黄昏の向こう   作:テービット

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11話 もう少しだけで良いから

 

 誰か――デッキに居た他の乗客だろう――の甲高い悲鳴が聞こえた気がした。

 水面がを容赦無く顔面を叩く感触が襲ってきて、間髪入れずに痺れるような冷たさが全身を包み込んだ。

 見かけ以上にデッキから水面までの距離があったし、水に飛び込むフォームはド素人のそれだったから、全身を打つ衝撃で肺の空気が一気に叩き出された。

 

 もう四月だと言うのに、脳天を貫く寒気が体を硬直させる。

 水中は仄暗いが、水質が大分マシになっているのは事実のようで、思ったよりかは視界が利いた。水上から見た川の流れの緩やかさからは想像出来ない猛スピードで、幾重もの水泡の列が駆け抜けていく。

 下流へぐいぐい押し流される体を、水流が幾度も舐め回す。猛烈な勢いで体温と体力が削られていると、強張る四肢が警告してくる。

 この規模の河川の大きさ広さからすれば、人間なんて川底の小石と大差無い存在なのだ。改めて痛感させられた。

 

 それでも、小石と違って手足は動く。僅かだろうが確かな差はあるのだ。

 これなら、何とか泳げる。

 

 

 着衣泳の際、特にYシャツのような服が濡れると、腋に絡んで動きを大幅に制限されるからくれぐれも注意するように。出来ることなら、腋の下を切るか破るのが良い。

 高校時代に話半分で聞いていた着衣泳の特別授業が、まさかこういう形で役立つことになるとは。

 洋服を塩素塗れのプールに浸けるなんて勿体ないことをやらせるのか、と着衣泳を強要されたことを恨みさえしたが、今日から母校に足を向けて寝られない。

 空のペットボトルを押し込んだ鞄とジャケットの内側の空気が発揮する浮力を頼りに、水を蹴りまくってどうにか水面に顔を突き出した。

 鞄を申し訳程度のビート板代りにして、どうにか顔を水上に突き出し、酸素を取り込もうとした。

 だが、船の上では存在しないも同然だった些細な川面の小波は、今の瀧にとっては脅威と化していた。

 容赦なく水が口と鼻に飛び込んできた。鼻に水が飛び込む痛みと息苦しさで混乱しかける。胸を思い切り殴りつけて、必死で自分を落ち着かせにかかった。このままでは溺れる。

 

 そうこうするうちに、どうにか酸素を取り込んで、落ち着きを取り戻した。

 水上バスは旋回する素振りを見せず、真直ぐ秋葉原の方へ向かっている。

 勝手に飛び込んだ馬鹿は冷徹に見捨てよう、と言う考えではないだろう。

 飛び込んだ直後、さっきの乗務員の説明通りに、足元近くにまで達する水没したビルの屋上や電柱らしき影が幾つも見えた。

 あれでは、安全優先で下手に航路を変えられないと言うのは当然の話だ。

 

 悠然と去っていく船を見ながら、瀧は安堵した。

 元来、知人から潔癖だとからかわれるくらいに、他人に迷惑をかけるのを厭う性分だ。無関係な人々に迷惑をかけるのは本意ではない。

 俺が勝手に始めたことだ。川に飛び込む迷惑行為を働いた阿呆な乗客は、最初から存在しなかったものとして扱ってくれるくらいが気楽で助かる。

 

 体を水に慣らすように溺れかけの立ち泳ぎからクロールへと移行して、一番近い岸を目指して泳ぎ始めた。

 御茶ノ水停留所は最近移設したばかりだからか、列に並んでいた時には救助用ボートの類を見かけなかった。少なくとも直ちに出動出来る状態で整備されてはいない。

 これは運営上における大問題なのだろうし、溺れた場合を考えれば一抹の不安を拭えないが、今の瀧にとっては好都合だった。

 のろくさ泳いでボートが到着するまで時間をかけたら、そのまま救助――と言うより確保されて、交番にでも連行されるのがオチだ。よしんば逮捕されずに済んだとしても、彼女とはまた行き違いになるという確信があった。

 いずれにせよ、賽は投げられた。

 ここまで派手にやらかしたからには、もう四の五の言ってはいられない。急いで泳ぎ切るのみだ。

 

 

**********

 

 

 それからしばらくの間、瀧は我武者羅に泳いだ。

 しかし、久方ぶりの水泳なばかりか冷たい川で着衣泳とあっては、体力の消耗は激しく、一向に慣れもしない。どれだけ進めたのか見当もつかない。

 とうとう、寒さと焦りでペースが乱れて、迂闊にも川上に向かって息継ぎをしようと顔を上げてしまった。

 その所為で、またもや水が口の中に横殴りに飛び込んで、今度は水が気道にまで侵入してきた。

 水中で咳き込んでしまって、後はもう大混乱だ。

 苦しい。冷たい。視界が酷く明滅する。

 そう感じたのも束の間のこと。すぐさま、奇妙な感覚が瀧に襲い掛かった。

 全身がガチガチに強張っている筈なのに、手足が煙みたいに軽くて実感が薄い。無数の泡がぼやけた一つのうねりと化して、踊り狂っている。

 灰色一色の世界。無色の波が揺らぐの世界。

 それらが交互に入れ替わり、意識がどんどん遠のいて――

 

 唐突に色彩が戻ってきた。 

 体の力を抜けたお陰で、どうにか意識を失う寸でのところで体が水面に浮上出来たようだ。

 紙一重。危ないところだった。

 脳の回転が鈍い。ショートした基盤のように、白い光が視界のあちこちに走って止みそうにない。

 思考が命じるより早く、体が酸素を求めていた。朦朧とした意識の中でも本能が働いたのか、今度こそは水を一緒に吸い込んで溺れないようにと、自ずと慎重に少しずつ呼吸して回復を図っていた。

 にわかに川面の波が弱くなって、深呼吸が許される施しの時間を確保出来た。

思考と視界が、少しずつだが着実にクリアになっていき、肺から全身へと十分な酸素が補充されていくのがはっきり体感出来た。

 体の感覚がはっきりしてくると、危うく溺れて沈むところだった恐怖と全身に突き刺さる寒気が時間差でぶり返した。

 冷や水を浴びせられるどころではないショックの所為か、急に冷静になって今更ながら悩んだ。

 

 俺は一体、何をやっているんだ。

 よりにもよってスーツ姿で川に浮かんで、冗談抜きで命を懸けて泳ぐなんて。

 しかも、夢の実現を目指して懸命に働こうと、決意を新たにした矢先にこれだ。生きて陸に這い上がれたところで、こんな騒ぎを起した以上は、就職早々会社を即刻クビになってもおかしくない。

 恥の上塗りをしない為にも、恥を忍んで大人しく救助を待って、誠心誠意会社に詫びる。それが今の俺がやるべきことではないか。

 これ以上、馬鹿丸出しの独り相撲を川の真ん中で演じて、一体何になる?

 

 

 その時、まだ白い光がちらつく視界の中に、別の色が混ざり込んだ。

 飛行機の誘導灯のように一方向に向かって動く橙色の点だ。

 目を凝らしてみて、その正体が分かった。

 傘が、かなり低い位置――人間の腰くらいの高さ――で、大きく揺れながらも真直ぐに移動している。

 桟橋の向こうにある御茶ノ水停留所の波止場を、傘を握りしめて川沿いに走る人が居る。それも、瀧が目指していたのと同じ方向にだ。

 桟橋や船上で目にした限り、橙色の傘を持っている人は一人しか見当たらなかった。

 あれは、彼女の傘だ。

 走っているのは、彼女だ。

 

 瀧は岸へ向かって泳ぎ始めた。

 体の動きが鈍っている分を補う為に、死に物狂いで肩ごと腕をブン回す。

 彼女も、俺と会う為に走ってくれている。きっとそうだ。

 そう思うと、肺を締め付けるような息苦しさや、ビート板代わりの鞄に手をぶつけた時の手の痺れなど、まるで気にならなかった。

 

 頭の片隅では、冷静な声が諭してくる。

 彼女が走っているのはただの偶然。偶々職場があの方向にあって、遅刻しそうだから急いでいるだけのこと。桟橋で乗務員に食って掛かっているように見えたのは、船内に忘れ物でもしたのだろう。

 そう考えるのが現実的だ。

 彼女も俺を探しているだなんて、俺にだけ都合の良い妄想だ。勝手に期待を膨らませて暴挙に及んだ自分の愚かさから目を逸らそうとしているに過ぎない。

 

 妄想。それでも構わない。

 一目でも良いから、彼女に会いたい。

 愚かな妄想ならば、せめて、彼女自身に拒絶されて目を覚ましたい。

 

 冷気と水流は留まることを知らない。体の自由を猛烈な早さで奪われ続けて、体力をガンガン消耗している。臓腑まで冷え切るのは時間の問題だ。

 けれども、そんなことは飛び込むと腹に決めた時点で想定済だ。

 今度こそ本当に溺れるかも知れない。親父も祖母ちゃんも嘆き悲しむだろうし、会社や水上バス会社、ありとあらゆる人に多大な迷惑をかける。

 それでも、諦めたくない。

 体に残る二酸化炭素を気合と共に吹き出しながら、あらん限りの力を込めて、腕を振り上げ、水をかき分ける。

 着衣泳のセオリーは仰向けか平泳ぎ。とっくのとうに分かり切っているが、それどころじゃない。一刻も早く岸に着きたい。だからクロールでひたすらに水をかく。

 急がば回れ。最後に耳にしたのは大学受験の時か。随分と久々に聞く言葉だというのに、耳にタコが出来そうな気分だ。

 それだって百も承知だが、首も腰も肩も痺れてきて姿勢を変える余裕が無い。立ち泳ぎして一息つこうとすれば、凍り付いた体がそのまま棒になって沈みかねない。

 見れば見るほど暗さが増して底無しに思える水と、過ぎ去る無数の水泡の所為で、距離感も時間の感覚も完全に狂っている。

 

 いよいよ手足の感覚も無くなってきて、意識も薄らいできた。

 それでも、まだ手足を動かせているのは分かる。まだ沈んでもいない。

 とにかく、何が何でも、是が非でも、岸へ――彼女の下へ行きたい。

 

 

**************

 

 

 思考を手放して我武者羅に腕を振り回すうち、右掌に鋭い痛みを感じて、思わず動きが止まった。

 動きを止めてしまえば、川底へ引きずり込まれる。こんなところでは止まれない。止まれば溺れて死ぬ。

 必死に腕を振り回した。今度は硬い物に思い切り打ち付けた時の衝撃が手首から腕全体を貫いた。

 

 そこで気が付いた。

 ほとんど水没しかけの建物の屋上に手が引っ掛かっている。どうにか泳ぎ切れた。

 どうやら、飛び込んだ時に想定していたよりも、大分下流に流されたらしい。

 陸地まで泳ぎ切ったと言うより、漂着したと言う表現が適切かも知れない。

 船上でマップを調べた限りでは、直線距離では二百メートルに満たない程度だったのに、体感的には優に百倍は泳いだように感じた。

 ともあれ、飛び込む前に目にした看板が頭上にあるから、大体の位置関係は分かる。ここから屋上を伝っていけば、御茶ノ水駅方面の道に辿り着けそうだ。

 

 瀧は、水中から屋上へ上がろうと腕に力を込めた。

 だが、体が持ち上がらなかった。

 渾身の力を両腕に込めて体を擦り付けるようにして屋上に這い上がると、打ち上げられた魚同然に身を投げ出して倒れ込んだ。皮膚感覚が麻痺したか、コンクリートに倒れ込んだのにあまり痛くなかった。

 

 震えが止まらない。眩暈がする。少しでも気を抜くと一気に意識が飛びそうだ。

 屋上一面に溜まった水に片頬は浸っているだけなのに、水飴の沼に落ちたかのように全身の動きが鈍い。

 ほどなくして、思うままに酸素を貪れるこの環境が段々と心地良くなってきた。

 体の熱を奪う雨風とコンクリートに身を委ねて、このまま眠ってしまいたくなる。

 

 

 微睡みかけていた視界の中に、不自然な赤黒い色が入り込んできた。

 その赤黒い色は、雨が作り出す波紋に乗って、少しずつ屋上を染めている。

 重い首を動かして色の出所を探り、自分の手に行き着いた。

 出所に気付いた途端に、掌が鋭く痛み出した。

 思った以上に深く切っていた右の掌から、ドクドクと鼓動に合わせて血が流れ続けている。静脈を切ったのだろう。暗い雨空の下で血がやけに黒く見えた。

 

 右の掌の傷。

 真一文字に走る切り傷が、一本の黒い線を作り出している。

 

 一本の黒い線が、千切れ途絶えていた記憶の緒が、どこかに繋がった。

 真っ暗闇の洞窟の中で目が慣れてきた時のように、それまで見えなかったものが浮かび上がってきた。

 

 俺は、この線を、この感覚を知っている。

 五年前の秋の岐阜。糸守の山頂に居た夜に味わった、あの感覚だ。

 あの夜も俺は、酷く疲れて、凍えていた。

 水を限界まで吸ったジーンズや厚手のパーカーが体にべったりのしかかって、夜の山風とグルになって遠慮無く体力と体温を奪っていた。

 けれど、その程度の不快感は一顧だにする価値もなかった。

 

 あの時、俺はじっと立ち尽くして、丁度今みたいに右の掌に残された細く黒い線を見つめていた。

 得体の知れない巨大な何かによって、俺の魂か心かとにかく大切な場所に、取り返しのつかない風穴をこじ空けられていた。

 宝石や砂金なんかとは比べ物にならない大切な何かが、底を割られた砂時計から砂が音も無く零れ落ちるように漏れ続け、風に攫われて消えていく。

 掬い取って元に戻そうにも、何が零れているのかすら分からず見えず、手応えもまるで無い。

 そういう途方もない絶望感を押し付けらていれた。

 綻ぶ寸前の縫い目のような黒いマジックペンの線。ペン先のくすぐったい感触。掌に残されたそれらだけが最後の心の拠り所だった。

 

 ――この線は失いたくない。

 ――この線、この感触。お願いだから、これ以上、誰かが残してくれたものを奪わないでくれ。

 

 何に縋れば良いかも分からず、願いを叶える流れ星を探す幼い子供よりも必死に、夜空を見上げた。

 砂粒みたいな星々が涙で滲んで、ぼやけた光の霞がどんどん滲んでいくばかり。

 そうやって、握りしめる拳から大切な何かが消えていく喪失感に打ちのめされて、ただただ震えていた。

 

 だが、今はもう違う。

 自分が何を求めているのか、どこへ行けば良いのか、今なら分かる。

 

 

 瀧はスマホを起動してマップを見ようとした。だが、液晶画面の反応がおかしくまともに表示されない。流石の防水加工と言えども、海水混じりの川には抗えなかったようだ。

 焦りを押し殺して、予め頭に叩き込んだ地図をもう一度思い浮かべた。

 船上で確認したマップによれば、横断不可能な水没エリアを除けば、この一帯と御茶ノ水駅を繋ぐ中継点は一つ。

 神田明神。

 あそこに行けるルートでまだ使えるのは、明神男坂だけだ。

 もし彼女も俺を探しているのなら、きっと、俺と同じようにあそこを目指す。

 

 歯の根は合わずガチガチ鳴り続けて、共振するかのように膝もガクガク笑う。

 それでも瀧は、膝を殴りつけて立ち上がり、前へと踏み出した。

 

 

***********

 

 

 似通った背丈で高低差の無いビル、その屋上伝いに安全に進めるボーナス区間はあっさり終わってしまった。瀧は錆の浮いた梯子を伝って下の階層へ降り立った。

 

 ここから先は、腰の深さまで水に浸かりながら、水没した塀や元路上に放置された車の屋根伝いに進むしかない。

 行く手には、看板や植木鉢に自転車のパーツと思しき何か、新聞紙やチラシらしき紙片、ペットボトルに空き缶、その他あちこちに多種多様なゴミが浮いていた。通りにビルの影が差して水底の様子は窺い知れない。

 これでは泳ぐこともままならならず――元より泳ぐ体力は残ってないが――慎重に避けながら進むしかない。

 

 瀧は、体力と神経をすり減らしながら少しずつ歩みを進めた。

 障害物がしつこく漂ってきて纏わりつく度に、手足で障害物をかき分け、爪先で足元を探っては、恐る恐る足を下ろす。踏み外して転べば、何に頭を打ち付けるか分かったものではない。一瞬たりとも油断出来ない作業の繰り返しだ。

 だが、凍え切って疲労困憊の体で緊張を強いられれば、呼吸は浅くなり、意識が朦朧としてくるのは避けようが無い。

 コンクリートのビル群が液状化して染み渡ったような仄暗い世界。雨に穿たれ出来た波紋と揺れ動くゴミが、濃淡が若干違う鈍色としてうごめいている。微かな雨と波の音が鼓膜と神経をぞりぞり擦る。

 

 まるでスノーノイズを彷彿とさせる世界だ。

 ブラウン管テレビの時代には砂嵐という通称で親しまれたという、テレビ局の電波送信機が丑三つ時の休息時間を迎えて電波を弱めた時に、決まって生じたノイズ。

 通称の通り不快感をもよおすノイズである筈が、胎児が母胎で聴いていた音に似ているから不思議と人に安らぎを与える、という説があるらしい。

 屋上に泳ぎ着いた時の感覚がまた襲ってきた。

 四肢が優しく溶かされているみたく体がふらつく。目の前の景色も自分自身も、ありとあらゆる境界が曖昧になっていく。

 無心で足を動かすのにも限界が着て、瀧の両足はぴたりと止まった。

 

 この感覚も、前に体験した気がする。

 土砂降りの鬱蒼とした暗い山道を独りで歩いて、沼みたいなぬかるみに何度も足を取られて、ほとんど全身水に浸かりながら川を横断した。

 そんなことがあったような――

 

 ――あれは、何時のことだ?どこの山道だ?

 あの山道を登っていたのか?それとも降りていた?

 

 疑問も答えもまともな形を成さないまま、意識は遠のき、瞼が重くなっていく。

 

 ……そもそも、俺は、一体何の為に、山なんかに行った?

 

 閉じかけた瞼の裏に、涙を零す少女の顔が映し出された。

 

 瀧は本能的に拳を力いっぱい握り締めていた。

 掌の傷に指が食い込んで、意識と肉体の感覚を強制的に呼び戻された。

 まるで大雪か泥沼に嵌り込んだみたいな重さが四肢にのしかかってきた。

 体が重い。

 で?それがどうした。

 体が重いなら、動くまでもっと力を込めれば良い。

 瀧は、水を膝で蹴り上げるつもりで足を思い切り上げて、そのまま振り下ろした。

 

 ――何が何でも、あの人に会う。

 それ以外の一切合切を踏み散らさんばかりに、水飛沫を上げながら力強く進む。

 

 

 彼女の顔と、山頂の夜の記憶。

 その二つが脳裏に揃った瞬間に、岩のように水底で沈んでいた糸玉が姿を現した。

 その糸玉は、沢山の写真を収めたアルバムを引き千切って、無理矢理縁り合わせたて出来た糸が固まったような、奇妙で鮮烈な代物だ。

 糸玉がするすると一本の糸に戻っていき、よられた糸がほぐれけて情景の断片へと戻っていった。

 所々か色褪せ欠けてもかけがえの無い想い出が、津波の如く押し寄せてきた。

 瀧の胸中を満たしたのは、言いようの無い悔恨の念だ。

 

 俺が彼女と初めて出会ったのは――そう、中学二年の秋の満員電車の中。

 もう八年も前、学校帰りの夕暮れだった。

 中間テストを目前に控える憂鬱さが、満員電車の息苦しさと圧迫感で割り増しになって、全身にのしかかっていた。

 憂鬱と不安を少しでも気を紛らわそうと、既に見飽きるほど繰り返し見つめてきた自作の英単語帳と、またもや睨みあいをしていた、その最中だった。

 

「――たきくん、瀧くん」

 

 出し抜けに声を掛けられて、驚いて顔を上げた。

 目の前に見慣れない制服を着た女の子が立っていた。年頃は中学生の俺よりもほんの少しだけ上だったろうか。

 

「あの……私。覚えて、ない?」

 

 おずおずとした笑顔を貼りつけて、その子は尋ねて着た。

 

 そう言われても、身に覚えがまるで無かった。

 中学二年と言えば思春期真っ只中。他校の女子と話しているのを同級生に見られただけでも、翌日には性質の悪い風邪みたいに噂が広まる。

 綺麗な子だなぁと思わなかったとか、異性として関心を抱かなかったとか言えば嘘になる。折角の綺麗で長い黒髪なのだから、きっちりと結わないで下ろせばかなり俺好みになるのに。なんて呑気な評価を下してさえいた。

 でもそれ以上に、友達に見られたらどうしようとか、女性への免疫の無さから来る戸惑いと警戒心が先行した。

 

 だから、あの時俺は、

 

「誰?お前」

 

 出来る限りぶっきらぼうに、そう言った。

 言ってしまった。

 

 彼女の表情は瞬く間に凍り付いた。

 慣れ慣れしく思えた彼女の笑顔は、その実、勇気を振り絞って無理に作っていたのではないか。

 俺は、彼女の知り合いにでも似ていたのだろうか。

 そんな勇気を振り絞ってでも話したい知り合いってのは、彼女にとってどんな奴なのだろう。

 幾つか疑問が頭を過った時には、もう手遅れ。

 それっきり彼女は俯いてしまって、もう俺と目を合わせようとしなくなった。

 

「……すみません」

 

 電車が大きく揺れて、体が俺に触れる度に、彼女はそれだけ呟いていた。

 他人行儀であろうと努力するような、消え入りそうなほどに小さい癖して、電車の揺れよりも大きく震えた声だった。

 そんな彼女の傍に居た俺もまた、気まずさで何も言えずにいた。

 

 鼻先に彼女の髪がそっとふれる度、シャンプーの清潔な芳香と共に、仄かな甘い香りがした。初めて嗅ぐのにどこか懐かしく優しい気分にさせられた。

 後になって、それが山々を紅く染めるカエデの香りだと知ったのだけれど、あの頃の俺は気まずさを上書きする不思議な想いが募っていくのを感じていた。

 

 この感覚は何なのだろう。

 この香りを纏う彼女は、一体、どこから着たどういう子なのだろう。

 何故、今にも泣き出しそうに潤んだ瞳で、ちらちら遠慮がちに俺を見るのだろう。

 

 疑問と興味が渦巻く中で、電車は次の駅に着いた。

 彼女は人波に逃げ込むように電車を降り始めた。

 降りる直前、最後に俺に一瞥をくれた。

 失望と居心地の悪さから解放されるような安堵と、後ろ髪を引かれる想いが溢れんばかりの切ない視線が、俺の脳裏に焼き付いた。

 躊躇うように小刻みな彼女の歩調は、行き場を失った迷子のようだった。

 

 変なヤツ。気になって、だからこそ放っておけない。

 この子は、俺が知らない何か――これから知るべき大切な何かを知っているのではないか。

 このまま、別れて良いのだろうか。

 ――ひょっとして、俺は、この子に何かしてあげたいんじゃないのか。

 

「あのさぁ!」

 

 気付いた時には、俺は大声で尋ねていた。

 

「あんたの名前は?」

 

 彼女の顔に微かな希望の灯が灯った。

 細い体が降車の人波に押し流されながらも、崖から落ちる瞬間に縁に縋りつくような必死な瞳を向けて、遠ざかる俺に何かを手渡した。

 

「――――」

 

 あの時、彼女は叫んでいて、俺はその叫びを受け止めた。絶対に間違いない。

 なのに、分からない。

 

「名前は――――」

 

 名前は?

 君の、名前は?

 

 

**************

 

 

 懐旧に耽っていた瀧は、唐突に現実に引き戻された。

 足裏で何かが割れる感触がした直後、左足首ががっちり挟まれて、体の平衡感覚が失われた所為だ。

 

「っッッしまっ!?」

 

 水面に浮かぶ脆い板切れを固定された足場と見間違えて踏み抜き、真下の窪みに嵌り込んだ。そう気付いた時には手遅れだった。

 

 バランスを崩した瀧は、横様に叩きつけられるように転んだ。勢い良く跳ね上がった水は大きな飛沫になって雨に混じり、周囲に無数の波紋を作った。

 細やかな雨音以外はしんと静まり返った街中、瀧は独り、声にならない悲鳴を上げて身を縮ませた。

 窪みに嵌って、変な角度で捻り上げられている足に触ると、体に容赦なく電気が走った。顔をうちつけた所為でぐらつく奥歯に気を配る余裕はおろか、側頭部を軽く打った衝撃で意識が遠のく贅沢すらも許されない。

 

 瀧は喘ぎ震えながら、必死に足首を引き抜いた。

 鼓動が伝える振動を何百何千倍にも増幅させたようにズクズクと左足首が痛む。

 震える手でそって触れてみると、バスケ部時代の経験から、骨は折れていないだろうと判断出来た。だが、ほどなくして腫れ上がるのは確実だ。

 試しに左足首に体重をかけてみると、脚から背骨、脳まで痺れが走って体がぐらついた。足首は熱く、脈打ちつ度に痛みが骨身に響く。

 痛い。とんでもなく痛い。痛い。

 

 けれども、それだけのことだ。

 足が痛むだけでは止まれない。

 山頂で再会したあの時の彼女はきっと、どれだけ足が痛んでも、決して諦めなかった筈だから。

 

 瀧は、最早肩からぶら下がるだけのYシャツの袖を完全に引きちぎって、足首に巻き付けた。こんな布でも無いよりマシだ。

 テーピングを齧っておいて良かった。バスケをやっていたことを今日ほど感謝する日は二度と訪れないかも知れない。可能な限りガチガチに固めたお陰で、垂直に踏み下ろせば、痛みにもどうにか耐えられる。

 これなら、まだ前に進める。

 振り下ろす度に強烈な痛みが足元から打ち上げられる。痛み歯を食い縛って堪えながら、瀧は再び、一歩一歩、前へ前へと進んだ。

 

 今はもう、知っている。

 星と月明りだけが頼りで足元さえ覚束ない、鬱蒼とした山道。

 急いで走ったら、枯れ枝や根、岩で躓いて、何度でも転ぶのが目に見えてる。

 そんな場所を、下手に力を込めたら折れてしまいそうな細く華奢な脚で、駆け下りたであろう少女が居たことを。

 彼女が山を駆け下りた理由は分からない。それでも、死に物狂いで駆け下りなければ到底乗り越えられない事態を、彼女が乗り越えた。

 どういう訳か、そういう確信がある。

 そんな彼女に、この口で直接伝えたい言葉がある。尋ねたいことがある。

 だから、足を挫いたくらいで諦めて立ち止まるなんて、冗談じゃない。

 

 

***********

 

 

 あれは五年前。

 高校二年の晩秋、紅葉も枯れかけて、もうすぐ冬の訪れようとする頃だった。

 

 史上最悪の隕石災害の現場である糸守湖と、湖を取り巻く糸守町。

 瀧は、辺りを一望できる山の頂で、独りで一晩明かして、目覚めと共に廃墟と化した町並みを見下ろしたことがあった。

 名前も知らない山なんかに訪れて、何もない盆地の縁に独り寝転がっていた。しかもキャンプ道具すら無く、山頂で行き倒れのように雑魚寝していたのだ。

 意味不明な奇行に及んだものだと、我ながらずっと疑問に思っていた。

 

 それが、今日のこの瞬間になって、ようやくその行動の理由を思い出せた。

 俺はあの時、彼女に会いに行ったんだ。

 

 

 糸守に行ったのは高校二年の秋。あの一度きりの筈だ。

 だと言うのに、何故だろう。

 さっき桟橋で彼女の横顔を目にしてからずっと、蜃気楼のような記憶が頭を覆い広がった。先ほど屋上で掌の傷を見てからはより鮮明になった。

 それらは、糸守のあの山に、異なる時期に登山した三回分の記憶だ。

 

 一度は、厚着でもまだ肌寒い、降りしきる雨で濡れた山道を、胃が飛び出しそうな不安を押し殺しながら登った。

 これは記憶違いではないだろう。この時のことだけは比較的はっきり思い出せる。

 けれど、黄昏の冷たい風が薄着を通り抜けて汗だくの肌に突き刺さる中、木の根や岩に足を取られながら、懸命に駆け登ったこともあった気がする。

 それに、紅葉が綺麗な時期の心地良い昼日中に、ピクニック感覚でゆったりと登ったこともあったような気もする。

 

 対して、下山した記憶はきっちり一度分。

 高校二年の晩秋の早朝、狐につままれた心持ちで朝靄の中を下山した、そのたった一度だけ。

 何もかもがおかしい。説明がつかない。

 高校二年の未成年の癖に飲酒でもして酩酊した挙句、見知らぬ山頂に迷い込んで雑魚寝する奇行に走り、それが祟って荒唐無稽な悪夢を見た。そう考えた方がまだ辻褄が合う。

 

 だが、彼女の存在は夢なんかじゃなかった。

 例え、糸守の山にまつわる数々の思い出がただの妄想に過ぎないのだとしても、瀧にはどうしても彼女に伝えたいことがある。

 

 

 俺と彼女の間には関係と呼べるほどのものは無い。

 八年前にただ一度、電車に乗り合わせて二言三言交わしただけの、行きずりの縁に過ぎなかった。

 

 それが、五年前に山頂を目指して走っていた時には、まるで違っていた。

その時には何故か、長年に渡って近くで見守ってきた叔父か従兄のように、少女のことを理解していた。もう他人だなんて思えなくなっていた。

 兎にも角にも、是が非でも、彼女には幸せになって欲しかった。

 彼女のことを、もっともっと知りたかった。出来ることなら、俺のことを彼女に教える機会が欲しかった。

 この先一生離れ離れになるとしても、一秒でも長く彼女に触れて、一言でも多く声を聴きたかった。

 

 そうして、恋い焦がれて山道をひた走って、ついに山頂で落ち合うことが出来た。

 灯油ストーブが出力全開で着火したみたく、身体が芯まで暖まった感覚をはっきりと思い出せる。

 

 にも拘わらず、俺は確か、彼女にこう言った。

 

 ――お前さ、知り合う前に会いに来るなよ。分かる訳ねえだろ。

 

 

**********

 

 

 水没した足場の高低差は掴み難い。

 瀧は足元の縁の高さを見誤って、挫いた足に思い切り体重をかけてしまった。

 予期せぬ加重に足首が悲鳴を上げて、激痛が脚全体に襲い掛かった。

 耐えかねてよろけながらも、残る片方の足で必死に踏ん張って、辛うじて転倒は免れた。また転んでこれ以上怪我を増やしたら、いよいよ前に進めなくなる。

 

 相変わらず歯の根は合わずガチガチ音を鳴らし、狂った目覚まし時計さながらに全身が震える。痛みと凍え切った体だけが原因ではない。後悔と自分への怒り、不安がそうさせていた。

 

 ――知り合う前に会いに来る

 

 その言葉を吐き出した時の感触は唇に蘇っても、言葉の意味はまだ思い出せない。

 ただし、彼女の気持ちを理解していながら「会いに来るなよ。分かる訳無い」などという、突き放すような残酷な台詞を口にしてしまったのか。

 その理由は分かる。

 立花瀧という男が、腸が煮えくり返るほどにどうしようもなくガキだったからだ。

 

 

 満員電車で初めて彼女に出会ったあの日。

 彼女は必死な想いで冒険をして、はるばる東京までやってきた。

 俺に一目会いたい。ただそれだけの為に。

 故郷から出た経験もほとんど無くて電車の乗り方さえ分からない。それでも彼女は、新幹線や電車に何時間も揺さぶられ、靴擦れの痛みに耐えて靴下に血を滲ませながら、何時間も休まず歩きに歩いた。

 見知らぬ土地で、俺を必死に探して探し回って、ようやく見つけた。

 そんな彼女が、期待と不安を胸いっぱいに抱えていたことなんて露ほども知らずに、慮ってあげることさえせず、

 

 ――ダレ?オマエ

 冷たい一言を投げつけた。

 

 あの一言が彼女をどれだけ傷つけたか。

 それでも俺の前で泣くのを堪えて、どれだけ気を張り詰めていたのか。

 糸守の山で彼女を探して走った五年前の俺はもう、言うほど理解出来ていた。

 もしも時を遡ることが出来て、八年前の中学生の俺の下に行けたら、有無を言わさず張り倒してやったのに、と憤慨してすらいた。

 しかし、たかが数年分歳を重ねたところで、所詮、俺は俺。高校生になっても愚かさは似たり寄ったりだった。

 山頂でようやく再会出来たあの時、俺は、またもやしくじった。

 

 ――会いに着てくれてありがとう。俺も会いたかった。

 ――また離れ離れになったとしても、もう大丈夫。

 ――例え何年間経っても、どれだけ距離が離れても、今度は俺がお前を見つけに行く。

 

 本当に伝えたかった言葉は、舌の上で転がすうちに、口の中で溶かしてしまった。

 

 素直な気持ちを告白するのが恥ずかしかった。

 ひたむきな気持ちを自分に向けてくれた女の子を無碍に突き放した、かつての自分の酷薄さや無思慮さを誤魔化したかった。

 彼女の前ではほんの少しでも格好良い男で居たくて、例え昔のことでも、自分の未熟さやガキっぽさを認められず曝け出せなかった。

 

 ――知り合う前に会いに来るなよ。分かる訳ねえだろ

 挙句の果てに、口を衝いて出たのは、彼女にこそ非があると責めるような憎まれ口だった。

 

 その後のことは――思い出せない。

 彼女は大切な使命を果たす為に一人で山を下り去った。そういう確信はある。

 だが、彼女と交わした会話の中身や、自分がどうやって送り出したのか、肝心な記憶がほとんど欠落している。

 

 会話の最中、彼女は笑顔を見せてくれてはいた……ような気はする。

 けれどもそれは、満員電車で泣くのを我慢していたのと同様に、俺を気遣って気丈に振る舞っていただけかも知れない。

 地平線の夕日よりも朱い頬に、浮かぶえくぼ。そこをぽろぽろと伝い落ちる涙。

 あの顔ばかりが頭に浮かぶ。もう二度と忘れないだろう。

 

 結局、二度も傷付けて突き放すような言葉を浴びせて、それっきり何年も会えず終いだった。伝えられなかった想いを届けたところで今更遅いだろう。

 それでも、知りたい。

 俺は、果たして彼女の役に立てたのか。彼女に何かしてあげられたのか。

 これが最後の機会だとしても、せめて、答えが欲しい。

 一目で良い。彼女に会いたい。

 

 

**********

 

 

 いよいよ太腿が上がらなくなってきた。左足の熱さと痛みが脈動に乗って全身を侵し、溜まりに溜まった乳酸で体重が大幅に増した気がした。

 不意に、脚から抗いようもなく力が抜けた。

 瀧は反射的に地面に手を付いたが、掌の裂けた傷口に何か尖った硬い物が捻じ込まれて、不快な刺激が走った。

 とはいえ、この短時間で何度も転びかけて、その度に数えるのも億劫になるほどに味わった痛みだ。慣れてしまえば注射と大差は無く、今更動じることはない。

 一つ怪訝に思ったのは、ここまで幾度も転びかけた時とは違って、鼻先目掛けて異様に速く地面が迫って着たことだ。

 

 瀧はのろのろと周囲を見まわして、目の前にある物が階段だと分かった。

 地面が猛烈な速さで競り出してきたのではなく、ただ単に、顔面と階段の距離が近かっただけのことだった。

 階段は、最初の二段目から上はまだ浸水されておらず、見上げて数えた限りでは六十段を優に超えてそびえ立っていた。

 これほどに高く広々とした階段は、この界隈で一つだけ。

 目印にしていた明神男坂に到着したのだ。

 その長い階段を前にして瀧は茫然となった。普段は苦も無く昇れる段数でも、今は登山道よりも遥かに長く高く感じられた。

 

 ここからが本番だ。

 この階段を昇った先は、まだ浸水していないから足元の見通しも利く。

 だが同時に、くじいた左足首の悪化を食い止めてくれていた、水による冷却は期待出来ない。足の痛みと熱はどんどん増していくだろう。

 くじいていない足を先に上の階段に上げてから、怪我した方の片足を持ち上げた。

たらふく水を吸ったテーピング代わりの布から、幾重にも吊り下がる鎖のように水が流れ落ちる。

 体重をかけた刹那、太い釘で刺し貫かれたような激痛が脚全体に走った。

 動悸が耳小骨を乱れ打つ度に、腿の付け根までもが軋むようだ。自分が怪我をしたのが本当に足首だったかさえも疑わしくなる。

 

 瀧はしばらく階段に手を付いて、込み上げる耳鳴りと吐き気を堪えた。

 やがて、耳鳴りが止むと、遠くなっていた雨音が帰ってきた。雨は相も変わらず、控え目ながらも止むことは無く音を立てる。

 

 にも拘わらず、思った。

 静かだ。信じられないくらいに。

 ささやかでいて絶え間なく続く雨音が、この階段の静けさをより際立たせていた。山奥で川のせせらぎが密やかに耳に届くことで、かえって周囲の静けさが押し寄せる感覚に似ている。

 既に近隣の家々は棄てられたのだろうか、この辺りは生活の気配がまるで感じられない。くすんだ壁の住宅に挟まれたこの階段は、雨に濡れて黒味が深まって、空から雨雲が流れ込んで形成されたかのようだ。

 この階段の周辺だけが、綺麗に切り取られて、人々の記憶や時間の流れからも忘れ去られた別世界と化していた。

 これから野外の階段を昇ろうとしているのに、まるで、地下へ続く仄暗い洞窟を降りようとしているかのようだ。

 言いようのない懐かしさが胸を衝いて、瀧の心を奮い立たせた。

 

 

 瀧は残る右足で跳ねた。

 怪我をした左足はもう自重に耐えられない。だったら、残る足で進むまで。ケンケンなんて小学生以来だ。

 とは言え、左足を引き摺り庇っても、着地すれば右足から衝撃が体に伝わる。

 衝撃が全て激痛に変換されて神経から脳へと注がれる。その度に、疲労困憊の体が揺れた。

 激痛に耐えかねて倒れかけたら、傍にある備え付けの手摺にしがみ付く。細く長く深呼吸して、暴れ狂う横隔膜を宥める。そして、意を決して立ち上がって、また右足で跳ねる。単純明快な繰り返しだ。

 踏み外してもう一度体を打ち付けたら、再び立ち上がれる自信は無い。足元の階段を食い入るように睨みながら、歯を食いしばって、跳ねて、跳ねて、また跳ねる。

 そうやって、一段一段、少しずつでも着実に、昇っていった。

 

 

**********

 

 たっぷり時間をかけて昇って、やっとのことで十五段目。手摺にもたれ掛かって小休止していた時だった。

 疲労困憊の荒い呼吸と金属の手摺を打つ雨音に混じって、何かが石段を叩く音が鼓膜をつついた。

 ミシンや機織機で織物を編むような軽やかでリズミカルな音だった。

 音の源を探して見上げる。

 傘だ。

 傘がその露先で階段を弾いてくるくる回りながら、数段飛ばしに跳ね降りてくる。

 紅葉色と曙色に染められた傘の残像が、仄暗い階段に波目状の縫い目を作る。

 瀧は吸い込まれるように傘の柄を掴み取った。

 階段の上段へと視線を向けて、目に焼きついた縫い目のその先を追った。

 

 階段の上に、妙齢の女性が居た。

 その人の姿を目にした瞬間に、途方も無い安堵と、耐え難い懊悩が押し寄せた。

 思わずよろめきながらも、手摺を掴んで辛うじて踏み止まった。

 

 瀧は思った。

 ここに来るべきじゃなかった。

 「俺は君の役に立てただろうか」

 「君は今幸せに暮らせているのか」

 彼女にそんなことを問いかける資格さえ、俺はとっくに手放してしまっていたのだから。

 

 彼女こそ、何年も何年も、俺がずっと探していた人。 

 表情がはっきり分かる距離でその姿を目の当たりにして、そう確信した。

 

 こうしてじっくり観察すると、ここまでの道中で思い浮かべていた少女だった頃のあの人と、現在の彼女との間に横たわる印象のズレが克明になった。

 瀧が抱いていた、昔の彼女にぴったりのイメージ。

 それは例えるなら……そう、フェレットだ。

 出会い頭では引っ込み思案な振る舞いをすることがあっても、本当は人懐っこくて好奇心旺盛。細く白い体でちょろちょろと走り回る姿は流麗で、何かの拍子に壊れしまいそうなくらいに華奢でもある。

 綺麗で、危なっかしくて、目が離せない。

 何とかして守ってやりたいと思わずにいられない。そういう女の子だった。

 

 瀧の視線の先に居る女性は、もう違う。

 奥寺先輩が纏うような、洗練されたオフィス街で風を切って歩く、都会の女の雰囲気とは趣が異なる。

 こうして彼女を見上げているだけで、足首の痛みが薄らいで心が落ち着く。街中にひっそり佇む神社の境内に立って、木々から差し込む木漏れ日をゆったりと浴びるような気分だ。

 喧噪な都会にあっても自分のペースを崩さない、調和がとれた大人の女性。

 遥か上方に居るのはそういう人だ。

 

 少し考えてみれば、それは当たり前のことだった。

 当時の彼女が糸森町の住民だったのはほぼ間違いないのだから、あの大災害に見舞われて故郷を追われたに違いない。住む家を失って故郷を離れて、苦労の連続だったことだろう。

 最も誰かの助けを必要としたであろうその時に、俺は傍に居てやれなかった。 

 それどころか、覚えている限りで俺が彼女にしたのは、意地を張って突き放すような言葉を投げかけただけ。それも二度もだ。

 あまつさえ、山頂で泣き腫らす彼女とどんな経緯で別れたのかはおろか、今日の今日まで彼女の顔はおろか存在すらも朧げにしか覚えちゃいなかった。

 信じられないほどに酷薄で頼りにならない男だ。

 

 

 瀧は自分の全身を改めて観察した。

 胸に抱く夢に向かって、大切なものをこれ以上失わず守れる男になる為に、俺なりに精一杯努力してきた。そのつもりでいた。

 だがその実、俺は五年前からまるで成長しちゃいない。

 スーツはよれて鉄片か何かに引っ掛けたらしく穴が空いて、体に張り付くワイシャツは掌の血で斑に汚れている。

 ……そういえば、鞄はどこだ?足を挫いた時に落としたのか。挫いたのがどこだったのかも分からない。鞄も傘も安物だし大した書類も入ってなかったとはいえ、勤め人になって早々、ビジネス道具をどこに忘れたかすらわからないとは。

 ……それ以前に、社会人を自称出来るのかも怪しいものだ。今日は研修生の身分で無断欠勤したばかりか、水上バスからの飛び降りで騒ぎを起こしたのだから、明日には就職活動のやり直しか。

 

 瀧は袖口で顔を乱暴に、何度も何度も拭った。

 雑巾がけでもしたかのように顔がぐっしょり濡れても、とにかく拭わずにいられなかった。

 彼女とすれ違ってから、川に呼び込み泳いでいる間も、彼女も俺に会いたがっている予感がしていた。

 冷静になって現実を見ろと自分を諭すフリをしながら、会いさえすれば彼女と新たな関係を築けると、心の底で期待していた。

 そんな独り善がりな己惚れが、恥かしくて堪らない。

 

 彼女はもう、自分の力で立って、一人で力強く歩いて行ける。

 無様なガキの俺なんかより、何歩も先を行く、凛とした大人の女性だ。

 彼女の人生において、俺の出る幕なんて、もう無いだろう。

 そんな俺が彼女にしてあげられることなんて、何か一つでも残っているだろうか。

 

 ……あった。

 たった一つだけ、出来ることがまだある。

 言葉は無理でも、この傘を届けよう。

 

 

**********

 

 

 瀧は再び、ひょこひょこと階段を昇り始めた。

 一段昇る度に、爪先から頭へと鋭い痛みが突き抜ける。

 その痛みさえ、別れの時までまだ猶予があると教えてくれている気がして、名残惜しく感じられた。

 

 傘を渡してしまえば、終わる。

 いっそ今からでも踵を返したい衝動が湧いて来る。

 それでも、自分の意志で、終わりへと近付いていた。

 ここで逃げてしまえば、この先ずっと後悔に囚われ続けて、二度と自分自身とまともに向き合えなくなる。

 それに、この傘はきっと、彼女のお気に入りだ。夕焼けの色は彼女の大好きな色。そんな気がしてならない。

 頭上の方から足音が近付いてくるのがその証拠だ。彼女からすれば、今の俺は見苦しい不審者に他ならないだろう。そんな俺に近付く理由があるとすれば、傘を取り戻したいからだ。

 それほど大切な物ならば、この手で直接渡してあげたい。

 

 

 とうとう、足音が瀧の二段上で止まった。

 彼女が、目の前に居る。

 二段。普段は一息で登れる距離がとてつもなく遠い。

 二段上まで着てそれっきり、彼女は立ち止まったままだ。大切な物の為とはいえ、これ以上は近寄りたくないのだろう。

 こちらを見下ろして観察しているであろう彼女の顔に、一体どんな感情が浮かんでいるのか。顔を上げて確かめる勇気を振り絞れなかった。

 その代わりに、残る片足で背伸びをした。握る傘を目一杯掲げて彼女の頭上に傘を差す。左手で手摺を握りしめて、ガタつく体のバランスを根性で保つ。

 

 瀧は自嘲した。

 俺はやはり、ガキの頃から成長出来ていない。この期に及んで、彼女の前では格好付けて背伸びをしてしまう。

 無言のままの彼女は、内心では呆れて鼻で笑っているかも知れない。

 それでも構わない。

 俺が傘を握り締めてちんたら階段を上る間、彼女は雨に打たれ通しだった。

 研修はすっぽかし確定で明日には無職とも知れない俺と違って、彼女は急げば始業時間にまだ間に合うかも知れない。これ以上冷やして風邪を引いたら大変だ。

 これでお別れだ。せめて、ちゃんと送り出してあげたい。

 

 彼女はすぐに傘を手に取り立ち去ると思ったが、そうはならなかった。

 相変わらず真直ぐ顔を見られないけれど、彼女は立ち竦んだまま動こうとしない。

 今更になって、その理由に気付いた。

 傘の柄が、血でべったりと汚れてしまっている。

 切り傷が開いて止血してない掌で握り締めれば血で汚れる。当たり前のことなのに全く思い至らなかった。幾らお気に入りの傘でも、こんなに汚されたら気味悪がって拒むのは当たり前だ。

 結局俺は、彼女を失望させてばかりなのか。己の不甲斐なさに瞑目した。

 

 

 その瞬間、すとんっと飛び降りるような音がした。

 ほとんど同時に、しっとりとした艶やかな手が、傘を掲げる瀧の手に添えられた。

 

 瀧が瞼を開けると、同じ段、目と鼻の先に、彼女が居た。

 繊細な指が、傘を握り締める指を一本ずつ優しく開いていき、掌の傷口が露わになっていく。

 保持する指を失った傘が二人の足元に落ちた。

 彼女は傘を気に留める素振りを一切見せず、瀧の掌と傷をまじまじと見つめている。

 

 一体、何が起きているのか。

 すっかり困惑した瀧は、思わず俯いて、足元に転がる傘に答えを求めた。

 

「何やっとんのよ、あほ」

 

 潤んだ声がして、瀧は額を小突かれたかのように顔を上げた。

 どこか拗ねているような顔をして、彼女は瀧を見上げていた。

 白磁のようなその手が赤黒い血で汚れるのも構わずに、瀧の掌の傷口を雨風から守るようにそっと優しく包み込む。

 

「あんな危ないことして、こんなに血だらけでボロボロになっちゃってさ。溺れちゃったらどうすんのよ。川だって綺麗じゃないし冷たいし、風邪とかもっと大変な病気になっちゃうやろ。ほんっと何を考えとるのよ、あんた。……あほやろ。あほ」

 

 悪態混じりで遠慮が無いのに、棘がとても柔らかなお説教が、艶やかな唇から次々に飛び出した。

 言い終えるのが早いか、彼女は目をまん丸に見張った。

 みっともなくて得体の知れない、名も知らない男。

 そいつに向かって、開口一番そんな言葉が自然と口を衝いて止まらなくなった。その事実に彼女自身が驚いていた。

 

 彼女は瞬き一つしようとしない。

 瞬きをしてしまったら、朝靄のように瀧が消えてしまうと思っているかのようだ。

 彼女の瞳はさざ波立つ水面に映る月のように揺れている。 

 瀧の手を包む力がきゅっと強まった。少し傷口に沁みたけれど、拒む気が全く起きなかった。

 

「ほんと……ほんとに、ほんっとにもう…………この男は」

 

 彼女はぽつりと呟いて、大粒の涙が零れ始めた。

 無数の雨滴より大きな涙が、ぽろぽろと頬を伝い落ちて、二つの大きな筋になる。

 長年に渡ってずっとつかえていた物がようやく取れたかのように、彼女の頬は晴れやかに綻んだ。

 

「――すまん」

 

 瀧はまたもや素っ気ない返事をしていた。

 もっと気の利いたセリフを返したかったのに、自然と口から零れ出るのを止められなかった。

 

「マジで、すまん」

 

「……謝らんでよ、ばか」

 

 こんなに情けない言葉でも、彼女は微笑んで軽口を返してくれる。無性にくすぐったくて、懐かしくて、幸せだった。

 

 冷たい雨がどんどん強くなっていた。

 彼女も瀧も、全身がぐっしょり濡れてしまっている。

 しかし、二人とも、そんなことは全く気にならなかった。

 瀧はむしろ、もっともっと雨が降って欲しいと願っていた。

 雨が有り難かった。

 瀧が彼女の手を強く握ると、一生懸命に握り返してくれる。

 柔らかく滑らな女性の手と、彼女の頬から伝い落ちる温かい涙。

 雨風の冷たさが、彼女が分けてくれる体温を――彼女がここに居る事実を際立たせてくれる。

 せめて一目会えれば、一言でも声を聴ければ――なんて強がりは、例え冗談であっても、もう言えない。

 このままずっと、何時間、何日間だろうと、雨に打たれていたって構わない。

 この時間、この感触。この先何が起ころうと、もう二度と、絶対に離さない。

 

 

 

 

 

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