シン/機動戦士ガンダム   作:すしさむらい

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愛は、与える者と受ける者、二つの関係があってはじめて本来の輝きを成すもの。どちらが欠けても不完全……

――ゼノギアス フェイのセリフ


第六六話 0084 ハマーンと、クラウン(3)

 

 

 ハマーンは、自身に対して行われた実験やトレーニングの回数を精確に数えていた。

 独房には情報端末も、ペンもなかった。それが逆にハマーンに記憶するべきものを明確に意識させることに繋がったのである。

 すでに、あの実験が2日に一度行われているのだとすれば、ひと月ほどは経過していることになる。

 この程度のことでへこたれるつもりはなかったハマーンだが、ここ数日、明らかに枕元に自身の頭髪が僅かに抜け落ちていることに気付き、自分自身も気づかぬうちにストレスによって変調をきたしているのを悟る。

 

「ハマーン・カーン、出ろ」

 

 また、女性兵士に命じられた。

 女性兵士たちは交代制でハマーンの対応に当たっているらしく、顔なじみになるような機会は与えられなかった。虜囚と親しくならぬよう細心の注意とコストをかけられているのを察するが、ハマーンには、やはり理由に思い至らなかった。

 

「──今日は、実験の日ではないでしょう?」

 

 ハマーンは何も情報を与えられない中での、些細な抵抗を試みる。実験など相手の都合なのだから、こちらがどうこう言えるわけもないことは承知している上での、ほんとうに小さな抗議である。

 

「実験ではない。これに着替えろ」

 

 手渡されたものは、衣服であった。

 拉致されたあの日に来ていたもので、ひどく破れ、焦げ跡が生々しい。

 こんなものをきれば、肌が広く露出してしまうだろう。

 

「断る、と言ったら?」

「我々がお手伝いするまでです」

 

 相手方の意思は固そうだ。

 ハマーンは心もとない衣服のようなものになり果てたそれに、不服の表情を浮かべながら着替える。

 

「──はい。演出意図通りになるかと。衣装も問題ありません」

 

 女兵士たちの中の一人が、誰かと通信しているのを耳にするハマーン。

 演出? なんの話だろうか。

 まさか、この格好で人前で何かをやらされるのか、と思うと、膝が震えてくる。

 彼女とてレディと呼ばれる年頃なのである。

 羞恥とは名誉を傷つけられる恐怖である。名家の子女にとって肌は出すべき時に自らの意図で出すべきもの。それをこのような形で意に添わぬ露出を迫られるなど、まさに不名誉そのものであり、羞恥でしかない。

 

「いまさら、辱めるなどということは……」

「我々は規律ある集団だ。ハマーン・カーン、あなたの想像するようなことはない。黙って我らの筋書きに従え」

 

 女性兵士たちが誇りを傷つけられたかのように、厳しく言い立てた。

 その物言いに、ハマーンはただの痴れ者たちではないのでは? という別の不安を抱く。

 もし、このものたちが言うように規律ある集団なのだとしたら、それを徹底させる指導者がいるということになる。

 その指導者が、ハマーンを必要としている──そんなことを考えると、うすら寒くなってくる。カーン家をあてこするような利用のされかたは、散々にこの体に染みついている。だが、今度は違うのではないか? と、ハマーンは、自らの知らない、新たなる悪意に震えが止まらなくなる。

 

「おい、しっかり立たせろ」

 

 兵たちがハマーンを抱え上げる。

 無理やりに歩かされるハマーンは、肩のあたりに鈍い痛みを覚える。

 しかし、それでも自力でまっすぐ歩むことは厳しかった。

 想像しえない悪意が自分に向けられているのではないか、と思うと、体が強張ってしまう。

 

 

 

 ここからは無重力エリアだ、と言われて初めて、自分が何か大きな艦艇に乗り込んでいるのだということが分かった。

 艦橋と思しき区画へと連れられて行く際に、艦名と思しきものが刻まれた金属板を目撃する。

 ラビアンローズ級要塞艦ラビアン・クラブとあり、そこには『諸々のガノタよ、賢くあれ、地のガノタらよ、戒めを受けよ』と彫られていた。

 ハマーンはそれの意味することは分からなかったものの、それが旧世紀におけるキリスト教の経典に書かれし文言に寄せたものであることは分かった。

 ガノタ……なにかの隠語であろうか、とハマーンは今まで受けた教育を振り返るが、なにかはついぞ、分らぬままであった。

 

「司政官閣下、御連れいたしました」

 

 ブリッジの扉の前で女兵士が告げると、ドアがスライドする。

 そこは戦闘艦の艦橋というにはあまりにも広いように思えた。

 ザンジバル級よりはずっと広い、と思う。

 1年戦争終結後、クラウンに頼み込んで『赤い彗星』シャア・アズナブル大佐の座乗艦のザンジバル級に乗せてもらったことがあるが、あの時みせてもらったブリッジは、もっと手狭で、様々な機器やモニタ、ケーブル類が所狭しと並んでいたはずだ。

 ただ、もしかしたらこんなものだったのかもしれない。

 あの時はクラウンがやたらとアズナブル大佐を警戒していて、ハマーンに『あの影のある美貌に騙されないでください。大佐は若い女とみればすぐ手を出してくる、筋金入りのプレイボーイです』と、しつこかったので、艦艇の詳細をよく覚えていないのである。

 ただ、確かにクラウンのいう通り、アズナブル大佐はハマーンもうっとりするほどのグッドルッキングであったことは明確に覚えている。

 

「ご苦労」

 

 司政官、と周囲から呼ばれているスーツ姿の男がこちらに向かってくる。

 ハマーンを連れてきた女性兵士たちが、姿勢を正して、スーツ姿の男に敬礼をする。

 

「ご苦労様、任務に戻ってください」

 

 司政官がそう告げると、女性兵士たちはハマーンをゲスト用と思しき椅子に腰かけさせて、その背後に立つ。

 

 スーツ姿の男は、ハマーンの椅子の前にて跪くと、恭しく頭を垂れる。

 デビュタント以来、このような紳士の振る舞いになれているハマーンであったが、スーツ姿の男から向けられる値踏みするような目には嫌悪感を覚えた。こちらの体に値段でもつけるのかというくらいにねっとりとした眼差しは、不快でしかない。

 

「ハマーン・カーン様、御機嫌うるわしう──うんうん、いいですね。卑猥さと哀れさを両立できています。この演出なら間違いなくうまくいくことでしょう」

 

 満足げに立ち上がるスーツ姿の男。

 不快感だけがのこるハマーンは、彼を睨む。

 

「その眼差しも良いですね。反抗的で、刺さりますね」

 

 さて、とハマーンの敵意をあっさりと無視したスーツ姿の男は、戦場を拡大しろ、と命じる。

 中央の天井から張り出している大型モニタに、ハマーンがニュース映像やドキュメンタリー画面で見たことのある戦場の光が写っていた。

 

「ご覧の通り、我々ジオン共和国は、ただいま交戦中です。もちろん相手はジオン公国──つまり、ザビ家の犬どもです。この犬たちの中で最も元気なのが、こちらの御方です」

 

 モニタに映るは、冠のエンブレム頭部に刻み、指揮官のしるしであるツノを誇らしげに立てたハイザックである。

 望遠越しのCG補正入りであれども、その姿は戦場の華。

 ハイザックがハマーンの知らないMSをいくつも撃墜していく様は、アクション映画で簡単に敵を倒して進む主人公のようにも見える。

 

「……クラウン」

 

 ハマーンは彼の名を呼び、手で顔を覆った。

 やはり、彼は来てくれたのだ。

 敵陣奥深くにとらわれていようとも、彼なら、歴戦のクラウンならば、そんなことなど問題ではないのだ。

 

「C目標。速度変わらず」

「304防空中隊、C目標により壊滅。中隊本部、通信途絶」

「305、306で挟み込め。防空連隊が一機に虚仮にされるなど、あってなるものか」

 

 連隊長らしき大佐が、声を荒げながらオペレーターに指示を出している。

 指示を飛ばしている者も、それを受けている兵たちもジオンの軍服であることから、ハマーンは自分が軍内のクーデターか何かに巻き込まれていることを知る。

 そうすると、あの画面の向こう、つまり宇宙の中で本来は味方どうしであるべき者同士が殺し合いをしていることになる。

 

「なんと破廉恥な……」

 

 ハマーンは思わず、無様な権力闘争の成れの果てに失意の言葉を漏らす。

 ようやく30倍に及ぶとも言われる地球連邦政府との国力差を覆し、ジオン公国にとって有利な条件で停戦と事実上の独立を勝ち取ったというのに、なぜ……と、一介の学生の身でも分かる理不尽さに拳を強く握る。

 

「いやはや、全くですね。我らジオン共和国は平和を愛しています。ザビ家の傀儡に過ぎぬジオン公国とて、すでに我らと一時休戦を結んでいるというのに」

 

 休戦? もしその話が本当ならば、クラウンは勝手に戦っていることになる。

 命令違反は死刑もありうる、と聞き知っているハマーンは、ひゅっと息をのんでしまう。

 

「さすが、カーン家のご令嬢。我々の意図を察していただけてうれしい限りですね。そう、あなた様の御声で、あの破廉恥な英雄を止めていただきたいのです」

 

 司政官と呼ばれる男は、ちらりと指揮を執っている大佐のほうに視線を向ける。

 それに気づいたのか、大佐は抗議をするように、まだ我々はやれますっ、とスーツの男に向かって強く主張する。

 

「ウォルター・カーティス大佐、君の言葉はわかるし、信じたいのですが……相手が悪すぎますよ」

 

 君は悪くない、と含んで聞かせるためか、司政官を名乗るスーツの男は抑揚を抑えた声で、説得を強める。

 

「兵も実戦経験のない戦後組だというのは承知しています。何一つ、あなたの指揮に落ち度はありません──ですから、命の無駄遣いはやめましょうよ? 司政官としてのお願いです。若者を使い捨てるなんてあなたらしくないですよ」

 

 逃げ道を与える説得に、政治の手管に長けた人物なのだろうとハマーンは感じた。

 

「……本土第三防空連隊、転進し再集結地点へ」

「よい判断ですよ、大佐──さてと、ハマーン様、通信を繋ぐのでよろしくお願いいたします。彼に無辜の兵をこれ以上殺させぬよう、御説得ください。ただ、少々こちらで演出させていただきますがね」

 

 つないでください、と通信兵に命じた司政官。

 ハマーンの手元に通信端末が渡され、スピーカーモードでクラウンのハイザックとつながる。ミノフスキー粒子が濃いので通信音質が荒れていたが、何とか聞き取ることはできそうだ。

 

『──ハマーン様っ! ご無事ですか!?』

 

 クラウンの声だ、とハマーンは胸元に手をやりながら応答する。

 

「クラウンっ! 遅いですわっ! わたくしが迎えにこいと言ったら、すぐに迎えに来るのが従士の務めですのよっ!」

『はっ、このクラウン、身命に変えましても、ハマーン様の足元に馳せ参じます』

 

 間違いなく、彼だ。ハマーンは兵の視線もあるため、歓喜に打ち震える内面を隠し、真っ先に訊ねたかった父やセラーナのことを問わず、先に戦を止めるというノブレス・オブリージを果たすべく姿勢を正す。

 

 よし、映像を送ってください、と司政官が指示を出すと、技術兵がカメラを抱えて、舐めるようにハマーンを撮影する。

 

『──!? ハマーン様、その御姿は……ッ!』

 

 C目標、さらに加速、と通信手。

 カメラをこちらに、と司政官が促す。

 

「やぁ、お初にお目にかかります、ジオンの英雄さん。僕のことを君は知らないだろうけれど、僕は、君をよく存じ上げています」

 

 そう挨拶をする司政官に、クラウンの冷たい声が向けられる。

 

『貴様、ハマーン様に何をした?』

「ナニって、そりゃもう楽しませていただきましたよ。反抗的なハマーン様を屈服させていく征服感というものは、御想像できますでしょう?」

 

 司政官の煽るような言葉の選び方。

 ハマーンは違いますわっ! と声を大にして主張するのだが、通信手の作為によってハマーンの音声はクラウンに届いていないことを悟る。

 説得しろ、と言っておいて、この男は何を考えているのだ? とハマーンはスーツ姿の男をきつく見据えてしまう。

 

「今の映像、見えました? 良い目をしていますでしょう? これが証拠というものですねぇ」

 

 司政官の物言いに対して、しばしの沈黙。

 ハマーンが聞いたこともない、クラウンの歯ぎしり音をマイクが拾っている。

 艦橋に緊張が走るのが、ハマーンにも分かる。

 通信越しであろうとも、クラウンの殺意が漏れ出でてくるように思えるからだ。

 

『──ハマーン様、臣の不甲斐なさを、どうか許さないでいただきたい』

 

 震える声であった。

 相手に対する殺意や敵意ではなく、ハマーンにどう寄り添うべきかを苦悩するクラウンの思いをハマーンは感じ取る。

 

 司政官が、今ですね、とハマーンに停戦を説得しろ、と告げる。

 

「クラウンっ! いまの不埒者の発言はすべて嘘ですっ! 信じてはなりませんっ!」

 

 ハマーンは否定しようとするが、どのような言葉を用いたところで、今すぐに誤解を解くことはできぬであろうな、とも分かっていた。

 クラウンは、忠臣である。

 彼がハマーンを想う気持ちは、サイド3のすべてのコロニーを足し合わせても、収まりきらぬほどであろう。

 

『ハマーン様……従士クラウンは、どうしたらよろしいのでしょうか……? ハマーン様がお望みになるならば、皆殺しをご覧に入れましょう……』

 

 ハマーンにとっては意外な応答であった。

 彼女の言葉は何でも信じてくれるはずのクラウンが、なぜ、何もされていないと頑なに主張する彼女の言葉を受け入れてくれないのか、彼の精神状態が心配になってくる。

 

 それに、いつもなら、クラウンがああしろこうしろと、ハマーンに助言をくれる危急の時であるというのに、なぜか、打ちひしがれたかのように弱々しい声で、判断を仰いでくるではないか。

 

 司政官が「MSを落とせないならば、パイロットを落とせばいいだけのこと」と鼻で笑うのをハマーンは聞いてしまう。

 

 どう、命じたらいいのだろうか? 

 

 ハマーンの命令次第では、クラウンはこの艦を沈め、ハマーンを助けることくらいやってのけるであろう。

 だが、その命令をハマーンは下せそうになかった。

 自分を攫ったものたちに好意などかけらもないが、かといって殺意があるわけでもない。

 決めるための、判断材料が欲しい。

 

「クラウン、父は無事ですか? 屋敷の者たちは?」

『……臣が、不甲斐ないばかりに……慙愧に耐えません』

 

 通信機を、指が白くなるまで強く握るハマーン。

 そう、ですか……とハマーンは跳ねた心をごまかすために、言葉を探す。

 父を失ったという事実を受け止めきれそうにない。

 なにか得体のしれない波のようなものがこみあげてくるが、それを強引に抑圧する。

 逃げ場は、立場。

 カーン家の当主となったという逃げ場に、あっさりとハマーンの心は飛び込んだ。

 カーン家当主なのだから、ハマーンは当主として振舞うべし、という逃げ場をみつけて自分の心に蓋をする。

 

 皆殺しにしよう──という決意だけが、心の奥底に沈む。

 だが、今ではない。

 復讐とは衝動によって場当たり的に行うべきものではなく、観察に基づき隠密に準備されるべきものなのである。

 ただ殺せばよいものではない。

 愛するものを奪うことが重要なのである。

 それでいて、こちらの愛するものを守り切らねばならない。

 不毛で、不快で、不寛容なゲームをはたしてクリアできるのか、ハマーンは算段を立てようとする。

 

「ああ、そうそう。ハマーン様。最愛の妹君であるセラーナ様は我々がしっかりとお預かりしておりますよ」

 

 モニタに映し出されたセラーナは、他の級友たちと励まし合うようにして雑居房で耐えているらしい。サイド3の寄宿学校に入っていたのだが、そこもどうやら奴らの手の内にあるようだ。

 

 ハマーンは、察する。

 この司政官とやらは、人を食らって生きてきたのだと。

 だから非道な手段をこうもタイミングよく、ここぞというとばかりに使えるのだろう。

 人の命も想いも、すべては目的のために利用すべき道具とみなしているに違いない。

 

 手元に拳銃があれば、躊躇いなく引き金を引けるであろう。

 だが、司政官を殺すだけでは問題は解決しない。

 

 ハマーンは確信した。

 大きな悪意が自分たちを捕えたのだ、と。

 その悪意を打ち砕き、逆に食らうことこそが、今のカーン家当主たる自分に課せられた使命だと、言い聞かせる。

 

「──クラウン、わたくしに合流なさい」

『はっ。しかし……』

「まずは、父と挺身した家人たちを弔いたいのです、クラウン」

『……心中をお察しできず……いま、武装解除して御身の傍へと駆け付けます』

 

 ハマーンは、嘘をついた。

 心を預けているに等しい存在に対してさえ、呼吸するように嘘をついた。

 嘘をつくだけにとどまらず、吐いた嘘で自分すらも騙す技術を使いこなさねば……あの司政官とやらを始末するのは難しいだろう。

 

 状況も分からず、すべての主導権を司政官に握られている以上、すべてが推測や憶測に基づく判断になる。

 まずは、その状況から脱却し、確実に復讐の時機を見極める。

 

 司政官に、復讐を。

 そして、ハマーンは自分自身にも復讐を遂げたくて仕方なかった。

 責める心が、彼女を駆り立てる。

 

 ハマーンは抑えていた心の蓋から何かが漏れているのを感じる。

 それが己に対する憎悪であることを自覚するが、とめどなく漏れ出てくるそれをどうにもできない。

 ただ父とクラウンの庇護のもと、油断していたからこうなったのだ、と、かつてドズル・ザビに拳銃を向けた幼き頃の己が、いまのハマーンに銃口を突きつけている様を幻視する。

 

 お前は、カーン家の女。

 油断すれば、すぐに愛するものを奪われる家に生まれた女なのだ、と幼い自分が忘れるな、と警告している。

 

「いやぁ、上々ですねぇ。これでクラウンも確保いたしましたし、ジオン共和国はなんとか形になりそうです。ハマーン様、感謝していますよ?」

 

 しらじらしい司政官に唾を吐いてやりたいが、そうもいかない。

 何一つこの男の狙いも、正体も分かっていないこの状況で、あからさまに敵対してまたどこかに拘束監禁されてしまったら、クラウンとの接触もできず、セラーナ救出に支障をきたしてしまうとハマーンは判断する。

 

「司政官とやら。あなたがクラウンを利用しようとするならば、カーン家当主たるわたくしの承諾なしでは不可能です」

 

 今言えることは、この程度しかない。

 手持ちがなにもなく、政治ゲームの土俵に立てていない己の手札の弱さには、悔しさを通り越して情けなさすら覚える。

 

「存じ上げておりますよぉ。まぁまぁ、ちゃぁんと事情は説明して差し上げますから、しばらくは愛しのクラウン少佐と乳繰り合ってきてください──いいですねぇ。ハマーン様はその調子で私を憎んでくださいね。その方が原作に近くて美しい」

 

 連れていけ、と司政官が命じると、背後に控えていた女兵士らにハマーンは抱えられ、ブリッジを退出させられる。

 自分で歩ける、と抵抗するハマーンは、こんなことしかできぬ己が、大嫌いになる。

 

 本当は、自分の足で歩いたことなどなかった。

 

 一人で歩いていた気になっていただけで、いつも父やクラウンに、影に日向に背中を押してもらい、肩を借りていたのだというのは、実のところ、ずっと気づいてはいた。それでいて、こうやって思い知らされるときが来るなどとは思っていもいなかったのである。

 

 最愛の従士が、そのような苦難を打ち払ってくれると思い込んでいた己の浅はかさを呪いながら、ハマーンはクラウンと会って、何を話したらいいのだろうか、と言葉を探す。

 

 

 

 ハマーンとクラウンの再会は、艦内PXの事務所にて行われた。在庫品の箱に囲まれた中に椅子が二つ向き合っているだけの場に、二人は連行されてきたのである。

 

 兵士たちは二人を事務室に通すと、そのまま出ていった。

 監視カメラが動いているのはハマーンもクラウンも気取っていたが、それは問題にならない。

 

 主従は、無言で歩み寄って抱き合った。

 ハマーンは、ぼろぼろの彼の体を確かめるように抱きしめた。

 レディと呼ばれる年頃になり、このように殿方に触れる機会はなかったが、かつて幼き頃に全力で抱き着いていた彼と同じように、たくましく思えた。我が従士の益荒男ぶりをうれしく思うと共に、彼の体をここまで傷つけた敵を憎む気持ちが芽生える。

 

「よくぞ、よくぞ来てくださいました」

 

 ハマーンは、彼があまりにもボロボロだったことと、その体であってもしゃにむにここまで助けに来てくれたことを思うと、胸が詰まる。苦労を掛けたのであろう。いかほどの苦痛を無視して、ここにたどり着いたのだろうか。どれほどの敵を打ち倒してきたのだろうか。

 

 ──傷ついた彼を見ているのがこれほどにつらいということを、彼女は初めて知った。

 

 しかし、ハマーンの謝意など届かぬほどに、くたびれ果てているようである。

 

「……どうか私を、お許しくださらないでください……私は、取り返しのつかぬ失敗をしでかした破廉恥な男です」

 

 マハラジャ様をお助けできず、セラーナ様を守れず、挙句、ハマーン様が辱めを受けるなど、何たる不覚、と、クラウン。

 彼がハマーン抱く腕は、いたわるように優しかったが、とても震えているのをハマーンは肌で感じ取る。

 

「臣は……ハマーン様に、顔向けできません……」

 

 膝から崩れ落ちるクラウンを支えるように、クラウンの頭をハマーンは己の胸のあたりで抱き寄せてやる。いつか殿方を胸元に抱き寄せる日もこようとは思っていたが、その相手がまさか彼になるとは思っていなかった。

 セインは、主家と婚姻を結ぶことができないからである。

 一生涯を通した強固な主従関係であり、対等な関係である婚姻関係とは相反するのである。

 

「クラウン」

「……はっ」

 

 胸元に抱いている彼からは、もう震えを感じない。

 むしろ、力が抜けているように思える。

 クラウンの吐息を、腹のあたりに感じてハマーンはすこしくすぐったく思う。

 

「クラウン、わたくしは良い香りがするでしょう?」

「!?」

 

 クラウンの息が止まる。

 

「よいのです。クラウンの前に肌を晒すことも、このように肌を重ねることも、わたくしはうれしく思うのです。我が忠臣、クラウン。よく、わたくしの元へと帰ってきてくださいましたね」

 

 ハマーンがねぎらうと、クラウンの呼吸が再び荒くなる。

 あ、う、と、まるで何かをこらえているようであった。

 彼女は、クラウンの頭を撫でながら、問う。

 

「わたくしとの約束を覚えているかしら?」

 

 ハマーンの問い。

 それに、クラウンは声を震わせる。

 

「はい。一生、私はハマーン様を幸せにいたします」

「それを、重荷に思うなら、捨てていいのですよ?」

 

 ハマーンは覚悟を決めて告げた。

 ここから先の司政官との化かし合いに、恩のある彼を巻き込みたくないという思いや、彼を──あまりにも大事に思うがゆえに、彼を司政官に利用されるのではないかと、危惧してのことである。

 愛するものを切り離さなければ、謀略のゲームでは不利になる。

 そんなことは自身を小娘であると自覚するハマーンですら分かっていた。

 

「私の元から去っても良いのです。カーン家への忠義、あなたは存分に果たしましたわ」

 

 ハマーンがそう告げると、先ほどまで力なく、ただハマーンの胸元に顔をうずめていただけのクラウンが、突如力を取り戻したようだ。

 奮うがごとく彼は屹立し、ハマーンはぐいっ、と彼の鍛えられた胸板に抱き寄せられた。

 先ほどまであんなに弱々しかった男とはとても思えない。

 ああ、この強さこそクラウンだ、とハマーンはクラウンの匂いを感じる。

 彼の広く大きな手が、ハマーンの背中を、腰を、強く抱いているのを感じて、仄かに体が熱くなってくる。

 

「──二度とそのようなことは申し付けないでください。このクラウン、いま、一生分の幸福を得ましたゆえ、必ずや御恩返しをさせていただく」

 

 臣下の立場をわきまえず、失礼しました、とクラウンがハマーンから離れる。

 もうすこし抱いていてくれても、とハマーンが幼い日の如き安息感を覚えたことを正直に告げる。

 

「クラウンに抱きしめられている間だけは、父を失ったことも、セラーナことも、不謹慎にも忘れていられるのです……わたくしを、破廉恥な女だと思うでしょう? 女をやっているわたくしのことを、軽蔑してくださってもいいですわ」

 

 ハマーンは涙をこぼすまいと頑なに瞳を閉じ、うつむき、情けなく膝を震わせながら素直な気持ちを告げる。

 この如何ともしがたい状況で、下手をすれば死ぬかもしれぬ未来がある中──女として、クラウンを想う気持ちがあることは、隠しておけなかった。

 それが主家とセインの関係にあっては許されぬことであり、決して交わることのない想いであることも分かっていながら、告げてしまったのだ。

 

 だが、不意に手を取られた。

 涙にうるんだ視界には、クラウンがハマーンの手を取り跪拝する姿。

 その姿に、ハマーンはクラウンがやはり臣下なのだと思い、失望を隠せない。

 

「──やはり、抱いてはくださらないのですね」

 

 ハマーンは傷つけるであろことを知りながら、言葉で刺した。

 だが、次の瞬間、ハマーンは手を引っ張られ、態勢を崩された。

 そのままクラウンに抱き留められ、唇に熱いものを感じる。

 思わず、うるんだままの瞳を大きく開くハマーン。

 その瞳から大粒の涙がこぼれる。

 しばらく息が出来ず、彼に唇を奪われた自覚すらできないほどに、ハマーンは混乱していた。

 頭のうしろから背中にかけて、激しく痺れるような感覚。ハマーンの体に、今まで感じたことのないセンシティブな刺激が走り、彼女はクラウンに体を預けてしまう。

 

「……ダメ、カメラにみられて……あっ!」

 

 彼女がクラウンを押しのけるようにして唇を離し、抗議する。

 しかし、彼はぐい、とハマーンを誘い、再度、彼女の唇を塞ぐ。

 それだけではない。

 彼の舌が、ハマーンの舌に絡みついた。

 ハマーンは自分の体を制御できない。

 びくり、と体が跳ねて、淡い、とろけるような快感がへその下あたりから走る。

 全身に脈動を感じ、乳房の先端が痛いほどに固くなっているのが分かってしまい、その羞恥に身を震わせずにはいられない。

 

 ようやく、唇が離れ、ハマーンは思わず彼の瞳をみつめてしまう。

 

「ハマーン様、これが私なりの、男をやるということです」

 

 そして、また激しく抱き寄せられてしまうハマーン。

 心臓がばくばくして、何をどうしていいのやら見当もつかない。

 

「──こういうことは、ハマーン様が本当に女をやりたいときのために取っておきましょう」

 

 これがクラウンなりの答えなのだと察したハマーンは、胸の奥だけでなく、顔まで熱くなってしまう。

 

 男をやる用意はある、ということは、ハマーンが望むすべてに応えてくれるということ。

 従士と主家の間に許されぬ関係であり、いずれハマーンが婿を迎えた時には不義となろう。しかし、そのような不名誉など彼なら踏み越えてくれるというのだ。

 

 それを確認できただけでもよかった。

 父が死に、妹が拉致された事実を忘れるために女をみせてしまう浅はかな自分にとって、これほどに過分な男は、もう現れないだろうと確信できた。

 彼はわたくしとともに堕落してくれるのだ、と想うと、悪を引き受け、悪を成す覚悟と活力が湧いてくる。

 

「──見られて、しまいましたわ」

 

 ハマーンは視界に入った監視カメラに視線を向ける。

 映像をどう利用されるかを考えると、あまり褒められたものではないな、とハマーンは浅はかさのほうを恥じる。

 

「ご安心を、ハマーン様。すべてループさせています」

「は?」

「ハマーン様の想像以上に、クラウンは強く、狡猾でございます」

 

 自信を取り戻したらしいクラウンの姿に、ハマーンは安堵を覚える。

 彼が立ち直ったなら、あとはセラーナを助け出し、父と家人を殺した連中に報復するだけである。

 ただ、一点だけ気になるところがあるので、ハマーンはクラウンに問う。

 

「……狡猾ということは、先ほどのその……くちづけも……なにかたくらみが?」とハマーンが上目遣いで訊ねると、クラウンは首を振る。

 

 あれはもう成り行きと言いますか、そうせざるを得ないと言いますか──あれは、あまりにもあざとい、とのたまうクラウンに、ハマーンはデコピンを食らわして懲罰をあたえた。

 

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