黄昏の向こう   作:テービット

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3話 失った夢灯籠

 

 寝惚け眼に窓ガラスを伝う雨垂れが映った。

 

 毎朝毎朝、けたたましい騒音をかき鳴らす目覚まし時計よりも、ガラス戸を打つ不規則な音の方が耳障りだ。朝の陽ざしを浴びて体内時計がリセットされる、あの爽やかな目覚めは遠い記憶になり果てた。

 枕元のスマホを手に取ると、眩しく光った液晶画面がニュースのテロップを吐き出した。

 

 降雨の連続記録は六十日を突破。依然新記録を更新中。

 

 もうそんなに日が経ったのか。

 競り上がる驚きと焦りが眠気を乱雑に洗い流していく。時間の流れは無慈悲なまでに早い。

 瀧はまだ少しぼやける目を片手でこすりながら、残る手と目でノートを探し始めた。日々のスケジュール管理と面接や試験の対策をまとめた、就職活動の必需品だ。

 いい加減にこの不毛な就活を終わらせて「もう用済みだ。清々した」と高らかに宣言して捨ててやる。そんな願望とは裏腹に腐れ縁になりかけているノートは、必要な時に限ってなかなか見つからない。

 

 季節はもう八月。ほとんどの学生はとっくに企業から内定を貰って、卒業論文に本腰を入れている。一方の瀧はと言えば、片手で数えられる程度の企業で何とか二次面接に漕ぎ付けたという体たらくだ。

 昔から運動の得意な瀧は、体育の授業や行事で長距離走に参加すればいつだって、同級生を次々追い抜いて周回遅れにしていた側だった。それがこの歳になって、追い抜かれざまに遠慮がちな羨望の眼差しを向ける運動音痴達の心境を理解する羽目になろうとは。

 

 探す過程で雑にまさぐり過ぎた所為か、ここ最近は片付けを怠り過ぎて部屋が散らかり放題だった所為か。とうとう机上で雪崩が起こった。山積みの本や書類がバラバラと音を立てて滑り落ちていく。

 

「ッ!?痛って」

 

 そのうちの一冊――重さからして雑誌か――の背表紙の角が瀧の足の甲に刺さった。足元を見下ろすと、持ち主に一撃をかました雑誌が、探していたノートの隣で添い寝を決め込んでいた。

 月刊ムー、二○二一年七月号。

 歴史と権威はある、胡散臭いオカルト雑誌。

 稀に秀逸な記事が載ることもあるが、ほとんどは論理飛躍したジョークに等しい。この号も、まともな質の記事は『衝撃!東京を守る大量の人柱』の一点くらいだ。

 そんな雑誌にも拘わらず、ある時期から図書館で毎月借りるのが、瀧の習慣になった。

 その習慣は二ヶ月前に唐突に絶えた。

 瀧は足元から月刊ムーを拾い上げた。この雑誌を広げると必ず特定のページが自動的に開く。発売日にこの号だけを衝動買いして以来、何度も何度も同じページばかり読み込むうちに、すっかり紙面が変形して癖がついている。

 今朝もまたこの特集記事を、洗面台の鏡を睨み返すように眺めてしまう。

 

 ――ティアマト彗星の衝突によって消滅した集落、糸守町。その歴史と謎。

 

 かつてこの天災が巻き起こした一大センセーション。

 それが下火になり始めた途端、対象年齢が過ぎ去った幼児の玩具に接するように、世間は次々と放り出してそっぽを向いた。

 例外はこの月刊ムーだけだった。冷やかし混じりに見える内容の記事だろうとも、ブームがすっかり鎮まった後でも、糸守町関連の企画をずっと掲載し続けてくれた。

 瀧もまた、この特集に目だけは通していた。靴底の隙間に嵌り込んでこびり付き、元がガムか何かさえ分からなくなった頑固な残骸を、思い出したら剥がしにかかるみたいに。毎月毎月、未練がましく。

 そんな特集もまた、この号で最終回を迎えた。

 

 ――遂に本誌はティアマト彗星の欠片を発見することが出来た。

 

 記事の冒頭のこの記述でまたもや目が止まる。

 頭の中で冷めた声が木霊する。秘密結社がどうだのと、荒唐無稽な戯言を並べ立てる三文記事だ。ただの道端の石コロを捏造してそう呼んでいるに違いない。

 同時に、少し迷う。

 一縷の望みを賭けて、編集部に「隕石を触らせてくれ」とメールを送ろうか。

 そこまで考えて、今日もまた、瀧は独り自嘲した。

 何が"一縷の望み"だ。石に何を望んでいるのか、何故こうも石コロが気になるのか、自分自身がまるで分かってない癖に。

 

 瀧は腹立ち紛れに雑誌を机上へ放り投げた。

 こんなことをしている場合ではない。

 次の面接に備えつつ他の企業の二次募集用のエントリーシートも書いて、並行して卒業論文も進めなければならない大事な時期だ。馬鹿げた空想を弄び弄ばれている余裕は無い。

 

 今度こそスケジュール帳を手に取って、今日やるべき就活の予定を確認し始めて、

「ああ……そっか。迎え盆、今日だったか」

今更になって、今日は就活関係のイベントは無いことを思い出した。

 

 拍子抜けした瀧は、崩れた本を適当に積み直して大雑把に通り道を開くと、洗面所へと踏み出した。

 

 今日は瀧の祖母――冨美の家で、迎え盆の手伝いをする日だ。

 特別信心深くはないが節目の行事は大切にする。几帳面な冨美は、去年亡くなった夫――瀧の祖父の迎え盆をやると言い張っていた。雨が止む気配が微塵も無くなって二ヶ月経ってもずっとだ。

 

 部屋干しの洗顔タオルを手繰り寄せつつ、手で蛇口を捻って水温を確かめる。

 想像した通り、いきなり顔を洗うのを躊躇う冷たさだ。真昼ですら二十度に辛うじて届くかという気温にしかならない今年の冷夏では、水道水さえこの有様だ。少し意を決して冷水を顔にかけながら、瀧は今日の用事について考える。

 語り口の柔らかさの割には頑固な祖母のことだ。焚火が燻ってなかなか点火しなかろうと独りで点火に臨む姿が容易く目に浮かぶ。

こんな雨空の下、老人が湿った薪と着火剤相手に延々と格闘していたら、まず間違いなく風邪を引く。

 最悪、火付けを祖母に任せて自分が火種を傘でずっと覆ってやれば、迎え火の真似事くらいは何とか出来る。孫と二人で今日のうちに苦労を味わっておけば、送り盆まで強行しようとはしないだろう。

 

 わざわざ雨天に迎え盆の手伝いに行く。率直に言うと億劫だ。

 だが、瀧は前々から行くと決めていた。

 ここ何年か――高校二年生頃からか――孫が何か悩みを抱えているのでは、と祖父母には心配をかけていた。亡くなる少し前には、瀧が顔を見せると普段は寝たきりの病身を無理に起こして歓待してくれた。

 そんな祖父の四十九日の法要の後は、就活と卒論の忙しさにかまけて線香の一本さえあげに行けていない。

 たった一人の孫として、少しくらいは祖父母孝行をしないと罰が当たる。

 

 タオルでガシガシと強めに顔を拭くと、水分以外の余計なものも少しだけこそぎ落とせた気がした。

 部屋に戻って、ハンガーで掛けておいた外着のシャツとチノパンを手に取った。

 ここ最近、外着は就活用のスーツしか着ていなかった瀧にとっては、久方ぶりの慣れ親しんだ愛用の私服だ。

 シャツに首を通した後で、軽く体操して久々に着る服の感触を確かめる。ネクタイの崩れをいちいち気にしなくて済む格好は快適だ。快適過ぎて、瀧は仄かな罪悪感を覚えた。内定を獲得しないうちからスーツを着ずに外出すると、やるべき義務を果たしていないような気分になる。

 瀧は敢えて大袈裟に首を回してガッチリしたYシャツの襟とは違う首回りの感触を堪能して、罪悪感の揉み潰しを図った。スーツなんぞを着た程度で少しでも義務を果たせた気になる。それ自体が既に悪い兆候だ。

 久しぶりに祖母の顔を見て、くさくさした気分を晴らすとしよう。

 

 

**********

 

 

 目的地の最寄り駅である京成曳舟駅の改札を通り抜けた瀧は、ガードレール下に出た瞬間に、下車駅を間違えたかと錯覚した。

 慌てて辺りを改めたが、やはり京成曳船駅に違いない。だと言うのに、どうにも見覚えが薄く居心地が悪い。

 

 ……ここ、こんなに暗かったか?

 

 思い返せば、瀧が祖父母宅に行く時はいつも晴れだった。

 最後に行ったのは祖父が亡くなった直後だったが、観測史上最多の雨だとか言われていた去年でさえ、あの時だけは日光の自己主張が鬱陶しいくらいの澄み渡る快晴だった。「祖父ちゃんは晴れ男だったから」なんて冗談を皆で口にしたものだ。

 

 車道の脇に並ぶ店舗や住宅から微かに漏れる電灯の反射光と雨の波紋で地面が所々煌いている。

 目を凝らして、水溜まりが雨で波打っているのだと気付いた。灰色のアスファルトに紛れた水溜まりは、数えるのが面倒になるくらい遠くまで点々と続いている。

 瀧は傘を差して、足元を注視して水溜まりを避けて歩き始めた。

 水溜まりを跨いで進むうち、一面灰色の中で、消えそうなくらいか細く白い線がちらついているのに気付いた。咄嗟に右手でそれを包み込むと、ちらつきは消えた。

 握り締めた拳を凝視すると、小指の先から白い線が伸びている。

 何となく拳を動かすと、線は少しずつするすると伸びて、抜けた。

 ……シャツの裾から解れた、ただの縫い糸だ。

 瀧は軽く舌打ちをした。

 気に入っている長年の愛用品なのに。久々に着たからか解れを見落としていた。よくよく見ると、引き抜いた糸も捻じ切れる寸前みたいにあちこち毛羽立っている。この分だと解れや毛玉はまだまだあるだろう。

 可愛がってくれた祖父の初盆にほつれた服で参加するのは少し気が引けた。とは言え、今更着替えに帰る訳にもいかない。

 苛立ちと反省は一旦胸奥に仕舞おうと、手を軽く振って糸切れを捨てようとした。だが、掌から糸が離れない。

 掌を見ると、雨水を吸った糸は掌にぴたりと貼りついていた。

 

 右の掌を真一文字に横断する、白い糸。

 

 ――違う。白なんかじゃない。

 

 急に頭に血が上った瀧は、体に纏わりつく気持ちの悪い虫を払うように衝動任せに手を振り上げて、糸屑を振り落とそうとして――

 腕を、振り下ろせなかった。

 

 ――違うって、何がだ?

 

 訝しんで、掲げていた掌を徐に眼前に持っていった。

 この掌に貼り付いた糸切れ。ただのゴミに過ぎないそれを、もう捨てる気になれなかった。

 

 どういう訳か、この糸切れは自分の中で奇妙なポジションに居座ってしまったらしい。

 色を塗り損ねて台無しにしてしまった、力作の線画。

 虫に食われてしまった、小さい頃好きだった絵本。

 サイズが合わなくなって靴擦れを起こす、相棒同然だった愛用シューズ。

 内容を信じていない癖に、性懲りも無く読んでしまうオカルト雑誌の記事。

 傍にあると目障りで、棚やクローゼットに押し込んだまま忘れてしまう。それなのに、偶然零れ出てきたそれらを手に取ってしまうと捨てる気になれず、また収納するのさえ躊躇ってしまう。

 そういう懐旧を帯びた感傷に似ている。

 

 その時、瀧は思い至った。

 俺にとってあのムーという雑誌は、この糸切れに近い存在だったのかも知れない。

 

 糸守町。足を踏み入れたことすら無い、今は廃墟になっていると聞く田舎町。

 その名前や写真を目にする度に、もう二度と再訪出来ない旅先で意気投合した新たな親友の下から名残惜しんで立ち去るような、旅情めいた情動が脈打つ。

 その心情の正体や源泉が何なのかはまるで分らない。

 母や祖父と死別した時の喪失感にも似ているが、あの鉛のように重くのしかかる悲しみとはまた違った空虚な焦燥に苛まれる。巨大な物体が喉の奥で詰まったまま霧みたいに気化して、体の内側が急かすように圧迫され続けているようだ。

 世間から――何よりも自分の頭の中から――糸守町という存在が綺麗さっぱり消えてくれたらどれだけ気が楽になるか。

 糸守関連のニュースや情報を見かける度に、そう思っていた。

 

 だが、糸守町関連の報道が次々と途絶える事態が現実となり、ムーの特集までもが終わった今になって、いよいよ認めざるを得なくなった。

 俺にとって、糸守町の情報は――町の名前の通り――どこか遠くまで続く道標代わりだったんだ、と。

 確か……ラビリンスだったか。難攻不落の迷宮の最奥に棲む怪物を倒した英雄が、道すがら目印として垂らした糸を辿ってひたすら地上の光を探した。そんな神話を目にしたことがある。

 そこまで連想して、屋外であるにも関わらず苦笑が溢れ出した。

 何が神話だ。馬鹿らしい。

 妄想にしたって、俺自身を一体何様だと思っているのか。迷路を走破して人命を救った英雄様どころか、就活戦線で迷走する大学生だぞ?この手に納まるのは、麗しの姫がくれた神秘の糸や紐ではなく、精々がオカルト雑誌と糸屑だ。

 

 ――それでも。

 

 糸守にはまだ見知らぬ大切な何かが眠っていた。

 糸守町の痕跡を目にすると胸を締め付ける感傷がそう告げている。

 俺が糸守町のことを忘れずにその痕跡を求め続ける限り、大切な何かと繋がっていられる気がしていた。

 例え取るに足らない三流ゴシップ未満――ほつれた糸切れ同然の情報だろうと構わない。諦めず手繰り寄せて辿り続ければ、何時の日か求めるものに辿り着けるかも知れない。

 

 しかし、一方的な期待も虚しく、糸守町の情報源はまた一つ消えた。

 一度断たれてしまった糸がどこかにまた繋がることは、もう無いだろう。あとは解れて崩れていくだけだ。

 所詮ただのゴミ。三流オカルト雑誌と同じく、さっさと捨ててしまうべきものだ。

 だと言うのに、ついついポケットに手を突っ込んで、未練がましく糸切れを中に仕舞っていた。

 

 思考が堂々巡りする中、不意に既視感が引っ掛かって瀧は足を止めた。

祖母宅の板塀は丁度あんな感じだった気がする。

 横を向くと、目的の祖母宅の角を通り過ぎるところだったことに気付いた。こんな不注意ぶりでよくもまぁ上手く水溜りを避けて来られたものだ。自分自身に感心すべきか、呆れるべきか。

 瀧は軒下に入ると、気を取り直す為に一呼吸おいてから傘を畳んだ。

 悶々と考えていても仕方ない。ここからは祖母孝行に集中しよう。

 

 祖母の家の引き戸を空けて――

――その瞬間、今度は違和感を覚えた。

 

 廊下の向こうで足音が確かに聞こえた。一人分ではない。もっと沢山のだ。

 来客……近所の老人か?その割には、玄関の靴は若者用らしい見慣れないスニーカーが一足だけ。サイズからして男向けだ。

 耳を澄ましてみると、もう音は聞こえなかった。

 不意に雨音までもが遠くへと去り、周囲がいやに静かになった気がした。玄関に立っているだけなのに、まるで窓一つ無い小部屋に立ち入った時のように周囲の空気が一変したのを感じる。

 妙な気配に気を取られながら靴を脱いでいた所為だろう。旧い平屋の上り口の段差は無駄に高いのをすっかり忘れていた瀧は、不覚にも躓いた。

 つんのめって、咄嗟に隣の靴棚に手をついた。転倒は免れたものの、角に打った脛の鋭い痛みで視界が僅かに揺らいだ。

 二十代に入ったばかりの若い男が、一体何をやっているんだか。

 自嘲しながら体を起こそうとして――

 ――棚に寄り掛ったまま、動けなくなった。

 

 茫然と見つめ続ける石畳が、見知らぬ岩場の地面と重なった。

 暗い廊下が続く、先を見通せない屋内。視界の色の濃淡から、数歩先に階段があることだけは漠然とながら分かる。そんな狭い洞窟めいた場所を満たす反響音が俄かに消えた。

 心なしか、酔いが回った時みたいに体が急に暑くなって、頭がぼうっとしてくる。

 そして、湿ってつるつる滑る岩肌で足を滑らせて、そのまま吸い込まれるように後ろに倒れ込む。

 地面との激突する時を怖れて身構えて――

 

 廊下の向こうから響いてきた朗らかな笑い声が、瀧を現実に引き戻した。

 意識が戻ると、いつの間にか乱れていた自身の呼吸音が耳に飛び込んできた。

 瀧は靴底を擦り付けるように玄関のざらついた石畳をゆっくり踏みしめてみた。

 

 今の妄想は一体、何だったのだろう。

 こんな場所で滑って後ろに向きに転ぶなんて狙っても出来やしない。それに、岩場で滑って転んだ経験も無い。この玄関の材質も俺が生まれてこの方ずっと同じだ。

 幾ら就活が不首尾で焦ってるとは言え、こんな白昼夢を見る程に精神が追い込まれているとでも言うのか?

 それにしたって、白昼夢にしては異様なまでに生々しかった。

 

 刹那のうちに幾度も瀧は自問自答した。

 鼓動が高鳴り、言いようのない高揚感が膨らんでいく。

 今の感覚には未知の世界の存在を思わせる凄みがあった。

 この廊下の先、あの笑い声の主に会えば、この日々の何かを変えられる気がする。

 恐る恐る、それでいて速足で、瀧は廊下を突き進んでいった。

 

 

 

 

 

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