湿り気を含んだ夜気が三葉の全体を包み込んだ。
心が浮かれる高揚とアルコールがもたらした火照りが拭い取られていく。
三歩、四歩、ふらふら夜道を歩くと、このままひんやりとした心地良さに身を委ねたくなる。
敢えてピンと背を伸ばして、デートの余韻をはねのけた。頭をぼやっとさせては居られない。家に帰ったら仕事の残務処理が待っている。
三葉は溜息をついた。
社会人になってからは、とにかく時間が無い。
大学生の頃は、社会人の先輩達の忙しさ自慢めいたお説教に付き合わされる度に、内心ふてくされながら聞き流していたものだった。
大学生は暇そうで羨ましい。テストに追われずサークルにバイトにと楽しそうだ。モラトリアムの具現化だ。
出くわす誰もがそんな風にやっかんできて、その度に三葉は内心で反発した。
誤解だ。大学生だって猛烈に忙しくて、楽しいばかりじゃない。中には毎日暇でお気楽な人も居るかも知れないけれど、自分は違う。そう思っていた。
先輩が正しくて自分が甘かったのだと、今では痛感している。
社会人同士と言うのは、どうしてこうも時間を合わせられないのか。
無責任に放り出せない仕事が枷になって、瀧と一緒に過ごす貴重な時間が揉み潰されてしまう。
瀧と一秒でも長く一緒に居たい。
誰かと同じ空間に居て、こんな気持ちになったことは今まで無かった。
気心知れた親友達と女同士あーだこーだと言いながら、お茶したりグラスを傾けるのも、それはそれでスカッとする大切な息抜きだ。四葉や祖母、父と家族水入らずで過ごすと、そこが生家でなくとも体の奥底まで緊張が解れる感じがする。
けれども、瀧と向かい合った瞬間は、格別だ。
鼓動の高鳴りと溶けるような安らぎが共存して、あっと言う間に過ぎ去る時間。あの不思議な心地良さの前では何もかも霞んでしまう。
彼と初めて出逢ったのは――記憶が正しければ多分――高校二年の秋に満員電車。出逢いとも言えない短い会話を交わしただけ。
その後に糸守の隠し本尊で再会した筈だけど、その時の記憶は今もおぼろげだ。
少なくとも、半年前に神田明神で再会するまで、十年間ずっと交流は絶えていた。
にもかかわらず、三葉ははっきりと確信していた。
阿吽の呼吸だとか以心伝心だとか、そんなつまらない表現ではまるで足りないくらいに深い繋がりが、私と瀧君の間にはある。
頭の中から拭い取られて奪われた記憶がある。三葉は常日頃その余韻に悩まされながら生きてきた。
見覚えの無い筈の建物や人にすれ違うと既視感を覚えたり、初めての声に聴き覚えがあったり。日常のふとした拍子に思わず立ち止まった。
それはさながら、色無地のパズルを細かく砕いて散り散りにしたピースを拾う感覚に近い。
拾ったピースをどういう風に解釈すれば良いのか。そもそもそれが本当に路傍のゴミではなくて解きたいパズルの一部なのか。
とっかかりが何も無ければさっぱり見当がつかない。日々そんな思いを繰り返し味わってきた。
そんな毎日が、瀧と邂逅した刹那に一変し始めた。
三葉ははたと立ち止まると、スマホの画面を確認した。
どうやら通りを一本過ぎてしまったらしい。また来た道を戻り始めた。
三葉は今、初めて訪れる住宅街の中を歩き回っている。
目指すは、この住宅街のど真ん中にある水上バスの仮設停留所だ。
ほぼ海と化した川の向こう、三葉の自宅はそこにある。帰宅するには水上バスを使うしかないのだけれど、普段利用する停留所は夕方に運行停止してから復旧出来ていない。
運行会社の公式サイトによれば、今の時間帯で利用出来る最寄りの仮説停留所は、この住宅街のど真ん中にある水上バスの仮設停留所だけらしい。
不慮の事態による交通機関の運行停止は今も昔も珍しいことではない。
信号機の故障は波止場の修繕に替わり、線路に飛び込む人やビニール袋は航路に流れ込む流木や瓦礫に替わった。それだけのことだ。
電車と水上バスで大きく違う点は、まだまだ整理されていない波止場があちこちに点在していることだろうか。駅のホームのように隣接していないから、振替便を利用するにも骨が折れる。
歩き始めてかれこれ十分経って、ようやく目的地である川べりの停留所に着いた。
正確には、川べりと言うより海岸か。
拡大し続ける荒川に隅田川は呑み込まれて、東京は着々と海に沈み続けている。水面からちょこちょこと頭だけ出している水没寸前の建物は、どれも真っ暗闇に溶け込んでいる。まるで凪の海だ。
水辺に設置された誘導灯と、灯に照らされてぼうっと浮かび上がる桟橋の存在が無ければ、歩いて渡れる草原が広がっているような錯覚に誘われて、ふらふら歩み出て水の中へ落ちてしまいそうだ。
「えぇ……水上バスの次の便、何でこんな遅い時間なの。こんなとこでどうしろってのよ」
三葉は運行掲示板に目をやって、ぶーたれた。
目が痛くなりそうなLED灯に照らされる掲示板はうんともすんとも返事をしない。このまま何十分でも待っていろ、と冷たく突き放すだけだった。
仕方なしに、折り畳み傘で小降りの雨を受け止めながら、残る手でスマホを取り出した。スマホの地図アプリを操作して、気の利いた時間潰しのスポットを探してみる。
言わずもがな、そんな場所は見つかりっこない。探してみる行為自体が暇潰しだ。
ただでさえ、夜更けも迫る閑静な住宅街。しかも、このご時世では、増水した荒川がすぐ傍までにじり寄っている。こんな立地では、めげずに深夜営業を続けるファミレスやカフェは無いし、最寄りのコンビニですらここからそこそこ歩いた所に一軒あるのみ。
仄暗い街灯だけを頼りに、雨の中でスマホと何十分もにらめっこするしかないだろうか。おまけに、帰宅したら早々に仕事を片付けなければならない。
折角のデートの余韻をこんな形ですり減らされるなんて、あんまりだ。
三葉はまた溜息を一つ。それから空を仰いで、広げた傘をぼんやりと見つめた。
傘の布地の向こうでは雨粒が幾重もの波紋を作っては消える。
帰ってから取り掛かる仕事のこと。明日の朝食をどうするか。自宅で片付けられるのを待つ食器や洗濯物等の雑用達。
ありとあらゆることが、とりとめなく頭に浮かんでは過ぎ去っていく。
そうするうちに、三葉は再び瀧のことを考え始めていた。
**********
考えても考えても、なお飽きないほどに、二人の間では不思議なことばかり起こる。
三葉は八年前、瀧に会う為にはるばる東京に行った。
故郷から外に出たことが無いに等しい小娘が挑んだ人生初の冒険。そんな一大イベントのこを、八年ぶりに瀧の顔を目にするその瞬間まで三葉自身が忘れてしまっていた。彗星が落ちたあの日の山頂で再会したのが彼だったという大切な事実も然りだ。
そんな奇妙な体験にも勝るとも劣らない摩訶不思議な出来事が、二人の間では次から次へと起こっている。
いの一番に挙げられるのは、瀧の家を初めて訪問した時のこと。
神田明神の階段での再会した時には瀧は全身ボロボロ。三葉は彼に付き添って病院に行き、一人では歩くのもままならない彼を自宅まで送った後の話だ。
「折角ですからウチでお茶でも。何かお礼をさせて下さい」
遠慮がちに誘う瀧に従って、三葉は彼の家に御邪魔した。
急に恥かしがった様子で他人行儀な態度を取って、まだ脚が痛むのも誤魔化し強がって来客をもてなそうとする。そんな瀧の態度を”水臭い”と感じてふれくされる自分自身に三葉は驚いた。
自宅に辿り着くや、瀧は玄関口で膝を折りよろめいた。安心して疲労や痛みがぶり返したのだろう。
瀧の弱りようを目の当たりにした三葉は、早く彼を休ませてあげたくて、衝動的に先んじて靴を脱ぎ捨てた。
家に上がるや、ほとんど真っ暗な室内を突き進んだ。進ん導かれるように照明スイッチを押して明りを確保すしてから、ハンガーを持ってきて彼の上着を掛けて、タオルを手渡してあげた。
瀧はやっと椅子に座ったかと思えば、今度は「お礼にお茶を煎れる」と立ち上ろうとする。三葉はそんな彼を制して、一言断ってから戸棚から食器や茶葉を取り出し、お茶を煎れた。
恐縮しながらも安堵した表情でカップを手に取る瀧と、満足気に彼を見守る三葉。二人で向き合って煎れたお茶を飲んだ。
一心地ついて、三葉はふと自分の行動を振り返ってみた。みるみるうちに顔が紅潮した。
「ごめんなさい!……私、変ですよね。いきなりお部屋をあちこち弄り回して」
三葉は何度も頭を下げた。
「……なんでなんやろ。初めてお邪魔したお家なのに、色んな物の場所が手に取るみたいに分かって、今の今までそれが当たり前みたく思えとった」
普段は抑えている方言が混じったことにも気付かない程に困惑した。
「構いませんよ。お陰で助かりました。正直、立ってるのも……少しばかりしんどかったので」
瀧は奇妙なことに、不気味がるどころか嬉しそうだった。
「それに、変って言えば俺もです。貴女に言われるまで俺にも違和感が無かった。むしろほっとした感じがしてるんです」
そっと楽しい内緒話を打ち明けるように続ける。
「何て言うのかな。久しぶりの同窓会で昔仲良かった奴と再会してすぐに名前を呼ばれたみたいな――覚えていてくれて良かった、って感じでした」
こういった不思議な体験はまだまだ沢山あって、その全てを瀧と共有している。
一つ一つは偶然でも、幾重にも度重なれば、それはもう必然だ。
私と瀧君の間には特別な繋がりがある。
三葉の心にぽっかり空いた記憶の空白はまだまだ残っている。
だが、散り散りになった記憶のパズルのピースはもう無地の欠片ではない。瀧と再会したあの時から、ピース一つ一つにはっきりとした絵が宿った。
こうして二人で一緒に時を過ごせば、不思議な出来事のピースを一つ一つと見つけていって、ちょっとずつでも着実に組み込んでいける。何時の日か一つの絵が出来上がるに違いない。
記憶の彼方で眠る情景――あの彗星が降った日に糸守の御神体で見たであろう、黄昏。
その先に何があったのかを見つけられる日は近い。
**********
にわかに空気が変わって、三葉は我に返った。
雨足が弱まった途端に空気は湿って嫌に重くなった。加えて、高層ビルのエレベーターに乗った時に味わう、急な気圧変化で耳が詰まるような違和感。
引き潮が起きているかのような妙な気配が頭上に広がり、冷や汗が滲む。
これはまずい。
もうすぐ、滝がまるごとワープしたかのような、とんでもない土砂降りが来る。
その常軌を逸した土砂降りの原因が何なのか。気象学会でもいまだに解明されていない。学者達がしきりに解説するところによれば、ダウンバーストという自然現象が最も近いそうだ。
同時に、幾つかの理由から似て非なる現象だとする反論も出ている。土砂降りの直前になると目撃される、宙を漂う魚に似た巨大な水の塊もその根拠の一つだ。
何はともあれ、謎の土砂降りの正体についての考察はひとまず置いておく。今はそれどころじゃない。
三葉は素早く傘を閉じた。頭を結っていた組紐をさっとほどいてバッグに押し込み、傘を閉じて、それら荷物を胸元に抱え込む。あの降り注ぐ大水にかかれば、折り畳み傘なんて夜店の金魚掬いの和紙みたいに折られ破けてしまう。
傘も組紐も想い出の詰まった宝物だ。むざむざ台無しにしたくない。
三葉は大急ぎで周囲を見渡した。こういう時は、一刻も早くしっかりした屋根の下に駆け込むに限る。
普段だったらオフィス街の適当なビルに飛び込んで難なくやり過ごせるけれど、間の悪いことに今居るのは、夜半間近な上に土地勘の無い住宅街のど真ん中だ。他所のお宅の玄関先に侵入して勝手に軒下を借りるのは気が引けるし、インターホン越しに助けを乞う猶予は無い。
少し離れたところに公園があった。
微かな電灯に照らされた東屋、あそこに駆け込めば雨を凌げる。肌の感覚から猶予を図るに、かなりギリギリだけど間に合いそうだ。
三葉は今一度、もっと近い場所に雨を凌げる場所が無いか見渡してから、一歩目を踏み出そうとした。
足が地に着くその瞬間、視界の端で何かが引っかかった。
思わず立ち止まって目を凝らしてよく見ると、ぼんやりと浮かぶ白い影のようだった。人差し指くらいの大きさの人影だ。
こんな時間、こんな場所に?……まさか幽霊?
異様な光景の所為で迫る大水は意識から外れかけ、三葉は魅入られるように白い影に歩み寄った。
その白い影は華奢な少女に見えた。
まるで、海と化した大河に向かって、手を組んで祈っているかようだった。
――あの子だ。
三葉はある日にたった一度だけ、異様な夢を見たことがあった。
その夢に登場した人物はたった一人の見知らぬ少女だけ。
夢の中で少女は、すーっと浮かび上がって空の彼方へと消えていった。
祈るような白い影がその夢の少女と重なった。
「待って!行っちゃダメ!!」
佇む少女に向かって、三葉は駆け出していた。
あの子が大水に巻き込まれて川に押し流されるかも、とかいった常識的な懸念は頭に浮かばなかった。東屋に避難しないと自分が大水に襲われることさえすっかり忘れていた。
三葉の頭を占めていたのはただ一つ。
――あの子が"空"に連れていかれる。止めなきゃ。
少女が祈りを止めてこちらに顔を向けた。
まだまだ距離があるし周りは暗くて、少女の表情は分からない。けれど、驚きに目を見張る彼女と目が合った気がした。
それが目の錯覚かどうかを確かめる前に、その時が来た。
とてつもない衝撃の怒涛――だなんて、ありきたりな表現では到底足りない。
何かがのしかかってきたのを背中で感じられたのは、最初のほんの一瞬だけ。肺の空気は全部押し出されて視界が真っ白になった。
膝を硬い物にぶつけた感触もした――重みに耐えられず膝を屈したのだろう――と思ったら、今度は寒気が全身を支配して、そこから先は五感が振り切れた。
三半規管だとかバランスを司る器官が狂ってしまったか。立ちくらみがして地面に倒れたのに、いつまでも地面に着かずに倒れ続けているかのようだ。
中空を漂っているのか奈落に落ち続けているのか判然としない浮遊感が三葉を包み込んでいた。
あの夢に出てきた女の子も、こんな感覚を味わったんだろうか。
**********
ティアマト彗星の落ちた日から、三葉は夢らしい夢を見なくなった。
その代わりに、目覚めた朝に泣いていることが何度もあった。何故泣いていたのかは自分自身も分からない。本当は夢を見ていたのに、どんな夢か思い出せないのが悲しくて泣いているような気もしていた。
そんな折に一度だけ見た、今でもはっきりと思い出せる唯一の夢。それがあの少女の夢だった。
とても変な夢。でも所詮、夢は夢。
もういい大人なのだから、お化けに出くわす悪夢を見て飛び起きた子供みたいにいつまでも気にするのはおかしいことだ。十分自覚している。
それでも、あの夢は特別だった。
まず何と言っても、全く同じ夢を同じタイミングで見た人が居たのだから。
夢の舞台は、新宿か代々木か。
とにかく見覚えのある街がどんよりと厚い雨雲に覆われていた。
そこに、あの少女が居た。
指先より小さな背中しか見えないのに、不思議と親しみを覚える少女だった。
彼女は孤独に見えた。まるで世界中から爪弾きにされたかのように。
少女は手を組んで祈りを捧げたまま、ゆっくりと空高く浮かんでいく。
すると、分厚い雨雲に覆われた街並みを、一筋の陽光が貫いた。
少女の姿が高く高く舞い上がるにつれて、暖かな日差しが灰色の世界を白く塗り替えていく。まだ微睡む大都会に早朝や雨上がり特有の澄んだ空気が広がる。
都会の只中に見えるのに、車や人の喧噪は無く、細やかな雨音さえ聴こえない。
見知った街に似ているからこそ、不協和音めいた違和感を搔きたてる異界だった。
そんな異界で、胸に染み渡る音が鳴っていた。
それはまるで小川のせせらぎのようで、山奥の深緑のような清廉さと爪先から心の底までを底冷えさせる冷たさを併せ持つ音色だった。
その音が、ずっとずっと、異界に反響していた。
三葉が跳ね起きて夢から醒めた後もずっと、頭の中で響き続けた。
明くる朝。
目覚まし時計が鳴るよりも早く、電話の着信が入った。
とっくに起きていた三葉は飛びつくように電話を手に取った。
あの朝は、びっしょりかいた寝汗がとにかく不快で、とにかく人が恋しかった。
着信は四葉からだった。
四葉の高校生活は部活が中心で、早朝は朝練の為にバタバタと出掛けるのが日課だった。メールを送っても返事が来るのは決まって、部活が終わる夕方以降。
だから四葉と早朝に会話をするのは数年ぶりだった。三葉が独り暮らしを始めて以来か。
「これだけあちこち水浸しじゃあ、どっちみち部活どころじゃないからね」
電話越しの四葉の声に、バシャッと水飛沫の撥ねる音が混じっていた。足元の水を蹴とばしているのだろうか。お互い忙しい身になってもまだまだ子供のようだ。
三葉の心がちょっと温かくなって、悪戯気分でからかってみたくなった。
「なぁに、水に八つ当たり?もう高校生にもなったのにまだお子様なんやから」
「……あのね、お姉ちゃん。えっとね、なんていうかさ……」
姉のからかい文句を上の空で聞き流し、四葉は言葉を濁した。
ムキになって言い返す妹の反応を期待していたのに。心ここにあらずな妹の様子に三葉は虚を突かれた。
よくよく耳を澄ませると、大袈裟な水飛沫の音は、ししおどしのような一定リズムを刻んでいる。水に八つ当たりするのではなく、水中をまさぐって何かを探しているみたいだった。
ほどなくして水飛沫の音が止んだ。
「今朝ね、変な夢を見たんよ」
それから四葉が語ったその夢の中身は、三葉が見たものとまるっきり同じ。
空に消えていく少女の夢だ。
ただ四葉は、夢の内容について、より多く深く汲み取っていたようだった。
「女の子がすーって空に消えていく間、鈴が鳴ってたやろ。あの音をずっと聴いてたら悲しくなってきちゃってさ。いつもよりずっと早い時間に目が覚めちゃった」
――鈴。
そうか、鈴か。
あの清廉で冷たい音色は鈴の音だった。
四葉との通話の最中に、三葉が考えていたのは二つのことだった。
一つは、話題にしている夢について。
もう一つは、糸守に住んでいた頃、とある団欒のこと。
団欒と言っても日常の一部に過ぎない。夕食の後に四葉と祖母と三人でテレビを
見ながら交わした、何てことのない会話だった。
けれど、その時の祖母の話は、十年以上経った今でも頭の奥にこびりついている。
あの時に放送されていたのは、歴史を絡めたクイズ番組で、出題された問題の解答に関連した即身仏の解説が流れていた。
即身仏とはすなわち、生きたままミイラになる儀式だ。
腐敗せず肉体の原型を保ったまま死を迎えて永遠の瞑想を可能にし、衆生救済を成せる仏へと昇華する――という思想だそうだ。
即身仏を目指す僧侶は腐りにくい体を作る為に、限界まで体から水分を追い出して防腐効果を期待出来る葉や漆ばかりを口にして、やがて木箱に入って土中に生き埋めにされる。そして、ただ木箱に収めて生き埋めにするだけではなく、地上から木箱へと一本の長い竹筒を通す。
目的は二つ。
読経と瞑想の真っ最中に餓死して仏に成るため。
もう一つは、鈴の音が絶えたかどうかで、箱の中の僧侶が亡くなったかを外の人間が確認するためだ。
解説映像の締め括りでは、人影がフェードアウトして真っ暗闇の画面に置き換わりながら、鈴の音だけが鳴っていた。
映像が回答者のお笑い芸人達へと切り替わった時には心底ほっとした。
やれやれやっと退屈な映像が終わった。三葉はそんな風を装って、大袈裟に居住まいを崩した。
真っ暗な箱を満たす鈴の音に溺れるようにして、ただただひたすらに孤独な死を見つめて続けて、やがては受け入れる。
その末路が恐ろしくて身震いしたのを、すぐ傍に座る妹に気取られたくなかった。
しかし、そんな意地は必要なかった。
「うっへぇ……グロい。ウチが神社で良かったわ。お寺やったらあんなミイラみたいな伝統あったかも知れんもんな。生きたミイラと一緒に暮らすなんて嫌やわ」
ブラックコーヒー初体験の時以上に苦い顔をした四葉はそんなことを言った。
三葉は即身仏になった人のことを少し気の毒だとは思ったものの、「そうやね」と
軽い相槌を打った。
「三葉。四葉」
一葉が孫達に重々しく呼びかけて、姉妹は顔を見合わせた。
食事中にはしたないだとか、仏様に失礼だとか。お説教が始まるのかと二人して身構えていたら、違った。
「神道にも似た風習はある」
一葉はきっぱりと言い放ち、それから二人に尋ねた。
「人柱って知っとるか」
「人柱って……イケニエだっけ。橋とかの下に人を埋めるって聞いたことはあるよ」
三葉が答えた。
すると、一葉は無表情のまま唇だけ動かした。
「神さまのことは一柱、二柱と数えるんやよ。人柱というのはな、死を経た人の魂を神さまの御座す座に押し上げてる儀式や。橋や屋敷に街、そういうものを支える柱の下に人を埋めることで、柱と神になった魂のムスビを生み出す。そうやって新造の神の加護を得るんやさ」
そこで一呼吸置いて、続ける。
「わしらは神社で毎日、巫女として申立しとったやろ?」
申立とは、他所の神社における祝詞奏上のことだ。
祈りを意宣りと表現するように、神さまにこちらの意向を宣言することに重きを置いて、宮水神社では申立と呼ぶ。三葉や四葉が言い間違える度に、母と祖母は優しい口調ながらも、素早く、そして必ず訂正した。
「言霊というてな。辿り着きたい処、なりたいと思う在り様を口に出す。するとな、その言の葉が力を宿した糸になって、願った処や形とわしら自身を繋ぐムスビが紡がれる。
これは巫女という立場や言霊という術に限らん。胸に秘めた想いは振る舞い一つ一つに宿り、その全てが細い糸になって、やがてはムスビへと育つ。言霊は糸がとりわけ太くなり易いというだけのことやで、結果は変わらん」
「……祖母ちゃんが言いたいのってつまり、諦めずに毎日頑張れば願いは叶うってこと?」四葉の眉間は梅干しみたいになっていた。
「わしが言いたいのはな、ムスビには良い面も悪い面もあるってことや」
目尻の皺がにわかに深くなった。
「ムスビは組紐を編むのと同じ。何人もが同じ願いを抱くと、願いの糸は幾重にも複雑に編み込まれて、もっともっと太く固いムスビになる。それがどこぞの誰かに託す願いなら、知らず知らずのうちに別の誰かにも繋がるし、編み込んでムスビの一部へと変わる。
太い太いムスビは、託された者を前へ前へと引っ張って助けたり、真っ暗な坑道から抜け出せる命綱になりもする。やけど反対に、いつの間にか見知らぬ誰かを道なき道へと引き摺り込む縛めにもなりかねん」
一葉は少し痛ましげに天井を見上げた。
そして、最後にこう締め括った。
「わしも長年に渡って巫女や宮司を務めとったが、神さまが元より天に居るものかはいまだに分からん。
けどな、人が祀って造り上げた神さまというのは何人も居るし、この先も増える。己自身が紡いだムスビか、他の誰かとの間で紡がれたムスビか、それは関係無い。ムスビを織り成す願いは誰かの人生を変える。人を神さまに――人とは別の何かに変えてまうことだってある」
――ええか、三葉、四葉。ゆめゆめ忘れちゃいかんよ。
一葉は、重く重く、孫達に釘を刺して、話を終えた。
祖母の話を前に四葉は消化不良な面持だった。まだ十歳に満たない子供がこんな長話をされたのだから無理もない。
一方の三葉は、この長い話がすとんと腑に落ちていた。
「どこの誰がどうあるべき」「別の誰かに面倒な役目を任せたい」
校則や法律のような明文化されたルールではなくとも、人の醸し出す雰囲気は圧力になって、頑迷な暗黙の了解を鋳造する。田舎の固く重い地元ルールというヤツは大抵そうやって生まれる。
宮水家を取り巻く環境は身につまされる実例だった。
かつては土地を統べる豪族だった宮水家。遥か昔にその地位と実権を失ったのに、最近まで相も変わらず土地の支配者と看做されて、その務めを果たすことを期待されていた。
まさしく現人神のように敬われて祀り上げられた、下々の代表者であり守り役。あの境遇もまた、人を変質させる"ムスビ"だったのではないか。
ましてや三葉は宮水神社の長女だ。中学に上がった頃には、決められた将来が待ち構えていることを四六時中意識させられた。
都会の大学に進学しても、いずれは帰郷して神社を継がざるを得なくなる。
先祖代々受け継いだ家業を棄てるのは相当な覚悟が要る。
かつては四葉が「私が神社を継ぐ」と無邪気に言ってはいたものの、当時はまだ小学生だ。思春期になれば心変わりするのは当たり前だし、妹に重責を押し付けるのは可哀想だとも思っていた。
糸守町が消え去った今でこそ、宮水神社のことを名残惜しさすら感じる。
しかしそれは、重責から解放されたお陰でゆとりが出来たからでもある。中学生の頃は、ちらりと考えるだけでも胃が重くなる悩みの種だった。
だから三葉にとっての人柱とムスビにまつわる話は、自分達家族にとっての身近な問題という認識だった。祖母は観念的なことのみを話していた。そういう風に受け止めていた。
二○二一年の八月二十二日。
夢から目覚めて四葉と話したあの朝。
考えが一変した。
祖母の人柱にまつわる話を念頭に置いて、目を閉じてあの夢の情景を思い出してみる。すると、夢の一部始終が全くの別物として脳裏に浮かび上がる。
少しずつ動き出した雲の隙間から、無数の細く白い日光が差し込む。
美しく思えたそれらは、再び思い出した記憶の中では、幾重にも少女を縛る鎖の煌めきに似ていた。鎖の一筋一筋が束になって、巨大な天幕のように彼女を包み込んで、空の彼方へと連れ去って行く。
微動だにせずに祈りながら空高く舞い上がり、群青に呑まれていく少女の背中。
雨音すら消えた街に鈴の音だけが響き渡る。
繰り返し繰り返し、鈴が鳴る。
弱々しくも凛とした気丈な音色で、ひたすら鳴っていた。
その音は、遠慮がちに別れを告げる囁きのようでもあり、堪え切れずに漏れ出た咽び泣きのようでもあった。
あの夢の光景は何かの比喩とかイメージであって欲しい。
けれども、あの夢はもしかしたら、とある少女が人柱として空に捧げられる場面だったのではないか。
本当にこの世から消えてしまったのではないか。
あの夢を見てからこの一年間、嫌な予感が頭の片隅から離れなかった。
**********
この非常識な妄想のことは普段出来るだけ意識しないようにしているのに、とめもない考えが次から次へと頭に流れ込む。
それもこれも、常識はずれの大水がもたらす圧迫感の所為だろう。
手の指先を動かしてみても動かせているという実感が無く、思考だけが辛うじて機能している。自分が地面に蹲っているのか、寝そべっているのか、はたまた洪水に押し流されてとっくに海に落ちてしまったのか。現状はさっぱり分からない。
水とか土とかに、人にはどうにもならないものに包み込まれて、自分が自分で無くなっていく。
即身仏となった人達も――夢の中で独り消えていった少女も――こういう感覚を味わいながら、最期の時を迎えたのだろうか。
だとしたら、何て悲しく寂しいことだろう。
圧迫感が、唐突に去った。
三葉は反射的に息を吸うと、押し寄せる酸素でむせ返って思わず咳き込んだ。
酸素って美味しい。味なんてする訳が無いのにそう思った。
三葉はようやく、自分がアスファルトの路上に横たわっていることに気が付いた。
道路が水で覆われて、転んで水たまりに飛び込んだみたく、体が薄っすら水に浸かっている。水深は二センチくらいか。この一帯にとんでもない量の水が降り注いだのが分かる。
一心地ついて全身の感覚がじわじわと戻ってくるにつれて、自分がバッグと傘を抱きかかえた格好であることと、喉まで震えるくらいに心臓がバクバク脈打っていることに気付いた。
ただ、体の異変はそれくらいのもの。痛みや痺れは無いから怪我もしていない。
地面に座り込んだままバッグを開いてみた。防水加工はあのとんでもない洪水を見事に防ぎ切ってくれたようで、中の組紐やスマホも無事だ。傘も脚一本たりとも折れずに済んだ。
服がびしょ濡れであることを除けば何もかもが無事で、ほっと胸を撫で下ろす。
心身にゆとりが出来たお陰で、はっと思い出した。
あの女の子はどこ?
彼女が佇んでいた場所に目を向けても、誰も居なかった。
そこにあるのは落下防止の柵だけ。自分と同じく水に襲われたのなら、あの柵が守ってくれた筈だから、川に落ちた心配は無い。
――だとしたら、やっぱり空に?
ふらつきながらも、何とかして立ち上がろうとしてアスファルトに手を付いた。
「あの……大丈夫ですか?」
背後から声がした。鈴のような声だった。
「えっと、もし良かったら……これ、使って下さい」
三葉は声がする方へと振り向いた。
探していた女の子がそこに居た。
彼女も全身ぐっしょり濡れて、二つ結びの髪から水滴がポタポタと垂れている。
まつ毛をしばたかせて水滴を跳ね除けて、彼女がこちらに伸ばしている腕を見た。その先にある手の中で、光沢を放つ真っ白なものが夜道に浮かび上がっていた。
茫然とその白い何かに手を伸ばす。すると、くしゃっという音を立てて、薄膜越しに柔らかい布の感触がした。街灯を反射するビニール袋に入ったタオルだった。
思いがけない邂逅の経験はこれが初めてではない。
とりわけ、御茶ノ水停留所で瀧とすれ違った半年前ほどの強烈な衝撃は、この先もう二度と訪れることは無いだろう。
そうは言っても、何度目だろうと慣れるものではない。
口はぽかんと開いたまま。どうにか絞り出せたのは「どうも」という月並みのお礼の一言だけだった。
雨音がしなくなっていた。
さっきの強烈な土砂降りで、この空も雨を絞り尽したようだ。
頬をくすぐるような霧雨の感触と夜空を覆う暗めの灰色が無かったら、東京から雨雲が去っていないことを忘れてしまいそうだ。
たっぷり水を吸った髪をタオルで拭きながら、三歯は思案していた。
ようやくあの少女に出会えた。彼女を見かけた夢のことや彼女の人となりについて、色々と尋ねてみたい。
でも、夜中に出会った見ず知らずなばかりか全身水浸しの女に「貴方のこと夢で見たわよ」だのと支離滅裂なことを言われたら、この少女はどう反応することか。
自分が同じ立場なら、新興宗教の勧誘だとで誤解して、取るものもとりあえず逃げ出す。
見ず知らずの年下の子の興味を引くような話題を自然に振るなんて、どうやれば良いのかさっぱり分からない。ハードルが高過ぎる。
「タオル、ありがとうね。洗って返した方が良いかしら」
タオルを口実にしてまた会う機会を作ろうかと提案してみたものの、
「いえ、お気遣いだけ頂きます」少女はやんわりと首を横に振った。
三葉は素直にタオルを差し出した。やっぱり、得体の知れないズブ濡れ女とこれ以上関わり合いになるのは避けたいのだろうか。
手渡す瞬間に、気付いた。
「貴女、傘は持ってないの?さっきの凄い土砂降りで壊されたか川に流されたかしちゃった?大丈夫?」
「ああ、……えっと、平気です。傘は元々持ってないんで。そういう主義っていうか」
三葉は眉をひそめた。
傘が無い?この雨が止まないご時世に?警戒されてさっさと会話を切り上げようとしているのだろうか。
もう少し注意深く少女を観察して、気付いた。
……いや、多分、そういう訳じゃない。
伏し目がちな少女の表情は、拒んでいるというよりは、謝罪や遠慮の色が目立つ。
運んできた飲み物を零してお客さんに引っ掛けてしまって、平謝りするウェイトレスみたいだ。
「では、私はこれで失礼します。お大事に」
自分も濡れ鼠なのを気にする素振りも見せず、少女はぺこりと会釈して踵を返そうとした。
「ちょっと待って!」三葉は咄嗟に肩を掴んだ。
目を丸くして振り返る少女に向けて、頭をフル回転させて誘い文句を紡ぎ出す。
「えっと……そう、カフェ!すぐ近くのカフェに寄って行かない?タオルのお礼に何か奢らせて」
少女の瞳がにわかに輝いた。
かと思えば、ふと気付いたような顔付きになって、きょとんと首を傾げた。
「まだ開いてるカフェって、この辺にありましたっけ?」