閑静な住宅街の真ん中で、街灯にぼんやりと照らされる小さな公園。
ひっそりと佇む東屋のベンチには腰掛ける少女が一人。
ぼんやりと空を見上げて、二つ結びの髪が含む水を軽く絞るように撫でている。
三葉も少女の隣に腰掛けて、自販機で買ったココアの缶を差し出した。
「ごめんなさいね、カフェだなんて誘っておいてこんな所で。もっとちょっとマシな場所でも近くにあれば、ちゃんとご馳走させて貰うところなんだけど」
少女はココアを受け取った。
「ありがとうございます。温かい飲み物、嬉しいです」
ほっこりとした溜息をすると、ココア缶からくゆる湯気が揺れた。
降り続ける雨を飽くことなく見上げながら、少女はちびちびとココアを口に運ぶ。
三葉はその横顔をそっと覗き見た。十五歳、というところか。
一回り近く歳の離れた子と迎えた思いがけないシチュエーション。元々会話上手で人当たりが良い性格という訳でもないし、衝動的に呼び止めてしまったからこれと言った話題は思い浮かばない。
ひとまずは自分もコーヒーを飲もうと、三葉も缶のタブを開けた。
「あちっ!?」
考え事をしながら口をつけて、思わず仰天した。
三葉は猫舌という程ではないけれど、小さい頃から温かいお茶と言えば緑茶だったからか、他のお茶はやたらと熱く感じる。普段は少し冷ましてから飲むのにうっかりしていた。
ふと横を見ると、三葉を心配げに見つめる少女の視線に気が付いた。
このまま何もせずじっと見つめられていると余計に気まずくなる。
三葉は缶コーヒーを脇に置いて、手を組んで思い切り背伸びをした。
なるようになれだ。とにかく話そう。
かしこまったり気取ってみてたところで何も始まらない。
「付き合ってくれてありがとうね。私みたいな初体面の怪しいおね――」
はにかみを咳払いで誤魔化す。
「――お姉さんの誘いなんてドン引きされて無視されても当然だし、カフェで奢るって言って騙しちゃったでしょ?怒られるかなって思ってたから安心しちゃった」
一回りも歳下の子にとっての二十代半ばの女。それはもう"おばさん"ではないか。
自覚はしていても、いざ"おばさん"と自称するのには抵抗感があった。
三葉はふと、高校時代に教わっていた雪野という教師のことを思い出した。
当時の彼女の歳は三十路手前で今の自分と同じくらい。凛としながらも柔らかな空気を纏い所作もたおやか。あれぞまさしく大人の女性だった。
彼女はしきりに自分のことを「おばさん」と卑下して、三葉達女生徒一同は
力を込めて「雪野先生はおばさんなんかじゃない」と否定したものだった。
雪野先生に並び立てるような素敵な大人になれたかはともかく、今になって彼女の気持ちがよく分かる。
少女はかぶりを振った。
「怒る理由なんて無いですよ。ココア美味しいですし。そもそも、カフェってここのことだろうなって、見当ついてましたから」
「えっ」三葉は素っ頓狂な声を上げた。
「じゃあ、どうして付き合ってくれたのかな?」
「えぇと……それは、あのですね……」しばし言い淀んだ後に言葉を紡いだ。
「……嬉しかったから」
「嬉しかったって、何が?」
少女の唇が動いた。躊躇いが大きかった所為か雨音にかき消されるほど小さい声しか出て来なかった。
それでも注意して耳を傾けていたお陰か、それとも発言が印象的だったからか、三葉には辛うじて聞き取れた。
――『行っちゃダメ』って、そう言ってくれたから。
三葉はまだ熱いコーヒー缶を思わず握り締めた。
……この子はやっぱり、思った通りの夢に出て着た人柱なのだろうか。
少女が口にした言葉の真意をどうやって問おうかと思案して――
――止めた。
伏し目がちに揺れる瞳と固く結ばれた唇を目の当たりにして、今ここで詰め寄るのは躊躇われた。
しとしとしとしと、さっきまで霧雨だった雨は段々強まってきて、話の先を促すかのように音を立てる。
そんな雑音をすっぱりと無視して、少女を急かさず見守ることにした。
やがて少女はぱっと顔を上げて、繊細なガラス彫刻を運ぶような視線を三葉に向けた。
「お姉さんが、知り合いの子にちょっと似てて。嬉しくなったんです」
「私に似てるってどんな子かな?」
少女の両頬がほのかに赤くなって、隠しきれない熱気が漏れていた。
その子について話すのは恥ずかしいけれども、それでも打ち明けて共有したい。そういう感じだ。
「えっと、何ていうか……想像つかないびっくりすることを急に始める人なんです」
「びっくりすることって?」
「例えば、ですか。そうですね――あ、そうそう」
少女は思い出し笑いを浮かべた。
「私が晴れて欲しいと思ってる日の早朝に『とっておきの秘密兵器!』って言いながら、人間サイズの大きなてるてる坊主の着ぐるみを徹夜して作って着たり、とかですかね」
「そ――それはスゴい……わね」
三葉の肩はがくっと落ちた。
随分とまたエキセントリックな人物像と重ねられたものだ。
少女は目を柔らかく細めて、雨粒が描き出す街灯の光条を見つめている。
温かな語り口からして、即席カフェもどきで見知らぬ女と一緒に過ごすこの時間に対する皮肉を言う意図は感じられない。愉快な記憶を連想する程度には楽しんでくれてはいるようだ。
とはいえ、雪野先生のような大人の女性には程遠いお子サマっぽさだと、手厳しく採点された気がした。
会話が途切れて怪訝に思ったのか。少女は隣の三葉へと視線を戻して、その顔に引き攣った愛想笑いが浮かんでいることに気付いた。
「あのっでも、誤解しないで下さいねっ!変な意味じゃないですから」
少女はずいっと三葉の眼前に迫ってきた。缶の中のココアがちゃぽっと音を立てて飲み口から跳ね出す寸前だった。
「その人は抜けてるところもありましたけど――その、えっと……」
そこまで勢い込んで言うと、少女に急ブレーキがかかって、口をつぐんだ。目線の揺らぎからは先を続けるか迷っているのが窺えた。
ほどなくして、彼女は力の篭った眼差しを三葉に向けた。
「私にとっては朝の日差しみたいな人だったんです。普段は恥かしがり屋な癖に、私が困ってると手を強く握って一目散に引っ張ってくれたり。映画の決め台詞みたく大胆なことを言ったり」
少女の語りは、どんどん熱を帯びていく。
「あの人と一緒に居ると、まるで雨上がりに陽の光が差し込むみたいで。ありふれた灰色がかってくすんで見える物でも、キラキラ眩しく照らしてくれる。そういう人でした」
にわかに少女の瞳が潤んだ。
ただ、それはほんの一瞬のことで、少女がぎゅっと瞑った目を再び開いた後には
すっかり元に戻っていた。
「お姉さんにカフェに行こうって誘われて、それってここのことかなって思い当たった時に、何だかその人のことを思い出して懐かしくなったんです。
何かワクワクする面白いことがあるかもって思えて、気づいた時にはお姉さんのお誘いを受けていました」
三葉の頬が自然と緩んだ。
「期待にはちゃんと応えられたかな」
少女は頷いた。
「私の家はここのすぐ近くなんです。だからこの公園もよく傍を通りかかるけど、こうやって夜に立ち寄って、誰かとゆっくりココア飲むなんて考えもしなかった。
全然雰囲気が違くて初めて来る場所みたいですし、何だか映画のワンシーンみたいで新鮮です」
"誰か"について語る少女の様子は、尊敬する先輩や親友について語るのとは違う。恋い焦がれている女子ならではの熱気が噴出していた。
件の"誰か"は、彼女の想い人か。
少なくとも今この瞬間には、底冷えするくらいに真っ青な空に吸い込まれ消えていった、あの儚げな少女はここには存在しない。
控えめな雨音が二人を包んでいた。
二人ともどちらも無言のまま。ちびりと缶を口につけては、ほっと息をつく。
相変わらずびしょ濡れのままで疲労感もある。にもかかわらず、プールで泳ぎ切って一息つく時のような心地良さを感じた。
一回り年下の女の子に、意中の誰かと面影を重ねられて、多少なりとも慕われている。ちょっとばかりこそばゆくて、悪くない気分だ。
問題があるとすれば、相変わらず、気の利いた次の話題は思いつかないことだ。
彼女の言う、"自分に似ている誰か"。
この話題を続ければ、まず間違いなくコイバナへと転じていく。
頬を紅潮させつつもどこか物憂うげな表情と、終始過去形の語り口。
それらから察するに、意中の男の子との関係は悲しい顛末を迎えたと見える。相手が転校なりしてしまって、遠距離恋愛が続いていてもメールや通話のやり取りも途絶えがち、とでも言ったところだろうか。
失恋話を引き出してわざわざ古傷を抉るのは避けたい。けれども、自分と瀧の近況について語れば、まず間違いなく惚気話になってしまう。
年下の子相手には惚気るのは面映ゆいし、傷心の相手に当て付けるようでどうにも気が引けた。
「それにしても、ここのことを"カフェ"って呼ぶの、面白いですね」
三葉があれこれ思案しているうちに、少女の方から話題を振ってくれた。
「簡単に浮かぶ言葉のチョイスじゃないと思いますけど、どうやって思いついたんですか?」
「えーと、そうね……」
彼女を引き留める文句が他には思いつかなかった。それは確かだけれども――
"カフェ"
三葉にとってこの言葉は、口から出まかせで出る軽々しいものでは断じてない。
「故郷の幼馴染に、同じように誘われたことがあるの。『カフェ行かないか』って」
純粋な感心を湛える少女の無邪気なえくぼが、三葉の躊躇と警戒を解した。
この子になら故郷の昔話を打ち明けても良い。きっと変に同情したり嘲笑うことなく素直に受け止めてくれる。
「その故郷っていうのが本当にびっくりするくらいの田舎でね。深夜営業のコンビニが無いどころか街灯を置く予算さえ無くて、街灯代わりの自販機が点々とあるだけだったの。夜道を歩いてると、提灯を持った妖怪か何かに出くわしそうなくらいに真っ暗だったわ」
「全然、想像つかないです」
目を見張る少女。
どことなく恥かしげに、それでいて自慢げに、三葉は笑った。
「そんなとこだから、ちょっと考えれば"お洒落なカフェ"があるワケ無いってすぐ気付くのに、ドヤ顔で誘ってくるからつい期待して付いて行っちゃって。
そしたら案の定、そこにあったのは、打ち捨てられたバス停のベンチと佇む自販機だけ。通学で何時も通りかかって見飽きるくらい見慣れた場所だっていうのに、そこを"カフェ"呼ばわりして茶化してたんだって、全く思いつかなかったのよ。
期待して付いてった自分にも、誘った友達にも、腹が立ってしょうがなくてさ。黙ってさっさと帰っちゃった」
――けどね
そう言いかけた時に、声が湿を帯びた。
「――けどね、それから少し後に、そのベンチも自販機も、綺麗さっぱり無くなっちゃった」
そこまでは喉の震えを懸命に堪えて口にした。でも、それからは言葉に詰まってしまった。
「利用する人が少な過ぎて撤去されちゃったとか、そういうことですか?」
少女は温かな口調でゆっくりと問いかけてきた。
「……まぁ、そんなとこかな」
言葉に詰まる喉を宥めて、三葉は平静さを取り戻した。
自分で話すと決めたのだから、年下の子供に気遣われている訳にはいかない。
「そんなことがあって、上京してからは時々『あの時あの場所で、缶コーヒーくらい付き合ってあげれば良かった。もっともっと一回でも多く、あの場所で一緒に飲んどけば良かったな』って時々思い出すようになったの。
大人になったらそんな冗談を言う必要も機会も無くなったけど、だからこそかな。いつの日か、今度は私が、誰かをこうやってあの日の”カフェ”みたいな場所に誘ってみたいな――なんてね」
大分熱を入れて話したからか、三葉は喉の渇きを覚えて缶コーヒーに口をつけた。
まだほんのりと温かい。
丁度良い温度でごくごくと飲めた。冷えた体には心地良い。
三葉の話に耳を傾けていた少女は、東屋の屋根境に灰色の夜空を見上げている。考え事をしているようにも、雨雲の向こうの月を探しているようにも見えた。
「あの……お姉さん」
少女の手の中から、ベコベコとアルミ缶がへこむ音が鳴った。
「もう一つだけ、聞かせて貰っても良いですか」
「え、ええ。別に構わないけど」
「お姉さんにとって、雨が止まない今の東京で変わって少しでも良かったことって、何かありますか」
まるで地下深くへと繋がる真っ暗な階段を爪先探りで降りるかのように、少女は尋ねてきた。
やっぱり、この子の態度はなんというか――内罰的だ。
まるで、雨が止まずに降り続けている現状に負い目を感じているみたいに見える。
心ここに在らず。
より正確に表現すると、自分はここに居るべきではないかと戸惑っているかのようにさえ見えた。
こんな風に感じるのは、あの夢のことが三葉の頭の片隅にこびり付いて離れない
からだろう。
この少女が人柱で、空の彼方に消えたままだったら――人柱としてちゃんと捧げられて責務を全うしていたなら――今晩は綺麗な月夜だったのだろうか。
そんな考えがどうしても頭を過ってしまう。
そして恐らく、この子も同じことを考えている。
さっきまでは艶々していた少女の眉間には、いつのシワが刻まれていた。
幼さを感じさせる浅いシワが、深刻な亀裂の前兆に思えた。
ここで適当に話をはぐらかしたり、おざなりな返答をしたら、ガラスのヒビが一気に広がって真っ二つに割れるみたいに、取り返しのつかないことになる気がする。
……さて、どう答えたものか。
考えを巡らせながら深呼吸をすると、雨を含んだ夜気が肺に満ちた。湿っているのにどこか澄んでいる不思議な匂いだ。
「――匂い」
答えが思いついた。
「そうね、嫌な匂いが無くなったのは良いことかな」
三葉は少女の方を向いた。
「ねぇ、貴方くらいの子って、朝の時間帯に歌舞伎町とか繁華街には良く行った?」
「えっと……そうですね。バイトで通ってたことはあります。朝と夜で一番空気が変わるのを感じられる場所だったかなって思いますね」
「そうそう。上京して最初に驚いたのは、街の様子が時間帯で大きく様変わりすることだった。あそこって早朝はかなりキツかったでしょ。その、何て言うか……」
「臭かったですよね」「臭かったわよね」
二人して鼻をつまむ寸前みたいな顔で言った。
東京の繁華街――特に歌舞伎町周辺の早朝はとにかく不快な場所だった。
夜行性の繁華街が寝際に路傍へと排出し溜めた、生ごみや名状しがたい汚物の数々。人の流れが絶えて早朝の澄んだ空気が滞留するからか、朝になると悪臭は露わになって通行人の鼻腔へと無遠慮に流れ込んだ。
養鶏場や農場に満ちる動物の体臭やたい肥のような、慣れれば僅かに陽だまりを感じられる臭さとはまるで別物で、とにかく不快なだけの汚臭。
仕事の都合で仕方無くその界隈の傍を通る時は、鼻が曲がりそうになるのを耐えながら通り過ぎたものだった。
「それと、何と言っても海」三葉は話を続ける。
「さっき言った私の故郷は内陸だったから、産まれてからずっと海を見たことが無かったの。だから大学に進学したらまず東京湾で潮の香を堪能しようってワクワクしてた。……けど、実際の海は、ちょっと。雨上がりはもう……ね」
「夏は特にキツかったですよね。小学校の頃に林間学校で綺麗な海に行って、こんなに綺麗な香りがする海があるんだって驚きました」
少女は苦笑交じりに頷いた。
「それが、もう全然臭くはない。雨空気が綺麗になるって本当だなって実感したわ」
かつて東京湾は、大雨が上がると常に悪臭を放っていた。東京東部の下水道がいずれも半世紀前に施工された合流式だからだ。
この方式では雨水と汚水を一緒くたに下水処理場に送り、突発的な豪雨等で増水
した時には、汚水と雨水をそのまま海へ流して水量を調整する設計になっている。施工された当時は、オリンピックに向けた急ピッチの開発が求められていたため、安価で施工期間も短いこの合流式下水道が採用された。
だが、問題を後回しにすれば、シワ寄せは必ずやってくる。
この半世紀ずっと、人口や下水処理量だけでなく、短期的豪雨の頻度も増加傾向にあった。特に台風が多い夏秋になると、大量の下水が海に垂れ流される。しかも、東京湾の潮流は季節によって変化して、夏期は反時計周りになるという。有名デートスポットの臨海部も雨上がりには下水塗れという訳だ。
ところが、今の関東圏――特に東京の東部は、それはもうとんでもない洪水に
襲われているにもかかわらず、東京の沿岸部を汚水が満たすことは無い。
この土地から引っ越す人の数に反比例して下水の量が減り続けているし、房総半島が所々浸水して、東京湾の形と共に海流が変化しつつあるお陰だ。
三葉の現住所のアパートも、やがては水没すると言われる地域に建っていて、不便なことは日々少しずつ増えている。
ただ、悪い事ばかりでもない。
自宅の周りが着々と浸水する代わりに、大家は家賃を下げてくれている。不快な悪臭が漂って来ることもないし、水上バスにも慣れた。
こういう状況を、住めば都というのだろう。
そんなことを考える三葉の表情は明るさを増していた。
「私にとっては、好きな香りも結構ある町だったんです」
一方で、隣の少女は沈んだ面持ちになっていた。
「学校から帰るのがちょっと遅くなった時やバイト帰りに、家の近所の住宅街を歩くのは楽しみでした」
閑静な公園の東屋は、雨で切り取られたように澄んだ空気で満ちていて、少女の声がやけに響いた。
「この辺りを早めの時間帯に歩いてると、ドタバタと子供の足音がしたり、それを止めるお母さんのお説教が聴こえたり。御夕飯の支度をする良い匂いがしたり。
他所のお家の雰囲気や匂いに触れると、ほっとした気持ちになって。少し遠回りして帰りたい気分になった時には良い気晴らしになりました」
「それ分かる。残業してくたびれた帰り道でお風呂の石鹸の香りが漂ってくると、何となく落ち着くのよね」
三葉の自宅アパート周辺の住宅街は、夜は特に閑散としている。住み慣れても冷たいコンクリートの迷宮めいた印象を拭い切れなかった。
それだけに、住宅の物音や芳香がもたらす温かなギャップは、そこに住む人々の息遣いを際立たせてもいた。そういう気配の中で帰宅する時間は、一日の終わりに溜まった疲労を和らげて、安らぎを与えてくれたものだった。
「この公園も以前は、近所の人達が手入れする花壇からとても良い香りがしたんですよ」
街灯の下の花壇で萎れかけ項垂れる花々。そして更に向こうで夜闇に溶け込む一面の水面。少女の瞳で、それらは微かに揺らめいている。
「雨が止んで綺麗に晴れさえすれば――」
少女の声が掠れた。掠れても尚、重く響く声だった。
「――そうすれば、今みたく水浸しなのは変わらなくても、この公園では花と潮の香を一緒に楽しめるのかも知れませんね」
三葉ははっとして口を押えた。
言われてみれば、この辺りは既に半分海になっている。
自分の住んでいるアパート周辺にしても、そろそろ引っ越ししないと拙いくらいに海水混じりの水だらけ。
毎日飽きるほどに潮の香を堪能していて然るべきだ。
試しに今一度、深呼吸してみた。
肺に取り込めたのは、東京に似合わずしっとりと澄んだ夜気だけ。見事なまでに、潮の香は雨で覆い隠されている。
「雨で無くなっちゃったものって、幾らでもあるんでしょうね」
重い荷物が背に圧し掛かって呻くような暗い呟きが、東屋の屋根を反響して二人に降り注いだ。雨の音がいやに大きく聴こえた。
三葉は胸騒ぎを振り払いたくて、何か違う話題を切り出そうと思案した。
何か良い話題は無いだろうか。
この場が明るく華やぐような何か――
「あっ!そういえば、バッグの中大丈夫ですか?」
少女が大声を上げた。髪に含んだ水滴が飛ぶ勢いで三葉を振り見る。
「お仕事の帰りって言われてましたけど、仕事道具とか大切な物がぐしょぐしょになっちゃったりしてませんか?」
三葉は若干気圧されて、大袈裟に頷いた。
場の空気を軽くしようとする少女の気遣いに飛びつくのが我ながら情けなかったけれど、助け船には素直に飛び乗るべきだ。
「え、ええ。平気よ。スマホもデザイン手帳も、その他諸々無事だったから」
「デザイン……って、デザイナーさんなんですか?」
「ええ、まあね」
「すごい!洋服とかですか?どんなものをデザインなさってるんですか?」
三葉は頬を搔きながら、途切れ途切れに答えた。
「そうね……あの、ジュエリーデザイナーを……やってます」
「ジュエリーって宝石とかアクセサリーとかですよね!?デザインとかってどんな感じでどんなの作ってるんですか?」
ジュエリーデザイナーという仕事をしていると、こんな風に若い女の子から煌めく眼差しを向けられるのも初めての体験ではない。それでも今日は格別だった。
頬がちりちりくすぐったくなる。さっきまでの重苦しい空気が霧散してくれたお陰もあって、三葉の心も軽く晴れやかになった。
「あぁと、そうだなぁ……」三葉は唇に手を当てて思案してから、
「これで我慢してくれる?」
スマホの画面に画像フォルダを呼び出した。ここには、これまで手掛けた商品の完成写真を収めている。
写真を見て、少女はほぅっと溜息をついた。
「すっごい……綺麗。色んなジュエリーを作ってこられたんですね」
「そんな大したもんじゃないよ。一人でデザイン出来る仕事を任せて貰えるようになったのも、本当につい最近ことだし」
少女はスマホで写真をめくっては映し出された作品について尋ねて、三葉は一つ一つ丁寧に答えた。
本当は、完成品だけのスマホよりも、過程や注釈も載せているスケッチブックの
方が、デザイナーの仕事について分かり易い。スケッチブックは今もバッグに収めているからすぐに披露出来る。
そうしないのは、まだ企画段階の商品案も載っているからだ。商品化するまでは誰にも見せないのが依頼主との契約だ。この子がデザインを盗用するとは思えないけれど、約束は約束。依頼主の期待と信頼に背くことは出来ない。
だから三葉、スケッチブックを見せる代わりに、精一杯事細かく説明することにした。
「これも綺麗なネックレスですね。もしかして百合の花がモチーフですか?」
「惜しい。これカサブランカなのよ。結婚式用のオーダーメイドでね――」
指がスマホの画面を滑り、写真がまた変わる。少女の声はより弾んで黒真珠のような双眸の輝きを増す。
三葉もまた、胸中では仕事の想い出一つ一つが鮮やかに蘇っていた。
体は濡れたままで東屋を吹き抜ける風は冷たいのに、胸がどんどん熱く、語り口は饒舌になっていく。
そんな一時も終わりへと近づいていく。写真を一枚一枚めくるごと、着実に。
フォルダに残された作品は、もうあと三つ――いや、これで、あと二つ。
この子に企画中のデザインを見せて感想を聞きてみたい。コンプライアンスが何だ。今ここで子供に見せたってバレやしない。
でも私はデザイナーだ。今回はお客さんが信頼して指名してくれた仕事。信頼は裏切れない。
三葉が沸々と沸いて来る名残惜しさと欲求を辛うじて抑え込んでいた真っ最中。
少女の肩が突然ピクリと震えて、はきはき喋っていた唇を閉ざした。それっきり、両手で包み込んだスマホを見つめている。
三葉が少女の手の中を覗き込むと、画面には最後の一枚が映し出されていた。
デザイナー宮水三葉のデビュー作にして最も想い出深いアクセサリー。
去年の夏に三葉が自分で販売した、糸守の夕日を模した指輪だ。
「これ――」少女の声が唐突に小さくなった。
「――この指輪もお姉さんがデザインされたんですか」
「ええ、そうよ。これは研修を兼ねて全工程に関わった作品でね。自分でサンプル製作しただけじゃなくて店頭に立って販売までさせて貰ったの」
三葉は自信満々に言った。何しろ最も思い入れのある渾身の一作だ。
「自分で作ったものを自分で売るって初めてだから、お客さんが手に取ってそのまま立ち去るだけでも緊張してメッチャ肩が凝るし。何日も売れなくて胃が重くなって、そりゃもうキツかったわ」
「そうですか……そうですよね。沢山、苦労されてますよね」
「最初の二週間くらいはちょっとしんどかったわね。立ちっぱなしの仕事も初体験
だったから」
懐かしいやら悔しいやら恥かしいやら。
あの頃の感情が蘇ってきた三葉は、顔を背けて宙を仰ぎ見た。
今目の前にあるのは東屋の暗い天井だけれど、こうしているだけでも、あのルミネの煌々としたフロアの天井が目に浮かぶ。
「でも、最初に買ってくれたお客さんのお陰で疲れが消し飛んで、そこからは
もうやる気が漲っちゃった。
何だかんだで思ったより売れたし、この指輪を卸したお客さんはまた指名して
くれたから、順風満帆気分上々ってね。貴重な体験になったわ」
「そっか……良かった。それは、うん。良かったです」
少女は、相槌を打つというよりも、自分自身に言い聞かせるように言った。
「その最初のお客さんって、どんな人でした?」
「それがね、珍しいことに高校生くらいの男の子が一人で来てくれたのよ」
――え
吹き抜けるその風にも負けるくらいに小さなその声音を、三葉は聞き逃した。
あの少年に出会った時に抱いた感情。鮮烈な歓喜の念と悔しさ。
胸中に蘇るあの日の熱気に中てられるままに想い出を語り続けた。
「これを売ったのはプチプラアクセサリーのお店なんだけど、年頃の男の子が一人で店頭まで買いに来たもんだから正直驚いたわ。それも、十八歳くらいの女性への贈り物にしたいって言って、周りを気にしてそわそわしながら何時間も真剣に悩んで選んでくれたの。
誰かが、あそこまで真剣に私の作品に向き合ってくれる。そういう場面って、この先もそうそう立ち会えないだろうから、きっと一生の想い出になると思う」
浮かれて一気に喋り終えて、気付いた。
静か過ぎる。屋根を打つ雨音以外に何も聞こえない。まるで独りでここに居るみたいに静かだ。
さっきまで熱心に相槌を打っていた少女が質問してこないばかりか、息遣いすらまるっきり感じられなくなっていた。
怪訝に思って少女を見遣る。
すると、彼女の顔から感情が抜け落ちていた。
どうしたのだろう。両頬にあったえくぼも瞳に浮かぶ熱も、引き潮みたいに引っ込んでしまった。
「――ごめんなさい」
震える一言が零れ落ち、少女の双眸から涙が溢れ始めた。
涙は堰を切ったようにどんどん頬を伝う。
「この指輪……私もプレゼントされたんです。それなのに私のは、失くしちゃった。お姉さんが一生懸命作った指輪なのに。大切なものだったのに。どこに落としちゃったのか……全然分かんない」
少女は止めどなく溢れる涙を両袖で拭い始めた。
「折角の誕生日プレゼントだったのに……もう会えないかも知んないのに……どこ探しても見つかんない」
ぐしぐしと擦りあげるように腕を下から上へ。
ひたすら涙を押し戻そうするかのようなその仕草は、まるで泣いてはいけないと自分に言い聞かせているかのようだった。
――ほだかぁ
すすり泣きに混じって掠れた音を絞り出すと、それっきり少女はぎゅっと口を結んだ。唇に歯を突き立てるその様子はまるで、お前に泣く資格など無いのだと、自分自身を責め立てるようでさえあった。
それでも、口を端からは嗚咽が漏れ出ていた。
白蟻に巣食われてスカスカになった木造のボロ屋が立てる悲鳴のような軋み音に似ていて、三葉は胸をかきむしりたくなった。
この子の為に私の指輪を買い求めて贈ったのは、あの少年だ。
そして、何がしかの事情で、二人は離別したのだろう。
大人達に引き離されたのか、あの夢と関係があるのか、詳しい経緯は推測の域を出ない。
けれど、これだけは確かだ。
あれだけ必死に指輪を探していた少年の様子と、こうして嗚咽を噛み殺す少女の表情からして、二人はきっと離されまいと抵抗したに違いない。
それが叶わず今に至るのだろう。
気付けば三葉も下唇を噛みしめ、指の爪を掌に食い込ませていた。皮膚を突き破り血が滲むほど強く。
自分の作品が人の心を震わせて人生に大きな影響を及ぼす。その現場に直に立ち会える。これ程までにデザイナー冥利に尽きる体験は無い。
――でも、これじゃない。
絶対に嫌だ。
こんなものは決して求めていないし、断じて認めない
女の子をこんな風に泣かせる為に、十年近くの年月を費やしてデザインに心血を注いできたんじゃない。
私が必死に努力してデザイナーになったのは、彗星を頂くカタワレ時の先で瀧君がくれたのであろう勇気を、誰かと分かちあいたいからだ。
今は失われた糸守には、どんな宝物にも勝るものがあったことを伝えたいからだ。
私の作った指輪を指に嵌めたどこか誰かが幸せになれますように。
あの山頂のカタワレ時のその先で瀧君が見せてくれたであろう――今の私では思い出せない希望を指輪として象って、その希望が誰かの下で花開くことを願って世に出した。
あの指輪は希望の種だ。
それがよりにもよってこの女の子を苦しめている
そんな事は絶対にあってはならない。
震える少女の肩を支えるように、三葉は手を添えた。
三葉に触れられるのを嫌がる素振りは無い。けれども泣き止む気配も無い。
今この時この瞬間、目の前の少女に何か出来ることは無いのか。
どうすれば、この子を少しでも心安らかにしてあげられるのだろう。
涙に暮れる少女の横顔を見守るうちに、三葉は今度は、上京する直前の夜を思い出していた。父が珍しく家族と一緒に夕食を囲んで、我が家で晩酌をしていた夜だ。
**********
三葉の父であると同時に糸守町長だった俊樹は、飛騨古川の市長に元糸守町民の
未来を託すべく、何か月にも渡って引継ぎを続けてきた。
未曾有の大災害の直後、しかも週刊誌に不正選挙や収賄疑惑を取り上げられていた最中だったこともあって、俊樹は細心の注意を払っていた。一分の隙も晒さないようにお酒を一滴も口にせず、連日夜遅くまで役所に詰めるか家で資料をまとめていた。
その引継ぎ作業の完遂と三葉が上京するタイミングが重なったから、ちょっとした祝いの席を設けたのだ。
あの晩の俊樹はお酒のペースが早かった。
故郷を失い、娘が遠く離れた地へ巣立とうとする寂寥感と、元市長としての義務を果たして肩の荷を下せた安堵感。それらに包まれた夜だったからだろう。
二人の娘が少し遠慮がちに、それでも決して嫌々ではなく、父親にお酌をしてあげた。普段は緊張で表情を凍り付かせていた俊樹も、の日ばかりは穏やかに目尻を下げて、グラスが空になる度に酒を求めた。
晩酌に付き合っていたのは三葉と四葉の娘二人だけではなく、祖母の一葉もそこに居た。
一葉は俊樹の真向かいに座って素知らぬ顔でお茶を飲んでいただけとは言え、それはとても珍しいことだった。四葉にとっては物心ついてから初めて目にした光景かも知れない。
一葉はコトリと茶碗を置くと、三葉を見つめて、
「ほんに、二葉に似てきたわ」懐かしげに、そしてどこか苦しげに呟いた。
「……そうですね」俊樹は神妙に頷いた。
「昔の私だったら、気まずさを誤魔化そうとそれらしい説教でもして、この場から逃げ出していたかも知れません」
そう言うと、愛娘の双眸を真直ぐ見据えた。
「あのな、三葉。親として面目ない話だが、私はずっとお前を怖れていた。お前に見つめられるのが怖かったんだ」
大仰に椅子が軋む音がした。音の主は四葉だ。
「姉ちゃん……アンタ、一体何しでかしたん?」
「失礼やな!何もしとらんわ」
四葉がヒクヒクと頬を引き攣らせて姉を見つめていた。薄暗い山林の中で思いがけず熊に遭遇したとしても、ここまでオーバーなリアクションは取らないだろう。
俊樹は苦笑を浮かべた。
「いや、すまんすまん。三葉が悪いことをしたって話じゃない。私自身の問題だ」
そう言うと、手の中の酒をくっと一口で飲み干して、再び重々しく口を開いた。
「お前達の母さん――二葉は、本当に不思議で特別な人だった。恐らくは糸守町で誰よりも尊敬されていた。あるいは亡くなった後でさえそうだったかも知れない」
そこで俊樹は一度話を区切って、一葉の方を一瞥した。
義母は無反応だった。
少なくとも俊樹の持論に対して一葉に異論は無いらしいのを見届けると、俊樹は再び口を開いた。
「二葉と一緒に歩いていると町中の人が二葉の傍に寄ってきた。そして、それこそ町中の老若男女が、町の生活に関するあらゆる相談を二葉に持ち掛けた。
祈願等の神事の依頼は無論のこと、持病に良い病院から畑の栽培や家畜の飼育方法に、子供の進路についてもだ。二十代半ばの年若い女に――自分の孫も同然の年齢の相手に打ち明けるには相応しくない、本当にありとあらゆる相談事が、二葉に持ち掛けられた。
ところが二葉は、その全てを受け止めて、実に明瞭で適切な助言を出すんだよ。何度その場に居合わせても信じ難かった」
「そうやった。家族皆で一緒に買い物に行った時は決まって、お母さんが相談事をぴしっと解決してたよね。お父さんったらぽかんと口開けてお母さんを見ててさ。そんで、その顔がだっこされとる赤ちゃんの四葉とそっくりで。思わず笑っちゃったの覚えとるよ」
「私だって覚えとるもん。屏風から虎とかが出て着たって捕まえられそうやって思ってた」
「とんち比べなんてしとらんかったやろ」三葉は相好を崩して応じた。
母に手を引かれて歩いたあの頃。
大人達を見上げると、晴れ晴れとした表情で手を振り去っていく相談者と、相手の反応を自分のことのように喜ぶ母。幼い三葉にとって自慢だった。
「あの頃は、ああいう毎日が続くと思ってた」三葉はぽつりと呟いた。
二葉が病で倒れた時からは、全てが坂を転げ落ちるように変わっていった。
三葉を優しく包んでくれた母の温もりに満ちた記憶。
それらは思春期を迎えた頃には、「今は亡き母の代わりにならないといけない」という、覆い被さるような重責へと変わった。
今ではそれら全てが懐かしく思えるのは、少しは大人になれたからだろうか。
すると俊樹が出し抜けに娘達に頭を下げた。
「二葉が倒れてからというもの、お前達の手をとって一緒に歩くことすら碌になくなってしまっていたな。お前達には本当にすまなかったと思っている」
父の様子に、三葉はただただ驚いた。
軽口の一つさえも思い浮かばなかった。
急に謝られたのもそうだが、何よりも父が母が病に倒れた頃の話を始めたことが意外だった。家族全員で一緒に暮らすようになった後も触れないようにしてきた話題だ。もしも娘達が一人暮らしを始めることが無ければ、俊樹がこの話題を切り出すことは生涯無かっただろう。
濃厚なスチームを顔に浴びせられるかのように場の空気が重かった。
俊樹はその重さに抗うような表情で再び口を開いた。
「あの頃の私は、何とかして二葉に最先端医療を受けさせて、是が非でも快癒させることしか頭に無かった。けれども、二葉は同意してくれなかった。限界を迎えて病院に担ぎ込まれるまでは入院すら拒まれた。私は二葉のことが理解出来ずに混乱したよ。
そうこうしながら、どうにか望みを託せる転院先を見つけた矢先、二葉の訃報を耳にした。……人生においてあれ程混乱したことは無かった。あの瞬間に比べれば、千年に一度の彗星が衝突したことさえ他愛なく思える」
娘達の前では意固地なまでに母について語ろうとしなかった父が、禁忌の領域に足を踏み入れた。娘二人は固唾を飲んで言葉が紡がれるのを待った。
「生前の頑なな二葉の様子はまるで、糸守町に少しでも近い場所に居るという義務を自分に課していたかのようだった。蜘蛛の巣に囚われてしまった蝶さながらに、糸守という土地に絡めとられて縛られている。私にはそういう風に見えていた」
入院中の母の様子を、三葉も四葉もほとんど知らない。見舞いに行ったのは片手で数える程度だ。「お母さんのお見舞いに行く」と姉妹で強請っても、俊樹は子供を宥める微笑みに似た形に顔を強張らせて、決して見舞いを許さなかった。
三葉がその理由を察したのは、死化粧でも取り繕えないほどにやつれて痩せ衰えた母の亡骸を目にした時だった。
壮絶な闘病生活を経てどんどん変わり果てていく母親の姿を娘達に見せることを、
父親は躊躇った結果だ。
「糸守町の誰もが二葉の死を悼んだ。しかし同時に、二葉の三倍は生きたであろう老人でさえ、異口同音にある決まり文句を口にした。
『二葉ちゃんは立派な方だからこそ神さんにお呼ばれになった。今でも私達を見守って下さっている』とな。
……まるで二葉が自分に課せられた責務を受け入れて"ちゃんと予定通りに死んでくれたから"尊いのだ。それがこの地の掟だ。そんな説法を説かれているかのようだった」
酔いがまわって紅潮した俊樹の双眸がにわかに潤んだ。
「何より居た堪れず許せなかったのはな、病床の二葉の顔を思い返した時だった。あの諦観した表情は、糸守を維持する為の人柱にでもされる自分の境遇を受け入れていたかのように思わせた」
俊樹の顔の赤みが増していく。けれども、カンカンに熱されて水が蒸発し続ける薬缶みたいに、目尻から涙が出る気配は無かった。
「今にして思えば、先立つ妻に何もしてやれなかった己の無力感を、責任転嫁をしたかっただけかも知れない。だが、私は受け入れられなかった。死ぬまでの二葉の態度も、二葉を変えられなかった自分の非力さも、何もかもが我慢ならなかった」
溺れそうな中で息継ぎをするように、俊樹は訥々と言葉を紡ぐ。
「もしも、糸守を庇護してきた結びの神とやらが本当に居るとしたら。それは、糸守町民の信仰が生み出して宮水神社を心臓として糸守に根を張る、意識の怪物に他ならない。その怪物が二葉を結びの糸とやらで出来た蜘蛛の巣で絡め捕えて洗脳して、あの世へ引きずり込んだんだ」
不意に双眸に陰が去来した。
「それならば、私のやりたいこと、成すべきことはただ一つ。その奸邪な怪物を蔓延らせた糸守町諸共に、この手で祓い清めてやる」
三葉は思わず竦んで俊樹を直視出来なくなった。
かつて父が宮水神社から去った頃。幼かった自分達を怯えさせた、あの憑かれたような暗い陰が、再び父の心を揺さぶっているかのようだった。
俊樹は目線を下して指で眉間を揉んだ。
再び顔を上げた時には瞳に宿っていた暗い炎は消えて、薄く笑みを浮かべていた。
「決意を固めて神主を辞した後には、宿願成就の為に何でもやった。神社を出奔した身で厚かましくも家名に恃んで選挙資金をかき集めた。糸守町を離れた有力者にも秘密裡に助勢を請うた。
今現在、週刊誌が書きたてている後ろ暗い噂、あれは全てが嘘偽りではない。宮水神社の信用に瑕が付きかねない振る舞いだったが、それでも構わなかった」
話を聞きながら、三葉は一葉を恐る恐る盗み見た。
すると、一葉は涼しげな顔で湯呑を啜っていた。
ほっとした反面、意外だった。
出奔直前の頃の俊樹との大喧嘩や、これまでの俊樹の政治活動に関する無数の批判を思えば、とっくのとうに熱湯入りの急須で殴りかかっていてもおかしくないというのに。
「宮水家が何世代にも渡って築いてきた信頼と名声を利用してのし上がり、糸守を
改革出来る地位と権力に近付く。権力に近付きのし上がる為に信頼と名声を利用すればする程に、それらは傷ついて色褪せる。
一挙両得だとさえ思っていたよ。接待の酒席では、元神主による神殺しなどと酔いに任せて嘯きすらした。町民に後ろ指を差されて陰口を叩かれている事実にさえ、宮水神社の命脈を断つ目標に着実に近づいているのだと、達成感すら感じたものさ」
父の顔に目線を戻して、三葉は祖母が激昂しない理由に気が付いた。
笑みに似ているけど、似ているだけだ。
ぎこちなく歪んだ表情。
これは自嘲と後悔が滲んだ表情だ。
「だが、お前達――特に三葉、お前だ――と顔を合わせる度に、本当の己と向き合う羽目になった」
それからも、俊樹は抱え込んでいた懊悩を吐き出し続けた。
自分は間違っていない。これは妻の仇討ち。巡り巡って娘達の為になる。
自分自身に何度もそう言い聞かせたところで、所詮は責任転嫁と現実逃避だ。
愛娘が日増しに、愛した妻に似ていく。
――これからずっとこの糸守で家族一緒に暮らそう。君と娘を絶対に幸せにする
――そう約束してくれたのに、貴方は一体何をしているのか。
――糸守と宮水を憎んで意趣返しする。それだけの為に宮水を利用して踏み躙る。
――貴方の行いの所為で娘達が後ろ指を差されても、傍で守ろうともしない。
――私達を愛している。あの言葉も、結婚した時の誓いも、何もかも嘘だったの?
俊樹は喘ぐように言葉を紡ぐ。その声は震えていた。
愛娘の面差しを目にする度に、あの世の二葉から心底の失望と軽蔑を向けられて気がしてならなかった。
二葉が――誰よりも深く愛した妻が――一心に愛情を注ぎ紡いできた糸守と伝統。
それらを踏み躙って悦に入る。倒錯した振る舞いで溜飲を下げようとすれば、どう足掻こうとも、罪悪感は拭い去れはしない。
「二葉にどんどんお前と顔を合わせる度に、足が震えるのを堪えるので必死だった。
本当に情けない父親で……夫だった」
胸中の膿を絞り尽した俊樹は心なしか萎んだように見えた。
目尻を見れば、まだ還暦前の齢には不相応な深いシワが刻まれていた。
三葉の口は無意識のうちにぽかんと開いていた。
まさか、父がそんな風に考えていたとは想像したことはなかった。
「お父さんに呆れられてるって、ずっと思ってた。どうしてお母さんみたいにシャンと出来ないんだ。みっともない……って」
「私はそんな真っ当な父親ではなかったよ」」
俊樹は自嘲を浮かべて首を横に振った。
「こうして真っ当に父親としての勤めを果たしている。だから私は正しい。そんな目で見るな。もっともらしい説教文句を並べる間に考えていたのはそんなことばかりだ」
この時の三葉には返す言葉が見つからなかった。
父がどれほど母を愛していたか、自分達姉妹は知り過ぎるほどに知っている。
あれほど愛した母を失い、憤りを母が愛し育んだ土地と神社にぶつけ続け、八つ当たりめいた復讐の生き様すら彗星に奪われた。
鎮痛な本心を絞り尽した父は薄っすらと笑みを浮かべていた。
その顔からは、えも言えぬ解放感と虚脱感が透けて見えて、二十歳に満たない小娘にはかける言葉も思いつかず居た堪れなかった。
会話が途絶えたテーブル。
ずずっとお茶を飲む音がした。
「二葉は――あの子はな、どの時代の誰よりも"宮水"やった。ほんの子供だった頃からずっとな。それだけのことや」
出し抜けに一葉はそう言った。
石碑に刻まれた文字を努めて淡々と音読するような、やけに平坦で固い声だった。
「俊樹。まったく、相も変わらず愚息やでお前は。お前が二葉と違って物覚えも要領も悪かったんはよう覚えとるわ。今更分かり切ったことをうだうだと」
フンッと、やたらと大きく鼻を鳴らして、
「引き続き、精進せえ」軽口を叩く口調でそう付け加えた。
「お義母さん……今後とも、よろしくお願いします」
頭を下げる父親のシワがほんの少しだけ薄くなった。
ぐそく。
小学生の四葉も、この言葉が悪口の類だとは理解していたらしい。
また昔にみたいに大喧嘩にならないか、と最初のうちは心配げに二人の顔を覗き込んでいた。ほどなくして、父の表情が穏やかなままなのに気付いて、意外そうに眺め続けていた。
俊樹が穏やかな表情でいる理由が、三葉には分かった。
かつては深い確執があった。
俊樹も懊悩の末に奔走し、迷走もしたのだろう。
三葉も後ろ指を指されて辛い日々を送っていた。
宮水家の家長たる一葉は、もっと嫌な思いをしていたかも知れない。
けれども一葉はそれら全てをひっくるめて、"不出来な息子の精進"と認めた。俊樹はその言葉に救われたのだろう。
[newpage]
あれから八年もの時が流れ、三葉も十分大人になった。
今なら家族のことをより深く理解出来る。
父はきっと、どれだけ己をどう卑下しようとも、父なりに糸守の地を愛していた。
家族の下を去って、選挙活動に身を投じて、彗星によって政治家人生に終止符を打たれる。その間に六年を超える年月がかかった。
六年は長い。とても長い。神だなんて存在するかも定かでないものへの恨みつらみだけを胸に抱いて、たった独りで奔走し続けるには、余りにも長過ぎる。
市長としてのやり方は強引ではあっても、執ってきた施策自体は、本当に糸守町の発展に繋がる有益なものだった。遠巻きに様子を窺ってきた大人達からはそう伝え聞いている。
ただ憎しみの対象でしかないものが少しでも良くなるようにと、毎日毎日奔走するなんて無理だ。
母は全て見通していたのだと思う。巫女としての力が強かったからか、とても勘の鋭い人だった。
大病を患って体調が本当に辛かったであろう時期に入院も転院も拒み続けたのも、七年近い時間のズレはあれど、糸守に大災害が迫りつつあると察していたから。そう思えてならない。
もしかしたら、その不思議な力で自分の死期すらも正確に察していたのかも知れない。
自分に何が出来るか分からなくても、愛した土地の最期の姿を見届けたたくて、少しでも長く糸守町の傍に留まろうととしたのではないか。
そして、祖母は間違いなく、そんな二人を理解していた。
祖母は孫達を遺して逝った娘について、あの夜のように「なるようになった」としか言わない。
けれども、孫達の目を盗むようにして二葉の遺影を眺めていたことを、三葉も四葉も知っている。
神社を捨てた父については、少しでも父に関連する情報が耳に入る度に、悪し様に罵って愚痴をこぼしてた。
それども、勘当や絶縁をちらつかせることすらなかった。いつ何時でも、一葉にとっての俊樹は"不出来な義息"であり、宮水家の一員だった。
誰もがいっぱいいっぱいで、一生懸命に迷って行動していただけ。
大人同士は互いにそれを理解していて、各々がやりきれない想いをずっと抱えて生きてきたのだ。
だからこそ、どうしても、三葉は考えてしまう。
他の道は無かったのか、と。
糸守の地を棄てて都会で暮らそう。
もしも、俊樹が早々に提案していたら。
そして、二葉がそれに応じていたら。
宮水家は今頃どうなっていたのだろう。
勿論、三葉は理解している。所詮は万に一つも実現することのない妄想だ。
母は絶対に、糸守の地の守り人として背負う責務と生き甲斐、愛する故郷を棄てない。
父もそんな母を嫌と言う程理解しているから、提案することも無い。
あの不思議な力を持っていた母が積極的に治療しようとしなかった以上、母の病気は例え最先端医療でも治療は無理だった可能性も否定出来ない。
当然ながら三葉も理解している。万に一つも起こらなかったであろう空想の出来事に過ぎない。
でも、億が一にも絶対に起こらないと断言することは誰にも出来ないだろう。
実現した可能性は限りなく低く、もう過ぎ去ってしまった甘く切ない空想だとしても、その甘さと切なさ故についつい思いを馳せてしまう。
宮水家の人間が糸守町を離れれば、町民皆から失望を買って見限られる。
この事態だけは絶対に避けられない。
――いざと言う時が来れば、集落の長たる宮水家が必ず助けてくれる。
土地を守り続けた豪族の末裔に対する信頼が、今の世へと移っても糸守町民の意識の奥底に根付いている。
だからこそ、町民は多かれ少なかれ、依存めいた敬慕と恭順の念を抱いている。
依存めいた信頼は、それが固く分厚いほどに、裏切られた時にはそっくりそのまま頑迷な呪詛へと裏返る。
――けれども。
その末路をおして両親が娘二人を抱えて駆け落ちしたならば、今とはまるっきり違う人生が広がっていただろう。
早い段階で大病院の最先端医療を受けていたら、母の患った難病は綺麗さっぱり完治していた可能性だって十分にある筈だ。
そうなれば、幼い子供にも仲睦まじさが分かったあの両親のことだ。呆れるくらいにたっぷりといちゃついて、今頃は弟や妹がたくさん増えていたに決まっている。
子沢山を一番喜ぶのは四葉だろう。
「お姉さんなんて損な役回りだ。私は妹で良かった」なんて、困った振りをしながらも、「私がお姉さんだぞ」と自信たっぷりに下の子達と遊んであげる姿がありありと目に浮かぶ。三葉自身も小さい頃はそんな感じで四葉に接していた。
そうなった場合の一葉の様子も、三葉ははっきりを思い浮かべることが出来る。
故郷と自分を棄てた娘夫婦と再会したら、祖母はまず真っ先に失望をぶつけるに違いない。
祖母は絶対に――それこそ天変地異でも起こらない限りは――糸守を棄てない。祖母がそういう人である以上は、身内の所為で糸守町の中で肩身の狭い思いをするのは避けられないから当然だ。
けれども三葉は、仮に祖母と絶縁ギリギリの淵まで追い込まれたとしても、必ず仲直り出来ると信じている。
なにせ一葉は、決して俊樹のことを見放さなかったのだから。ずっと変わらずそういう人だった。
だから、呆れた風に小言を並べながら、せっせと孫の面倒を見てくれる気がする。
糸守を自ら手放した宮水家の全く違う形も、きっとあり得たのだ。
**********
そして今。
三葉の隣で身を震わせて涙を零すこの少女。
一緒に過ごしたこの一時を通して確信した。
この女の子はあの夢に出て着た少女。生き残った人柱だ。
天候にまつわるとてつもない重責を一身に背負わされて、果たさずに逃れた。
少女を重責から解き放ったのは恐らく、去年指輪を買ったあの少年だ。
三葉は二人のことを他人だとは思えなくなっていた。
あの少年は、手と手を取って愛する女性と駆け落ちした、もう一人の宮水俊樹。
この子は、極普通の女としての人生を選んだ、もう一人の宮水二葉。
この少女とあの少年は、あり得たかも知れない、もう一つの両親の姿だ。
三葉は両腕で少女の頭を包むように抱いた。
「雨に降られてびしょ濡れになっても良かったって思えること、もう一つあったよ」
少女が身じろぎもしなくなった。
嫌がって突き放そうとはしないけれど、どことなく警戒している様子だ。
「今日ここでこうして貴女に会えたこと。
馬鹿みたいって思うかも知れない話だけど、貴女そっくりの子が空に消えていく夢を見たことがあってね。ずっと気懸りだったの」
少年と少女の決断と行動が正しかったのか。子供一人の命を犠牲にすれば天候が元に戻ったのか。天候が戻ったとしてもどれほど長持ちするものか。三葉には見当もつかないことばかりだ。
それでも、断言出来ることはある。
母が愛した糸守の地から母を無理やり引き離してでも、その命を救って生涯添い遂げようとした。父のその想いは決して間違ってはいなかった。
あの少年がかつての父と同じように願って。この少女がその願いを受け止めて。
その結果として今こうして生きているのならば――
この子達が、父と母が選ばなかった――あるいは選びたくても選べなかった、もう一つの道の半ばに居るならば――
この少女とあの少年には、何が何でも幸せになって欲しい。
「無事でいてくれて、本当に良かった」
三葉がそう言うと、少女は三葉の体に身を預けて、鼻声で言った。
「やっぱりお姉さん、あの人にちょっとだけ似てます」
三葉は少女の頭を優しく撫で始めた。
どこかへ飛んで行ってしまわないように、決して寒さを感じたりしないように。
腕の中ですすり泣きが止むまで撫でていた。
**********
離岸してから緩やかに航行速度を上げていた水上バスが、遂に規定の航行速度に達した。
水上バスの甲板には三葉以外に人っ子一人居ない。この時間帯では水上バスも貸し切り状態だ。
川を隔てた停留所では少女が一人、ぴょんぴょん跳びはねながら元気よく手を振っている。
水上バスはぐんぐん進んで、少女の姿はどんどん小さくなっていく。
あの子の名前はアマノヒナ。別れ際に三葉が尋ねたら躊躇せずに教えてくれた。
「ヒナちゃん、もしも困ったことがあれば、何時でも連絡して」
そう告げて名刺を渡すと、
「ミツハさん、ありがとう」彼女は花束を貰うみたいに受け取ってくれた。
出会った時のように指先くらいの大きさになった今も、あの向日葵みたいな笑みで湛えて全力で見送ってくれているのだろう。ヒナはパーカーを被った姿で、一生懸命に手を振って見送ってくれているのがまだ見える。
彼女は傘を持たない主義らしい。
傘を持てと弟や知人からは毎朝のように口を酸っぱくして言われているらしいが、いつも頑なに譲らないそうだ。
「私、雨に降られるのが好きなんです。ほら、この霧雨もこれはこれで、ミストシャワーっぽくてちょっと良い感じじゃないですか?それに、これだけで結構濡れないんですよ」
そんなおどけたことを申し訳なさそうな顔で言って、パーカーを目深に被ってみせた。
三葉は察した。
この子は、自分は雨を浴び続けなければならないと思っている。
風邪を引いてしまいそうで心配だけれど、むしろ風邪を引けば少しは罪滅ぼしになるとでも思っているようにも見えた。
「ほだか君。どこで何やっとるの」
もうほとんど小さな点になったヒナを見つめながらごちた。
ほだか。
声を枯らせた少女が縋るように呟いた単語。
人の名前と思しきこの単語は、きっとあの少年の名前だ。
どういう風に書くのだろうか。
穂鷹?……いや、鷹と言う猛禽の猛々しさはあの少年に似つかわしくない。稲穂がそよ風に揺られる落ち着いた感じとも少しばかり違う気がする。
他にあるとしたら――そう。
帆高。
荒れ狂う嵐の海でも構わず帆を張る小船が頭に浮かんだ。
真っ向から吹き付けるような時化に抗うかのように、反抗的に高々と純白の帆を張る。非効率極まりないし暴風で布が引き千切られかねない。
そんなことは当人も重々分かっていながら、それでも意固地なまでに帆を畳もうとはしない。
叩きつけるような強風に立ち向かって、目指す場所へと向かう。
我武者羅に、不器用に、ひたむきに、恋い焦がれるただ一人の元へと一心不乱に突き進む。
字面から連想したイメージは、あの日の彼に似つかわしい気がした。
私にも、ヒナの心を少しばかり癒すくらいは出来たかも知れない。これからも時々は名刺を見て電話して、気晴らしのおしゃべりが出来るかも知れない。
でもきっと、あの子はまた今夜のように、たった独りで雨の中で傘も差さずに祈り続けることだろう。
あの子の心を癒せるのはただ一人。"ほだか"だけだ。
「自分はもう大丈夫だ」とヒナが心の底から信じるように出来る人は、彼女を人柱から解放したあの少年以外に居ないだろう。
「ヒナちゃんみたいな良い子に待ちぼうけさせよって。……早く戻ってきないね、ほだか君」
夜中の甲板に一人で立って、もう見えなくなったヒナの方をじっと見続けるうちに、三葉はどうしようもなく瀧の声が恋しくなった。
丁度その時、スマホが通話の着信を知らせた。
飛びつくように画面を検めると、瀧からの通話だった。
何と言う絶好のタイミングだろう。はやる気持ちを抑えて受信アイコンを押した。
「なぁに、こんな時間に。もしかして、さっきまで一緒にだったのに寂しくなっちゃった?」
瀧の声を待ち詫びていたことを何となく気取られたくなくて、茶化すような声色で尋ねた。
「………………」
返事が無い。
「瀧君、どうかした?」
小さな息遣いだけが聴こえてくる。
「……瀧君?」
「なぁ三葉。頼みがある」
瀧が出し抜けに呼びかけた。
「うん、何?」
「次の連休の行き先だけど、どうしても行きたいとこがある」
「おっ、決まってたの?どこどこ?」
弾む三葉の声に反して、瀧は固い声で答えた。
「糸守町。一緒に行ってくれないか」