――スタンダールの日記より。
虜囚の身になり、服を剥かれたハマーンは、辱めを受けると覚悟していた。
しかし、何事もなくオレンジ色の囚人服を与えらえれ、独房に入れられている。
トイレと寝台だけの部屋であるが、ハマーンがイメージする牢暮らしと比べて、非常に清潔に保たれていた。
艦艇の独房なのか、拘置所のような施設かはわからない。
ただ、少なくとも、これは彼女を拉致したものたちによる特別待遇だというのはわかる。
ここに放り込まれる前、食堂と思しき所に多くの虜囚がいたのをみているので、わざわざ個室ともいえる独房を与えられているということは、何か意図があって隔離したのだとハマーンは解釈している。
彼女は寝台に腰かけ、目を閉じてそのまま倒れ込む。
体を丸めながら、クラウンが撃たれて倒れた光景を思い出し、体の奥が冷える。
「クラウン……」
唇から彼の名が漏れる。
可能性などないことを分かりながらも、呼べば来てくれるのではないか、と思うほどに、ハマーンはクラウンを信じている──などという言葉では足りないほどに、彼との絆は断ち切れぬものであると思っている。
瞼の裏に、彼の姿が浮かぶ。
彼が、私を幸せにしてくれた──そう思うだけで体も心も温かくなってくる。
****
かつてジオン共和国の名門の誉高かったカーン家は、戦争の足音が聞こえてくる時代になると、次第にザビ家との政争に破れ、官職の面でも金銭面でも没落していった。
幼いころの記憶をたどる。
いつも忙しそうに飛び回っていた父がいつも家にいるようになり、屋敷の使用人の数は次第に減り、父と母の顔には皴が増えた。
ハマーンと妹のセラーナは通っていた女学院に行かなくていいことになり、これでなんだか偉そうな家の連中にいじめられずに済む、と喜んだ。
学校に行かなくてよくなったハマーンとセラーナは、家で学校に通えない子のために用意された公教育プログラム動画とオンラインテストを受講しながら、毎日庭を駆けまわったり、園芸の真似事をして楽しんでいた。
でも、そのような日も長くは続かなかった。
老執事のハモンドが苦労して用意してくれる食事から前菜が消え、肉が消え、最後にはパンすらも消えた。
豆のスープを家族で囲んでいるだけでもハマーンと妹のセラーナは楽しかったが、姉のマレーネはそのとき、何かを覚悟したようだった。
豆のスープが何日か続いた後、ハマーンは老執事のハモンドに、『ハマーン様、セラーナ様、庭のお手入れを手伝ってください』と頼まれた。大きなハサミは危ないから、といつも触らせてもらえなかったハマーンとセラーナは、それを触れるといわれ、ワクワクしながらハモンドと庭へと飛び出した。
庭仕事を楽しんで、セラーナと一緒に野花で花輪を作ってから屋敷の中に戻ると、母は自室に引きこもり、父は書斎でふさぎ込んでいた。
何がなんだから分からなかったハマーンとセラーナは、姉の部屋へと向かった。
姉のマレーネは、大丈夫、明日から全部よくなるわ、とだけ言って、二人を抱きしめてくれた。
それから数日後、姉のマレーネがいなくなった。
どこへいったの、と執事のハモンドに訊くと『私は、旦那様を許せません』と、いつも優しいハモンドが、泣いていた。
彼が泣いているのをみて、ハマーンとセラーナも悲しくなって泣いた。
理由はない。なんとなく、ただ悲しかったのを今でも覚えている。
その日の夜、ハモンドは納屋で首をくくって死んだ。
父と、セラーナと一緒に泣きながら彼の遺体を下ろしたのをハマーンは忘れることはないだろう。
「すまない、本当に……すまない……」
そう謝りながら父は、大きな穴を掘った。
ハマーンとセラーナは、納屋にあった板材を使って、ハモンドを入れるための棺を作った。
ハンマーや電動のこぎりを使っていれば、『あぶないですよ、お嬢様』とハモンドが起きて注意してくれるかもしれないと願ったが、その願いはかなわなかった。
ハモンドの棺を、庭中から集めた様々な花で彩って、三人でスコップで土をかける。
それから、部屋で休んでいた母を車イスの乗せて連れてきて、カーン家四人だけのお葬式の真似事をした。
もう、その頃のカーン家には、長年の忠臣の葬儀費用すら残っていなかったのだ。
そして、すぐに母が入院した。
母の入院費用をどうするのかと、ハマーンは父に訊ねた。
父は、姉が用意してくれた金を使う、とだけ答えた。
どうして姉さまに貯金があるのだろう? とその時は思ったが、ハマーンとて察しが悪いわけではない。
姉は、家のために売られたのだ、と悟り、ハマーンは悲しみと動揺のあまり、父を罵倒した。罵倒された父は、ただ唇をかんでうつむくばかりであった。
軽蔑など、出来なかった。姉のことも大好きだが、父のことも愛していた。
ハマーンは、カーン家の家族を愛していた。
ゆえに、自分とおなじように傷ついているであろう父の傷を、さらに開くような真似はもうできなかった。
次は、わたくしの番だ、とハマーンは自分もまた時が来れば、身を家のためにささげることにしよう、と思った。
妹のセラーナを食べさせるためには、それしかない。
カーン家が住まうサイド3は、常にザビ家派とダイクン派がテロの応酬を繰り返す血みどろの権力闘争を繰り広げていたため、市民は荒み、街は穢れつつあった。
そうやって権力闘争に勝ち残った家門に、いつか自分の体を売り、その金でセラーナだけでも自由に生きられれば、それでいいと思い、ハマーンは自室のベッドで、他に手段が思い浮かばない己の愚かしさと情けなさに、悔し涙を流した。
「……姉さま?」
くらいハマーン部屋におずおずと入ってくるセラーナ。
幼い彼女が、瞳に涙をためながら、どうしたの姉さま? というので、ハマーンは彼女を自分のベッドに誘い、抱きしめて一緒に眠った。
神よ、愚かな私たちをお許しください、お守りください、と祈りながら。
しかし、神は誰に対しても公平に無関心である。
執事のハモンドが手入れしてくれていた庭は荒れ果て、家財道具を売り払って得たなけなしの金で得た食材を使い、動画で見たカンタン、美味い、という料理をあれこれ試す日々。
こんな生活は長く続けられない、と父も当然理解して、あの手この手で収入を得よう、職に就こうとしたが、ザビ家の手まわしは徹底していた。
失脚とは社会的追放などではない。
一族の族滅を狙う、本気の兵糧攻めであり、見せしめなのだ。
カーン家とその娘たちの悲劇は、ジオン共和国に住まう名門と呼ばれるものたちに対して、ザビ家に逆らうとはどういうことかを提示する、大切なショーケースなのだ。
ハマーンは、毎日のように庭に出た。
バイオ・サツマポテトを栽培すべく、圃場をこしらえてみたり、慣れぬ手つきで雑草を電動草刈り機で払ってみたりと、せめて人目に付く庭だけでも、面目を保とうと努力した。
来賓など来ることもないことは分かっているのだけれども、ハマーンにも、カーン家の意地というものがあった。
意地だけは……いかほどに没落しようとも、誇りだけは、見せつけたかった。
世間の浮ついた人々がどう噂するかなど、ハマーンには関係ない。
ここにカーン家は健在である、と。
貧窮に白旗を上げることなく、庭園は見事に保たれていた、と、せめてそのくらいは、とハマーンは、意地を張り続けた。
だが、どうしようもないときも、ある。
ハマーンが庭をいじっていることを聞きつけたザビ派の気象管理官が図ったのだろう。
ある日、局地的な暴風雨がカーン家を襲った。
気象が完全にコントロールされるコロニーにおいて、そのようなことがあるはずもないのに、である。
翌日、荒れ果てた屋敷と荒んだ庭を、多くのメディアが取材に訪れた。
剥がれ落ちた屋根、窓の割れた邸宅、根までひっくり返った樹木、散り果てた花卉。
そして、食糧事情における頼みの綱である、イモ畑の水没。
薩摩隼人の生まれ変わりと評されるほどの生命力を持つバイオ・サツマポテトであろうとも、さすがにこれほどの水害では、耐えられず、その身を腐らせた。
気象管理システムに異常か? と銘打たれたニュース記事は、カーン家邸宅の悲惨さもあって、一瞬でネットミームとなり、人々は嘲笑するようにその画像を使った。
ハマーンは、なおも諦めなかった。
だが、庭も、屋敷も、すでに父やハマーン、幼いセラーナでどうにか出来る状態ではなかった。
金もつき、ザビ家による監視下にあるため、引っ越すことすらできぬカーン家は、雨漏りのする屋敷の中で、日々カビと水滴相手に格闘しながら、空腹をごまかすよう煮た木の根をかじりながら、日々を何とかやり過ごすしかなかったのである。
もはや気力だけで生きているようなカーン家に、あの日──今でも忘れない、0077年1月1日の早朝、世間がニューイヤーパーティや、それを狙ったテロ行為で流血の派閥争いをする時節、もはや忘れ去られ、力尽きるしかないと思われていたカーン家に、一人の青年がやってきたのだ。
クラウン、と名乗る男は、庭師だといった。
親方のところを飛び出してきて行き場がないので、雇ってくれ、という。
怪しい男だ、というのが、ハマーンのクラウンに対する第一印象である。
熱を出して寝込んでいた父の代わりに、ハマーンが荒れた屋敷の応接間にて、応対する。
かつてそこを飾っていた来賓用の美しい彫刻が施されたテーブルは、ハマーンとセラーナ謹製の、廃材を組み合わせて作った不格好なテーブルに変わっていた。
椅子もまた、セラーナの自信作である、ポテトを乗せたら転がり落ちる程度に傾いているそれであった。
「……実に、尊い」
斜めの椅子に腰かけ、ささくれだったテーブルをみて、そんなことを言ったと思う。
「馬鹿なことをおっしゃらないでください。我が家は見ての通り、盗人も入らぬほどに落ちぶれておりますの。ただ、わざわざご足労頂いた客人に、もてなしが無いわけにも参りません。セラーナっ!」
はい、姉さまっ! と久方ぶりの来賓に、ハマーンとセラーナは渾身のもてなしをする。
屋敷を抜け出し、恥を捨ててゴミ捨て場で漁ってきたプラ製のカップを念入りに洗ったものに、雨水を濾過して沸かした白湯。
カーン家の二人が、手間暇かけた逸品である。
どこかでアルバイトすれば、1時間の時給でボトリングされた清らかな水をいくらか買えよう。だが、それが出来ぬのがザビ家に睨まれたカーン家なのである。
「では、いただきます」
いただきます、ということは日系社会出身なのだろうか? とハマーンがクラウンなる男の人となりを観察していると、白湯を呑んだクラウンが、突如、一筋の涙を流した。
「な、なにか無作法でも?」と伺うハマーン。
「決して、決してそのようなことは……」
そして、クラウンが頭を下げる。
「見事な白湯でした。この一杯の白湯で、私の心は洗われました」
この礼は返さねばなりますまい、などといい出し、ハマーンは来賓にそのようなことはさせられぬと抵抗して押し問答になったが、結局、クラウンは庭師として一仕事を果たしてくれた。
半日も経たず、荒れ果てたまま放置されていた倒木や枯れ木、枯草を一か所に集め、生きていた草木を申し訳程度に手直ししてくれたのである。
「また明日、白湯を呑みに来ます」
「──白湯でよろしければ、いつでも」
ぐぅ、と腹を鳴らしてしまうハマーンは、恥を覚え、顔が熱くなる。
しかし、彼は笑ったり、茶化すこともなかった。
表情一つ変えず、また、明日来ます、と。
翌朝、ハマーンはクラウンが集めてくれた枯草を拝借して、外で湯を沸かしていた。
毎日がキャンプみたいで楽しいね、とセラーナは言ってくれるが、それはもしかしたら、妹なりの気遣いなのかもしれないと思うと、ハマーンは余計に、辛くなる。
「おはようございます、ハマーン様」
朝も早いのに、クラウンがやってきた。
その両手には食料品が大量に詰まった紙袋、背中に担いだリュックには丸めたテントや寝袋が括り付けられている。
「ごきげんよう、クラウン」
ハマーンは、ぐぅ、と腹を盛大に鳴らしながら、クラウンの抱える食料品に満ちた紙袋を見る。町への買い出しすらゆるされぬハマーンにとっては、久方ぶりにみる品物ばかりであった。
「白湯を呑みに来ました。手土産なしというのは紳士ではないと思ったので、これを」
クラウンが、ずいっ、と紙袋を押し付けてくる。
「──まさか、わたくしやセラーナを狙っているのですか? そのような破廉恥なお考えがあるなら、受け取ることはできませんわっ!」
ハマーンは、ぴーひょろろとお祭り騒ぎになっている自分の腹の虫を無視し、強靭な意思をもって理性を保つ。
「では、一生分、白湯飲み放題の特権をください。ハマーン様お手製の、手間のかかった白湯をいつでも飲めるだけで、私は満足なのです」
クラウンの表情をみるに、相当言葉を選んでいるのだろう、とハマーンは察した。
本当は、これはただの憐れみか何かだ。
しかし、ハマーンに恥をかかせるわけにはいかぬから、こういうママゴトめいた取引を持ち掛けているのだろう。
「取引、ということですのね?」
「はい。ハマーン様」
「……いいでしょう。白湯くらい、いつでも振舞いましょう」
姉さまー? と寝ぼけ眼のセラーナがやってくる。
クラウンの食料を見たセラーナが「お父様っ!!」と駆けて屋敷の奥へと駆けていく。
しばらくの後、病身の父が出てきて、クラウンを自室へと招いた。
クラウンは「料理、お願いします」と食料をハマーンに預けて、父の部屋でなにかを話していたように思う。
この辺りの記憶があいまいなのは、ハマーンとセラーナは、クラウンが運び込んだ食料に夢中だったからだ。父とクラウンの話し合いよりも、たっぷりの乾燥パスタやトマト缶、真空パックに入った赤々とした培養肉や、緑香るバイオブロッコリー、サイバーもやしに、まさかのサンシャインマスカットなどなど……食べ物のことばかり鮮明に覚えている。
父とクラウンが話し合いを終えて、四人で久しぶりにまっとうな食事にありつく。
バター、ガーリック、オリーブオイルとソイソースに化学調味料で仕上げたキノコと肉のパスタ。
料理中のつまみ食いで軽く一皿分はハマーンとセラーナで食べたのは内緒である。
簡単に作れて、あたたかく、涙が出るほどに美味しいそれは、カーン家の胃を満たし、体を内から温めた。
沈黙と忍耐ばかりの食卓だったが、クラウンはカーン家の食卓に笑顔をもたらしてくれた。
「──クラウン君を、我がカーン家の専属庭師として雇うことになった」
ひと心地ついたとき、父が切り出した言葉に、ハマーンが質問をする。
「ですが、先立つものがございませんわ」
「その件だが、クラウン君」
「はい」
クラウンが父にうながされ、これからどうするかを説明する。
当面は彼が働き、彼がこの家に収入をもたらすという。
カーン邸の手入れもする上、家に収入を入れるなどという話をすぐに信じるほどハマーンは無警戒ではない。
この紳士が、本当に紳士であってくれればと願うが、皆を守るために、そうでない可能性を排除するわけにはいかない。
「……来賓は、あくまでも来賓ですわ。そのような失礼なことをあなたにやらせるなど、カーン家の名がまた地に落ちます」
ハマーンのいうことももっともだ、とクラウンが応える。
しかし、それ以上の切り札を出してきた。
「実は──打算があります」
正直なのはよいことだが、とハマーンは失望を覚える。
突然紳士が現れて、苦境にあるハマーンを救ってくれるなどという夢物語が起きるはずもない。せいぜい、現実的な奇跡があるとするならば、愛人兼子守り役としてザビ家につながる誰かの元に飼われるのが最上、と言ったところ。
この男も、結局、カーン家を利用して何かをしたいだけの、ザビ家と変わらぬ男なのだと思うと、もの悲しくなる。信じたい、と思ってしまう相手を、信じてはいけないのだと思うと切なさしかない。人の世は、あまりにむなしいではないか、と。
「半年後、私は共和国国防軍に特技下士官として志願入隊します。庭師として散々公園整備でモビルワーカーを乗り回していたので、その資格が使えるんです。その際、推薦状にカーン家の縁故である旨を記載してほしいのです」
ハマーンはクラウンの言葉に脊椎反射してしまう。
ジオン共和国国防軍は、ダイクン暗殺後のUC71年にザビ家がジオンの名を冠して作り上げたザビ家の私兵にすぎないと考えていたからだ。
彼女にとって、そんなところに入隊しようとする輩など、ザビ家のともがらになりたがる輩にしか思えなかった。
「──軽蔑、いたしますわ」
ハマーンの心は醒めていた。
一時の夢想はあっさりときえ、このクラウンという男も、ザビ家へと近づくための踏み台として、カーン家を使うつもりだと分かり、やるせなくなる。
「いまは軽蔑していただいて結構。お父上から承諾はいただきました」
そう断言するクラウンに、ハマーンは目を合わせずに父のほうを見る。
「お父様、嘘でございましょう? 姉上の件だけでなく、ここでこの痴れ者にカーン家の家名まで売ろうというのですか? 恥というものを……」
父に言いつのろうとしたところ、妹のセラーナがハマーンのボロ服を引っ張る。
「姉さま、わたし、もうおなかペコペコなの、やだよ……」
その一言に、ハマーンは返す言葉もなかった。
意地を張りたければ、自分だけ張ればいいのだという事実を突きつけられたとすら思えた。己の意地のために、妹を巻き込むのは筋がたたないことくらい、ハマーンにもわかる。
わかるが、納得できない。
納得できないが、飲み込むしかない現実がある。
「──クラウン、カーン家の名を使うことは、ザビ家が支配する軍では邪魔になるだけですわ」
ハマーンはもっともらしいことを言う。
お前の打算は無意味だと言って傷つけてやりたかった。
彼女を期待させ、期待を裏切り、傷つけたのと同じように、彼も傷つくべきだと思うのだ。
「いえ、そうとは限りません。国防軍は一枚岩ではありません。ザビ家ゆかりの者ばかりで一国の軍隊を作れますか? 無理だと、あのギレン・ザビも理解しているから、ザビ家の私兵として武装親衛隊という別組織を作っているのです」
つまり、国防軍では十分に名門の肩書は使える可能性がある、とクラウンが断言する。
その自信満々の態度が気に食わなかった。
「わたくしは……気に入りません」
悔しさゆえに、顔が熱くなり、涙が溜まる。
どうしてあなたがカーンの家名を使うことでうまくいき、わたくしのカーンの家名は何の役にも立たないのか。
神は、平等に無関心ではないのか? と。
「ハマーン様、まだあなたは10歳にもなっていません。その御年で、その英邁さを身に付けられていることに、私は感服しています」
「いまさら、お世辞など……」
「いいえ、ハマーン様、よく聞いていただきたい」
クラウンから視線をそらすハマーンだが、彼は構わずに、立ち、その場で跪く。
「私は、カーン家に対し、セインの誓いを立てます」
セインの誓い、すなわち従士になることを宣言する行為は、主家のために命を差し出すことを意味する。自由市民ならば誰でも立てられる誓いであるが、その宣誓の意味は、いつでも離婚できてしまう安っぽい結婚式の誓いの言葉とは重みが違う。
セインの誓いは、登記され、法的に明確に誰がどの主家に対する従士であるかが公示されるのである。
主家は従士に対して生殺与奪の権利を持ち、自らのために死を命じることも、財を差し出すことを命じることすらできる、絶対的権利であり、司法の介入はないものとみなされる。
ハマーンですら知っている有名な例であれば、ギレン・ザビのセインであり、武装親衛隊を率いるエギーユ・デラーズなどが挙げられる。
「ただの庭師のあなたが、セインに? 妄言も程々にしないと──」
ハマーンは侮蔑をもってあしらおうとしたが、思いがけぬ大喝を受ける。
「ハマーンっ! セインの誓いを立てた者を嘲るなど、下郎に堕したかっ!?」
今まで聞いたことのない父の大声に、ハマーンは身を震わせる。
力が抜けて、思いがけず椅子に座りこんでしまう。
「このものは、セインの誓いを立てた。つまり、命をもって我らに仕えると誓ったのだ。従士クラウン、当主たるマハラジャ・カーンが命じる。必ずや大成し、カーン家の家門を再び名誉あるものとせよ」
父の言葉に、クラウンは必ずや最善を尽くします、と応える。
それでも、ハマーンは言葉でなら、なんとでも言えると思ってしまう。
だから、ハマーンは意地の悪い命令をしてしまう。
「クラウン、ハマーン・カーンが命じる。一生、わたしくしを幸せになさい」
出来るはずもない。
一介の庭師が、消えゆくカーンの家門をもったところでどうなるというのだろう。
軍に行くと言っても、士官学校を経るわけでもない。
詳しくは知らないが、軍隊で偉くなるには、士官学校というところを卒業しなければならないと物語で読み知っている以上、期待などできない。
「ハマーン……」と父のあきれる声。
しかしクラウンが父に問題ありません、と告げる。
そして、跪いたまま、こちらをじっと見据え、宣言する。
「このクラウン、身命を賭して、そのお言葉にお応えいたします」
物語に出てくる王子みたいに、キラキラした瞳だけれども、ハマーンは騙されない。
一生をかけて幸せにしてくれる人など、物語の中にしかいないということくらい、ハマーンは知ってるつもりだった。
これはガノタによる、ハマーンのための物語でもある。