黄昏の向こう   作:テービット

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1話 星が降った町

 

 風に乗った枝葉のざわめきがぴたりと止んだ。

 山道を覆っていた樹木はここで終わり、目の前には暗さの濃淡だけが微かな輪郭を縁取る岩場が続く。

くっきりとした白い息を自分の顔でかき消しながら、伝う汗を意に介さずに歩みのペースを保つ。この一帯の岩場は雪解けしてからまだ日が経っていない。足元の苔むした岩は湿って滑り易い。ちょっとの油断で足をとられて転ぶだろう。

 手も足も使って、しがみ付きにじり寄るように、慎重に着実に進んでいく。

 転んでなんていられない。刻限はもう迫っている。

 靴底を岩に擦り付ける音とフードの中に響く荒い息遣い。他には何も聴こえない岩山めいた道なき道を、無我夢中で登り続けていた。

 

 もう少し、あと少し――

 

 直線距離、高度は大したことはない。

 それでも途方も無くいつまでも続くように思えた岩場が、急に途切れた。

 視界が一気に開けて、顔に纏わりついていた汗が、刺すような冷たい風でみるみるうちに乾いていく。

 一人山頂に立つ少女、宮水三葉。

 彼女の揺れるの双眸には、カルデラに似た山頂の草原が映っている。雲上の空中庭園を思わせる盆地に流れる小川を越えた先には、ひっそりと佇む祠が一つ。

 今は守護する者を失って打ち捨てられた遺跡。宮水神社の隠し本尊だ。

 

「ちょっと――み――は――」

 

 風に紛れて、悲鳴に似た囁き声が足元から聴こえた。

 

「三葉……ちょっと、ちょっと待ってってば。――もう、早過ぎ」

岩場の傾斜を這うようにして、名取早耶香が二番目に山頂に足を踏み入れた。

 

「ごめん。さやちん」

 

「『こっから一本道やからもう大丈夫!』っていきなり叫んだかと思ったら猛ダッシュするんやもん。私らは初めての道やのにガンガン先行くから焦ったわ」

 

「本当にごめんやって。今度、必ず埋め合わせするやさ」

三葉はパンッと音を立てて手を合わせ、拝むポーズで詫びた。

 

「もうええよ。巫女さんに本気で拝まれると何か微妙な気分やわ」

観念した風に早耶香は微笑んだ。

 

 微笑み返した三葉は、地平線の向こうの沈み行く夕日に目をやって、

「どうしてもね、間に合いたかったんよ」と、囁くように呟いた。

 

 何と言ったか聞き返そうと早耶香が口を開きかけた、丁度その時。

 

「おーまーえーら……」

 

 二人の足元の更に下方から聞こえた男の声に続いて、少年の坊主頭が現れた。ガシャガシャ擦れる音と荒げた呼吸で、恨めしそうな呼び掛けはほぼかき消されていた。

 

「あー、ごめんごめん。テッシーお疲れ様」

 

「ありがと、テッシー」

 

「ちっとはこっちに気ぃ遣えって。三人分になるとマジ重いんやぞ、コレ」

 

 勅使河原は膝に片手を付いて息を整えながら、残った手で背中の荷物を指差した。

登山前に少女二人におだてられて、調子に乗って全員分のリュックを喜んで背負い込んでしまった後悔が一挙手一投足に現れている。

 

「よっ!テッシー、流石!男前!山の男!」

 

「建設現場で鍛えてた男は違うねぇ。何かいつもより引き締まって見えるやさ」

 

 女子二人分の黄色い声が少年を囲って、彼の二の腕を拍手代わりに両側からポンポン叩く。

 向き合う三葉と早耶香は、お互いにおかしくて吹き出しそうなのを堪えているのがはっきり分かった。考えていることは二人共同じなのだろう。

 細身の彼が三人分のリュックを横に広げて強引に背負う姿は、傘を揺らして歩く山のお化け茸そのものだ。

 

「お、おう。まあ伊達に稼業の手伝いはやっとらんからな」

照れ笑いで緩んだ頬に釣られるように肩からリュックがずり落ちるが、

「ってオイお前ら。おだてりゃ済むと思っとるやろ。次はそうは行かんからな」

すぐさまリュックを慌てて背負直しながらしかめ面と作って見せた。その口元は緩むに任せたままで、声色も穏やかだった。

 

「はいはい、どうどう」冗談めかして応じる早耶香は、流れるような所作で勅使河原から二人分のリュックを受け取った。

 二人の様子に目を細める三葉は、早耶香からリレーのバトンさながらに受け取った自分のリュックをしっかりと背負い直して、夕日の浮かぶ空へ向き直った。

 

「懐かしいな」

呟いた勅使河原の声に重みが加わった。

「親父の手伝いで資材や機材運ぶ毎日送っとったのも、もうずっと昔みたいや」

 

「ジジ臭いなぁテッシー。昔って言ってもたった半年前やろ」

早耶香は大袈裟に笑って軽口を叩いた。

 

「……あれからもう半年も経っちゃったんやね」

 

 三葉は風船が萎むような嘆息を漏らした。それからしばらく、痛いくらい冷たい風だけが三人の間を吹き抜けた。

 

 勅使河原は出し抜けに腕を振り上げた。早耶香に一歩寄って肩に手を添えると、

「しっかしまぁ、すっげぇ絶景や」と努めて軽い調子で言った。

「糸守のことなんて知り尽くして飽きたって前は思っとったけど、今になってこんな絶景スポットを知るとは思わなかったわ。こりゃあ、インターネットとかで宣伝しとけば観光で一儲け出来たかも知れんぜ?」

 

「何言っとるの。この山は宮水家の土地なんやから無理に決まっとるやろ」

早耶香が嗜めるように彼の頬を指でつついた。

「変電所への道くらいまでは整備の為に他家の人にも通行許可が出とったけど、山頂付近には近寄れなかったやん」

 

「そうやったな。ご本尊に悪戯半分で行こうとして、後で爺婆達に知られて大目玉を喰らった奴とか、中学の頃までは結構居たっけか」

 

 雑談する二人の横顔を、三葉は目を見張って覗き見た。

 二人が語る糸守町の常識は、三葉にとっては初耳だった。

 

 糸守町に住んでいた頃、特に中学高校時代の三葉は、周囲から完全に浮いていた。

仲が良いと断言出来る友達は隣にいるサヤちんとテッシーの二人くらいだ。

 あの頃は、土地の権力者たる宮水家の人間としての嫉妬と、汚職政治家の娘への軽蔑の的になっていたからだろうと思っていた。

 もしかすると、それだけじゃなかったのか。

 自分の与り知らないところで、不運なすれ違いによる不和や軋轢が生じていて、他の住民達にも彼らなりの事情や鬱憤が蓄積していたのかも知れない。

 自分が知っているのは、その一端に過ぎなかったのだろうか。

 

「私らが糸守について知らん所、知らんことって、まだ色々とあったんかな」

と、三葉は誰にともなく呟いた。

 

 あまりにも濃過ぎて淀んでるとすら感じた人間関係や、僅かばかりに小洒落た要素を窺えるのは精々が飲み屋二件という、冴えない店ばかりが並んでスカスカに見えた商店街。

 半年前までの日々は、卒業したらすぐにでもこの土地から離れたくて、口を開けば愚痴ばかりだった。

 けれども、新鮮な出会いや発見があった後にも糸守町に住み続けたり、土地を離れてた後になって、またこの地に戻ってくることがあったなら――

 そうしたら、ちょっとばかり時間と距離を置いて、故郷の違う側面を見つめ直すことも出来て、仲が悪かった同級生達とも気軽に冗談を言い合える間柄に昇華出来たりもしたのだろうか。

 

「もしも、知らんかったことが山ほどあったとしても、同じことやないか」

テッシーの冷めた口調が、物思いに耽る三葉を現実に引き戻した。

 

「知らんかったことや場所も、山と一緒にごっそり削られちまったやろ。

……ここが本当に糸守なのか、っつーかこの景色がこの世のモンなのかも、こうしてぼけーっと眺めていると分からなくなってくるわ」

 

「星が降って着そうな夜ってヤツ、マジで体験しちゃったもんね」

と、早耶香が沈んだ声で言った。

 

 それっきり三人は口をつぐんだ。汗が引いた後も相変わらず体を冷やす風は、空を覆う雲の形を少しずつ変えていく。

 その切れ間から姿を現した糸守湖を、三人は食い入るように見つめていた。

 

 この瓢箪型の湖を始めて目にする人は、太陽に照らされる雪だるまに似た美しさや愛嬌を見出すのかも知れない。

 だが、三葉や傍で顔を顰める二人にとっては違う。

 薄く伸ばした水銀の玉を連ねたような湖は、半年前までは綺麗な円を描いていた。

 約半年前の二○一三年十月。

 ティアマト彗星の落下によって、糸守町の北側は消し飛んだ。

 彗星が作り出したクレーターに水が流れ込んで糸守湖は今の形になった。

 糸守町の北側に在った三人の家や、この地を実質的に擁していた宮水神社。三人が同じ時間を過ごした数々の思い出の痕跡。その全てが、今はもう影も形も無い。

 幸いにも死傷者はゼロに等しかったものの、糸守周辺地域は今も立ち入りを禁じられている。元住民ですら、家財を引き上げにこの地に来るためには事前に役所に申請を出す必要があるし、この地での行動範囲も制限された。

 自宅が消し飛んでしまって、立ち入る口実すら無くなった三人がこの山に足を踏み入れることが出来たのは、糸守周辺を囲む宮水家の私有地を迂回して着たからだ。

 

「変わったって言えばさっ!」

早耶香が突然大声を張り上げて、寒々とした山頂の風切り音をかき散らした。

「テッシーも、見た目細いのにお腹周りに大分お肉ついてきたよね。大学受験生って言ってもちゃんと運動もしなきゃ。形だけあの湖みたくなってもみっともないよ」

 

「お前に言われたくないわ。無駄なとこにばっか肉つきよってからに。明日からダイエット宣言を何回繰り返す気や」

勅使河原はおどけて言いながら、早耶香の脇腹をつまんだ。

 

「あー!ひっど!!女子にそういうこと言う!?」

 

 二人の会話に耳を傾けていた三葉はクスッと小さく微笑んだ。

 

「何か……ほっとした。二人とも、付き合い始めてますます息ぴったりやね」

 

 その言葉で、二人の動きはピタリと止まった。特に勅使河原の表情筋が一気に緊張した。

 

「お前――まさか知って!?」

 

「うん、サヤちんから聞いとるもん」

 

 けろりと言った三葉と、素知らぬ顔を装いながら日暮れ時でも紅いと分かる顔で空を見上げる早耶香。勅使河原はそんな二人の表情を、油切れのロボットめいたぎこちない動きで首を振って交互に観察していた。

 この三人の仲なら今更隠すようなことでもない。勅使河原自身は三葉に対して多少なり異性として憧れを抱いていた時期もあったが、それも過去のことだ。

 とは言え、知人に交際していると知れ渡るのは、やはり恥ずかしいものはある。

 

 勅使河原は引き攣った赤い顔で何十秒か固まった後で、

「そ、それにしても、アレやな。アレアレ」とぼそぼそ唱えると、あからさまな咳払

いをした。

「そう、やっぱり絶景や。わざわざ山登ってまで三葉が見たかったってのも分かる」

 

「本当。こんな綺麗な夕映え、見たこと無いわ」

苦し紛れの恋人の言葉だったが、早耶香は感嘆と共に同意した。

 

 今は廃墟とは言え、糸守湖の周辺には人里の名残は在る。

 もっとも、糸守の民は悠々たる大自然に敬意を払って共存してきたから、この土地での営みは全盛期であっても実に細やかだった。

 それ故だろう。糸守湖の周囲を雲海が覆うこの地には、深山幽谷と称するに相応しい光景が広がっている。

 

 山吹色の夕日が空も雲も山々さえも染めて上げていた。

 足元より下は、金色の雲と白銀と見紛う糸守湖以外には何も見えない。

吹き付ける風の中で山頂に立ち、地平線の彼方まで見渡す。すると、翼が生えて空を飛んでいるのではないかと錯覚させる浮遊感と、雲海を渡って空の彼方まで行けそうな解放感が、体の隅から隅まで満ちていく。

 この世にこれ以上の得難く美しい光景は存在しないに違いない。

 勅使河原があからさまに話題転換を狙ってこの景色を話題にしたにしても、実際にこの場に立てば、その優美さについてはささやかな異論を挟む余地はない。

 

「まだやよ」

 

 ただ一人の例外。きっぱりと告げた宮水三葉を除いては。

 

「確かにテッシーとサヤちんの言う通り、この景色も綺麗やよ。でもね、まだなの」

 

 この絶景を素直に享受しない親友に首をかしげる二人の様子には目もくれず、

三葉はひたすら雲の彼方で沈み行く夕日を見つめる。

 

「肝心なのはここからやから」

 

 優しく照らす夕日は、懸命に夜の帳に抗いながらも、じりじりと後退していく。

 紺色が空に染みていき、雲から空まで彩る山吹色はにわかに赤みを帯びた。 

 三葉は固唾を呑んで来るべき時を待つ。

 いよいよだ。

 今一度、何としてもこの目で確かめたかった光景が、もうすぐ訪れる。

 この夕映えはいわば懸け橋のようなもの。

 きっともうすぐ。私がずっと見つけたかったものが、この先でなら表れてくれる。

 

「すっげぇ……」

 

「……綺麗」

 

 勅使河原と早耶香が感嘆を吐いた。

 

 どこまでも続く雲海の向こう、更に向うへ沈みゆく山吹色の夕焼けと、滔々と深まる濃紺の夜空。境目は霞のようにぼやけて茜色と牡丹色が混ざりあい、オーロラもかくやという天然のベールが地平線をぐるりと覆う。

 風は止んだ。そよいでいた草原の草でさえ微動だにせず、山頂の一帯は耳鳴りがするほどの静寂に包まれている。

 しかし、そこに立つ三人は、波打ち際に立って押し寄せる波を全身で感じるように大空の動きを肌で感じた。とぷん、と夕日が完全に沈む音を確かに聴いた。

 

 三葉はしずしずと、驚嘆する勅使河原と早耶香から距離を取った。

 夜闇の中で鎮まる炎のように目減りしていく空の茜色は、自分の胸の内を投影している気がした。

 世界が沈むようなこの音を、確かに聞いたことがある。

 この瞬間、この場で抱いた二つとない肌の感覚は、絶対に身に覚えがある。

 

 ――それなのに、それ以上のものは無い。

 ――この一時の中に探し求めた大切な何か。その正体は、何一つ分からない。

 

 

**********

 

 

 夕暮れ――カタワレ時を前に、早耶香は自然と勅使河原に肩を寄せていた。語らう二人の声は華やいでいた。

 

「山頂だとこんな風なんやなぁ。ずっと糸守に住んでたのに想像もせんかったわ」

 

「毎日毎日見慣れてたカタワレ時がこんなに違く見えるなんて、信じらんない」

 

「三葉が山登るとか言い出した、ってお前から聞いた時はまた狐憑きかって驚いたけど、これは確かに見たくなる。つーか、見とかなきゃ人生の損失や」

 

「うん。一時はどうなるかと思ったけど、本当、三葉に感謝やよね」

 

 

 遡ること一週間前。

 勅使河原に告白して無事に想いが通じた翌日に、早耶香は岐阜駅の喫茶店で半年ぶりに三葉と落ち合った。

 三葉に連絡をとる決意するまで、何日もろくに寝付けず悶々と悩んだ。

 無二の親友である彼女ならきっと喜んでくれると予想していた、恋が実ったと言う良い報せ。そして、晴れてカップルとなったその直後に早耶香と勅使河原を襲った、自分達三人を破滅させる時限爆弾になるかも知れない悪い報せ。

 その両方を同時に抱え込んで、大き過ぎる感情の揺れ幅に翻弄されていたからだ。

 ティアマト彗星落下を予言して自分達に見せつけた、三葉のあの神秘の巫力めいた力をもってしても、この悪い報せはどうこう出来る性質の問題ではない。

 何より、ここ半年以上に渡ってずっと様子が変だった親友に、これ以上の心労をかけたくはなかった。

 

 去年の夏休み明け頃から、週に何回かの頻度で、三葉が挙動不審なまでのアグレッシブさを発揮するようになった。

 親しい人――お祖母さんの一葉さんと妹の四葉ちゃん、幼馴染で親友の自分と勅使河原の四人くらいか――以外の前ではプレッシャーで萎れがちな普段の彼女と比べれば、まるで快活な男子かと見紛うくらいの豹変ぶりだった。

 しかも、おかしくなった翌日には必ず元の三葉に戻っていて、豹変の原因について当人に心当たりがあっても、自分の行動の一つ一つについて覚えがない様子。

 宮水家の次期当主として背負った過度のストレスで精神が参ってしまったのだろうかと、傍から見ていてやきもきしたものだった。

 そうして数週間過ごして九月の終わりに差し掛かると、状況は好転した。

 アグレッシブで男勝りな三葉と普段通りの三葉。

 どちらも晴れやかに笑うようになった。ストレスと折り合いがついたようで、持前の端麗な容姿に磨きがかかって活き活きと輝いて見えすらした。

 

 そんな日々は長続きしなかった。

 あの彗星が降った秋祭りの夜を境に、三葉は抜け殻のようになってしまった。早耶香が覚えている限り、幼馴染がああも変わり果ててしまったのは彼女の母親が亡くなった時以来だ。

 糸守を統べてきた宮水家の人間として、彗星落下後の糸守に対して、一町民の早耶香には想像し得ない喪失感や絶望があったのだろう。

 長年傍に居た早耶香から見て、三葉の中で彼女と同居して慣れ親しんだ誰かが本当に立ち去ってしまったかのような変わりようを目の当たりにして、言葉に出来ない程に胸を突かれた。

 あの災害の直後は早耶香自身も精神にゆとりが無くて、そんな三葉の相談に乗ってあげることすら出来ないまま離れ離れになってしまった。

 

 ただ事でない雰囲気の親友を半年も放っておいた癖に、今更になってとてつもなく重たい話をどう切り出せば良いのか分からない。

 そんな早耶香の苦悩はお構いなしに、恋が叶った幸福感を噛み締めるからこその、

今の生活を喪う怖れは日毎膨れ上がる。

 独りで抱え続ける心痛に耐えられなくなって、とうとう三葉に連絡してしまった。

 

 駅前の喫茶店で相対した三葉は、早耶香が想像していたよりは元気そうだった。

 勅使河原と晴れて恋仲になったと伝えたら全力の身振り手振りで祝福してくれた。

自分達三人にとっての凶報を伝えても、自分よりもずっと平静に見えた。

 やがて、話すうちに気付いた。

 彼女の相槌は空元気なのが察せるくらいに朗らか過ぎて、笑顔は鏡の前で練習してきたのが簡単に見て取れるくらいに完璧過ぎた。

 間違いなく三葉に無理をさせていた。色んな責任や心配事を抱える三葉にお気楽な恋バナなんて伝えても何の足しにもならなかっただろうし、ましてや凶報を伝えるだなんてもっての外だったろうに。

 結局、三葉には余計な心労をかけてしまった。

 早耶香は自己嫌悪の渦に呑まれてどんどん沈んでいく気分で帰路についた。

 

 そうして数時間後に帰宅した直後、三葉から電話がかかってきた。LINEにメッセージを残すではなく通話とは珍しい。

 その電話に出るなり、開口一番叫ぶような大声が鼓膜を叩いた。

 

「サヤちん!私、明日ちょっと宮水神社の本尊まで行くから!」と。

 

 何の用事でかと問うと「カタワレ時を見て来る!」と勢いよく返って来た。おまけに、家族は外せない用事があるから一人で行くという。

 

 ちょっと?"ちょっと"で、はるばる糸守まで行って、一人で山登り?

 それもよりによって、カタワレ時に?

 

 最初のうちは冗談かと思ったけれど、今にもはち切れてしまいそうな三葉の声で、彼女がどこまでも本気であることを察した。

 

 麓の旧糸守商店街から宮水神社本尊を頂く山頂まで、女子高生の足で片道一時間半程だと聞き覚えがあった。宮水家だけが知る登山ルートを使ったとしても同じようなものだろう。登山道としては大したことはない。

 ただし、元糸守町最寄りのバスの最終便は夕方だ。それを逃せば、バイクの免許すら持っていない三葉の移動手段は尽きる。元商店街に家財の引き上げ目的で通う元糸守町民にしたって日暮れ前には撤収する。

 山頂にカタワレ時を見に行けば、たった独りで山中か廃墟で立往生するのは避けられない。

 それどころか、独りで一晩明かせるのならまだマシだろう。もしも、行政が封鎖中の廃墟に無断侵入する不審な輩と、うら若き女子高生が遭遇したら――

 

 早耶香は親友として必死で止めた。当たり前だ。

 それなのに、三葉は「寝袋を持って行って、山頂で一晩明かすから大丈夫やよ!」

と言い張って聞く耳を持たなかった。

 何をどう考えても大丈夫じゃない。親友の鬼気迫る様子に当惑した早耶香は、慌てて勅使河原に相談した。

 

 その後、早耶香や勅使河原、彼女の家族にも説得してもらったものの、結局三葉は誰の説得にも応じる気配が無かった。

 やむを得ず、準備の為に一週間予定を延ばすことだけは三葉に妥協させて、早耶香と勅使河原が三葉に同行することにした。

 登山するにあたって、勅使河原は送迎の足になってくれそうな元糸守町民の伝手を頼った。ようやく見つかったのが、目的地に比較的近い高山駅の傍に移住した田村さんだ。昼頃に帰宅する予定を三人の為に引き延ばして現地で待って貰った上で、帰宅時に車に同乗させてくれるという。

 同郷のよしみとは言えこんな面倒な頼み事を快諾して貰えたのは、宮水家の威光があればこそだろう。

 

 早耶香としては、糸守町に行きたい気持ちと億劫さは半々だった。

 もう一度故郷を見て未練を清算したい気持ちはずっと引き摺っていた。だが、大学受験が現実味を帯びて来るこの時期故の面倒臭さや焦りも小さくはない。

 そして何より、あの日の紅く灼け爛れ抉られた故郷の姿は、紛れも無く忘れ去りたい悪夢だ。

 しかし、今日この時、この場所でしか見られない特別なカタワレ時を目の当たりにして、そんなネガティブな思考はあっさりと吹き飛んだ。 

 この感動を一人でも多くの人間に伝えたいという衝動が心底から沸き立つ。

 今この瞬間の感謝を、何よりもこの場所に導いてくれた親友に伝えずにはいられない。

 

「三葉、今日はほんっとうに着て良かった。ありが――」

 

 早耶香は隣の三葉の方に首を振りながら言いかけて――

 ――三葉の横顔が目に入った瞬間に、口からほとんど出かかっていた感謝の言葉はそのまま喉の奥に引っ込んだ。

 

 三葉は、今にも泣き出しそうなのを堪えるように唇を噛み締めていた。早耶香達に気付かれないようにする為か、とにかく必死になって何かに耐えている。

 

「三葉、どうかした?大丈夫?」

ひび割れたガラス細工に触れるように、慎重に尋ねた。

 

 三葉ははっと我に返った表情を一瞬浮かべた。

「うん?何ともないよ。サヤちんが喜んでくれたんなら、ここを紹介した甲斐があったかな」

取り繕ったような笑い声はところどころ掠れている。

 

「でも、三葉。あんた、様子が――」

 

「えっ……あぁ、ほら。ここ寒いから。また風がビュービュー吹き始めたし」

それ以上の問いかけを振り払うかのように、大きな手振りで背中のフードを掴んで、顎まで包もうとするみたいにぎゅっと目深に被った。

「マジで冷えてきたね。寒過ぎて声が上手く出んやさ」

 

 二人の様子を静かに見ていた勅使河原は細く長く白い息を吐いた。

 

「三葉。一つだけ言っておきたいことがあるんや」と、静かに言った。

「前にバス停のオープンカフェを三人で作った時にちょろっと話したやろ。この町をどうしていきたいかとか、あのこっ恥かしい夢語りの続きや。……お前ら以外に言えん話やから、少しで良い。聞いてくれ」

 

 いつになく真面目な勅使河原を前にして、三葉はただ頷き返して耳を傾けた。

 

「俺さ、この糸守に住んでた頃は、将来のことを想像するとマジでキツかった。親父の会社を継いで、会社と従業員を守る為に働くだけの毎日。あちこち黴が生え始めたぬか床を遮二無二かき回し続けるのと変わらんようにさえ思える時もあった。

 いっそこの鄙びた町並みを一旦吹き飛ばして――火山の噴火でもミサイルでも、隕石でも何でも良いから――真っ新にしてやって、その後で綺麗なモノや好きなモノだけを思うままに並べたい。

 毎晩寝る前には、アホみたいな妄想を捏ね繰り回しとった。……現実になると寝覚め悪過ぎやったけどな」

 

 その時、早耶香は弾けるように勅使河原に跳び付いて、彼の訥々とした語りを中断させた。跳び付いた早耶香の勢いの割には、勅使河原は少しよろけただけできっちり受け止めた。

 三葉は目を見張った。普段恥ずかしがり屋の親友に似合わない大胆な行動だ。

 

「あんなぁテッシー。その話、止めようよ。お願いやわ。糸守をもう一度見ときたかったし、夜空も綺麗やった。今日着てよかったって思う。けど、やっぱりアカンわ。あん時のこと思い出すのはやっぱり辛い」

喉から掠れた声を絞り出して、早耶香は続けた。

「三葉が真顔で突拍子もなくお告げなんて始めて、テッシーは準備してる時にちょっと楽しそうで、何か変な悪戯に巻き込まれちゃったなって感覚やったのに……。

 先生達がえらい剣幕で放送室に怒鳴り込んで着て、……本当に落ちた彗星で真っ赤に溶けたクレーターになって、山も、私の家も無くなって……。

もう訳分からん。今だって思い出すと、いきなり階段から突き落とされたみたいに、頭ぐちゃぐちゃになりそうなんよ」

 

 堰を切ったようにそこまで言い終えると、恋人の反応を確かめるのを拒むように

その肩に顔を埋めた。

 

「テッシーはさ……あん時怖くなかったん?」

 

 勅使河原は早耶香の肩を抱き寄せた。

「俺自身、はっきりとは分からん」はっきりとよく通る声だった。

「三葉は悪戯で周りを引っかき回す奴やない。だから人の命が危ないってんなら付き合ったるかってノリではあった」

一旦言葉を切って、唾を飲んで喉を鳴らした。

「だが同時に、妄想していた非日常に直面して浮かれるバカが俺ん中に確かに居た。彗星なんぞにマジで故郷を更地にされるってんなら、いっそこの手で幕を引いたる。そんな考えも頭の隅にあった」

 

 早耶香はピクンと体を揺らして、そのまま無言でしがみ付いていた。

 三葉は勅使河原の頭の向こうにある星空に見ていた。見ているフリをしていた。焦点は何も捉えず、無数にある星々の間を泳いでた。

 

「ただな、今日ここに着て、ようやく腹の底にズンと着たモンはある。

 ……なぁ三葉。やっぱ、あの夜にお前に言ったこと。アレ、違うわ」

 

 語り掛けられれば、もう目を逸らしてはいられない。

 三葉は、勅使河原に視線を戻した。

 

「変電所を発破した時に『これで仲良く共犯』って俺は言ったけど、実際のところ、お前は彗星が降るって言っとっただけ。計画を思いついて発破したのは、俺や」

 

風が再び止んでいた。低い声は否が応でも鼓膜を突く。

 

「お前が何を抱えてるのかは分からん。もしもお前自身も良く分かっとらんのなら、悪いけど受け止めてやることも出来ん。

……たださ、あの件は俺の問題や。俺の問題は俺で何とかする。だから、お前はもう気にすんな」

 

 早耶香は勅使河原の服を強く握り締めたままではあったけれど、すっと体を離してしがみつくのを止めて、勅使河原の顔を見つめていた。

 三葉は足元がぐらついている気がして、踏ん張る両脚に力が入った。

 

勅使河原は早耶香の肩に手を添えると、「さて、つまらん話は終いや」と言った。

「もう体の熱も完全に冷えちまったし、このままじゃ風邪引くわな。二人共、とりあえずこれ使っとけ」

 

 勅使河原は使い捨てカイロを三葉に投げて寄越し、隣の早耶香に手渡した。

 

「ありがと、テッシー」

三葉は曖昧な笑顔を貼り付けて、おもむろにカイロをポケットに突っ込んだ。そして、涙を滲ませたままの早耶香に歩み寄って

「サヤちん、行こっか」と、親愛を込めて呼び掛けた。

 

 早耶香は目尻を拭って鼻をかみ、こくりと頷くと、不意に顔をあげた。

「そう言えば時間は大丈夫やの?待ち合わせの時間、とっくに着てるんやない?」

 

「ちょっと待て……今降りれば丁度待ち合わせの時間に着く。まだ間に合うけど、あんまぐずぐずはしとれんな」

 

 勅使河原はスマホの液晶画面の光に照らされた顔を三葉に向けた。

 

「ところでよ三葉、今日の宿はいいとこバッチリ決めるってお前が言うから予約の手続き一切を任せたけど、問題無いやろな?田村のおっちゃんに今更『やっぱり岐阜駅まで送ってくれ』なんて言えんぞ」

 

「もちろん。待ち合わせ場所から車で三十分もかからんし、夕食も美味しいって評判みたいやよ。まぁ期待してよね」

三葉は大袈裟に胸を張りながら、意味深に請け合った。

 

 三人が田村さんの車で同乗させて貰うのは糸守湖近くの民宿まで。今日は三人でそこに泊まる計画を立てていた。

 早耶香と勅使河原の二人は、ここから車で何時間もかかる岐阜駅近くの市営住宅に住んでいる。車で岐阜駅まで送ってもらうと、田村さんは高山の自宅まで夜の山道を徹夜で運転する羽目になる。既に厚意に甘えている身でそんな厚かましい頼み事は出来ない。

 

「じゃあ、サヤちん、テッシー。そろそろ降りよ。テッシーはサヤちんのサポートしてあげて。登った時に感じたやろうけど、この辺の岩場は滑って危ないから」

 

 三人は湿った岩場を慎重に一歩一歩降りていった。

 

 岩場が中腹に差し掛かった頃、先頭に立って下山していた三葉が立ち止まって、

「あーっ、そうだ!私、明日予定入ってたんやった!」

大声を出して振り返った。彼女にだけ見える台本を初めて読み合わせるみたいなわざとらしい口調だった。

「午前中からちょっと準備しないといかんから。私は先に帰るね」

 

「はぁぁああああ?!」勅使河原は半ば裏返った大声で叫び返した。

「いやお前、今更何言ってるんや!?予約だってしとるんやろ?つーか第一、もう帰る方法が無いやろが」

 

「それなら大丈夫やって。今の私ん家の最寄り駅は田村さんの家からそんなに離れとらんから、ついでに送ってくれるって約束やさ」

そして、三葉は悪戯っぽく笑った。

「そもそも予約は最初から二人分で入れてあるから。何も心配要らんよ」

 

 早耶香は目をまん丸に見開いた。みるみるうちに頬が赤く染まっていく。

「えっ!?ちょっ――三葉!?」

 

「ちょうどいいやろ。本格的に受験勉強が始まる前に息抜きしない」

 

「お前……さては最初からその積りやったな」

 

 三葉は、勅使河原のじっとりとした目付きを意に介さない様子で岩場を数歩登った。勅使河原の傍まで詰め寄ると、バシバシと元気よく彼の肩を叩き始めた。

 

「付き合い始めてから碌にデートも行ってないんやろ?男の方から積極的にエスコートしないと駄目やさ!受験なんて関係ねー、ってくらいバンバン想い出作らんと。思春期男子ががっつかんとこの先枯れ細っちゃうよ」

 

 三葉は茶化すような口調でまくしたてた。

 段々と肩を叩く力が弱々しくなり出して、ほどなくしてぴたりと止んだ。

 

「サヤちんとテッシーはさ、何があっても絶対忘れない思い出をちゃんと作ってよ。大切な物も人も、いつか急になくなっちゃうんやから」

 

 三葉ははっとした表情になった。自分が告げた言葉に動揺しているみたいだった。

 

 けれどもそれは一瞬のこと。すぐさま笑顔を作って、

「なーんてねっ!ほら、サヤちん、テッシー!急げ急げ」

と茶化す口調で言い放って、我先にと岩場を降り始めた。

 

 跳ね回る小鹿のように軽やかでありながら、一歩一歩力強く岩を踏みつけていった。蹴り飛ばした小石が岩にぶつかり、風の止んだ岩場に乾いた音が微かに響く。

 

 早耶香には、三葉の後ろ姿がやり場の無い想いをぶつけているように見えた。

 

 

 

 

 

 

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