の健康に問題はないと思っていたのだが……。
たまに食べるジャンクフードや同じくたまにやってしまう過度な運動、そして何より深刻な睡眠不足を指摘された。
私はあまり寝なくても大丈夫なほうだと勝手に思っていたのだが、「お前はショートスリーパーの皮を被ったただの夜更かし人間だ」などとネチネチ言われてしまった。明らかに睡眠時間が足りていないとも。
カフェインの摂りすぎとかも指摘されたなぁ……。
そんなこんなで色々と勉強になる話を聞き、最後に「しばらくは健康的な生活を送る」という約束と共に指切りをしたら、遠慮なく小指を引き千切られた。
そうして元の世界に戻ってきてからは、気を抜くとたるみがちな自分に鞭打って、半ば強制的な形で健康的な生活を送った。
そうして1か月程が経ち、身体の調子がすこぶるよくなった私を見て、彼は満足そうに行ってしまった。
……そのせいで、最近また寝不足気味になってしまっている。できれば行かないで欲しかった…………。
「約束の効力がなくなっても……指の傷は、大きいまま、です……」
「それは、まぁ。今後一生の付き合いでしょうね。もう気にしていないですけど」
初めは指の痣が人目に付くだろうと思い着け始めた右手のグローブだったが、着けているうちに気に入ってきてしまった。
最近では、かっこいいグローブを探しにショッピングモールへ行ったり、あまつさえオーダーメイドをしてしまうのも趣味の1つになっている。
機能性重視で身に付けていたものだって、慣れてしまえばオシャレの1つだ。
そんな訳で、今のところ不便もないし気にしていないのだが。
「…………どうして――――」
「え?」
「――――……どうして、いつも…………そう、平気そうに、するんですか…………」
そんな事を、彼女は言う。
「……トレーナーさんは、優し過ぎるんです……相手が誰であっても、自分が、どんな目に遭うか、分からなくても、願いを叶えようと、動いてしまう…………アナタが、そんなだから…………」
――――おかしなことに巻き込まれる。それは自分でも分かっている。
でも、ごめんなさい、カフェさん。この生き方だけは変えられない。
これが今の私の、人生の軸だから。
「……それでも、そんなアナタの事を、私が……きっと…………そう、誓ったのに…………もう、何度も…………っ!」
「いえ、自分が情けなくなる程度には守ってもらっているつもりですけどね……。いつも言っていますけど、私の事、カフェさんがそんなに気負う必要はないんですよ?」
「そうでもしないと、アナタが……っ!」
「――――……アナタが……どこかへ行って、しまいそうで…………」
「――――っ」
――――そんなに彼女を不安にさせてしまっていたとは。
…………参ったなぁ、担当を悲しませたの、今日だけで2人目だ。トレーナー失格だなぁ…………。
いい加減挽回しないと。
「どこにも行きませんよ」
「……えっ?」
「まだカフェさんとの『約束』を果たしていませんからね」
「……っ!」
2人で"お友達"に追いつく、その約束は未だ果たせていない。
その約束を果たすまでは、離れるつもりなど毛頭ない。
――――それこそ、仮にこの肉体が亡くなったとしても、だ。
「……信じて、いいんですか…………?」
「もちろん」
カフェさんとの約束も、その他の約束も。全て叶えて見せる。
どんな目に遭おうが、もう怖い事なんて何もない。
…………約束を守る事だけは定評があるんだ、私は。これだけは、絶対に曲げない。
――――『君』との約束は必ず守る。そうすれば、私は…………。
「そういえば……トレーナーさんは、何か……やる事が、あったのでは…………?」
「………………あっ」
やばい。資料、今朝までに作らないとって張り切ってたのに。もうお外が明るい。
間に合うかな…………厳しそう。
…………はぁ、怒られるかなぁ。怖いなぁ………。
見ての通り、トレーナーががっつり主体のお話となっております。
今後は色々なトレーナーが出てきますので、お楽しみに。