黄昏の向こう   作:テービット

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12話 至福の時間

 

 ――三葉。

 

 昔からずっと、誰からも、こうやって本名で呼ばれた。

 

 ――三葉、三葉。

 

 子供の頃は、くだけた感じの綽名で呼ばれる友達のことが羨ましかった。例えばサヤちんとかテッシーとか、そんな風に。

 

 ――あのさ、俺の話聞いてる?……すまん、俺の話、退屈だったかな。

 

 こうして名前で呼ばれることが、こんなにも嬉しく感じるようになるなんて。本当に驚きだ。

 

「なぁ……なぁってば、三葉。大丈夫か?」

 

 三葉が気付いた時には、瀧が心配そうに覗き込んでいた。

 おもむろに視線を下ろすと、皿の上のアクアパッツァにはフォークで何度もつついた跡があった。

 

「どうした?ぼーっとして食事もあんまり進んでないけど、一昨日は納期ギリギリで徹夜だったんだろ?そんなにワインを飲んでない割には何かちょっと顔も赤いし、無理に付き合わせちゃったか?」

 

「ううん、無理だなんて全然。そりゃ疲れはまだちょっとはあるけど、今日は瀧君と絶対に着たかったもん」

 

 三葉は魚の切り身を大きめに切ってパクッと口に運んだ。優しい魚貝のコクが口の中に広がる。

 

「ここの料理すごく美味しいし、昼の展覧会も本当に良かった。ジュエリー展覧会を男の人と一緒に回っても楽しいなんて驚いちゃった」

 

「だろ?『建築家が手掛けたジュエリー』。今日の宣伝を見た瞬間に、これぞまさに

俺達向け。これっきゃないって思ったんだ」

 

 瀧はどっかり腰を落ち着けると、皿に残った料理をたいらげた。三葉にとっては数口分の量を一口でぺろりだ。男の人の食べっぷりはやっぱり違う。

 

「まあ、『よくよく考えれば、ジュエリーの展覧会に行くのは三葉にとって仕事の延長も同然だから、折角の休日なのに気が休まらないんじゃないか』って今朝家を出た後になって気になり出したけど、安心したよ」

 

「心配し過ぎだって」三葉は微笑みを零した。

「前のデートみたいに遊園地でぱーっと騒ぐのも好きだけど、普段仕事で行く場所でも……好きな人とゆっくり見て回れると全然気分が違うから」

 

 瀧は照れ隠しで頭をぽりぽり掻く。三葉はその様子を眺めながらワイングラスを

手に取った。

 面と向かって口に出すのも恥ずかしい本音は一つ伝えればもう十分だ。

 疲れてぼんやりしてたんじゃなくて、低音で優しく響く君の声が耳に心地良くてついつい聞き惚れていた。

 残るもう一つの本音はワインと一緒に喉の奥に仕舞った。

 

 

**********

 

 "宮水さん"から"三葉"へ。

 瀧がその壁を乗り越えてくれるまで二ヶ月はかかった。

 神田明神の階段で出逢った瞬間に打ち解けた雰囲気が、階段を離れた途端に一転した。ほどなくして交際が始まってからも瀧は他人行儀に戻ってしまった。

 三葉がやきもきしなかったと言えば嘘になるけれども、文句一つ言わなかった。理由は一つ。文句を口にするゆとりも無かったからだ。

 

 立花瀧。

 心地良く響く声に良く似合う、端正な顔立ちとすらっとした立ち姿。物憂げに窓を見る姿なんてそれはもう絵になる。ファッションモデルの渾身の一枚も顔負けだ。

 実際に会話してみると、ちょっと天然で気さくな人柄が一滴のエッセンス代りになって印象が変わる。くだけた服装も着こなすモデルさながらに、自然体の隙が親しみやすさを生み、持てる魅力を際立たせる。

 まさしく理想の恋人だ。

 だからこそ、三葉は引け目を感じた。自分と違って、異性との交際は経験豊富なのだろうな、と。

 

 瀧は三葉より三歳年下だ。

 たかが三歳の差、されど三歳の差。学生時代の断崖めいた格差とまでは行かずとも、社会人になっても社会人なりに年齢は隔たりを生む。三葉の職場でも、出世した若年管理職と追い越されて部下になった先輩社員の間には、居た堪れない空気が毎日流れている。

 

 瀧に対してどう振る舞うべきか。付き合いたての頃の三葉の悩みの種だった。

 デートの直後には毎回毎回、三葉の脳内で反省会が開かれた。

 遊園地デート一つとってもそうだ。

 さっきはパレードでテンションが上がってはしゃぎ過ぎた。あまりの子供っぽさに引かれはしかなったか。

 お化け屋敷で驚いて、二十代半ばを過ぎた女が思わず抱き着いてしまった。しかもまだ恋人にもなっていない間柄だというのに。馴れ馴れしいとかみっともないとか、嫌な印象を与えなかったか。

 不安になったり心配になったり。彼に相応しい大人の女としてちゃんと振る舞えているか、そんな自問自答の繰り返し。十代の子だってもう少しは器用に恋愛を楽しむものだろうに。取り澄ました大人の女のフリをして、頭の中はしっちゃかめっちゃかになっていた。

 

 転機が訪れたのは六回目のデートの夜だ。

 瀧と三葉はホテルのベッドに隣り合って腰掛けていた。

 お互いに息遣いを感じられるまで近づいて、そしてとうとう、瀧が三葉の肩を抱き寄せた。

 細い肩が緊張で微かに震えたのを感じ取ってか、瀧は心安らぐ微笑みを浮かべた。

 

「大丈夫。今日は俺に任せて」

 

 そっと囁いて、恋人の背に回らずにブラジャーのホックに手をかける。

 瀧君は手慣れている。直に見なくても女性のブラジャーを外せるくらいに。

 彼が遠い人のように思えて、少し寂しさを覚えた。

 けれども、肩に触れる男性の手の熱さと力強さを抑えるような優しい手付きが、三葉の心をほぐした。そのまま全身の力を抜き、目を閉じて身を委ねた。

 

 恍惚の中でめくるめく一時を訪れるのを待って――

 ――待った。

 待ち続けた。

 

 ……長い。

 まだなの?

 

 待ち望むひと時はなかなか訪れず、時間の歩みがやたらと遅く感じた。

 閉じる瞼に力を入れて、悶々と考え始めていた。

 まさか自分はベッドに放って置かれて、瀧君はどこかに行ってしまった?

 ……ううん、それはない。

 背中に度々当たる掌も、私の肩を抱く腕も、ますます熱を帯びて汗ばんでいる。

 にもかかわらず、それ以外の感触は何も無い。何も起ころうとしない。

 

 三葉はそっと瞼を開けてみた。

 すると瀧は、ブラジャーのホックを相手に悪戦苦闘していた。

 柔らかな胸を凝視しているけれど興奮する余裕も無い様子。胸を通り越して背の向こうの透視に挑戦中みたいな、必死の眼力が篭っていた。

 息がかかるほど近くで三歯がじっと見つめていることにも気付かず、固く結んだ唇で作った強張った笑みをプルプル震わせている。大人向けの知恵の輪を前にして、絶対解いてやると意固地になった子供にそっくりだった。

 

 そんな瀧を見守るうちに、温かい気持ちがこんこんと湧き上がってきた。それは、想い出の写真を見つけた時に似た懐かしさだった。

 二人で過ごした時間はまだまだ短く、これから想い出を作っていくのだから、懐かしいという表現はおかしい。だと言うのに、胸を満たすその懐かしさが無性に愛おしかった。

 

 三葉はそっと瀧の頬を撫でた。

 瀧がはっとして三葉を見つめ返す。その全身から力みがすとんと抜け落ちた。

 

「初めてキスした時もさ、俺が歯を当てちゃったろ」

瀧の唇から言葉が零れた。

「宮水さんって、俺よりもずっと大人びてて何かこう……スラっとしてるじゃん。なのに俺は出逢った時からずっとままでさ。デートの時はいつも、俺の段取りの悪さやヘタクソさに呆れてんじゃないか。本当は色々我慢させてんじゃないかって、正直ビビり通しだった。

 ……今日こそは、って思ったのにな。上手く行かないな」

 

 瀧はすっかり俯いてしょんぼくれてしまって、

「本当に情けなくて、ご――」謝罪の言葉を口にかけた。

 

「そんな顔しないで」瀧の唇に指を当てて遮った。

「そりゃあ、格好良い瀧君は勿論好きやよ。けどね、背伸びしてる瀧君だって、私達の距離が近くなったみたいで嬉しい。正直、私も背伸びしてたから」

三葉は両手で瀧の頬を包み込んだ。

「今思ったんよ。私達って出逢い方からして変てこだったやない。他の人達が思い描くような理想的で完璧な恋人ってのと違ったって別に良いかなって。これから先、私が瀧君を何度も幻滅させるかも知れんし、瀧君の格好悪いところもいっぱい見ちゃうかも知れんね。

 でもそれで良い。そうやって、絶対に忘れたり薄れたりしない想い出をこれでもかって積み重ねていくのが、私達にとって何よりも大切なんやと思う」

 

 瀧の表情が明るくなったのを見て、三葉は頬を緩めた。

 すると今度は、悪戯っぽく瀧の両頬をつねった。

「大体ねぇ、私に言うなら謝まるんやなくて、もっと大切なことが他にあるやろ」

 

「えっ、お……おう。そうか」

瀧の視線があちこちに泳いだ。長考の末に頭をぽりぽりかいて、

「ごめん。分かんないや」申し訳なさそうに音を上げた。

 

 三葉は頬を緩めて、わざとらしく溜息をついてみせた。

「いつまで、"宮水さん"なんよ?」

 

 瀧ははっとした表情になった。閉じた口の中で練習するようにももごもご舌を転がして、咳払いを一つ。

 

「三葉。これからもよろしく」はっきりとそう言った。

 

 三葉は返事をする代わりに、背中に手を回してホックを外した。

 三葉の胸から布がベッドに落ちるのと瀧が三葉を抱き締めるのはほとんど同時だった。

 男の人は想像よりもずっと体温が高かった。

 自分の胸を押し返してくる胸板の固さと、その固さに反して予想外の柔らかい唇と舌。正反対な感触はどちらも身体に染み込むように馴染んで、とても安らいだ。

 

 

**************

 

 あの夜以来、二人は自然体で付き合えるようになった。

 二人だけの夜を過ごす時も、今みたいにレストランで外食する時も。

 

「それに、今日みたいな場所に同僚と一緒に行くと、話題も着眼点も偏っちゃうのよ。デザインを流行の物と比べたり、展示用の一点モノならともかく、量産する素材としてこれはどうなの、とかね。

 けど今日は、私が予想もしなかったことを瀧君が幾つも教えてくれたでしょ。出展した建築家の本業での特徴とか。その人のデザインはどう変化を遂げていて、それがジュエリーにどう反映されたのかとか。目から鱗って感じで新鮮だった」

 

「偶然だよ。出展者が大学の論文書く時に調べた建築家だっただけだから。俺の仕事だと役に立たない雑学にしかならないと思う」

 

 三葉の尊敬の籠った眼差しを、瀧は謙遜に照れと誇らしさが混じった笑みで受け止めた。

 丁度その時、テーブルの傍にウェイターが来た。皿を下げる背中を三葉は会釈で見送って、皿のあった場所に手を置いた。

 

「それじゃあ、私が中断させちゃった話の続き、聞かせてよ」

 

「どこまで話したっけか……そうそう、折角海沿いの公園なのに景観を損ねると勿体ないからってんで、まず湿地の段差をコンクリートで縁取って――」

 

 

 三葉の同僚の中には、恋人と仕事の話をすることをタブー視する人が多い。

 デートの最中に、恋人相手に退屈な仕事の話をする無神経さに呆れる。そういった一般的な感覚とは違う理由でだ。

 同僚達にとって一番の問題は、芸術や創作の話となると、熱が入り過ぎて諍いの種になり易いことにある。

 

 芸術や創作に携わる人間は、日頃からアンテナを張って感性を鋭敏に働かせて、あらゆる経験から得られる刺激を限界まで溜め込む。そうして溜め込んだものを濾して濃縮させてそれらを搾り出し、全身全霊を込めて作品へと変換させる。

 ましてや、食べていく為の仕事としてそんな活動を選んでしまったら、仕事のことが四六時中頭から離れなくなる。

 脳味噌は熱暴走寸前のフル回転。この業界では石を投げればワーカホリックに当たる。

 そうやって全身全霊を込めて生み出した創作物は、歩んできた人生の延長であると同時に身体の一部に等しい。

 

 だからこそ、創作のモチベーションを高めて納得いく作品を生み出す為に、生活スタイルを創作活動に最適化させるは人が多い。

 ある人は、芸術に没頭するべく人間らしい生活をかなぐり捨ててゴミ袋の山脈に埋もれて日々を過ごす。またある人は、朝の散歩や家事といった日常のルーティンワークを厳粛な儀式のように分刻み厳守で執り行う。

 一般常識から逸脱した生活スタイルや人生観を、芸術に縁遠い人に理解して貰うのは至難だ。

 それなら、芸術家同士、近しい気質の者同士なら意気投合出来るのか。

 ……残念ながらそれもまた難しい。と言うより、むしろ危険ですらある。

 一見瓜二つなモノを長い間一緒くたに扱うと、その微妙な違いはより際立つものだからだ。

 気質は近しいのに決定的に譲れない価値観を抱える二人が、恋仲になって一つ屋根の下で暮らす。それは言わば、微妙に規格の違う歯車を強引に捻じ込んで、無理やり機械を動かす行為に等しい。

 人生観や価値観に直結する他人の作品を否定することは、人格否定や罵倒として受け取られることも珍しくない。創作活動に入れ込んだ分だけその傾向は顕著になる。

 噛み合わない所為で歯車同士が削れ合って摩擦熱を帯びるみたいに、連日金切り声で批判し合い罵倒し合って、互いの心身が削れていく。

 よしんば途中までは上手くかみ合ってスムーズに回っていたとしても、何か些細な障害物――例えば、尊敬していた伴侶が作風をガラリと転向してしまっただとか――が投げ込まれれば、歯車は嫌な音を立ててあっさりと止まる。

 もっとも、そうした事態がプラスに働くことも皆無ではない。

 拷問めいた苦行の果てに悟りを開くように、心身を削られた末に芸術観や技法が洗練されて、新たな境地を見出した芸術家へと大成する。そういう状態を指して、私生活の苦難を糧にして芸術家として一皮剥けた、新たな境地を見出した、と表現する人も居る。

 けれども、そんなに上手くコトを運べるのは極一握り。

 精神をガリガリに削れて脆く歪に変形してしまえば、大抵は再起不能に陥る。

 

 美大時代の同級生や今の職場の先輩からは、交際相手と程よい距離感を保つのがどれだけ難しいかについて、愚痴混じりの体験談をよく聞かされてきた。

 心身を摩耗し尽してデザイナーとして駄目になってしまった人も居たし、そうなる前に恋人との生活を優先してデザイナーから転職した人も大勢居たらしい。

 三葉と瀧も他人事ではない。

 新人ジュエリーデザイナーと建築の設計士の卵。扱うモノのスケール感では小石と石山の差があっても、同じ石同士。多少なりとも通じるものはあるのだから。

 

 それでも、三葉にとっては正直なところ、こうした同僚や先達の悩みを理解は出来ても納得は出来ていなかった。

 瀧が仕事の話をするのに耳を傾けるのは、最近の三葉にとってお気に入りの時間になっているからだ。

 理由は多分、二つある。

 まず一つ目は、どんな話題でも構わないからお互いのことを知りたいから。三葉と瀧は二人とも、”奪われてきた二人の時間を少しでも取り戻したい”といった欲求を抱えていた。

 そして二つ目。先輩達と決定的に違う大きな要素は、三葉の恋人が立花瀧だから。

 この立花瀧という青年には、社会人一年目特有の真っ白な素直さと、成し遂げたい夢に懸ける鮮烈なまでの情熱ある。

 

 

「――でさ、その建設現場の見学の後に、それぞれ営業部の先輩に同行して得意先との打合せにも同席させて貰うスケジュールだったんだけど、見学時間がかなり押しちゃって。その先輩との待ち合わせに間に合わせようと焦って現場作業服からスーツに着替えたから、靴を履き替え忘れたまま待ち合わせ場所だった得意先の会社の玄関まで行っちゃったんだ」

 

「靴の履き替えっていうと安全靴よね?爪先に鉄板とかが入ってて頑丈なんだっけ。私の友達――ほら、この間紹介したテッシーね――に見せて貰ったことあるけど、あんなゴツい靴をそのまま履いて行くなんて、よっぽど慌ててたのね」

 

「そうそう。履き心地は案外悪くはないから、ずっと履いてると違和感が無くなるんだ。それで、先輩と一緒に応接室に通されてから、先方の部長さんに『君、面白い靴履いてるね』って指摘されてさ。ようやく気付いて頭は真っ白。先輩は俺の足元ちらっと見た後は能面みたいな顔でガン見してくるし。生きた心地しなかったよ」

 

 三葉が口に手を添えて笑い、瀧のつられて苦笑いを浮かべた。

 

「忘れ物って仕事に慣れてきた頃になると余計にやっちゃうよね。でも、その様子だと先輩さんには怒られずに済んだの?」

 

「それが結果オーライで助かったよ。部長さんが気さくな人で、現場上がりらしくて『最近の安全靴はこんな風なんだ』って懐かしがってね」

瀧は勢いよくグビッと水を飲んだ。

「そしたらウチの先輩が部長さんの昔話に乗って、即興で雑談のネタを膨らませていくんだ。昔の安全靴は鉄板だったけど、万一鉄板が変形すると足を突き刺したまま抜けなくなって逆に怪我が酷くなるから今は樹脂製がメインだ、とか。そういう知識が次々出て来て凄かった」

 

「営業の人って、専門知識も雑談ネタもポンポン出てくるもんね。私も営業さんに同行した時にはトークに全然付いていけなくて、ただただ感心してた」

 

「帰りの電車の中で先輩にずっと揶揄われたのは参ったけど、経験の差ってヤツを見せて貰ったし迷惑料代わりってことで良しってとこだな」

 

 瀧の語る仕事の体験談は、新人らしさに溢れる他愛ない話が多い。

 社会人なら誰もが一度は経験するであろう、あるある失敗談がほとんど。そこに、彼の穏やかな佇まいからは想像つかない喧嘩っ早さ故の、子供っぽいエピソードが加わる。気性の荒い現場作業員にいきなり怒鳴られて、ムキになって反論したら危うく喧嘩になりかけた――とか、そんな話だ。

 それでいて、他人のミスや失態をあげつらったり悪し様に罵ることは絶対しない。

 瀧が面白おかしく語るのは自分の失敗談。オチでピエロになるのはいつも彼自身だ。

 揶揄ったり嫌味を言う先輩が登場しても、新人の自分にはまだ出来ない仕事をこなせるその人に敬意を払っている。

 三葉の雑談を聞いている時――それが男性には縁遠いジュエリーの話題も含め――にも、熱心に耳を傾けてくれる。

 瀧にとって三葉は恋人であるだけでなく、共通点のある分野に先んじて飛び込んで日々奮闘する人生の先輩でもあるからだ。

 彼は己の未熟さを痛感している。

 だからこそ、日々の体験に教訓を見出して、経験を吸収しようと必死なのだ。

 

 ――人の記憶に刻み込まれて、心を温め続ける街作りを実現したい。

 

 瀧が仕事を通して成し遂げたい夢。

 字面だけだとあまりに壮大で漠然としていて、無味乾燥な絵空事に思える。

 それが、瀧の唇に乗った瞬間に、落ち着きと鮮やかさを両立させた色彩を帯びる。

 

 ――マリコン勤めじゃ華やかな街作りとは縁遠いかも知れないけど、転職するにしても多少の経験や実績は要るだろ?

 ――今の職場では何がどこまで出来るか。俺の能力でそこに届くのか。まずは見極められるようになりたいんだ。

 

 夢について語る時の瀧は、二人でアルバムを囲んで想い出を分かち合うような、熱を帯びた視線を三葉に向ける。

 蜃気楼めいた理想郷ではない具体的な青写真――人の記憶に刻み込まれて、心を温め続ける街……いや、町――が、三葉の瞳にもくっきりと投影されているかのように。

 ――君なら俺の夢を理解してくれる。一緒に目指してくれる。

 瀧が三葉に向ける視線は期待と信頼で満ちている。篝火のように煌めくその双眸で見つめられる度に、三葉も胸が高鳴り熱くなる。

 

 

**********

 

「っといけね、長話が過ぎたな。これから帰ってまた仕事だろ?時間は大丈夫?」

瀧は腕時計を一瞥して尋ねた。

 

「うん、まだまだ全然平気。家でやれるし、ちょろっとやればすぐに片付くから」

 

 三葉の作った笑みを見て、瀧は困り顔で俯いた。本当は寝不足でかなり疲れていることを察している。 

 

「……ごめんな。来週が俺の出張じゃなければ、もっとゆっくり時間とってデート出来たのにな」

 

「お互い仕事だもん。仕方ないよ」

 

 三葉が宥めるように言ったものの、瀧は炒った豆をそのまま齧っているかのような苦り切った顔でコーヒーを啜っている。

 

 これまでも瀧と三葉の休日はなかなか重ならず、二人で過ごす時間を作るのは一苦労だった。

 三葉が無理をして今日のデートに着たのも、この機を逃すと、瀧と顔を合わせない日が通算一ヶ月に達するからだ。交際相手に会えない日が一ヶ月間続くくらい何てことない、と豪語する同僚は居るけれど、今の三葉には到底理解出来ない心境だ。

 

 瀧が参加している研修の中でも現場見学と実習は欠かせないプログラムだが、それらは現場の作業工程に振り回される。

 必修の工法を用いる作業がこの予測不能な悪天候の所為で関東圏外や休日にしか実施されなくなってしまえば、新人だろうと出張や休日出勤を求められる。そうして研修のスケジュールが急遽変更になって、仕事が週末の休日に食い込んだことがこれまでにも何度かあった。

 三葉もまた、催事に向けた準備で忙殺される繁忙期になると、休日でも昼夜を問わず仕事をしないとおっつかなくなる。今現在抱えている仕事もそうだ。

 瀧の態度にふてくされた雰囲気が混じるのは、恋人の体調を心配しているだけでなく、これまで潰されてきたデートのことを考えているからだろう。

 ただ、捨てる神あれば拾う神あり。

 瀧の研修もこの九月いっぱいでようやく終わって、休日数を調整する為の代休に入る。三葉も繁忙期の骨休めで同じタイミングで休暇にする予定だ。

 ようやく二人の休みが重なって、長い時間を一緒に過ごせる。

 

 

 三葉は半身を乗り出した。

「でも、やっと泊りがけで出掛けられるじゃない。悪い事ばかりじゃないよ。今度こそぱーっと羽根を伸ばそう」

 

「……ああ、そうだな。これまでの分をガッツリ取り返してやるとしようか」

瀧は表情を和らげて三葉の手を取った。

「昼間にもちょっと話したけど、三葉が行きたい旅行先はどこか思いついた?人気の観光地は前々から予約しとかないと宿取れないから、早めに決めとかないとな」

 

「んとね、まだ候補を絞れてないけど、今年は紅葉の時期が早まって十月の初めになるっていうでしょ。丁度休暇予定日の時期だし、京都旅行はどう?長野とかも紅葉は見応えあるって言うからそっちに行くのも良いかも」

 

「京都に、長野か。……俺も行った事ないし良いかもな」

 

 瀧は三葉の手を撫でている。ただ、三葉の方を見るでもなく、コーヒーカップの波紋をじっと観察していた。

 

「瀧君はどうなの?他にイチオシの場所ある?」

 

 瀧の手が止まった

「俺?えっとそうだな……」瀧は顔を上げると数秒言葉に詰まって、

「今すぐぱっとは出て来ないかな」曖昧に笑った。

「長野だったらキャンプするのはどうだろ。コテージを借りる手もあるし、俺の親戚なら何年間も使ってないキャンプ道具を持ってるから、中古で良ければすぐ借りられるよ」

 

「キャンプ!やったことないし良いかも!」

三葉は瀧の手を握った。

「じゃあさ、キャンプを有力候補にして、来週の日曜までにもう一回他に行きたいとこがあるか考えてみようよ。瀧君はその親戚の人にキャンプ道具借りられるかも確認してみてくれる?」

 

「ああ、任せとけ」

瀧は指を絡めて三葉の手を握り返した。

 

 付き合ってからそろそろ半年経ったのだから、お互いに相手の人柄は良く分かる。

 瀧は隠し事がかなり下手だ。

 今この時にしても、肯定的なその言葉とは裏腹に浮かべる表情は悩ましげ。けれども声は弾んでいるから二人での旅行を心待ちにしているのは確かだろう。

 となれば彼の心境は、本当はどこか行きたい旅行先を決めているものの、今はまだ伏せておきたい事情がある。そんなところだろう。

 もしかしたら自分の為にサプライズを用意しているのかも知れないし、詰め寄ってサプライズを台無しにする無粋な真似は避けたい。

 

 宿の押さえるための予約期限までまだ時間はある。

 心の整理をつけて打ち明けてくれるのを待とう。

 

 

 

 

 

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