リュウ・ホセイは病室でベッドに腰かけ、壁をじっと眺めている。
彼は静かに、視覚に映る様々なUIを参照、操作しながら各種処理を実行していた。
(ドアロックもいけるな)
外部ロックされているはずのドア勝手に開けて、閉じる。
もちろん監視カメラにはループ映像を流し、監視にあたっている兵士たちのスマートコンタクトレンズにも同様に偽装映像を流す。いわゆる、目を盗む、である。
(前任の俺たちからの情報支援がなかったら、無理だったな)
ムラサメ研究所のシステムは外部と隔離されたスタンドアロンであった。
ただし、内部の各端末や、兵士たちのスマートコンタクトから無線接続可能なネットワーク構成となっていた。
これを利用させてもらう。
リュウはかつてのシンたちが集めてきたデータを参照しながらクラックに成功し、今に至る。
侵入を検知されないように、周到にアクセスログを消すとともに、侵入検知用に意図的に仕掛けられたAPIを踏まぬよう、慎重に情報を手に入れる。
(外部情報にアクセスできる端末は守衛室のものと、研究員の外部連絡用端末だけか)
ムラサメ研究所の徹底した情報保守ぶりには感心した。
とはいえ、こちらはセキュリティホールを既知。相手のセキュリティ屋には分の悪い相手であろう。
(よし、研究中のリストを確保。あとは、こちらの持ち越してきた記録と突合だな)
移動先が異なる時空である以上、何かしらの細部変更はありうる。
ことあるごとに持ち越してきた情報と突合し、時間の流れにどのような差が生じているか随時確認しなければならない。
どこかのシンが記録を残しておいてくれた、情報保全と利活用に関するマニュアルが役に立った。
(――すべて合致。少なくともムラサメ研究所関係に手持ちと外部環境に差異はない、か)
リュウはプランを立案する。
かつてのシンたちが様々なアクションを行い、それがどのような結果になったかはDBに登録され、フローチャートとして呼び出すことができる。
かつてのシンたちは、ムラサメ研究所からの脱出シナリオを重視していた。
人質シナリオ、破壊シナリオ、クラックシナリオ等多岐にわたるが、とにかくここから脱出することを考え、実行してきたことがわかる。
だが、リュウ・ホセイは、この記録のスキマ――ロジックポケットに気付く。
次なるシンに引き継げなかった記録は、この頭の中にはない、ということだ。
例えば、ムラサメ研究所そのものを自己の管理下に置く計画である。
しかし、その失敗の記録はない。
なぜなら、脱出できないままここで野垂れ死んだ場合は、その記録は誰にも引き継げないからだ。
一つの意識がチャレンジできる回数が1度しかない以上、成功事例がある筋道を利用するのが、まともな判断であろう。
(マルチバースで考えるなら、どこかにムラサメ研究所を支配下に置いた俺がいてもおかしくはないはずなんだが)
フローを見る限り、見当たらない。
おそらくすべて失敗したのだろう。
(さっそくの分岐だが、どうする、俺)
ムラサメ研究所からさっさと脱走すること。
あるいは、ムラサメ研究所を利用すること。
大別すれば二択である。
『まもなく、昼食の時間です。奉仕員たちは食堂に集合してください』
一度思考を止めて、従順な奉仕員として振舞う。
奉仕員というのは、この施設の被検体たちのことだ。連邦政府に奉仕するためのメンバーであるので、大意としては間違っていない。
リュウは部屋の鍵が解除されたのを確認して、廊下へと歩み出る。
各個室から被験者たちが出てきている。
MRUIには、各自のプロフィールや詳細が表示され、かのフォウ・ムラサメやゼロ・ムラサメがいることを確認できる。
ぞろぞろと食堂に向かう。
被験者の反乱を抑止するために、口頭での会話はすべて施設内にばらまかれたマイクで拾われている。
会話内容によっては懲罰房送りや反省室送りになるので、もっとも警戒しなければならない。
各自に与えられた端末から研究所内部ネット経由で行えるテキストチャットもまた、当然検閲されているそうだ。
食堂の席についても、奉仕員同士の会話はみられない。
健康を回復したリュウ・ホセイはこれで三日目の昼食会場入りとなるが、いままで誰かから話しかけられたこともなければ、誰かに話しかけたこともなかった。
むしろ、研究内のテキストログを読み漁り、各奉仕者がどういう思想をもち、誰と誰が交流を持っているかなど、検閲側の視点でチェックしていると言っていい。
(実戦投入された強化人間は今のところ、ナシ、か)
昼食のハンバーグを一口サイズにして食べながら、食堂に揃っている奉仕者たちの情報を逐次確認していく。
かのゼロ・ムラサメも隅っこの席で憂鬱そうに山盛りのサラダを食べている。
そう、サラダだ。コロニー落とし以来、地球の農作物事情はお粗末で、いままさに復興途上であるにもかかわらず、緑黄色野菜を好きなだけ食べられることの意味は明白だ。
ムラサメ研究所を管理している政府上層部は、こちらの想定以上にここを重視していて、予算も十分手当しているということだ。
(まいった……本格派だな)
ガノタならアニメ的設定を思い浮かべるだろう。投薬やマインドコントロール、トラウマ強化などで精神が不安定な連中を作り、上官への依存や、トラウマパワーで暴れまわるアレだ。具体的にはロザミアやフォウなどがわかりやすいだろうか。
しかし、これは現実の宇宙世紀サイエンスにおける到達点としての強化人間製造プロセスである。そのような『わかりやすい演出』のための人間兵器など製造していない。
奉仕員たちは十分かつ高栄養な食事を与えられ、休息も管理されている。
ここで行われている洗脳プロセスははるかに高度であり、いかに『恵まれているか』という環境と『政府に大切にされているか』を徹底的に叩き込まれている。
当然厳しい精神的ストレスにもさらされるが、それは『政府に必要とされたい』という承認欲求を強化するために計算されたそれだ。
確かに、ここの奉仕員たちは非人道的ともいえる戦闘訓練と手術による身体強化調整を受けているのは間違いないし、被検体として無茶な実装を施されて死ぬものだっているが、それを常にプラスの方向へと誘導する、巧みな教育プロセスを兼ね備えている。
研究ログを見ればわかる。
旧世紀のアイヒマン(ナチスによるユダヤ人虐殺に関与した男)の解析から人類が生み出した、ミルグラム実験から強化人間研究はスタートしている。
いかにして、ただの陳腐で平凡な存在が、大量虐殺などという非人道的な行為を淡々と遂行できるものに改造されていくのか、である。
結論だけを示すと、悪でありながら悪にあらずと思い込むシステムに人間を組み込むだけで、人は簡単に非人道的になれるのである、という。
このムラサメ研究所における強化人間製造は、まさにそれである。
最高の生活環境、最高の教育、そして最高のサイエンスにより『奉仕員』たちに連邦政府の一切に疑義を抱かせないように育て上げるのだ。
(ゼロ・ムラサメも、不安定どころか、忠誠心のオバケだからな。肉体的な虚弱などという設定も吹き飛んで、すっかり硬骨の好青年だし)
当たり前、である。十分な食事、過酷な体力錬成と戦闘訓練。
これで身体が健全にならぬはずがない。
そして最高の教育環境。個別進捗管理された学習は、各奉仕者の頭脳適性にあわせたそれであり、これほどの教育を得ようとするためには名家の子弟でない限り不可能だろう。
「あ、お兄さん、もしかして分からない課題でもあるんですかぁ?」
ハンバーグの最後のひとかけを楽しんでいると、アン・ムラサメに声をかけられた。
彼女の本当の名前は分からない。記録では今年で12歳になるらしい。フランス語で1を表す言葉がついているから、ゼロ・ムラサメの次に育成された女子なのだろう。
「別に……」
「はい嘘つきー。お兄さんみたいな頭の悪い人のこと、すぐ分かっちゃうし」
アン・ムラサメはがしゃんと向かいの席にトレーを置き、スプーンでシチューをすくう。
「ほらほら、このわたしに質問してもいいんですよ、お兄さん? クソザコだから教えてくださいって頭下げるなら、だけど」
彼女の被検ログを参照する。承認要求と他者依存の増強。人間関係構築に障害がある人格ながら、承認要求を満たしてくれる権威者・年長者に対して忠誠を誓うよう制御されているタイプのようだ。
「アンちゃん、君は礼節を学ぶことで、よいレディになれるぞ」
リュウは適当にあしらいつつ、食後のコーヒーに手を付ける。さすがにこれは天然ものではなかったが、それでも軍のレーションについてくるものよりはずっと上質であった。
「なにそれ。お兄さんちょっと生意気すぎない? わたしはアン少尉。お兄さんみたいな無職ドーテーにちゃん付されるとか、ありえないし。ショーコーだよ、ショーコー」
被験ログに書かれている通り、自分に自信がないため、権威を笠に着るところがあるようだ。リュウ・ホセイは人事AIに提出されている、人事申請をバイパスして承認させる。
あっという間にリュウ・ムラサメ大尉の完成である。
リュウ・ホセイとしての情報は凍結され、リュウ・ムラサメで以後正式にムラサメ研究所所属の人員として人事管理されることとなる。
そもそもムラサメ研究所に所属する奉仕者の階級など、正規軍のそれとは違い、完成度で大尉~二等兵まで割り当てられているに過ぎない。
現状、量子脳の人格移植実験機であるリュウ・ムラサメは研究所側で大尉扱いの申請がすでに行われており、処理されるのを待っていただけだ。それを利用させてもらった。
「リュウ・ムラサメ大尉だ。よろしくな、アン少尉ちゃん」
こう答えると、アン少尉が顔を真っ赤にしてうつむいた。
「ど、どうしてわたしより後に来たこんな……クソザコお兄さんが大尉なわけ?」
彼女の学習記録を見ていると、いまは大学における工学系を専攻させられているらしく、頭のデキに関しては申し分ない。
しかし、軍事教練の記録を見る限りでは、いまだ正規の士官教育は受けていない。
詰め込みすぎを懸念して、調整されているようだ。
実戦投入はしばらく先だろうとされているらしく、せいぜい、MS乗りとして配属された二等兵――体力錬成、服務規則、MS取り扱い、銃器取り扱いを叩き込まれただけの段階だ。
「さぁな」
そういいつつ、頭の中で未来を演算する。
はっきり言って、ムラサメ研究所を吹き飛ばしたりするシナリオは悪手であると認識している。ここにいる強化人間候補と、研究メソッドはすべて手に入れたい。
たとえ非人道的手段だろうが何だろうが、サララとノエミィを死なせるわけにはいかない。シャニーナに愛される時間がなさすぎる、なんて激怒させるわけにはいかない。
前任のシンたちの記録に、ムラサメ研究所を支配下に置いた記録がない以上、失敗のリスクしかないことは分かっている。
だが、いままでのシンたちのようにムラサメ研究所から抜け出したり、破壊したりするだけでは、権力基盤が弱すぎる。
直前のシン――大統領補佐官にまで上り詰めた男は、よくやったほうだ。無数の記録の中で、彼以上の成果をたたき出したものはいない。つまり、彼はシャニーナへの愛を捨てきる覚悟さえキメていれば、ゴールできたかもしれないのだ。
「ふーん。あ、そうだっ! お兄さんはMSって知ってる? わたし、アレなら絶対にお兄さんを分からせてあげられるんだから」
アンが不用意な発言をしたようだ。研究員の一人がこちらにやってくる。
やさしげな笑みを浮かべた彼は「アン少尉、リュウ大尉とMSで対戦してみたいのかい?」と、ハンバーグをもりもり食べているアンに声をかけた。
「あ、センセイ。そうです、わたし、この人とヤってみたいんです」
「そうかぁ。リュウ大尉、お医者様はそろそろリハビリを始めたほうがいい、と言っているようだし、アン少尉のお相手をしてみるのはどうかな?」
内部ネットワークのテキストチャットに潜ませているバックドアから、研究員同士のリアルタイムやり取りを覗き見る。
どうやら、量子脳装備のリュウ(※6番目の強化人間なので、中国語の六(リュウ)=本名のまま)に関するデータを急いでとって、成果物として提出したい欲があるようだ。
ゼロ・ムラサメに匹敵する高いMS適性をもつアンの向上心を高める、という趣旨も混ざっているらしい。
「わかりました。アン少尉ちゃん、俺にわからせてくれ。MSの戦いってやつを」
リュウがそう告げると、むすっとしたアン少尉が言い返してくる。
「ふんだっ! お兄さんが負けたら、一生わたしの奴隷だからねっ。あだ名はクソザコおじさんにしちゃうし」
「構わない」
「うっわ、なにその自信満々な態度。クソザコおじさんのくせに。ぜったい分からせてやるんだからっ!」
そして、リュウとアンは研究員と警備員に案内される形で、MS格納庫へと向かった。
MS格納庫に並んでいる機体は、いわゆるオーガスタ系MSであった(※ガノタ知識としてはそうだが、実際にこの世界ではオーガスタ研究所がないため、ムラサメ研究所が同研究プロジェクトを包括している)。
特に目を引くのが、相応の数がそろえられているRX-80である。ガンダムタイプやジムタイプ等の見た目の差こそあれ、高性能技術試験機として組み上げられたものだ。
「じゃじゃーん、これがわたしのブラックライダーだよっ!」
黒塗りのステルス改修されたRX-80。その性能と機体特徴については、リュウは問題なく早口で語れるが、ここで何かを言う必要はないため黙っておく。
「いい機体だな」
「べ、べつに褒めても手加減しないんだから……」
もじもじしているアン少尉に、専属の『先生』が声をかけ、パイロットスーツへの着替えと搭乗を促す。
「リュウ大尉は何にするかね?」
こちらの『先生』であるドクター・ムラサメが温厚そうな様で声をかけてきた。
研究成果の提出と、予算獲得が至上命題になっていることはおくびにも出さない。
なるほど、古狸だが――ゴップ元帥ほどではない、
リュウはこの機会に、ドクター・ムラサメのスマートグラスと携帯端末に侵入し、人となりを把握しつつ利用手段を組み立てる材料を集める。
「そうですね――あれで構いませんよ」
リュウが指さしたのは、RGM-79Nジムカスタムである。リュウ・ムラサメとしての体はどうか分からないが、内に宿る魂の側は、自分の体の延長線として扱うことができる、習熟の極みに到達している機体だ。
それに――量子脳の外部入出力ポート経由で直接思い通り動かすという、リユースPデバイス的なことも可能だ。MS側のエントリープラグは、メンテナンスコンピュータを差し込むソケットをそのまま利用すればいい。
演習場は、信州の巨大クレータであった。山岳地帯に落着したコロニーの残骸が作り出した巨大な自然破壊を、そのまま演習場として再利用しているらしい。
『両機とも聞こえますね? 演習のルールは簡単です。バトラーシステムにて撃墜判定をもらった側が負けです――各機の演習モード確認。カウントダウン30で始めます』
リュウ・ムラサメは静かにコックピットで待機していた。
取り急ぎ試作されたであろう、量子脳=MS有線接続用ヘルメットは微妙なかぶり心地ではあるが、問題はなさそうだ。
むしろ問題があるとすれば――ノーマルスーツくらいだろう。少々大きすぎる。
かつて恰幅がよかったリュウ・ホセイは度重なる訓練と人体改造によって既に痩せてしまっているからだ。そこは人体実験ばかりに注力してMS実機テストを忘れていたエリート研究者様たちの落ち度でもある。
『お兄さーん。まけたらクソザコおじさんだからね? 毎朝ざぁこ♪って挨拶しちゃうんだから』
余計な通信が入る。いまドクター・ムラサメから盗み出したパーソナルデータを調べているところだったのだが。
「そうか。残念だ。刺激的な未来かもしれないが、君にそんな未来はない」
『なっ!』
リュウ・ムラサメは無線を封鎖する。ブラックライダーはステルス機であり、かつ電子戦装備も搭載している。こちらから出力――ムラサメ研究所にデータを送る部分だけを残し、入力系はすべて封鎖。疑似的スタンドアローンである。
カウントダウン切れと同時に、信号弾が上がる。
光学迷彩により姿を消したブラックライダーだが、大型兵器が姿を消すメリットは伏撃時にしかないことを熟知しているリュウは、相手の幼稚な使い方に鼻白んだ。
足跡が、見えている。
地上におけるMSの光学迷彩が、極めて限定的な有用性しか持たないことの証左である。
「ケガするなよ」
ジムカスタムはライフルを構え、ペイント弾をバースト射撃する。
その弾道を強化人間として読んだのか、ブラックライダーがステップで回避する。
(悪くない腕だ)
手を抜いているシャニーナくらいか、と思うと、胸が締め付けられる。
だが、思い出があれば、いくらでも生きていける――少なくとも、そう信じている。
(終わりだな)
アン少尉の手癖は分かった。
リュウのパイロットとしての経験もあるが、何より量子脳の戦術演算が早すぎるのだ。
可能性が高いエリアに照準を合わせ、弾丸をばらまく。
あとは純粋な確率論のゲームだ。
弾丸の散布界に飛び込んでしまう相手MSの被弾率、である。
『うそうそうそっ!? ありえないからっ! もう一回だけっ! 先っちょだけっ!』
数秒後、試合の結末がついていた。
アン少尉の抗議の言葉が飛んでいる。
『リュウ大尉、すまないがもう一度できるかね?』
通信封鎖を解くと再戦の依頼が飛び込んできた。
「コンディションに問題ありません」
『そうか。すまないが頼むよ』
――そこからは何度やっても同じだ。
多少、アン少尉が善戦することもあったが、最大で30秒程度しか生存を許さなかった。
リュウはいくらパイロットとして優秀であったとしても、歴史を改変するうえでは極めて微力な手段にしかならないことを十分に自覚しているため、喜ぶ気も起きない。
MSの操縦がうまいから、ジャミトフのCDO問題を何とかできるか? 無理である。
『きょ、今日はちょっと調子悪かっただけなんだからっ! とにかく、クソザコおじさんは確定だからっ!』
ペイント弾痕だらけになっているブラックライダーはドロドロに白濁していた。
わかりやすいように白いペイントを入れたのが原因である。
翌日、念のための精密検査を受けたリュウ・ムラサメは休暇指示を受けた。
貴重なサンプルに万が一があってはならない、という研究員たちの配慮である。
そして彼は、カフェ・テラスのソファ席でコーヒーを飲みつつ、携帯端末でアニメ動画を見るふりをしながら、研究員たちのログをあさっていた。
今日のMS実機演習の結果は彼ら、彼女らにとって大成果であるらしく、祝賀会まで開かれるそうだ。
もちろん、そこに被検体たるリュウが呼ばれることはないが。
リュウはそれらのログの精査を終え、自分が研究員たちにとって『必要』なものとして扱われることをどう利用するか検討する。
ムラサメ研究所に所属する研究員たちの精神的傾向を分析するに、そこにあるのは強烈な自己保身と成果主義に対する恐怖感であった。
研究成果を出さぬ限り、ポストを維持することはできず、せっかく手に入れた研究予算や職務上の俸給を失うことになる。
人間兵器の研究機関である、という認識を持っている連邦政府の保健衛生大臣官房の役人たちが割り振る予算は、あくまで役人の論理で支払われている。
研究の長期的価値や、成果が目に見えない基礎研究などはないがしろにされ、どちらかと言えば今回のリュウ・ムラサメの戦闘記録のような派手な兵器パフォーマンスが優先されているようだ。
(ここだな。ここがムラサメ研究所の勘所だ)
リュウはこの行政システムの弱点を見出した。
ムラサメ研究所に所属する研究員たちの優秀さを、別の方向に発揮させるよう誘導しているこの仕組みを変えてやれば、研究員たちはそういう存在に感謝するだろう。
(支配するために必要なのは三要素だ。一つ、利益誘導。二つ、恫喝。三つ、カリスマ支配。これらを使いこなすだけだ)
直ちに戦争の影響で没落している貴族や名家のリストを漁る。
今後の歴史に大きな影響力を行使しうるが、それでいて一切目立ってはならない、という条件で探し出せた名門は一つだけであった。
(ソレル伯爵家が妥当だろうな。ただ、ソレル家だけを助けても怪しまれるだけだ)
ベルギー貴族の中で経済的に困窮しているソレル家の近況と世情を調べ上げる。
元々ベルギー王国は貴族が人口の0.2%を締めていて、その中で婚姻や財産承継を行っているため、文字通り欧州社会での名門がずらりと並んでいた。
しかし、コロニー落としと、ジオンの地球侵攻作戦の影響で、貴重な観光資源であった社居城や屋敷、庭園を失い、私立美術館の芸術品の類は文化保全の名目でマ・クベに大量略奪されている。
つまり、ベルギー貴族は経済的に苦しんでいた。
しかし、苦しいながらも貴族たちは互いに長年かけて作り上げた閨閥社会の中で助け合い、決して名誉ある状態とは言えないが、子女の身売り手前の状態で何とか踏みとどまっている。
また、ベルギー貴族はオランダ貴族や英国貴族らと縁戚関係を持っていたり、社交界でのつながりを有しており、欧州系の連邦議員にも顔が効く、ということが分かった。
(まずはソレル伯爵家を中心に、ベルギー貴族社会を取り込む。ロナ家よりもずっとスマートにな)
リュウは世界各地のネット系投資銀行に口座を開いた。
ネット系投資銀行はAPI外部連携が容易だからだ。
リュウは記録に残っている為替相場と先物市場、オプション取引、株式市場やコモディティ市場の情報についてデータを整形しながら、同時に短期取引アルゴリズムをくみ上げたサブルーチンAIを設計、実装する。
さっさと仕上げたサブルーチンAIに整形済みデータを食わせ、取引アルゴリズムが健全性を担保しているかチェックする。
オールグリーン。
そして、さっそく取引が始まっている公開取引市場にアクセスする。
手持ち資金がランチ10回分の小遣い程度しかない(※この時ほど、死んだリュウ・ホセイの懐事情に失望したことはない)状態だったので、為替市場のオプション取引を行う。
証拠金の限界までオプションを突っ込み、超高速取引でランチ10回分をエレカ一台分に増やす。
「ザコおじさん♪ どうしたの? ヘンタイな妄想でもしてた?」
エレカ一台分を、一軒家一つ分まで増やしたところで邪魔が入った。
種銭は集まったので、ケチな為替市場等捨てて株式のオプション取引用アルゴリズムを作り始める。
「アン少尉か。どうした?」
人間関係にも問題がない、という研究データを用意するため、どのような状況であれ声を荒げたり、感情的にふるまうことはしない。
一歩間違えれば、またシャニーナを死なせ、サララとノエミィを失う。
その緊張感が、リュウ・ムラサメを超人化させていく。
「どうしたって、どうもしないけど?」
「そうか。話し相手が欲しいんだな。座れよ。ココアでいいか?」
リュウはアン少尉に隣を空けてやる。
ここはソファ席で、信州の緑園を見渡すリラックスエリアだ。対面には席ではなく巨大な窓があり、そこから山林の木々を見渡すことができる。
「う、うん」
おずおずと座るアン少尉。
しばらくすると、オーダーを受けたウェイターロボが温かいココアをもってきてくれた。
リュウは受け取ったココアをアンの前に置いてやる。
「――って、なんで隣なのっ!? やっぱりぃ、ザコおじさんって、ヘンタイさんなのかな?」
そういってキャミソールの胸元をちらつかせる彼女だが、こちらは金融取引をしながらベルギー貴族社会救済計画を練っていて忙しいのでそれどころではない。
なんだ? 寒いのか? と雑な解釈をしたリュウは、アン少尉の白い肌を隠すように、着ていたジャケットを脱いで着せてやる。
「女の子は体を冷やしたらダメらしいぞ」
「え、あ……うん」
ココアを飲むアン少尉。
よしっ! 余計な会話はなくなった。
これで集中して株式市場だけじゃなく、債券現先市場のアルゴリズムも作れるぞ。
「ねぇ、ザコおじさん」
アン少尉はこちらのTシャツの袖を引っ張る。
リュウはどうした? と携帯端末で彼女が好きそうな音楽をログデータから導出して、動画サイトから探し出して再生する。
同時に、債券現先市場のアルゴリズムの健全性と有効性を検証する。
ダメだ、これはやり直しだ。いきなりエレカ一台分損失を出し、量子脳を過信すべきでないと学んだ。
「今日、わたし負けちゃったけど、みんなにいらない子って思われたりしないかな」
不安そうに語る彼女に、リュウは用意してあったシナリオから最適解を返す。
「俺は、そんなことは思わないぞ。ほかの連中がどう考えているか知らんが、アン少尉のMS運用は光るものがある。俺のバディとして申し分ない」
戦闘解析データ的事実だけを指摘する。
こういう頭でっかちの幼い女子には、下手にエモーショナルな回答をするよりも理詰めで答えたほうがいいと、参考文献に書いてあった(※『わからせたいあの子UC編 民明書房』)。
「それは……クソザコおじさんがそう思ってるだけでしょ。先生たちにいらない子って思われたら、ここから追い出されちゃう……」
膝を抱え込むアン少尉。ホットパンツから伸びる大腿には、パイロットスーツの締め付け痕が浮かんでいて、幼い体で精いっぱいMSを操っていたことがわかる。足元に流れて行ってしまう血液をノーマルスーツの圧力システムで上体側に戻したりする負担に耐えているのだろう。
リュウはそっと彼女を抱き寄せてやる。
昔、戦場で拾った戦災難民の小さい子をこうやってあやしてやると、落ち着いて寝入ったのを思い出したからだ。
「ぴゃあっ……!」
謎の奇声が聞こえた気がしたが、アン少尉は素直に体をこちらに預けている。
「大丈夫だ。追い出されても、俺がアン少尉の帰る家くらい用意してやるよ」
「ひゃ、ひゃい」
ココアで舌でも火傷したんだろう。
まったく、アン少尉はおっちょこちょいなやつだ。
なお、家を買ってやるというのは嘘でも何でもない。債券市場向けに作ったアルゴリズムは会心の出来であり、数週間で高級タワーマンションを建築できる程度の金を生み出すだろう。
あとは、規制当局に目を付けられぬようダミー財団をつくり、この財団経由でベルギー貴族社会に投資していくだけだ。
自分のところでため込むと、規制当局は襲い掛かってくる。
しかし、名門社会に利益供与するシステムとして市場を押さえると――あら不思議、規制当局は親身になって相談に乗ってくれるように態度が変わるのだ。
UC0081年9月半ば。
UC0082年初頭にはムラサメ研究所を『支配』し、表社会に飛び出す準備を完了させなければ、サララを救えない。
もっとだ――もっと速く考えろ、とリュウは妙に赤面するアンを抱きかかえながら、歴史改変計画を練り上げる。