黄昏の向こう   作:テービット

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10話 もがき続けたその先で

 

 無数の雨が眼前の車窓にぶつかっては、次から次へと真一文字に駆け抜けて行く。

 その更に向こうの背景は、丁度、牛込壕の桜並木に差し掛かったところだ。

 

 相も変わらず仄暗い街では恒例の、早朝でもまだ点灯している街灯が、葉桜を煌々と照らしている。

 葉桜を間近から見れば、纏った水滴が街灯の灯を反射して輝いて見えることだろう。瀧の居る車両では、窓ガラスを渡った雨の行進やその軌跡が車内の照明を反射して、車窓に映る葉桜を照らしている。

 二つの光でライトアップされた桜並木は、葉桜となったこの時期でも、辛うじて精彩を繋ぎ止めている。

 それは、雨と光の化粧による、延命措置めいた不自然な美ではあるだろう。もっとも、この牛込壕は江戸城外堀の名残で桜並木は明治期に植えられたものだ。そもそもが人工の景勝地なのだから、桜並木に自然な美の体現を追求するのはお門違いとも言える。

 

 少なくとも瀧が見る限り、平日の早朝だと言うのに傘を片手に葉桜を見上げる人や、手を掲げて写真を撮っているらしき人が居た。

 葉桜へと移ろうと、満開時には誉めそやした人々が尽く興味を失っていた、以前快晴時を思えば意外な出来事だ。

 異常な雨が生み出したこの風景も、街並みが獲得した新たな魅力と言えるのかもしれない。

 ああして桜並木を見上げる彼らにとっては、この雨の風景こそが、かけがえの無い想い出になるのだろうか。

 瀧は一人、座席シートの仕切り板に寄りかかって、過ぎ去る風景を眺めながら思案していた。

 

 

『次は飯田橋。飯田橋』

 

 乗客のまばらな早朝の総武線の車内にアナウンスが響き渡った。

 

 ――降ります!降ります!!降りさせて!

 

 一年前までは毎朝毎朝、悲痛な叫びをげんなりするほど聞かされた所為で、電車に乗っているといまだに幻聴が聴こえることがある。

 悲痛な叫びと、残酷なまでの一本調子で駅名を告げるアナウンスが耳障りな合唱になって、車内上方に残された僅かな空間を彷徨う。

 その空間の下で車両の大部分を占めるのは、米びつに限界まで詰め込まれた米粒さながらの乗客達だ。

 誰も彼もが一歩動くどころか身じろぎさえもままならず、酸素不足で薄れゆく意識を保つだけで精一杯だ。哀れな降車希望者を助ける余力なぞ持ち合わせていない。

 かと言って、知らん顔してるだけでは済まないのが一番厄介な点だった。

 目指す駅が近付けば、今度は自分が不快な合唱の歌い手を引き継いで、必死に降車を試みなければならないからだ。

 窒息も骨折も大いに有り得る。無事に下車出来るかどうかはひとえに運次第。他人の不幸も数分後は我が身。都会の通勤電車とはそういう場所だった。

 

 関東圏が最後に晴れたあの日以降、それが一変した。

 たっぷり空きのあるロングシートに目を向けると、乗客が六名ほど座っている。敢えて立ったままでいる乗客はまばらだ。

 見回す限り誰も彼も、早朝から雑談に興じる元気は無いようで、半ば微睡むか、スマホを弄るか、もしくは上の空でいる。

 深呼吸は無論のこと、読書だって心行くままに出来る。駅に着いたら電車に乗るも降りるも自由自在。極々当たり前の権利をようやく取り戻せたことついては、どの乗客もさしたる思い入れは無い様子だった。

 

 

 着々と進行する水害に直面して以降、被害が比較的小さい東京西部や都外への人口の流出は絶えることはない。一方で、様々な理由から引っ越せずに東部に留まる人の数も相変わらず居る。

 そうなれば当然、関東圏で一極集中状態だった人口は分散して、都内全体の交通量も減る。

 東京西部行きの路線ならばかつての混雑度に近付く時間帯もある。だが、瀧が今乗っている総武線の電車でより東へ――冠水地域へ向かう路線とくれば話は別だ。ピーク時だろうと他の乗客と肩が触れ合うほどに混むことは無い。

 

 鮨詰めという表現すら生温かった、通勤通学と帰宅ラッシュ時の満員電車。

 あの現象が荒唐無稽な悪夢だったと錯覚するほどに、皆の頭の中から急速に風化しつつある。

 

 

**********

 

 

『御茶ノ水。御茶ノ水。終点です』

 

 車両のドアが開くと同時に、季節に似つかわしくない冷風が吹き込む。

 瀧は勢いよく上体を起こして御茶ノ水駅のホームへ踏み出した。

 悠々とホームを抜けて階段を上り、改札から駅構外へと出る。頬に微かな雨を感じるや、鞄に一瞥もくれずに慣れた手つきで折り畳み傘を引っ張り出した。

 丁度傘が開いたタイミングで、聖橋の真ん中に差し掛かった。

 瀧はその場で立ち止まって、欄干から向こうに広がる神田川を見下ろした。

 

 例年のこの季節には、神田川のコンクリートの擁壁には新緑が生い茂っていた。

 神田川に浮かぶように横断する丸の内線を駆け抜ける赤い電車。擁壁の墨色で縁どられた爽やかな緑がそれらを囲む。絵葉書のような風景を見物出来た。

 水位が大きく上昇した今では、線路は水に沈んで、緑で覆い尽くされた擁壁の上方部分だけが辛うじて水面から突き出ている。ずっと昔から擁壁なぞ存在せず、狭い縁に挟まれた川だったかのように違和感の無い風情だ。

 

 ここから少し東へ行った先の変貌ぶりは聖橋付近の比ではない。

 変わり果てているのは、川がカーブを描いて建物の死角に隠れるその先。

 川沿いに敷かれた線路を辿ると、数百メートルも行かないうちに線路は途切れる。

 そこから先は、神田川と海が一体になった入り江へと繋がっている。

 更に東へ向かう移動手段としては、停留所から出航する水上バスが頼りだ。

 

 御茶ノ水駅と秋葉原駅の高低差は十メートル。この数字が明暗を分けた。

 秋葉原駅周辺のビル群は、既に全長の半分ほどが水没してしまった。

 目を凝らして観察すると、ほとんどの建物で水面スレスレの窓ガラスが尽く割られているのが分かる。入り口が水没した建物から、家財を回収する為に強引に侵入した名残だ。

 もっとも、この御茶ノ水駅周辺も同じ運命を辿ることになる。

 今はまだ歩いて移動出来るが、水位が上がり続けている以上は時間の問題だ。

 あと二年も経てば、瀧が慣れ親しんだ路線は飯田橋が終着駅になる。多くの専門家がそう見立てている。

 

 さりとて、どうせ水底に沈むのだから、などと手を拱いてはいられない。

 このまま捨て置けば水害に晒される地区の中には、堤防さえあれば、まだしばらくは浸水を食い止められる箇所が沢山ある。

 故に、政府は去年の秋になって、市街地防水用の堤防の新設と、既存の堤防の越水対策を徹底するという政策を掲げた。

 もっとも、何十年も昔から必要性を指摘されていながら放置されてきた対策ばかりだったから、今更遅過ぎると批判が殺到した。堤防建設の予定地を決める基準の曖昧さやその他の諸問題についても然りだ。

 政策声明直後の国会議事堂前では、デモ行進が恒例行事と化していた。

 

 世の趨勢が変わった契機は、国家の象徴たる国会議事堂までもが浸水の被害を受け始めたことだった。

 最早にっちもさっちもいかない。皆が慌てふためいて、表立った批判は潮が引くように減っていった。

 改善すべき問題が文字通り水に流されたことに対して警鐘を鳴らす知識人は数多いものの、見かけの上では世間は落ち着きを取り戻しつつある。人間の精神というものは、当座の方針が定まって活動に移ると良くも悪くも安定するものだ。

 

 昨今最も厳しい難局に直面しているのは、堤防建設を始めとした水害対策の依頼先たるマリコン各社だ。

 マリコン。マリンコンストラクターの略称であり、ゼネコンの中でも海洋土木や港湾施設の建設に特化した建設会社を指す。

 不景気なこのご時世にあって、建設ラッシュで濡れ手に粟だと羨望の眼差しを向けられる機会が増えた業界だ。どの会社も大幅黒字を記録したから完全な的外れとは言い切れない。

 だが、当の関係者達は、尋常ではない重責に日々苦悶している。

 かつては多少強い雨が降ったら工事作業を休止した。その間に機材の点検や現場の見回りをしてやり過ごすのが通例だった。

 しかし、今はもう雨が止まない。だから、多少の悪天候であっても強行軍で施工せざるを得ない。

 不慣れな天候の中での工事現場は常に手探り状態。連日が未知への挑戦に近い状況下でありながら、短納期厳守はそのまま、丁寧かつ繊細な仕事までもが要求される。

 瀧の知る限り、就職活動を通して何十人と知り合ったマリコン関係者は、皆が皆、大渦の中でかき回されている真っ最中のように憔悴していた。

 

 そして今年から、瀧自身もその当事者の一人となった。

 昨年に滑り込みで就職に成功したのが、業界ではそこそこ名の知れたマリコン企業なのだ。

 採用通知を受け取った瀧の胸中に湧いたのは、ようやく就職先を得られた喜びと途方に暮れそうな戸惑いだった。

 説明会で目の当たりにした先輩社員の憔悴ぶりに怖気づいたのもある。

 だが、それ以上に、駄目元で受験した場違いな会社に紛れ込んでしまったという感覚を拭い切れなかったからだ。

 

 マリコンが主に携わるのは、生活基盤を支えるインフラだ。悪く言えば、裏方の中でもとりわけ目立たない分野を担っている。

 足元の地面に等しいインフラやそれを均し拵える関連企業。それらに感謝するどころか、日頃から意識する市民は滅多に居ない。

 世間の意識がマリコンに集中する機会と言えば、その企業が手がけた建造物や設備に問題が生じて、市民から石を投げられる時くらいだろう。

 

 縁の下の力持ちの大切だ。それは当然、理解している。それでも、不安や違和感が否応なく頭をもたげた。

 目の冴えるような建物を手掛けて、人の心に刻み込まれる風景を、この手で生み出せる仕事。

 果たしてこの会社で、それを実現出来るチャンスがあるのか。デザイン学科を専攻してきた自分は畑違いではないのか。

 

 胸中のわだかまりは、新入社員歓迎会で一気に解れた。

 宴席の最中、瀧は肩を叩かれた。振り向いた先に立っていたのは取締役だった。瀧の最終面接を担当した面接官だから面識はあっても、入社した今では雲上人だ。

 仰々しく敬礼しそうな瀧。対照的に、気さくに他愛ない世間話を始めた彼は、宴もたけなわの頃合いにこう言った。

 

「未曾有の事態に陥りつつあるこの時代。我が社以外の全てのマリコンは、東京都民一千万のみならず日本全国民から、多大な期待を寄せられて重責を負うことだろう。志望動機を語る立花君からは、その重責にも負けない意気込みを感じられたよ」

 

 取締役からの有り難い激励。

 それを受けた瀧はと言えば、身が引き締まるどころか、正直なところ拍子抜けしたのを隠すのに苦労した。数瞬前まで自分がガチガチに緊張していたことまでもが頭から抜け落ちてしまった。

 

 ――記憶に残り続けて、心を温めてくれる。そんな街作りに携わりたい

 

 この会社の面接でも、他の会社の時と概ね同じ受け答えをした。

 回答の内容が漠然としていた所為か、はたまた鬼気迫る態度が禍したのか、何十社も受験しては失敗して辛酸を舐めてきた。自分の内面か何が問題かと悶々と悩み迷走する日々が続いた。

 それが、業種を少々変えただけで好印象に転じたらしい。

 一年間近くに渡った就活大苦戦は、ただの業種や企業の選択のミスマッチという、単純な原因に過ぎなかったのだろうか。

 

 重役が続けた言葉が、そんな認識を塗り替えた。

 

「将来の目標を語っていた時の君は、熱意の中にもどっしりした落ち着いていた。そのバランス感覚があるならきっと大丈夫だ。期待しているよ」

 

 この時になってようやく、瀧は自分自身に生じた変化を自覚した。

 目指す街作りの為には何が必要で、そもそも実現出来るものなのか。答えはまだ見つからない。

 しかし、言われてみれば、もう焦燥に駆られることはなくなっていた。

 

 切っ掛けは多分、あの須賀という男とバーで会話を交わした時。

 線路をひた走る少年の姿に心が震えたあの日だ。

 

 彼らの何が、自分の何をどう変えたのか。まだはっきりとは分からない。

 だが、漠然とながらも、彼らのように在りたいと思ったのは確かだ。

 

 

**********

 

 

 背後を通り過ぎた誰かの傘と、瀧の手の中の折り畳み傘がぶつかった。

 衝撃で手から傘が落ちないように掴み直すと、傘から弾かれた水滴が神田川へと落ちていった。

 

 それにしても随分長いこと川を眺めていたな。

 他人事のように思ううちに、不思議なことに発見した。

 線路を呑み込んだ神田川。雨に濡れたコンクリートのビル群。曇天をそっくり鏡映しにした鉛のようにくすんだ景色だ。

 しかしその割には、重苦しさやうそ寒さを感じない。だからこそ、長い間飽きもせず眺めていられたのだろう。

 

 理由は多分、神田川の川縁――擁壁の名残――の水草にある。川縁の緑の丈と形が一定になるよう整えられているからだ。

 もしも今日までまるっきり放置されていたら、昼でも暗いジャングルや管理放棄された竹林さながらに、陰鬱とした見苦しい風景になっていたに違いない。

 

 目を凝らして川縁を観察すると、ちょろちょろと飛び出す草や刈り整え方が若干歪なのが橋の上からでも窺えた。刈り取りや除草の手入れは決して完璧ではない。行政の予算不足の所為で管理がおざなりなのか、それとも行政は放置しているのを善意の素人ボランティアが無断で代行した結果なのか、原因は分からない。

 それでも、水草が川添いでみっともなく伸び放題になるのとは雲泥の差だ。

 

 元々この一帯は川と線路と道路が立体交差する複雑な地形で、草木の手入れは楽ではない。まして今も増水し続けるのだから、川縁の手入れには危険が付き纏う。

 そんな危険まで冒して丹精込めて手入れしたところで、この立地と植物では美しい花が咲かない。いずれは街並み諸共に水に呑まれて消える。

 儲けにもならないばかりか遠からず海の藻屑と化す風景の為に、決して楽ではない手入れを日々繰り返す。世間はまず間違いなく、下らない徒労と酷評される行為に違いない。

 

 しかし、瀧は思う。

 他の人々は他愛ないと思うかも知れない眼下の風景には、瀧が目指す街作りにおける大切なヒントが潜んでいる。

 それが何なのか汲み取れないのは、自分の必要な能力が足りていないから。そんな気がしてならない。

 その能力を身に着けるのに最適な仕事や職場は、もしかしたら今の職場ではないのかもかも知れない。マリコンで働く自分というヤツもまだ思い描けそうもない。

 しかし、瀧は既に腹を決めていた。

 例えそうであっても、この会社で全力を尽くそう。

 

 面接試験で相対したあの重役は、俺が語った夢の話にちゃんと耳を傾けて覚えていてくれた。その上で、夢に臨む俺の心境の変化を、俺自身よりも深く見抜いてくれた。期待しているという言葉は、お世辞混じりにせよ、真っ赤な嘘ではない筈だ。

 俺の想いを汲み取って、期待してくれている。その心意気に応えたい。

 遠大な夢の実現に向けて成すべきことが分からないならば、どうせなら真摯に手を差し伸べてくれた相手をパートナーに選ぶ。

 キャリアについて悩むにしても、まずは自分に任せられた仕事をきっちりこなせるようになってからにしよう。

 今の自分に出来ることは、早く新米社会人から卒業することだ。

 

 瀧は再び歩き始めた。

 今日は、新入社員の研修プログラムに従って、建設中の堤防を見学する予定だ。

 教育係の先輩社員達から、上野公園に現地集合しろと前日に指示されていた。

 

 上野公園に隣接する上野駅校舎は水没地帯と陸地の境目になっている。駅校舎の地点から始まる上野台地の高低差が浸水を食い止めているからだ。

 この好立地を活用して東京西部の地を死守するべく、上野駅を要塞化でもするかのように堤防を目下増築中だ。

 水流で高台が削られるのを防ぐ擁壁補強工事や堤防増築、更には上野公園の名物である桜並木を守る為の排水設備の建造。その他諸々の計画が同時進行している。

 立地に恵まれていて工期にも比較的余裕があり、様々な工法を一度にかつじっくり見学出来るから、新人達が各々の蒼写真を把握するのにうってつけ。指導役の人事部課長からそう説明を受けていた。

 

 上野駅に繋がっていた東北新幹線と高崎線は、広がり続ける川に浸食されてとっくの昔に途切れてしまった。上野駅に行くには、御茶ノ水から出航する水上バスを利用するのが一番早い。

 

 

***********

 

 

 御茶ノ水駅からしばし歩いて、水上バスの停留所である波止場に着いた。

 波止場――と言うよりは桟橋か。実に簡素な突貫工事だ。

 この停留所も御茶ノ水駅も二年以内に水底に沈むと予測されているのだから、手間をかけないのは当然の判断だ。御茶ノ水の救済はどう足掻こういても間に合わない。

 中央線と総武線沿線では、飯田橋より西側への浸水を防ぐ為に本格的な堤防が目下建設中。この界隈で末永く利用されることになる本命の水上バス停留所は、飯田橋駅の傍に構えられる予定だ。

 御茶ノ水に設けられたこの停留所は、繋ぎとして用意された仮設の船着き場に過ぎない。

 

 瀧は周囲を見渡したが、同期の社員も指導役の先輩社員も見つからなかった。

 時計を確認すると、そろそろ午前八時という頃合い。現地の集合時間が午前十時だから、二時間も早い到着だ。

 瀧の会社の始業時間は午前九時だが、それはこれから見学する作業現場の就業開始の時間でもある。業務開始早々に大勢で押しかけると迷惑になるから、と敢えて遅めの時間に集合した後に現場入りする約束になっている。こんなに早くに着てしまった酔狂な人間は他に居ないようだった。

 

 瀧が敢えて二時間も早く着く時間に出勤したのは、他でも無い。

 かつて通勤ラッシュのピークだった時間帯の路線が現在はどうなっているのかを、今一度確かめておきたかったからだ。

 通勤ラッシュは、不快を通り越した改善されるべき悪習の筆頭だった。それは満場一致の事実だろう。未曾有の大水害に対して、満員電車を改善したことだけは評価に値すると言って憚らない者も少なくない。

 

 けれども、そういう不快感しか得られない経験にさえ、瀧は名残惜しさを覚えることがあった。

 東京の中心たる四谷の住民としてずっと満員電車に乗り続けて、あの圧死しそうな苦しさに慣れてしまったきらいはある。満員電車から降りた瞬間には多少なりとも解放感や達成感を得ていた。

 言うなればそれらは、長い残業時間を自慢するのと同種の苦労アピールだとか、サウナと水風呂を往復するおっさんが求めるような快感に近いのかも知れない。

 ただし、瀧が心の底で満員電車を求めてやまないのは、そういった感覚とはまるで違うものだ。

 不意に扉が開いた瞬間に、息苦しさを吹き飛ばす新鮮な空気と鮮烈な出逢いが舞い込んでくる。かつて体験した気がして、感傷を捨てきれずにいる。

 

「もうすぐ折り返しの水上バスが到着します!乗船させる方は白線の案内に従ってお並び下さい!」

 

 メガホンで大声を張り上げるあまり雑音の混じった駅員の呼び掛けが周囲に拡散していった。メガホンを握る駅員の方に目を向けると、水上バスが徐々にこちらに迫っている。

 

 この停留所で油を売っていても意味は無い。少々足を伸ばして御茶ノ水の街を散策するにしても、水浸しで営業出来ないか開店時間には早過ぎるかで、シャッターが下りている店ばかりと相場は決まっている。

 上野公園も数ヶ月後には堤防に囲まれてしまうのだから、見晴らしの良い現在の景観をしっかり記憶に留めておきたい。

 さっさと上野公園に向かって、街の散策は研修の後の楽しみにでも取って置こう。

 

「乗り場は狭くて危険です!乗船の際は係員の指示に従って静かにお待ち下さい!繰り返します――」

 

 瀧は指示に従って、乗船の行列に加わった。

 無言の列に倣って桟橋の中ほどまで歩いたところで、列全体の動きが止まった。桟橋に接岸した水上バスから乗客が降りるのを待つ為だ。

 桟橋に並んでいるのはざっと三十人。急拵えの手摺が申し訳程度に備え付けられてはいるが、一人でも暴れ出したら、将棋倒しになって川に落ちそうで心許無い。

 水上バスへの乗船許可が下りるまでは、大人しく辛抱するしか無い状況だった。

 

 駅員が小型ボートで水上バス入り口に集まって、ロープを桟橋の杭に巻き付け始めた。懸命だが不慣れなのが窺える手つきで停留の準備が進められるのを待つ。

 ようやく乗客の下船が始まった。

 水上バスの乗客は予想外に多かった。ぞろぞろと狭い桟橋に降り立って、人一人がどうにか歩けるスペースを通り、陸地を目指していく。

 

 瀧は、下船する人々を待つ間、海水の混じった神田川から仄かな潮風を感じた。

 都会特有の悪臭に近い不快さは無く、むしろ爽やかな香りなのが意外だった。

 周りの他の人達の様子を見たが、誰もがこの潮風にも慣れた様子だ。

 神田川の汚染は、川に直結する下水処理場の影響が大きかった。それが、周辺の人口が減って下水処理量が低減するに伴って、水質も改善しつつある。そんな話をふと思い出した。

 新人研修が修了して正式に配属された後には、ここと似通った川沿いに足を運ぶ機会は増える。職場の環境は良いに越したことはない。

 ひとまずはこの潮香を素直に歓迎しよう。

 そんなことを考えながら、のんびりと潮風を愉しんでいた。

 

 

 何の前触れもなく、潮香とは全く異なる芳香がした。

 秋の林道で綺麗なカエデを拾った時のような、淡い甘さで鼻をくすぐる香りだ。

 

 はっとした瀧の目の前を、一人の女性が通り過ぎていった。

 瞬く間に瀧の視界を過ぎ去っていったのは、風に揺られたなびく、橙色と赤の髪留めで彩られた豊かな黒髪。

 夜闇で踊る篝火を思わせる色彩が、地平線の彼方で燃える夕日のように目から入り込んで、全身に染み渡る。

 その女性が過ぎ去る刹那、互いの視線が交差した。

 彼女の双眸は、吃驚を湛えて爛々と輝いていた。

 

 瀧は無我夢中で振り返って、彼女を目で追った。

 列の後続の人が迷惑そうに睨みつけて、力づくで押しやってくる。瀧が抗う術は無く、体をぐいぐい押しやられて水上バスに押し込まれていく。

 全身全霊で暴れれば、あるいは列の動きを止めることも出来たかも知れない。

 だが、こんな貧相な桟橋の上でそんな真似をすれば、今歩いている大勢を巻き込んで神田川に落下する。

 真っ白になった脳内に残った理性の欠片が、他人を押し退け惨事を巻き起こしてでも彼女の下へ駆け寄ろうとする情動を、辛うじて抑え込んでいた。

 

 成す術なく乗船の列に身を委ねるしかなかった。

 だから、瀧はただ一点――ただ一人に全神経を集中させた。

 こちらを見返している彼女だけに。

 雑踏や打ち寄せる波の音、水上バスのアナウンスの大声、海水の混じりの神田川の潮香も、全てが遠のいていた。

 彼女もまた、人が作る列の流れに逆らおうともがいていたけれども、その抵抗も虚しく御茶ノ水駅の方へと押し流されていく。少なくとも瀧にはそう見えた。

 

 

 瀧やようやく船内で列から弾き出されて自由の身になれたが、後続の乗客達が下船を阻み続けた。

 だらだらと途絶えない列が腹立たしくて貧乏揺すりを抑え切れない。どいつもこいつも、何故もっと早く船に乗り込もうとしない?さっさと歩け。

 睨み付ける瀧の様子に気付いて、思わず竦む者だけでなく反感を隠さない喧嘩腰の者も居た。ただでさえ気怠い出勤時には誰でも気が立っているものだ。一歩間違えば、血の気の多い客と揉め事になっていてもおかしくなかった。

 瀧がそうならずに済んだのは幸運に恵まれたと言うべきだったろう。

 だが瀧は、そのことに気付くこともなくひたすらに焦れていた。

 

 彼女の所へ行きたい。追いつかなければならない。

 一刻も早く、この船から降りなければ。

 

 ようやく乗り込む人の流れが途切れた。瀧は大股で昇降口に近寄った。

 今度は最後に乗り込んだ乗務員が遮った。彼は扉を閉ざして出航前の安全チェックを始めた。

 

「すみません!今すぐ降ろして下さい!停留所に行かなきゃいけないんです!」

 

 ほとんど叫びながら、背を向ける乗務員の肩に掴みかかった。

 乗務員が瀧の方を振り向く間際のほんの一瞬、「またか」と言いたげな辟易とした顔で天井を仰いだのが垣間見えた。

 

「お客様、申し訳ありません。既に出航時間を超過しておりますので、本便は直ちに出航致します」

体の向きが変わる頃には、丁寧で毅然とした態度に変わっていた。

「危険ですし、他のお客様のご迷惑になりますので、近くの手摺にお掴まり下さい」

 

 そうこうしているうちに、大きな振動が体を揺らした。

 断続的なエンジンの震えに加えて水をかき分ける音もする。

 いけない。もうすぐ水上バスが出航してしまう。

 

「ですけど!俺、今すぐ御茶ノ水に戻らないと――」

 

 乗務員は、がっしりとした大きな手で瀧の手首を掴んで、ゆっくり自身の肩から引きはがすと、やんわりと諫めるように言い放った。

 

「安全な運行のため、急な出向の中止や航行ルート変更には応じられません。お手数ですが、秋葉原停留所で折り返しの水上バスにお乗り下さい」

 

「でも今すぐなら、ちょっとUターンでもして戻れませんか?電車だって扉に挟まった傘を外すのに数分止まったりするでしょう」

 

「お客様、岩礁に船底が引っ掛かって水没する事故を御存じですか?この天候の所為で分かり辛いですが、この一帯には水没した建物や電柱が並んでいます。迂闊に航路を外れると、船底がそれらに引っ掛かって甚大な事故を招く恐れがあるのです。

 それに、この川幅では複数の水上バスがすれ違う際にも細心の注意を要しますから、これ以上出航時間がズレるとダイヤが大きく乱れます。どうかご理解下さい」

 

 子供じみた駄々を捏ねて食い下がってみても、こうも冷静に正論で説き伏せられては反論が何も浮かばず、口を噤むしかなかった。

 それに、この乗務員はただ自分の仕事をしているだけだ。俺だって、この男の立場なら同じ対応をする。

 不承不承であれ瀧が理解してくれたのだと判断した乗務員は、その場を離れて他の乗務員と話し始めた。微かに聞こえる話を盗み聞いた限りでは、定時連絡だとか日常業務の一環のようだった。

 

 この乗務員にこれ以上食い下がってもどうにもならない。

 瀧は階段を駆け上がり、二階のデッキに飛び出した。

 夢中で御茶ノ水駅方向を睨んだその先で、御茶ノ水の桟橋に二つの人影を捉えた。

 一方は雨合羽を着た職員の背中。

 もう一方は、その職員と向き合う、線の細い体付きの人物。

 恐らくは、女性――あの人だ。

 

 橙色の傘らしき物を棒切れように握り締めて、身振り手振りで職員に何かを訴えている。傘を差すのも忘れて雨で濡れるのも構わず、離れたこの距離からも必死さだ。

 瀧はやり場の無い激情を込めて、デッキの手摺を握り締めた。

 やっぱり、俺が探し求めてきたのは、あの人だ。

 あの女性もきっと、俺に会おうとしている。

 

 そうしている間にも、彼女の姿がみるみるうちに小さくなっていく。

 水上バスの航行速度は、遠巻きに見る分には鈍く思える癖に、こうしていると憎たらしいほどに速く感じる。 

 

 奥歯が欠けそうなほどに強く歯噛みした。

 やっと、やっと巡り合えたのに、また引き離されようとしている。

 いっそ、操舵室に押しかけて掛け合ってみるか。そんな考えが頭の中に浮かんで、すぐさま萎んだ。やっても無駄なのが明らかだからだ。

 さっき乗務員に手首を握られた時、荒事にも造作なく対応出来るのに敢えて手加減している人間特有の、抑制された気配をひしひしと感じた。

 デッキの反対側や階段の傍に、閉ざされた出入り口。船内に控えるどの乗務員もラガーマンばりに肩や胸板が分厚い人しか居ない。

 運行開始から日の浅い水上バスでは、喧嘩沙汰等のトラブルが鉄道以上に起きるとニュースで報じられていた。そうした事態に備えて、仲裁やクレーム処理を想定した人員を配置しているのだろう。

 一人で大騒ぎしてみたところで、電車の駅構内で暴れる酔っ払いよろしく、秋葉原停留所に到着するまで数人がかりで組伏せられるのがオチだ。

 

 どうする?

 このまま秋葉原に到着するのを大人しく待って、折り返しの便に乗るか?

 瀧の直感が訴える。

 それでは駄目だ。

 

 今日ほどはっきりと認識出来たのは初めてだが、こういう気配を微かに感じたことは初めてではない。

 春の交差点、夏のオフィス街、秋の駅構内、冬の歩道橋。時と場所を問わず、彼女の気配を感じたことが何度もあった。

 だが、気配の発信源を確かめようとすると、いつもいつも折悪く邪魔が入った。

 人混みに電車、車、犬、突風。二人が近付こうとした途端に、その辺に転がるありとあらゆる障害物が手当たり次第投げ込まれたかのように、二人の間に割り込む。

 そうやって何度も行き違いになってきた。今日の障害は巨大な川という訳だ。

 

 この機を逃せば、また彼女と行き違う。

 またもや会えずに終わる。

 俺達二人の間には、誰か――神か世界か、はたまた運命というヤツか――が居る。俺達を飼い慣らして弄ぼうと、手ぐすね引いて待ち構える底意地の悪い輩だ。

 このままだと何年か、何十年か、あるいは一生涯が経とうと、繰り返し繰り返し俺と彼女は引き離される。

 

 とは言え、水上バスは既に出向してしまった。

 川の上で何か打てる手があるのか。

 自問する瀧の脳裏に、ふと少年の姿が過った。

 冠水した線路の上を決死の面持で走っていた、あの少年だ。

 

 ――他に、方法は無い。

 

 

 瀧は大急ぎでスマホを取り出した。水上バスの航路を表示して、船首の向こうに広がるビル群で縁取られた歪な川岸と、スマホが示すのマップを交互に見比べた。

 これから水上バスが辿るおおよその航路を頭に入れると、周囲を盗み見ながら、ジャケットの内に手を入れて、ワイシャツの腋の下の縫い目を力の限り引き千切り始めた。

 腋下の縫い糸がブチブチ切れる音が耳を通り過ぎる中、ゆっくり歩きながら船体の様子をつぶさに観察する。すると、並んで壁に掛けられている救急用器具を見つけた。AEDに発煙筒、ロープ、あとは浮輪。

 おもむろに浮輪に近寄っていき――浮輪と壁のフックを繋ぐダイヤル錠付きのワイヤーを確認すると、さっさと関心を手放した。

 鼓動が早鐘のように暴れる。鞄に入れていたペットボトル取り出して一気に飲み干してから再び鞄に仕舞い、深呼吸を繰り返して昂る気を鎮めた。 

 

 やがて、船の振動が小さくなって、風の吹き方が少し変わった。

 船がカーブを終えたのだ。船が直線航行に戻りつつ川岸に最も近付くタイミングだ。

 絶好にして唯一のタイミングが訪れた。

 今だ!

 瀧はデッキの手摺に足を掛けて勢いよく身を乗り出し、勢いに任せて一気に川へ飛び込んだ。

 

 

 

 

 

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