――谷川流『涼宮ハルヒの退屈』
虜囚の身となったハマーンは、自身を捕らえたものたちがジオンの残光を名乗る集団であること以外、何一つ情報を得られていなかった。
クラウンならば、このような状況でも脱走の手立てをするのかもしれないが、ただの学生にすぎぬハマーンには、まだ脱走の糸口すら見えていなかった。
今日も、女性兵士に護送されて、実験室に連行される。
兵士らは決して無駄話はせず、必要なことしか言葉を用いない。
ハマーンに対して一切の情報を漏らすな、という命令が出ているのだろうか。
実験室につれてこられると、ハマーンはオレンジ色の囚人服を脱ぐように命じられる。
女性兵士相手とは言え、多少の羞恥はある。
しかし、命令に従わなければ強引に服を剝がすと告げられていたので、しぶしぶと脱ぐ。
下着姿になったハマーンの体に、女性兵士たちが医療機器のようなものをあれこれと取り付ける。ジェル状の何かを塗ったそれらは、ひやりとしていて、ハマーンは貼られるごとに身震いをしてしまう。
それらを着用した後は、貫頭衣のような実験服を着用させられる。その後、男女の性別を問わない白衣の研究員らが入ってきて、実験室に置いてある、イスに座るように命じられる。
仕方なく椅子に座ると、頭部に大型のヘルメットともつかぬ何かをかぶせられる。
視界は覆われて、仮想現実ゲームのように、いかにもCGといった趣の映像が投影される。
手に持たされたスティック状のコントローラーのボタンを押す試験が、また始まる。
「サイコミュ検定試験、レベル4,検定開始」
「記録デバイス機動」
「脳波、よし」
映像。
ターゲットをセンターに入れてスイッチを押すだけの、出来の悪いゲームのようなもの。
ただ、少し違うのは、敵の攻撃が『ありそう』と思った時にも別のスイッチを押さなくてはならないところくらいだ。
うまくボタンを先行入力できると、回避できる。
しかし、攻撃がありそうだと思ったのに何もない時もある。
こんなことに何の意味があるのだろう、とうんざりしつつ、試験を受け流していく。
「試験終了」
実験室にこの合図が流れると、男女の研究者然とした白衣の集団は出ていき、女性兵士たちだけが残り、医療機器かセンサーか分からぬものを取り外し、トレーニングウェアに着替えろ、と命じてくる。
はぁ、とため息をつきながらトレーニングウェアに着替えると、また別室へと移動。
そこにちょっとしたスポーツジムくらいの設備が揃っていて、バイクを漕いだり、カラテコンバットのカタ・エクササイズ、ちょっとした重量上げなどをやらされる。
ヘトヘトになったところで、また実験室に戻り、先ほどの手順を繰り返し、くだらないゲームを消化する。
これらが終わると、また女性兵士たちに連行されて、今度はシャワーの時間だ。
さすがにシャワーの個室に入ってくることはないが、それでも女性兵士たちは監視を密にしていて、このタイミングで抜けだすようなことはできそうになかった。
シャワーを浴び終えると、クリーニングされた囚人服と新品の下着が用意されている。
それらを着用して、最後に独房に戻る──というのが、ハマーンのルーティンである。
時間の感覚は精確ではないが、少なくとも2日に一度、実験とトレーニング、そしてシャワーが与えらえることを鑑みるに、こちらの体調管理に関して相手も注意を払っているのだろう、というのがわかる。
そもそも事あるごとに女性兵士らを張り付けているわけだから、逃げられては困るなんらかの事情があるはずなのだ。
それが何かさえわかれば、脱出の糸口に繋がるかもしれない、とハマーンは、独房のベッドに倒れ込む。
見慣れてきた天井をみつめながら「クラウン、早く助けにいらっしゃい」と、つい、つぶやいてしまう。
彼と離れることに、慣れたつもりではあった。
でも、そうではなかった。
いま思えば、いつだって連絡したいときに連絡すれば彼は応答してくれたし、会いたいといえば、必ず会いに来てくれた。
彼が戦地にいるときですら、ハマーンは意地悪なお願いをたくさんしたと思う。
すぐに、は無理でも、あとで必ず彼はそのお願いをかなえてくれた。
「……クラウン」
面影を、天井に想い描く。
彼と、離れてしまったと感じたのはあの日以来かもしれない。
──クラウンがカーン家の屋敷に滞在するようになってからの半年は、あっという間だったこを覚えている。
今まであった苦労はクラウンのおかげで軽くなり、石鹸の香りを嗅ぐだけで諦めていたハマーンやセラーナは、毎日あたたかいシャワーすら浴びられるようになった。
そういった生活の激変ぶりがあまりにも目まぐるしくて、その半年間の記憶はどこかおぼろげだった。
けれども、一つだけ明確に覚えている日がある。
彼が、軍に入るために屋敷を出ていく前日のことだ。
「ジャンク品のボイラーなんですから、お一人10分までですよ?」
衝立の向こう側から、クラウンの声。
覗いたら一生口きかないから、とハマーンが注意する。
「はいはい。ちゃんと時間は守ってくださいね。セラーナ様も使われるのですから」
クラウンが買い出しに行ってきます、と言い残して、離れていった。
ハマーンは時間いっぱいまで、固形石鹸の泡と熱い湯と、肌に感じる水圧を楽しみ、もうちょっとという思いを頑張って断ち切り、浴室を出る。
バスタオル、などという高級品があるわけもなく、ハマーンは手拭い一本で体をふきあげる。そして、クラウンからプレゼントされたいい匂いがする保湿液を手に伸ばして、体にぬって服を着る。
「姉さま、交代ですっ」
うずうずと待機していたらしいセラーナに追い出されたハマーンは、厨房へと向かう。
かつて使用人たちが使っていた厨房は、がらんどうで何もない。
冷蔵庫を開けて、ボトリングされたピュアウォーターをカップに注ぎ、飲み干す。
雨水を濾過して沸かした白湯とくらべて、やはり臭いが違う。
本当の無味無臭にうっとりしたハマーンは、ぜいたくに慣れてはだめよ、と自分を戒める。
「……危ないトコロでしたわ。ついつい、これが普通、などと勘違いするところでした」
クラウンがどこかで日銭を稼いでは、食べ物や生活消費財を買ってきてくれるので、いまの暮らし向きは、ちょっとずつ昔に戻ってきている。
しかし、彼は、どれだけ紳士で、我がカーン家の従士であろうとも、あくまで庭師でしかない。庭師がどれだけ頑張ったところで、ザビ家に睨まれたカーン家の暮らし向きを上向かせられるはずがないのだ。
願わくば、クラウンが庭師として大成して大親方にでもなって、たくさんの庭師たちを使って大きな仕事をこなすようになれば──食卓に毎日肉が出るような日も来るかもしれない、とハマーンは夢想する。
それでも、十分だとハマーンには思えた。
貧しさの果てに死を待つだけだった未来よりはずっとマシなのだから。
「姉さま、これぬりぬりしてー」
髪が濡れたままのセラーナが、パンツ一丁でやってきた。シャワーの時間を守れたのは偉いが、そこから先がまだまだである。
「あらあら、まずは髪を乾かしましょうね、セラーナ」
ハマーンは相変わらず傾いたままの食堂の椅子にセラーナを座らせて、手ぬぐいで丁寧に髪をふきあげる。
あとは、彼女の体に保湿液をえいえいとイモを洗う要領で塗りたくり、完了である。
「これ、くすぐったーい」
「我慢なさい。カーン家のレディたるもの、スキンケアも大切ですのよ」
「はーい」
ほかの家では、もっと様々な基礎化粧品を用いるのだろう。
肌は男女問わず、社交界に関わる者の武器となるものだから、手入れを怠るべきではない。
しかし、ままならぬ事情があるカーン家の現状では、これが目いっぱいなのだ。
クラウンには苦労をかけているので、よもや化粧水も欲しい、などとは口が裂けても言えなかった。
「姉さま、ブッホ・コーラ飲みたいなぁ」
セラーナの言葉に、ハマーンは炭酸の喉越しと、刺激的な甘さと清涼なライムの風味を思いだす。
あれは、危険である。
特に、熱いシャワーを浴びた直後は危険すぎる。
あんなものを呑んでしまったら、また我慢するのに苦労してしまう。
ブッホ社が特許をもっているといわれる、無重力間輸送を可能にした炭酸ボトリング技術──これにより、あらゆるコロニーでスマッシュヒットしている、清涼飲料水の帝王である。かつて地球圏にあったコカ・コーラ社のレシピを盗んだと言われるだけあって、味はすばらしいもので、ハマーンも好きであった。
「あれは特別な日に飲むものですわ、セラーナ」
「でも姉さま、今日は特別な日だよ?」
特別な、日? とハマーンは首をかしげる。
セラーナが、あ、いけないんだー、とセラーナがからかうようなしぐさを見せる。
慌てたハマーンは、何の日だったかを思いだそうとする。
家族の誕生日でもないし、特別な記念日でもないはず。
いったい、何なのだろう。
「んふふーっ、仕方ないなぁ、姉さまは。セラーナがおしえてあげる。今日はね、クラウンがお家を出ていくソーコーシキの日だよ」
セラーナの言葉に、ハマーンは言いようのない不安とともに、そうだった、と思いだす。
不覚にも、いつだってクラウンはいてくれるものだと思い込んでいた。
明日、彼はジオン共和国国防軍に特技兵として志願入隊する。
2か月間は、特技兵集合教育という訓練に参加することになるから、カーンの屋敷に帰ってこれないのを思いだした。
だから、今日、小さな壮行式をやることになっていた。
あまりにも楽しくて、穏やかで……ハマーンは、そんな毎日がずっと続くと、信じ込んでしまっていたのだ。
思いだしたくなくて、そんな日はこない、と自分を騙していたことを感じて、ハマーンは顔を青くする。
「大変ですわっ! セラーナ、姉は今から部屋にこもり、従士出立の準備をいたします」
ハマーンはセラーナの肩に手を置きながら、大切なことなのです、と言い聞かせる。
セラーナもハマーンの覇気に圧されてか、うん、と頷いた。
「セラーナ、お昼は冷蔵庫に用意してありますから、温めて食べてなさい」
「うん、別にそんなのかんたん。けど、姉さまは?」
セラーナとてサバイバル同様の暮らしをしていたので、火の扱いや野外調理技術はそこらの日曜キャンパーを凌駕する。
「わたくしは、それどころではないのです……」
それだけ言い残し、ハマーンはセラーナをその場に残して、自室へと舞い戻った。
自室のつぎはぎだらけのシーツがかぶさったベッドに腰かけながら、ハマーンは何かしなければ、とあれこれと思案する。
軍隊に入る、ということは、ハマーンなりに危険なことなのだと理解はしている。
もしかしたら訓練中の事故などで死んでしまう、などということもあると想像すると、ハマーンは胸のあたりが痛くなる。
そんなことになったら、また苦しみながら死に向かって前進していく日々に逆戻りであることを考えると、利己的だと幼心に思いながらも、絶対に、クラウンには生きていてほしかった。
「そうですわ……お守り、お守りしかありませんわっ!」
ハマーンは、神とやらがこの世のことに無関心であることを知っている。
だが、この世に生きる人たちにとっての拠り所になることだけはわかる。
自分の力だけではどうにもならないことがあって、それを責め立てたいときに、神は都合よくその身を貸してくれる。
特に、ハマーンのように、努力すれば奪われ、頑張れば邪魔される定めの下に生きる者にとっては、神はいつだってハマーンの罵倒を受け入れてくれた。
カーン家が悪い、と世間はハマーンらを責め立てるが、カーン家に生まれるかどうかをハマーンは選んでいない。この地上に生まれ出る赤子たちが、皆自分で選んで家門を決めているのだとしたら責められる所以もあろう。
しかし、世にそんな道理はない。道理がないところをハマーンのせいにされるのはあまりにも理不尽であり、その理不尽への怒りは、神が受け止めてくれている。
「神様、わたくしのクラウンをお守りください……」
ハマーンは伝統宗教から新興宗教まで、あらゆる神に祈る。どの神でもいいから、祈りがあったことくらいは忘れないでほしい、と。
そして、ハマーンはお守りとして何がいいだろう、と思案したあげく、一枚の刺しゅう入りのハンカチーフを作ることにした。
いつもクラウンの手元におけるものだから、それを肌身離すなと念押しすれば、彼なら必ずやそれを常に携行するだろう。
ハマーンが祈りを込めたそれがあれば、もしかしたら、万に一つの可能性かもしれないけれど、クラウンのピンチを奇跡で助けてくれるかもしれない。
「あ……」
ハマーンは、ハンカチーフに必要な材料が手元にないことに気付く。
胸元を飾るハンカチとして使用されるようなシルクなど、あるはずもない。
だとすれば、普段使いできるような何かでないと……植物繊維で何か、何かあるはず──とハマーンははっとする。
くたびれたタンスをごそごそと漁り、奥の方に収納してあるほぼ新品のショーツをとりだす。履いているものに穴が空いたら替えに使おうと思っていた、秘蔵っ子である。
キャミソールは柄物ばかりだし、毛玉がひどすぎてとてもハンカチーフの素材には使えそうにない。服もハンカチーフの素材取りに使ってしまったら、明日から着るものがなくなってしまう。
背に、腹は代えられないのである。
乙女として何か深刻なミスをしているような気もするが、他に適切な素材がない以上──と、ハマーンは多分2回しか履いてない純白のショーツを手に取り、幅を図る。
小さなハンカチサイズなら、いけるっ、と確信する。
「……2回しか履いておりませんから、ほぼ新品、と言い張って良いですわね」
ごめんなさい、クラウン、と心中で謝りながら、ハマーンはハサミをいれてほぼ新品のショーツをいい感じに断つ。
ゴムの部分なども転用して、ハンカチの端にちょっとしたリングを付けてやろう、などと、いざハマーンは裁縫仕事をやり始めると熱中した。
ちくちくと針を操りながら、ひと縫い毎に祈りを込める。
クラウンに危ないことが起きませんように、と祈るのだ。
ハマーンにとっては限りなく貴重な、ほぼ新品のショーツを犠牲にしたのだから、そのくらいの加護くらいあってもいいのではなくて? と時に神を罵倒したりしながら、日暮れ時までハマーンは集中力を維持した。
努力の甲斐はあった。
おそらく半径1KM圏内でハマーンほど裁縫が早かったものはいないだろう。
ショーツベースという意味では、少なくとも、このコロニーにはいないはず、と誇らしげに思った。
「これで、よしっ! あとは梱包ですわっ!」
完成した喜びから、自然と笑みがこぼれる。
何か箱はないかしら、と使えそうなものを放り込んでいるジャンクカゴをあさると、ちょうどいい小箱があったので、そこに畳んで納めておく。
リボン代わりに端切れ素材を使って、お守りのパンカチーフ完成である。
我ながら渾身の出来なので、これならばたとえ弾幕の中でも弾丸のほうがクラウンをよけてくれるだろう、とすら思えた。
否、そう、思いたかった。
そうであってほしい……と、ハマーンは、プレゼントの小箱をじっと見つめながら、涙をこぼす。
こんなものしか、用意できなくて、ごめんなさい、と。
クラウンが腕を振るった今晩の食事は、いつも以上に豪華であった。
鍋料理、というもので、ダシやらミソやらコチュジャンなど、随分といろいろな調味料を使った煮込み料理らしく、何を煮込んでも美味、とのこと。
ハマーンらは、クラウンが用意した様々な具材をきゃっきゃと騒ぎながら楽しんだ。
特に、ツクネ、トーフなどは素晴らしかった。これらはそれほど保存が効かないから、ということで、今日使いきるらしい。
ハクサイなど、野菜に関しては、食後にクラウンが、ハマーンとセラーナにツケモノとキムチというものの作り方を教えてくれた。冷蔵庫に入れて使えば、そこそこに持つらしく、酸味がきつくなってきたらジャンをいれた鍋にすると食べられる、などと教わった。
壮行会、という名目だったのに、普通の食事になってしまったのはクラウンがそうしてほしい、と言い出したから。
日常の延長に、クラウンが守るべき主家があるのだと実感してから出発したい、という、彼がこの家に来てから初めて述べたわがままに、応えぬわけにはいかなかった。
夜、ハマーンは自室を抜け出して、野外にテントを張って寝ているクラウンのところに遊びにいった。
もちろん、例のプレゼントを持って。
テントからは薄明りがもれていて、クラウンの大きな背中が影となって見えていた。
「クラウン?」
入口を開けてのぞき込むと、何やら書き物をしていたクラウン。それをハマーンが覗き見てみると、ハマーンやセラーナへの、2か月間どう過ごすか、食料が万が一にも不足した場合、どう対処すべきかなど、ハマーンたちの不安を打ち消すべく、細かなことを書き残そうとしているようだった。
「ハマーン様、肌寒いのでこちらへ」
クラウンがテントの中の一画を空けたので、そこにハマーンは座る。
一枚の毛布を渡されたので、それで身を包む。
「夜更かしはいけませんよ、ハマーン様」
「夜更かしではありませんわ。わたくし、主家として、従士クラウンに渡すものがあるので、わざわざ出向いたのです」
ハマーンはむっとしながらそう告げると、クラウンが想定よりもずっと厳かに、その場に直り、跪いた。
「──従士クラウン、ハマーン様から何かを頂けるなど望外の極み」
ハマーンは、クラウンが従士となってから、従士と主家の間の礼節に関する本を熟読していたので、毛布を纏ったまま立ち上がる。
淡いオレンジ色輝きを放つランタンによって天幕に浮かぶ二人の影だけをみれば、ドレスを纏った姫君と、跪く騎士の姿が写った影絵ともいえよう。
「従士クラウン。わたくし、ハマーン・カーンは、祈りを込めてこれを作りました。その祈りとは、あなたに降りかかる危難が、あなたの命を奪わぬように、というものです」
ハマーンが事実を告げると、クラウンがハッと息を飲む。うつむき、少し震えているようにも見える。庭師上がりの従士なのだから、上流階級の作法に緊張しているのかもしれない。
「常に、肌身離さず、これを」
ハマーンに差し出された小箱を、恐る恐る受け取るクラウン。
その様はまるで命を預かるがごとく、慎重に慎重を重ねたものであった。
「開きなさい」
ハマーンは告げる。少々気恥ずかしいものの、今の主家の事情なら精一杯の代物であることを理解してくれるはずであろう、とハマーンは覚悟を決める。
「これは……まさか、ハマーン様お手製のハンカチーフでは?」
箱を開き、恭しく純白の四角い布を掲げるクラウン。高らかに天に与えられた祝福を見せつけるかのようでもある。
ハマーンの性格がそのまま表れたかのような、端正でほつれのない刺繍で描かれた文字には『わたくしを離さないで』とあり、ハマーンのサインが隣に並ぶ。
「なんたること……身に余る光栄、恐悦至極ッ!」
平身低頭するクラウン。
まさにドゲザ・スタイルであったため、慌ててハマーンはクラウンに頭を上げるように命じる。
「単にハンカチを離すな、と刺繍しただけですわ。大げさな」
「しかし、これほどの布地をハマーン様が捻出されたと思うと……おそらくは、新品のキャミソール一枚をダメにしたのではないかと不安になりました」
何たることだ、今更服を買いに行ったとしても、店は開いていないぞ、詰んだか? とブツブツ独り言をこぼしながら思案するクラウン。
クラウンを心配なく送り出してやりたいハマーンは、彼を落ち着かせるべく、勇気を出して真実を告げることにする。
「……問題、ありませんわ。ほぼ新品のキャミソール一枚くらいどうとでもなります。情けない代物ですし、恥を知らぬ代物と評する輩もいるでしょう。ですが、わたくしがいま持っているもののなかで、もっとも美しいものはこれしかなかったのです」
クラウンが目にリンゴが入るのではないか? と思うほどに見開いている。
やはり、正直に話すべきだったのだろうか。ついつい気恥ずかしさのあまり、キャミソールと偽ってしまったハマーンは、自分の貧乏ゆえに心まで貧しくなったかと、嘘をついてしまったことを後悔する。
「い、いらなかった捨てても──」
貧しいことが、これほどまでに恥ずかしいことなのかと胸を痛めるハマーンは、毛布をぎゅっとつかみながら、そう口走った。
しかし、クラウンがそれを静止する。
「このクラウン、家宝、いや、聖遺物として墓まで持っていきます」
かつてない満ち足りた表情を浮かべるクラウンは、いまなら確かに弾丸のほうが避けてくれそうな幸福感を放っているようにみえなくもない、とハマーンは思う。
「──ところで、ほぼ新品、というのは?」
何か重大なことだったのだろう。やはり、問われたか、とハマーンは息を大きく吸う。
「黙れ俗物っ! まだまだ駆け出しの従士の分際で主家から新品を賜れると思うなっ!」
顔が熱い、と思いながらも、ハマーンは気丈に一喝する。
自分が無理筋の理屈を立てていることはわかる。
だが、従士たるクラウンならば、そこは飲み込んでくれると、ハマーンは信じたかった。
どうやらクラウンは飲み込んでくれたらしく、恭しくそれを胸元にしまう。
本当に聖遺物のように取り扱うので、ハマーンはお古を渡してしまった自分が情けなくなり、「帰ってきたら、新しいのを作って差し上げますわ。何か良い布を手に入れていらして」と告げる。
しかし、クラウンは首を振る。
「ほぼ新品、その事実だけで私は、百年戦えます」
その面持ちは、まるで天下でも取れそうなほどに覇気に富んでいた。
翌日の朝、クラウンを見送ったハマーンは、意外にも寂しくなかった。
むしろ、不安がるセラーナをなんとかせねばと、日々忙しくしていたことを思いだす。
クラウン不在のため、敷地を出られぬハマーンらは、彼が残してくれた物資を計画的に消費しながら、またイモを植えたりするなど、些細な抵抗を開始した。
暴風雨が来るならこい、と覚悟を決めながらセラーナと毎日庭を手入れし、直し方が書かれたクラウンのメモを参照しながらボイラーと格闘したりしているうちに、どんどん時は過ぎていく。
夜、ハマーンが一人でベッドで寝ていると、不意にクラウンが事故で死んでしまう夢を見たりして、飛び起きたりもした。
嘘つきっ! と瞼を腫らして起きてしまったら最後、不安で再び眠ることもできず、ハマーンにとってつらい翌日が待っているのであった。
そうやって何とか毎日をやり過ごしているのだけれど、床下の食糧庫の中身が目に見えて減っていくことはどうしようもない。先行きの不安を抱えながらも、どうにかなる、どうにかなれ、とハマーンとセラーナは先細る毎日と戦い続けた。
まもなく2か月が経とうという頃、カーン邸に一台の車が止まり、そこからスーツ姿の役人が下りてきた。
ハマーンとセラーナは彼女たちなりの正装で出迎える。
もちろん、父、マハラジャ・カーンも同様である。
誰がどう見ても、無宿者の成れの果てとしか見えぬ恰好の三人であったが、彼らは手入れされた庭で堂々とその役人を迎える。
「マハラジャ・カーンだな」
挨拶もなく、役人が確認する。
いかにも、と父がひるむことなく応える。たとえ落ちぶれようとも、心まで卑屈になることはないのがカーン家の最後の意地だからである。
娘たちも二人、睨むように役人を見据えている。
「──ギレン・ザビ閣下からの命令により、貴様たちの蟄居・閉門を解く。だが、忘れるな? 我々はいつでも貴様たちを監視しているからな」
役人はそれだけ述べて、父になにか書類を押し付けて帰っていった。
あれはただの役人とは違うのかしら? などとハマーンとセラーナが首をかしげていると、父はただ一言、娘たちに告げる。
「クラウンが、やってくれたよ」
その言葉の意味は分からなかった。
しかし、数日後にその意味を理解することになる。
顔の傷が目立つ、怖い大柄な男がやってきた。
武装した軍人たちを引き連れていたが、男は大喝して兵隊たちを断固屋敷の敷地へと足を踏み入れさせず、ただ一人、肩で風を切ってカーン家自慢の庭園を闊歩して屋敷のドアを叩いたのである。
「おうっ、マハラジャ・カーン! 俺だっ、ドズルだっ!」
ドズル・ザビ、すなわちザビ家の男であり、ハマーンの愛するマレーネ姉さまを買った悪漢だと悟ったハマーンは、万一の時に、とクラウンから託されていた回転式拳銃を持ちだし、玄関へと駆けた。
ドアを開け、見上げてもなお足りぬ大柄の体を目にした瞬間、ハマーンは回転式拳銃を構えた。
「よくもぬけぬけとカーン家の門をくぐったな! 恥を知れっ!」
震えながら銃を構えるハマーンを見下ろしたドズルが、かがみこんでハマーンに視線を合わせる。
「ふん、マレーネとは似ても似つかんな。貴様には覇気がある」
そういって、ハマーンの構えた拳銃の銃口を、わざわざドズルの額へと当てさせる。
「震えているな。撃ってみろ、小娘」
「……っ!!」
侮辱された、と思ったハマーンは引き金を引こうとする。
しかし、びくともしない。
誰でも簡単に引き金を引けるはずなのに、とハマーンが観察してみると、撃鉄をドズルの太い指が抑え込んでいた。
「──よくぞ引いた。カーン家は安泰だな」
ドズルに拳銃を奪われたハマーンは、ドズルの丸太のように太い足に突撃し、噛みついてみる。だが、ドズルは表情一つ変えず、とんでもない膂力で彼女を引きはがした。
「諦めも悪い。気に入った。将来、俺に娘が生まれたら、貴様に教育係を引き受けてもらう。強い子に育ててくれそうだ」
そのまま暴れるハマーンを小脇に抱えて、ドズルが屋敷の中をすすむ。
どうやらかつて訪れたことがあるらしく、簡単に応接室への侵入を許してしまった。
「……この程度で済んだか」と応接室を見渡すドズル。
「何がこの程度だ! わたくしたちがどれほど苦労したか……」
ハマーンが怒りを込めて手足をばたつかせるが、いかんせん、体格が巨人と小人ほどの差がある。手も足もでない、とはこのことである。
「ドズルか」
父が、どこから用意してきたのか、昔のような立派な格好をして出てきた。
ドズルは、この暴れ馬を離していいか? と訊ねる。
「ハマーン、こちらへ来なさい」
父にうながされるまま、解放されたハマーンは、さっと父の背に隠れて、ドズルを威嚇する。
「──俺は、貴様の家が羨ましい。ザビ家の連中はこういう元気の良さが足りん。ガルマには期待しているが、アイツはちょっと優しすぎる」
ふん、と鼻息を荒げながら、ドズルは応接室の椅子に座るが、ミシリと音を立てて崩壊する。ハマーンは渾身の作品を壊されたことを強く抗議する。
「す、すまん……」
意外にも、素直に謝罪して小さくなるドズルに、不覚にもハマーンはあらかわいらしい、と思ってしまった。
「ドズル、そっちのに腰かけてくれ」
マハラジャに指図されたクラウン手製の椅子に腰かけたドズルは、久しぶりだな、と切り出した。
「正直、俺はお前たちがこの程度で済んで良かったと胸を撫でおろしている。サスロ兄暗殺の嫌疑をキシリアが無理やりダイクン派の連中に押し付ける計画では、時期をみて貴様らは私刑をくらう予定だった」
もう、その予定は消えたがな、とドズルが吐き捨てる。
曰く、ザビ派の市民がカーン邸へとなだれ込み、大衆の手によって殺される予定だったときかされて、ハマーンはザビ家の悪辣さを非難する。
「ザビ家に紳士はいらっしゃらないようですのね」
「いるだろうがよ、目の前に」
ドズルが真顔で述べるので、どこにそんな悪党面した紳士がいるのよ、とハマーンが暴れると、騒ぎを聞きつけたセラーナがハマーンを止めた。
「姉さま、姉さま、言いすぎ」
「なんですの? この男の味方をするつもりだとでもいうのですか?」
ハマーンがセラーナを責め立てようとすると、父に止められた。
父は立ち上がり、ドズルに頭を下げる。
「今までの影ながらの助力、感謝する」
なぜ、父が……感謝を? とハマーンは固まってしまう。
「頭を上げろ、マハラジャ。俺とお前は家の問題で敵味方だが、宇宙移民どもの未来についてみている方向は、同じつもりだ」
ドズルの言葉の意味をハマーンは何一つ理解できなかった。
この屋敷の敷地から出ることも許さず、散々さらし者にして、カーンの血が死に絶える様をみているだけなのがザビ家のやりかたではないのか、と、ハマーンはドズルに思いのたけをそのままに食って掛かる。
「ザビ家のキシリアが、そう考えただけだ。ザビ家のドズル・ザビはそうは考えん。貴様らの屋敷に妙な連中が近づかんように兵を張り付かせたし、お転婆共が不用意に外に出ないよう日夜監視させるコストは誰が負担したと思っている?」
言っていることを、理解したくなかった。
自分たちを閉じ込める番人たちが、実は自分たちを守っていたなどという話を信じろというほうが無理な話だ。
「──感謝しろとは言わん。実際、貴様が死にかけていても、直接手を貸すことはできんかったのは事実だ。あの生きのいい若造は、ちょうど都合がよかった」
何の話だろうか、とハマーンは考えたが、生きのいい若造というドズルの言葉が、クラウンを指しているのだと気づくのにさしたる時間はかからなかった。
「ドズル、まさか……」
父が、ドズルのたくらみを見抜いたのか、警戒するように見据える。
「そのまさか、だな。クラウンを俺の手元によこせ。あいつは本物だ。訓練機のMS04で現役の05、次期主力の06も倒して見せた。特技訓練を1か月で切り上げさせ、今は対艦攻撃演習に参加させている。そこでも仮想敵のサラミス級を何隻も落とせるとんでもないヤツだ」
クラウンがザビ家に取られてしまう、と思ったハマーンは「もうお帰りになられたほうがよろしいかと」と、ドズルを追い出そうとする。
しかし、ドズルは小ばかにしたように無視すると、大人の会話に混ざるなら、もうちょっと頭を磨いてこい、などとのたまった。
頭に血が上ったハマーンだったが、よく考えれば相手のいうことを主観で解釈していては利用できるものも利用できないのでは? と考えを改めた。
「……もう少しだけ、お話をうかがいますわ」
「ギレン兄みたいなやつだな、貴様は……。で、クラウンの件だが、奴は条件を出してきた。その条件はすべて飲み、ギレン兄に頼んで蟄居・閉門を解かせ、あとは貴様らの安全を確実に保障することだ」
もう、マレーネを月の大学に送り出して、そこで勉強させている、と告げるドズル。
マレーネ姉さまが悲惨な目に合っているとばかり思っていたハマーンは、まさか? とドズルをみる。
「こんな……こんな悪党みたいな面なのに、善人だなんて誰も信じませんわ」
「あのな、人を善悪に分けるのをヤメろ。善悪相併せ持つのが人間で、どの面を誰に見せるかを決めるのが政治の遊びかたなんだよ」
だから政治はきらいなんだ、とドズルはため息を吐く。
彼は彼なりに、なにやら問題を抱えていそうではある。
「とにかく、クラウンを貸せ。MSの有用性をギレン兄に証明出来たら、返す」
男に二言はない、と言い切るドズル。
こんな男を信じてもいいのだろうか? ザビ家の男なのだから、狡猾なだまし討ちをしようとしているのではないか? とハマーンは訝しむ。
「──わかった。クラウンを貸し出す。ハマーンとセラーナの命だけは、守ってくれ。それが父と、従士クラウンの願いだ」
父が頭をさげるので、お父様!? と背中を叩くハマーン。
しかし、ドズルはうむ、と頷いて、暴れているハマーンの腕をつかむ。
「父親とクラウンに感謝しろ。貴様らは、アクシズに行け。あそこは追放されたダイクン派の連中が鉱山労働に従事させられている資源小惑星だ。そこの総督の地位をダイクン派の幹部だった貴様が担当するなら、誰も反対すまい」
ザビ派の連中相手には、カーン家を追放したと言い張ることができる。
一方で、マハラジャ・カーンはアクシズにて、ダイクン派の連中に対して力を蓄える時なのだと鎮撫する。
誰も損せず、ギレンもマハラジャも得をして、ドズルはクラウンを好きに使えるというわけである。
「……お屋敷どうなるの?」
セラーナが話を分かっていないなりに、口を挟む。
皆でアクシズに行くならば、この屋敷は朽ち果てるだけに思えるのだろう。
「クラウンが留守を守る。ぼろ屋敷だが、主家の屋敷を守るのもまた従士の務め。クラウンの胸元に勲章が揃った頃を見計らって、アクシズから逃げ出してこい」
以上だ、とドズルは立ち上がり、父と握手を交わした。
カーン家の当主は父だ。
だから、父がそう決めたのなら、ハマーンは粛々と従うしかない。
「──クラウンを迎えに来させる。わずかの時間だが、水入らずで過ごせ。それが俺にできる気遣いだ」
そう言い残して、ドズルは屋敷の中を闊歩して、堂々と出ていった。
あんな風に、ただ歩いているだけで立派に見えるようにしなければならないのかと思うと、ハマーンはまだまだ、何もかもが足りないのだと至らなさを恥じた。
後日、クラウンが軍服を着て帰ってきた。
ハマーンとセラーナは、制服姿の彼に向って庭を全力疾走する。
二人で一斉に飛びついたのを、クラウンがさらに逞しくなった体で受け止めてくれた。
出ていったときよりも、もっと精悍な顔つきになっていて、ちょっとだけ怖かった気もしたけれど、ハマーン様、セラーナ様、と優しく呼びかけてくれるその姿は、相変わらず、間違いなくクラウンであった。
「……遅いですわ、クラウン。何事もなければ、真っ先にわたくしに挨拶するのが従士としての務めですわ」
クラウンに抱き着いたままのハマーンは、そういって彼から離れない。
やれやれと失笑するマハラジャや、セラーナも、とねだる妹のことなど構っていられなかった。
「ハマーン様、まずは皆様の自由と身の安全を勝ち取ってまいりました」
クラウンはそう言って、ハマーンを抱き寄せてくれた。
本当に、わたくしの従士はすごいのだ、とハマーンは誇らしくて、頼もしくて、世界中に自慢したくて仕方がなかった。
「苦労を掛けたな」と父がねぎらう。
「いえ、まだ最初の一歩です。しばらくアクシズに避難なさってください。キシリア様の手は及ばぬよう、ドズル閣下と必ずやお守りいたします。ガルマ様がいる士官学校の連中も連邦相手に一騒動起こすつもりのようですし……下手に本国にいるよりは安全かと」
クラウンが力強く約束してくれるが、ハマーンが欲しい言葉はそれではなかった。
ぎゅっとクラウンにしがみついたまま、彼女はクラウンに命じる。
難しい政治の話などどうでもよかった。
ただ、ハマーンのことを抱きしめて、安心させてほしかった。
「クラウン……約束、覚えていらっしゃいますわよね?」
もちろんです、ハマーン様、とクラウン。
私が必ずや、一生、ハマーン様の幸せをお守りいたします──
嘘、つき。
真っ暗な独房のベッドにて枕を濡らすハマーンは、頼りない嘘つきの従士の言葉と面影にすがり、孤独に耐えつづけていた。
彼女の耐える姿を独房の小窓から覗いていた監視の女兵士が、通信機を手にする。
「――そろそろでしょう。餌を与えれば、こちらのいうことを聞くかと」
『結構。彼女と従士にはジオン共和国の礎になっていただきましょう。ジーク・ジオン』
「ジーク・ジオン」
通信を切り、再度ハマーンの様子をうかがう女兵士。
呼吸をしていることを確認し、彼女が愚かな行い――例えば、自傷行為などに至らぬよう監視するのも、重要な任務である。
女兵士は、ハマーンの定期観察報告を送るべく、端末を取り出す。
その端末の待機画面には、木星を背景とした威風堂々たる艦隊の姿が写っていた。
いろんなセンセのお話読んでますが、みんな天才ンゴねぇ……。