黄昏の向こう   作:テービット

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4話 晴れ女

 

 瀧が障子を開けると、まず最初に縁側に座る冨美が見えた。

 それともう一人、隣に黒いシャツを着た少年――中学生くらいだろうか――が座っている。さっきの靴はこの子の物だろう。

 庭の方からは、「姉ちゃん」と別の誰かに呼び掛ける子供の声も聞こえた。やはり二人以上居るようだ。

 

 部屋に一歩踏み入れるより早く、瀧は尋ねた。

「祖母ちゃん、お客さん?」

 

冨美が振り返った。

「ああ、着てたのかい」

 

「手伝おうと思ってさ」

瀧は平静を装って答えた。

 

 壁際にある祖父の仏壇では、供えられた線香が三本の煙をくゆらせている。

 何はともあれ、まずは来客に挨拶して祖父に手を合わせて線香を上げる。状況の詮索はそれからゆっくりやるとしよう。

 歩みを進めるうちに、庭に立つ二人の子供の後ろ姿が視界に入った。

 

 そこに立つ少女の背中を目にした途端に、全神経を釘付けにされた。

 

 隣に立つ小学生くらいの男の子が持つ、派手な黄色い傘でさえ色褪せて見えた。

 心臓が肋骨に直接ぶつかっているかと思う強さで鼓動が激しく高鳴り、脈動に乗って高揚と興奮が全身を駆け巡った。

 

 ――似ている。

 

 何に?そんな当たり前の疑問をも一切合切置き去りにして、ただただそう思った。

 はやる気持ちを抑え込んで、痺れた足を慣らすように一歩ずつ慎重に近づく。

 すると、少女が振り返った。

その顔を見定めて、

 

 ――やっぱり、違う。

 

 高揚と興奮による浮遊感は消え去って、重力の存在をたった今思い出したかのように感覚が戻ってきて足取りが重くなった。

 落胆がずしりと胃に響いて嘆息が零れかける。だが、瀧はそのまま呑み込んで、静かに深呼吸をした。

 もう大学四年だ。年長者としての分別も見栄もある。手前勝手に自分でも訳も分からず一喜一憂して乱高下するテンションを、年下の子供――それも初対面だ――に押し付ける醜態は晒せない。

 

「随分若いお客さんだね。祖母ちゃんの友達?」

 

 三人の子供達を見回す瀧に対して、「こんにちわ」と三人分の丁寧な挨拶が返ってきた。

 

 瀧は改めて三人の子供達をじっくり観察した。

 少女とその隣に立つ小さな男の子はそれぞれ中高生と小学生に見える。二人共、整った顔立ちが良く似ている。先程の「姉ちゃん」という呼び掛けからして、姉弟に違いない。祖母の隣の少年は、正座している爪先をもじもじ動かしている。正座に不慣れながらも祖母に遠慮して我慢しているのだろうか。

 

「旦那の初盆くらい、晴れにしてやりたくてさ」

と、からっとした笑みで祖母は言った。

 

「え?……ああ、そう言えば止んだね」

 

 祖母の目線を追って、空が晴れていることに気が付いた。

 玄関で空気が変わったと感じたのは、急に晴れて照り始めた日光の熱気にあてられたのが理由だったのか。だとすれば、実に馬鹿らしい独り相撲をして一喜一憂していた訳だ。

 ……だが、本当にそうか?

 玄関で襲ってきたあの感覚は熱気にあてられたのとはまるで違った。酩酊に近いのに神経は研ぎ澄まされていくようであり、重くなる足取りに反して全身に奇妙に浮遊感があった。あれはまさしく未知の感覚で――

 

 物思いに耽る瀧だったが、暖かな陽光を浴びるうちに、段々と取るに足らない些末な疑問でくよくよと無意味に考え込んでるだけに思えてきた。

 群青の空とたゆたう白雲の、長閑で親和性が高い色の取り合わせ。燦燦と降り注ぐ日光。

 湿気った頭の中がからっと乾かされるように、全てが爽快に晴れていく。

 答えの無いことをうだうだ考えていても何も始まらないだろう。

 今はこの二ヶ月ぶりの快晴を堪能するべきだ。

 

 瀧は仏壇からマッチを取ると、既に用意されていたおがらと新聞紙を庭に運んで、迎え火を付けた。

 近隣は平屋か精々が二階建て、背の低い建物ばかりだ。この立地のお陰で染みるような青空を遠くまで見渡せる。

 青空に向かって悠々と煙が登っていく。

 言ってしまえばただの焚火に過ぎないのに、空へと吸い込まれて真直ぐ伸びる澄んだ煙がたゆたう雲と繋がって見えて、天から垂れる神秘的な綱を思わせる。こうやって眺めているだけでも飽きが来ない。

 

 瀧はふと、異変に気付いた。

 ……この空模様、妙だ。

 恐らくはこの家の真上の周辺だけ、雲の動きが明らかに違う。

 

 雲がゆらゆらと退いて澄明さが増していく青空。だが、その彼方を見遣ると、雨雲は川底で引っ掛かった小石のように急にスピードが落ちて、一定の位置で岩礁のように微動だにしなくなる。

 四角い部屋を丸く掃くとはよく言うが、まさにそれだ。ぐるりと空を一瞥すると、積もりに積もった埃の山に真上から息を吹きかけ散らしたように、分厚い雨雲だけが放射状に遠くへと追いやられている。

 観察すればするほど、雲の動きのおかしさが分かる。暗い雨雲は何かに命じられて自ら散り散りになったかのようにいそいそ動く一方、群青の空の真ん中に優雅に浮かぶ僅かな千切れ白雲は、そんな周囲の急変なぞどこ吹く風。自由気ままに漂う。

 しかも、迎え火の煙は綺麗に真直ぐ立ち上っている。つまり、雲の動きがはっきり分かる程に強い風が吹いている筈なのに、実際には無風だということだ。

 瀧の推測が正しければ、遠く離れた場所からこの家の真上の空を見ると、綿状の白雲の絵を散りばめた真っ青なカラーマンホールが、コンクリートの道路に一枚だけぽつんと置かれているように見えるだろう。

 

 この光景が瀧に確信をもたらした。

 今この場、この時に、俺にとって未知の何かが間違いなく起こっている。

 そして、その中心は、この子供達――特にこの少女ではないだろうか。

 

 当の少女は迎え火を珍しげに見つめている。こうしていると普通の中学生くらいの女の子にしか見えない。

 だが、そんな少女がじっと佇む後ろ姿をたった一瞬見たあの時から、瀧は奇妙な感慨に囚われていた。線画が描かれた透明なスライドを重ねて、その下にある輪郭の近い絵との微妙なズレを見比べる、そういった感覚がずっと尾を引いている。

 

 少女が迎え火から目を離して顔を上げた。

 

「初盆って、亡くなってから最初のお盆ってことですよね」

 

「えっ?あぁ、そうだよ」と、瀧は我に返って咄嗟に返事をした。

 

「なら、お母さんも初盆なんだ」

 

 少女の呟きに呼応して、背後の縁側の方から少年が息を呑む音が聴こえた。

 

「おや、あんたのお母さんも、去年亡くなったのかい?」

 

「はい」と、少女は強張った声で肯定した。

 

 冨美は柔らかい笑顔で少女の固い視線を受け止めた。

「なら、あんたも迎え火を跨いで行きなよ。お母さんがきっと守ってくれるから」

 

「はい!」

少女は、今度は嬉しそうに答えると、片手を空に掲げてじっと見つめ始めた。

 

 瀧は少女の内に危うさを見て取り、急に心配になってきた。

 私情に踏み込まれた故か露わにした警戒と不安めいた色が一転、他人の厚意には無邪気で明るい笑みで応じる。そのギャップは、不用意に近付く人間に怯えながらも優しさを見出すと甘え出す、棄てられた子猫を想起させた。

 空を見上げる今にしても、彼女の視線の先にあるのは手の甲だ。指の隙間から空を覗く仕草とも、有名な童謡のように手をかざして赤く染まる様子を愉しんでいる仕草とも違って見える。

 まるで、悲嘆に暮れて壁を見つめるようでもあり、望遠レンズ代わりになっている掌を通して、遥か遠くにある彼女にしか見えない何かに魅入られているかのようでもあった。

 縁側の方では、弟君はせっせと冨美の肩を揉んでいる。随分と慣れた手つきだ。老人思いというだけでなく、今自分に出来る役割をきっちりこなそうという、子供なりの気負いが感じられた。

 少年の方は、こちら――まず間違いなく少女の方――を穴が開くほど見つめている。

 母親が亡くなったという話だが、果たしてどんな環境で暮らしているのか。

 この子は――この子達は一体どういう子供達なのだろう。

 

 

 中座してスイカを切り分けていた瀧が盆を手に戻った時、縁側に座っているのは少年だけだった。

 冨美は庭に出て、交代で迎え火を跨ぐ少女と弟君を見守っている。

 黄色い声を上げる二人を見守る冨美の背中が、瀧にはいつになく楽しげに見えた。

 瀧は昔から、どうしても気恥ずかしさが勝ってしまって、ああいう近しい距離感で祖父母に甘えることは出来ない。屈託なくに感情表現が出来るこの子達に羨ましさと感謝の念を覚えた。

 

 瀧は少年の隣に座った。

「祖母ちゃんと仲良くしてくれて、ありがとね」

 

「いえ、今日は僕達バイトっていうか……」

少年は恐縮した様子で言い淀んだ。

 

 にわかに湿り気を帯びた風が吹き込んで、水滴がぽつぽつと足にかかった。

 

 ――バイト?

 てっきり町内会の知り合いかと思っていたが、違うのか?

 思い返せば、祖母はついさっき、初めて少女達の身内の不幸を知った様子だった。家に招いて盆の行事に参加させる間柄なら、その程度の情報はお互いに把握済であるのが自然だ。

 この子達が漂わせる独特の雰囲気の正体が何か、ずっと引っ掛かっていたが、ふと、子供とバイトという単語から、先日見たニュースを連想した。

 口車に乗せた子供を利用した、独居老人狙いの集団詐欺。

 

 庭の姉弟は迎え火を跨ぎ終えて、今度は一緒に跨ごうと祖母を誘っている。

 

「はは、楽しそうだ」

 

 戸惑いしつつも嬉しそうな祖母を目の当たりにして、瀧の口からは懸念ではなく笑い声が漏れた。去年祖父の葬儀以来、電話口でも沈みがちだった祖母が自然体で笑えているのが、単純に嬉しかった。

 

 眩しいくらいの微笑みを浮かべて、赤の他人をも笑顔に出来る子供達。

 そんな子達が、悪人。

 果たして有り得るだろうか。彼らが見せる反応や仕草が演技だとは到底思えない。

 

「君達、年は幾つなの?」

疑念と興味に任せて、瀧は少年に尋ねた。

 

「えっと、僕が十六で、彼女が――」少年ははっと目を見張って、

「確か、来月で十八になるって」と言った。

 

 あの少女が、十八歳?高校卒業間近ということか?

 ……はっきり言って無理がある。

 ノースリーブのパーカーにホットパンツの着こなしは、ラフを通り越して溌剌とした子供っぽさが残っている。それに若々しいを通り越して幼いと言う表現が似つかわしい肌艶。

 この少年にしても童顔の影響で十六歳より幼く見えるが、彼女に至っては中学生が年齢詐称しているとしか思えない。

 ともあれ、まだまだ色々と判断材料が足りない。手始めに年齢について掘り下げて聞いてみるか。

 自分が危惧する通りなら、この少年の反応から何か分かるだろう。もしも、この少年が悪人に騙されて犯罪に手を染めようとしているのなら、疑念を抱かせてボロを引き摺り出すことも出来る知れない。

 考えをまとめた瀧は、口を開いた。

 

「誕生日!なら、プレゼントあげなきゃだね」

 

 少年に対して口から飛び出した素直な助言に、瀧自身が驚いた。

 カマをかける代わりに全く別の話題を口にしたこと以上に、目論み通りに疑念を抱かせて三人の関係に亀裂が入る可能性を想像しただけで、強烈な拒否感を覚えたことに動揺した。

 

「皆!スイカ切ったよ」

 

 瀧は動揺を隠して、一旦仕切り直すつもりで庭の三人に呼び掛けた。

 歓声と感謝を告げて駆け寄る少女と男の子。隣で考え込む少年。彼らの様子を窺いながら瀧は思う。

 この子達は不思議なことばかりだ。時間をかけてじっくり検めるとしよう。尋ねることは会話の流れでおいおい見つければ良い。

 

 

*********

 

 

「なるほどね。これがそのサイトと投稿フォームか」

 

 一足早くスイカを食べ終えた瀧は、スマホでサイトを閲覧していた。

 表示されるサイトの名称は「晴れ女のお天気ビジネス」。

 続いて、検索サイトで「晴れ女 依頼」というワードを入力すると、ニュース番組の転載動画やマスメディアによる簡単な特集、素人のブログの記事、そこそこの数のSNSのコメントが画面上にずらりと並んだ。なかなか話題になっているようだ。

 面接対策の為に新聞の一面記事くらいなら目を通していたが、就活と卒論に追われて、世間の流行から随分離れたものだと痛感する。

 

「何で晴れるのかは正直自分でも良く分からないし、偶然かも知れないんですけど」

少女はまた降りだした雨空を見上げて、

「おまじないみたいなもので、結局たまたまでしかないのかな。いつも長持ちしないし」と、申し訳なさそうに言った。

 

「偶然なんかじゃないよ」弟君が身を乗り出した。

「これまで百発百中だったじゃん」

 

「そうだと良いんだけどね」少女は弟君を柔らかい眼差しで見やってから、

「でも、これで本当に誰かに役に立ててるなら嬉しいから、私が晴れに出来てるん

だって信じたいです」はにかみ笑いを瀧に向けた。

 

 

 晴れ女のお天気ビジネス。

 依頼サイトから申し込むと、現地に晴れ女やってきて晴れを呼んでくれる。

 昨日までだったら、胡散臭い新興宗教扱いで一笑に付しただろう。

 今となっては話は別だ。ついさっき瀧自身が不思議な空模様を目撃したし、弟君の言う通り、ここ数週間の間にネット上に溢れた動画や記事の数々が、局所的に晴れる奇妙な現象が現実に起こったことを裏付けている。

 

 だが、その数多くの事例の中で、瀧を惹き付けたのは唯一つ。

 花火大会直前の六本木ヒルズ屋上に佇み祈る浴衣姿の少女を捉えた空撮動画だ。

 ただでさえ遠巻きで、豆粒サイズの少女が着る黄色い浴衣の鮮やかさにどうしても意識が向きがちだし、おまけに雨天に撮影された映像だ。

 晴れ女の少女当人に指摘されない限り、知り合いであっても、今こうして畳に座りスイカを頬張る少女と、映像の被写体の少女を結びつける人間はそう居ないだろう。

 瀧はその例外中の例外だった。

 スマホを握る手は汗ばみ、どうしようもなく力が篭った。 

 小さな液晶画面の中の小さな人影と、庭先で初めて見かけた時のあの後ろ姿。この動画を目にしたその瞬間から二つの祈る姿はぴったりと重なる。

 図書館で在りし日の糸守を収めた写真を一枚一枚丹念に眺める時のように、心にさざ波が立った。

 

 ただ、二つの間には決定的に違う感触があった。

 写真集は、ページをめくるうちに堪えきれずに本を閉じてしまう。懐かしさと寂しさが津波のように大きくなって、呑まれて溺れそうになるからだ。

 この空撮動画は、浜辺に座って波の音を聴くような穏やかな気持ちで観続けることが出来る。

 この少女の祈る姿は、子供の頃に気紛れで早朝の神社に参拝に行った時のことを思い出させる。

 静まり返って張り詰めた境内の澄んだ空気を肺一杯吸い込んで、木々から差し込む朝の白い日差しが体に差し込む。緊張感を伴った清涼感が心地良く、細胞一つ一つが清められていくのが分かる。

 そして、この体験を味わったのは神社の境内だけではない気がしていた。

 荘厳ですら備えた神秘の気配が、華奢な少女から放たれる。

 そのギャップから受ける感銘に浸ったことが以前にもあった。

 

 

「瀧、どうかしたのかい?」

 

 瀧は我に返って顔を見上げた瀧は、心配げな祖母と子供達の視線が集まっていることに気付いた。

 

「何でもない。ちょっと考え事だよ」瀧は愛想笑いを浮かべた。

「でも、これだけあちこち行ってたら電車賃も結構かかるんじゃない?三人はどの辺から通ってるの?」

 

「山手線の沿線上なんで便は良いです。駅は、えっと……」

少女の歯切れは明らかに悪くなった。

 

 すると、瀧と少女の間に座る少年がずいっと身を乗り出して、

「僕は高田馬場駅の近くからです!ほら、その……今は夏休みだから。親戚の世話になってまして」と答えた。

「電車通勤がこんなにお金がかかると思ってなかったけど、今ではもう毎日嫌と言う程に味わってますね」

 

「確かに、依頼一件分の代金が三千四百円だと、三人分の電車賃はキツいだろうね」

 

「いえ、俺、依頼料は使いませんから。このお金は二人の生か――」

話の最中で少年は下に目をやって、わざとらしく咳払いをした。

「――その、俺は給り――じゃなくて親戚からの小遣いでやりくりしてます。出来るだけ貯めといてバーンと使おうかなって。旅行とか豪華な物食べたりとか」

 

 少年は「ハハハハ」と大袈裟に笑ってみせた。

 咳払いをする直前の少年の視線の先、彼自身の袖口を少女が引っ張っていたのは見間違いではないだろう。

 瀧が別の質問をしようと口を開きかけた丁度その時、

 

「ねぇねぇ、お婆ちゃん!食べたスイカの種はどうすれば良いかな」

今度は弟君が勢い良く冨美に尋ねた。

 

「ああ、庭に吹いて飛ばしちまって構わないよ」

 

 弟君は目を丸くした。

「えっ!?そんなことして良いの?でもやっぱ、俺、止めときます。種を吹くって漫画でしか見た事ないし」

 

「おや、今時の子はそうなのかい。私が子供の頃は当たり前だったけどね。瀧だってアンタくらいの頃はよくやってたよ」

 

 冨美は弟君を縁側へと連れ立って、種飛ばしを実演し始めた。

 弟君ははにかみながらもそれに倣っている。

 瀧にとっては懐かしい光景だった。弟君くらいの頃には種を飛ばす距離を祖父と競った記憶がある。

 

 ふと、縁側での喧噪に混ぎれ込もうとするような二人分の潜めた声が、瀧の耳に引っ掛かった。背後に居る二人のひそひそ話だ。ぽそぽそと極々小さな話し声だったが、断片的に聞き取れた単語は複数あった。

 

「でも、本当に良いの?今までの分の電車賃くらいなら何とか出せるよ?」

 

「お金なら平気だよ。前に言ったけど、今は住み込みでバイトやれてるからさ。二人の大事な生活費なんだからとっておいてよ」

 

 文脈が通じるように幾らか想像で補うと、内緒話は大体こんな内容になる。

 

 種をひとしきり飛ばし終えた二人が縁側から戻って着ると、瀧の背後のひそひそ話もぴたりと止んだ。

 

 自分の座布団に戻った弟君は、改めてタブレットに表示されているサイトをじっと見つめて、

「もう、一ヶ月も経つんだね」

年齢に似合わないしみじみとした様子で言った。

 

「ほだ――」少女は噛んだように言葉に詰まらせたかと思ったら、隣の少年の二の腕を掴んで、

「――ほ、ほら、二人でこのサイトを作ってた時に丁度家にこの子が帰ってきたんだよねっ」と一気に言い切った。

 

「あの時はマジで不審者オーラが駄々漏れだったよな」

弟君はそう言うなり少年の肩を小突いた。

「部屋は真っ暗だったし、涼しい顔した姉ちゃんの隣でコイツは汗だらだら。しかもおでこに冷えピタ貼っててさ」

 

「私だってもうびっくりで、冷えピタ探すのも超焦ったんだから。気付いた時には隣で顔真っ赤で汗だくになってたんだもん。知恵熱出す人見たの初めてだったよ」

 

 少年をからかう姉弟の笑い声が家の中に響く。

 

「いやだって、俺もサイト作るのなんて初めての作業だったから、もう必死で――」

 

 釈明しながらばたつかせる少年の腕に、少女はそっと触れた。

「ちゃんと分かってるよ。一生懸命作ってくれてさ、……ありがとね」 

真面目さが少しと、親愛さがたっぷりと詰まった言葉だった。

 

 急に湯呑の奥に興味が湧いて覗いてみたくなった。だからこそ飲み干すんだ。そう言わんばかりに、少年は勢いよく湯呑を傾けてお茶を飲み始めた。

 湯呑と彼の腕の隙間から赤らんだ耳が覗いている。

 少年の視線が自分から外れたからだろう。隣の少女は頬を緩めて柔らかく細められた目で彼の横顔を見つめている。

 

 少年はお茶を飲むのを止めて、きょとんとした顔で少女に訪ねた。

「ん?今、俺の方見てた?どうかした?」

 

「べーつに、見てないよ。気のせいじゃん?」

僅かに慌て気味で誤魔化すと、

「そんな風に思うのって、君こそ私の方を見てたからでしょ。今日はどこ見てたのかな?」

少年の方へ身を乗り出しながら聞き返した。

 

「いや、俺のことは関係無いだろ。どこも見てないって」

 

「あっ!その言い方はやっぱ見てたんだ。ホントやらしー。白状しなさいよ」

 

 少年はもごもごと彼女にだけ聞こえているだろう小さな声で何かを話して、少女はころころと笑った。

 

 この子達について二つほど、瀧はほぼ確信に達した。

 

 まず、一つ。

 この少年少女は所謂友達以上恋人未満という奴だ。鈍感だの朴念仁だのと友人達から散々小馬鹿にされる瀧から見ても、疑いの余地は無い。弟君の愉快気に見守る様子からして、普段からこんな調子なんだろう。

 

 それと、もう一つ。こちらは深刻だ。

 仔細は分からないが、やはり彼らは何か後ろめたい事情を抱えている。

 これだけ距離感の近い三人――小学生くらいの弟君さえも――が、ただの一度も互いの名前で呼んでいない。急に言葉に詰まる場面も何度かあって、意図的に口にするのを避けている。

 打ち解けた様子の祖母でさえ彼らの名前を知らないらしい。瀧がこの家に着てからずっと、この三人を「嬢ちゃん」「坊や」としか呼んでいない。

 加えて、おおまかな住所について尋ねた時も彼らは答えあぐねていた。

 友達のように付き合い、頃合いを見て金を巻き上げる。そういう手口の独居老人狙いの詐欺師ならば、まず信頼を得る為に、事前に問答を想定して偽名や偽の住所くらい素知らぬ顔で答えるだろう。

 つまり三人とも、祖母を騙す気は無くても、今後も長く付き合う気も無いということだ。

 そして、内緒話の中で確かに聞き取れた単語――生活費。住み込み。

 これらを総合して、瀧はこう考えた。

 この子達は恐らく、家出中とか児童養護施設の類から脱走したとか、そういう境遇に居るのではないか、と。

 

 下手の勘繰りと切って捨てることは出来る。瀧としてもその方が気は楽だ。

 だが、こんな推論を確信めいたものを抱かせるのは、瀧が中学時代に広まったとあるカップルの伝説が、今でも頭の片隅にこびり付いているからだ。

 

 その噂によれば、瀧の何代か上の先輩にあたる女子学生の中に、児童養護施設に預けられて、そこの職員から虐待されていた少女が居たという。

 その少女に恋する同級生の少年が事態に気付き、義憤に駆られて当の施設に抗議して、担任にも助けを求めた。

 しかし、結局暖簾に腕押しで何一つ改善せず、万策尽きた二人は遂に駆け落ちを敢行したのだそうだ。

 所詮は曖昧な噂話だ。カップルの年齢や少女の居た施設の名前といった設定はおろか、顛末のバリエーションですら複数あるのだから。

 だがこの噂は、瀧の同級生達の間で根強い人気があった。傑作ラブロマンス映画の感想さながらに熱を込めて語る女子さえ居たものだ。どのバリエーションも嫌に生々しくて現実味と無常感のある展開だったのが、彼らの琴線に触れたのだろう。

 この噂話の数ある結末のうちで主流だったのは、少年が何とか当座の職と金を得ようとした挙句、半グレ集団に抱き込まれて悪質な詐欺の片棒を担がされかけ、警察の厄介になるという幕引きだった。

 これはまだマシな方で、逃避行中に殺されただとか、二人で心中したとか、名作古典の結末を節操無くパクったようなバージョンもあった。

 空想であるならば、より派手でトラジックな方が楽しめるのは道理だ。

 対岸の火事は時として幻想的で美しい。遠巻きに見物する分には、風に煽られ無秩序に舞い散る火の粉に見入ってしまうこともあるだろう。

 だが、風向きが変わって川を越えて火の粉が降り注いで着たのなら、誰だろうと火傷する前に慌てて逃げ惑う。

 この噂話を持て囃した同級生達にしても、所詮は創作か自分とは無縁の世界だと心の底で理解しているからこそ、没入して憧憬することが出来たに違いない。

 

 瀧は考える。

 もしもたった今、それも目の前で、あの噂話のような逃避行が起こっている最中なのだとしたら。自分はどうすべきか。

 是非も無い。警察や児童相談所に通報すべきだ。

 取り越し苦労ならそれで構わない。人騒がせだと叱責され呆れられるのが大人――この場合は瀧自身――だけなら、その後で問題が起きた場合のリスクを考慮すれば安いものだ。

 この三人が家出少年の類かどうかを確かめるのはすぐに済む。

 瀧の頭に浮かんでいるこの噂話を、彼らに話して聞かせれば良い。素直で嘘が下手なこの子達の反応を見れば、実際の所がどうなのか手に取るように分かるだろう。大学で流行ってる面白い話がある、とでも切り出そうか。

 

「そう言えばさ」

 

 瀧が話しかけて、三人の視線が集まるのを感じた。

 その途端、言葉が喉に引っ掛かって、出て来なくなった。

 

「えっと……その……」

 

 既に十秒は経過しただろうか。瀧を除く四人が彼をじっと見つめて、少し怪訝そうに二の句を待っている。

 これで二度目だ。どうしてこうも、この話題を切り出すのを躊躇ってしまうのだろうか。

 

 瀧は散々迷った挙句、

「……送り盆はどうしようかなって思ってね。またこの君達に頼めるかな?」

頭の中から、当たり障りのない話題を引っ張り出した。

 

 だが、四人の反応は、瀧の想像と全く違っていた。

 冨美は顔をにわかにしかめて、思案気に湯呑に口をつけた。

 子供達はと言えば、ピンと来ない様子で「送り盆って何ですか?」と尋ねてきた。

 

 迎え盆と送り盆はセットだ。盆の終わり――出来れば夕方――に同じ場所で火を焚いて、今度は死者の魂を煙に乗せて送り出してやって、初めて完遂する。

 瀧が簡単にそう説明してやると、子供達は弱った表情になった。特に少女は話の途中からじっと俯いている。

 

「すみません。僕達、別の人の一件だけを受けて休業する予定なんです」

少年は当惑して歯切れの悪い調子で

「だから送り盆は辞退させて下さ――」

 

「私、やるよ」

 少女がぱっと顔を上げて少年の断りを遮った。固い表情の下で、首のチョーカーの水玉の飾りが激しく揺れていた。

「晴れじゃなきゃ、お爺さんをちゃんと送り出してあげられないもん。やんなきゃ駄目だよ」

 

「やっぱり遠慮させて貰おうよ。ここんとこ疲れが溜まってるんじゃない?」

 

「私は大丈夫。全然疲れてなんてないから」

少女はより一層固さの増した声で言い張った。

 

「でも、それじゃあ――」

 

 少年は言いかけて口ごもった。

 二の句を継いだ途端に、足場が崩れて奈落へと繋がる急斜面を転げ落ちるのを危惧するような、漠然とした戸惑いと怖れが彼の顔に浮かんでいた。

 そんな二人のやり取りを無言で窺う弟君も不安そうな面持ちだ。

 

 

 瀧は、祖母が敢えて送り盆の話をしなかったのだと気付いた。

 あの晴れにする祈りの儀式と言うのが、偶然や気休めのまじないなのか。それとも何か特殊な力を本当に行使しているのか。

 何一つ分かっていないが、もしも後者なら、少女はそれが原因で体調でも崩しているということも有り得る。

 どうやら、地雷を避けた積りで別の大きなヤツを踏み抜いたようだ。

 

「まあ、いっちょバシッとやっちゃおうよ」

場の空気の重さに耐えかねたように弟君が声を上げた。

「これまで通り行けるって。姉ちゃんがやれるって言ってんだからさ――」

 

 言いかけた弟君の肩に祖母がそっと手を置いて、彼の言葉を制止した。

 

「心配要らないよ。アンタ達にだって用事もあるだろうし、そうでなくてもゆっくり休みな。世間は夏休みなんだ」

祖母は空を見上げながら気軽な調子で続ける。

「送り盆の日は今日より小雨だって予報だから、煙くらいなら十分立つだろうさ。それに、旦那は一回でも歩いた道は違わず覚えるのが自慢だったしね」

それから、仏壇の方を振り向いて、

「頭はシャキっとしたまま死んだんだから、今更あの世でボケちゃいないだろ」

冗談めかした笑顔で夫の遺影に語り掛けた。

 

 居た堪れない表情のまま視線を落とした少女は、急にはっとした顔をして、手をポケットに突っ込んだ。瀧が怪訝に思って声を掛けようとした時、

 

「大丈夫!?どこか痛いの?」

少年がすっと膝立ちになって彼女に詰め寄っていた。

 

「うん、平気。何かちょっとピリってしただけ」

少女は残った方の手で自分の手首を握っていた。まるで、強風に攫われて飛んで行きそうな物を咄嗟に押さえ込む時のように。

 

「本当に、大丈夫なの?」

 

「うん。蚊とか何か虫かな。……ほらね。もう平気」

少女はポケットから出した手をひらひらかざした。

 

 祖母がすっと立ち上がって、三人に呼び掛けた。

「あんた達。スイカ、もう少し食べないかい?」

 

「えっ!?良いの?」

満面の笑みを浮かべた弟君の体が床に手を付いた勢いで座ったまま少しだけ浮いた。

 

「いえ、もう結構です。十分頂きましたから」少女がきっぱりと言った。

 

「えー、何だよ姉ちゃん。折角だし貰おうぜ」弟君は頬を膨らませた。

「こんなでっかくて甘いスイカなんて、うちじゃ絶対に買えないじゃん」

 

「だから言ってんの。そんな高い物を私達でいっぱい食べちゃう訳にはいかないでしょ。今日の依頼料だってもう頂いてるのよ」

 

「えー……。まぁ、そっか。そうだよな」

 

 姉弟の話し声は、萎む風船のように徐々に小さくなっていった。

 

「遠慮なんてするもんじゃないよ。婆さんにとっちゃ、人に御裾分けして食べて貰うのを眺めるのは趣味みたいなもんなんだから」と祖母が言った。

「それに、こんな沢山のスイカを私と瀧の二人で食べきれやしない。冷蔵庫が何日もスイカ塗れになっちまう。手伝っていっておくれよ」

 

「それなら……お言葉に甘えます。私達も切るの手伝いますね」

少女はそう言いながら立ち上がった。はしゃぎたいのを恥じらって我慢するような控え目な笑顔で。

 

「お婆ちゃん!俺達も手伝うよ」弟君がそう言うなり元気よく立ち上がった。

「やったね!姉ちゃん。姉ちゃんだって、いつもやたらと食べるんだから、あれだけじゃ足りなかったでしょ」

 

「うっさい。余計なことは言わないで良いの」

少女は撫でるように、弟君の頭をぽすっと叩いた。

 

 連れ立って台所へと向かう三人の後ろ姿を瀧が眺めていると、後ろの方から

トントンと背中を突付かれる感覚がした。

 振り向くと、少年の真剣な面持が瀧に向けられていた。

 

「すみません、お名前はタキさん……で良いんですよね?」

少年は姿勢を正して、正座のまま畳を滑るようにして距離を詰めてきた。

「さっきの話の続きですけど、俺……女性への誕生日プレゼントって何が良いのか全然分からないんです。お勧めの品とかどの店が良いとか、何か良いアドバイスを貰えませんか?」

 

 少年の瞳が、カリスマ占い師に対面した乙女のような輝きを放っている。

 彼女居ない歴が年齢と一致する瀧は思わずたじろいだ。他人に対して気の利いた助言をするどころか、むしろこちらが誰かに助言でも乞うべきだろうか、などと道行くカップルを眺めながらぼけっと考える立場だ。

 それに、だ。

 もし彼らの境遇が瀧の想像通りなら、どう転んでも二人の恋は悲恋に終わるのではないか。あの非現実的な噂話の非情さも、面白さよりもリアリティを追求して肉付けされたものだ。

 駆け落ち逃避行であれ、早々に大人達の手で引き離される。現実なんてそんなもの。早めにすっぱりと諦めさせてやる方が親切でさえあるだろう。

 

 それなのに――

 

「君、普段は高田馬場が近いんだっけ?新宿には行く機会はある?」

 

「はい。よく立ち寄ります」

 

 瀧は、少年へのアドバイスを真剣に考える自分を止められなかった。

 

「そうだね……。なまじ服なんかをプレゼントしても、押しつけがましいって引かれるだけじゃないかな。でも、ケーキやマカロンとかスイーツで間に合わせるんじゃなくて、心を込めたいだろ?君としてはさ」

 

 瀧の問いの真意を理解して、少年はまた耳を赤らめつつも、力強く首肯した。

 

「――そうだ、アクセサリーが良いんじゃない?新宿なら、ルミネにでも行けば普段使い出来るお値打ちのブランドも揃っていて選び易い筈だよ」

瀧なりに持てる知識を総動員してベストを尽くした助言を続ける。

「女子だったら、自分の好みに合わせて上手くコーデするだろうから、奇抜なのを避けて何と合わせてもコーデし易そうな落ち着いたデザインで選べば、プレゼントに丁度良い物は見つかると思うよ」

 

 少年は台所の方を一瞥してから、

「ありがとうございます!参考にします」

瀧だけに聞こえる小声で礼を言った。

 

 声を抑えていても尚漲る少年の気合を前にして、思わず恐縮の苦笑を浮かべた。

 瀧自身は、ルミネのジュエリーショップなどという、女性かカップルしか用が無い場所には足を踏み入れた経験は無い。

 さっき少年にした助言はこれまでコツコツと貯めてきたデータの受け売りだ。

 瀧はこれまで、同世代より少し年上の女性が好みそうなブランドやスイーツの他に、カフェや遊園地、美術館等、複合商業施設といったデートスポットの情報を、折を見てピックアップし続けてきた。

 一緒に行きたい相手も居ないのに、何故そんな虚しい習性がついてしまったのかは分からない。

 高校時代にバイト先が一緒だったかつての憧れの的、奥寺先輩への未練が理由ではないのは確かだ。高校二年の夏休み頃までは彼女への憧れを抱いていた覚えはあるものの、その想いは嘘のように霧散してしまった。半年前に親友の司が奥寺先輩と婚約したと聞いても嫉妬心も未練も湧かない自分に対して拍子抜けしたくらいだ。

 

 だから、何を考えてこんな情報をあくせく貯め込んだのか、もう分からない。

 使い道も無いデータをこつこつ貯め込む徒労がようやく役に立ったことを、この少年に感謝すべきだろう。

 

「アクセサリーか。指輪……は重いよなぁ。ネックレスはチョーカーをもう着けてるから多分使ってくれないだろうし、手鏡は……大事そうに使ってるのがあったっけ。イヤリングは、バイトを再開すると邪魔になるよな。ずっとつけてくれるのは――」

 

 少年は試験を目前にして参考書にのめり込む学生のように、畳を見つめて縫い目を指でなぞりながらブツブツと唱え始めた。

 

 瀧は、頬が緩むのと同時に、握り締める掌に爪が食い込むのを感じた。拳に篭る力を緩めようとしても上手くいかなかった。

 この感覚は……そう、アンカーにリレーのバトンを託した時のようだ。

 この少年を見ていると、どうしてだろう。肩の荷を下ろせた解放感と自分がゴール出来ない嫉妬混じりの悔しさが、胸の中で渦巻いて仕方なかった。

 

 

**********

 

 

「見送って頂いてありがとうございます」

 

玄関先に並んで立つ冨美と瀧に、三人は声を揃えてお辞儀をした。

 

「それじゃあ三人共、気を付けて帰ってね」

瀧は頬を緩めて頷き返した。

 

 顔を上げた少女は祖母の方へ体を向けると、

「あの、お婆ちゃん……送り盆の手伝い出来なくて、本当にごめんなさい」

申し訳無さそうにもう一度頭を下げた。

 

「だからね、謝るようなことじゃないよ」

祖母は少女の肩に手を置いた。

「まずはちゃんと迎えてやらなきゃ話にならないけれど、あんた達のお陰でそれは無事に出来たんだ。あんたは顔を上げてしゃんと胸をっ張ってりゃ良いんだよ」

 

 顔を上げた後も少女は手をもじもじさせていた。

 すると、彼女を横目で見ていた少年が声を張り上げた。

 

「お婆さん、また着ても良いですか?何か手伝うことがあればやりますっ!」

 

「俺も俺も!」弟君もぴょんぴょん跳ねながら彼の後に続く。

「また着て良い?肩揉んであげるよ」

 

 冨美は頷いた。

「今度はゆっくり遊びにおいで。大したもてなしは出来ないけどね。

 ――っと、そうそう、ちょっと待ちな」

一旦玄関に入って靴箱の上で何かをしてから戻ってきた。かと思えば、そのまま真直ぐに少女へと歩み寄り、

「嬢ちゃんは携帯電話もパソコンも持ってないんだったね。何か困ったことがあったら連絡しな」

 

 少女の手に紙切れを握らせた。

 瀧がちらりと覗き見た紙面には、この家の電話番号が書いてあった。

 

「……はい。」

 

 紙を握り締める手をそっと胸に当てる少女。からりとした笑顔を姉に向ける弟君。

心配以上の感情を覗かせて少女を見つめる少年。

 彼らは揃ってまたお辞儀をすると、背を向けて歩き出した。

 

 それからしばらくの間、瀧は軒下で少しずつ雨足の強まる空模様を眺めていた。

 すると、

 

「瀧。あれ、見てみな」と、まだ隣に居た冨美が明るい声で言った。目で促すその先には、あの子達の背中があった。

「あの子達、コマみたいじゃないかい?」

 

「え?……ああ、コマって、独楽ね」腑に落ちた声で瀧は応えた。

「正月に爺ちゃんお手製の独楽回したな。もう何年前のことだっけか」

 

「あんた、独楽回すのとんでもなく下手だったよねぇ」

 

「ヘタクソだったのは親父。俺はこれでも手先は結構起用だからね。爺ちゃんとも互角だったよ」

少しムキになって反論する。だが、三人の背を目で追ううちに、そんなことはどうでも良くなった。

 

 二人の視線の先には三人の背中があった。

 黄色いレインコートを着た弟君の小さな背中と、その両側でそれぞれ青と黄色の傘を差して歩く二人の背中。三人がじゃれ合い肩を寄せ合う度に、くるくると回る傘同士が弾き合ってはまた近寄る。それを幾度も幾度も繰り返す。

 目の前に続く道は灰が降り積もっているように暗かった。その灰の海をかき分け泳ぐようにして、青と黄色は二つの色が縦へ横へとポンポンと元気に跳ね踊る。

 それでも、一面の灰に埋没するように段々小さくなっていく。

 

 瀧はまだ、答えを出せずにずっと考え続けていた。

 今からでも児相に通報するか。本当にそうすべきなのか。

 いい加減に、そろそろ答えを出すべきだ。

 

「祖母ちゃん、あの三人のことだけど――」

 

「瀧。あの子達、良い子達だと思わないかい?」冨美が瀧の問いかけ遮った。

 

「え?それはまぁ、そう思うけど――」

 

 冨美は体ごと横に向いて、まっすぐ瀧の目を見つめながら、

「もし、あの子達がまたここに着たら、私に任せちゃくれないかい?」と言った。

「もしかしたら、あんたや父さんに少しばかり迷惑をかけるかも知れない。出来る限りそうならないようにするけどね」

 

 孫への心からの労りと覚悟がこもった声だった。

 

 あの三人の境遇について、祖母もとっくの昔に気付いていたのだ。その上で、彼らについてどうするか、とうに腹は決まっているらしい。

 祖母は、黙ったままじっと返答を待っている。

 袖触れあうは他生の縁とはよく言うが、赤の他人の子供の人生に関わろうとすれば、突っ込むのは片足だけでは済まない。全身どっぷり浸かり、下手をうてば沈む覚悟が必要だ。安請け合い出来る話でないのは互いに重々承知している。

 

 瀧は準備体操のように大きく伸びをした。

 

「祖母ちゃん。でかい傘かパイプテントって確かこの家にあったでしょ?探してみてくれないかな。庭の片付けは俺がやっておくからさ」

それまで雨空を睨みつけていた目尻は自然と弛んでいた。

「傘かテントがあれば煙立てるくらいは出来るでしょ。今度あの子達が着た時の為にさ、俺達だけで送り盆をやり遂げて安心させてやろうよ。デジカメで証拠の写真撮影……なんてのは流石におかしいか」

 

 祖母は目を落とした。

「いや、それも悪くないさ。大事な時期に無茶言ってすまないね」

 

「だからね、謝るようなことじゃないよ」と、先程の祖母の口調を真似ながら冗談めかして瀧は言った。

「それに、このままじゃ迷惑かけ通しだった祖父ちゃんの線香あげるのにも出遅れた不孝者のままだからね。あの子達に負けないように、俺もちょっとは祖母ちゃん孝行しとかないと」

 

 冨美は照れたような微笑を浮かべると、 

「こんな雨の中に突っ立ってたら体が冷えちまうね。まずはお茶でも煎れようか。アンタもおいで」

そう告げて家の中に入って行った。

 

 廊下を通って居間に戻っていく祖母の背を目で見送って、瀧はまた、去っていく三人を目で追った。

 子供達の背中は人差し指くらいになっていた。曲がり角に差し掛かって見えなくなるまではもう少しかかるだろうか。

 にわかに雨足が強まって、軒を垂れて流れ落ちる雨水が小さな滝へと変わった。

 小さな滝めいた雨水の幕と、あの三人――少女の背中が重なった。

 

 瀧は目を限界まで大きく見張り、衝撃に襲われてまたもや玄関で立ち眩んだ。

 高台からプール目掛けて飛び降りて水面に全身を強く叩かれたかのような、全身を万便なく包み込む衝撃だった。

 

 あの少女の祈る姿が何に似ているのかを、やっと思い出せた。

 

 神楽。

 巫女が演じる神楽の舞に似ている。

 

 不思議なものだ。実際に神楽を見物した経験なんて無いも同然なのに、そう思えて仕方ない。神楽を目にした経験を強いて挙げるなら、精々があの少女と似ても似つかない年配巫女の舞を収めた特集番組を数秒見かけたくらいのものだ。

 けれど、輪郭が異様にぼやけながらも、息を呑むほどに濃くて彩り豊かな映像の記憶が脳を満たしていた。

 誰かが、何時間、何日――あるいは、何年?――もの長い長い歳月をかけて、一生懸命練習を重ねて、少しずつだが着実に長く上手に舞えるようになっていく。

 ぎこちなく水をかき分ける赤ん坊イルカを見守るうちに、優雅に洗練されていく遊泳を夢中で見惚れていたかのように。

 俺はそうして誰かの傍に寄り添っていたことがあった。そんな気がしてならない。

 

 この記憶はただの勘違いで、昔見た変な夢が頭にこびりついているではないか、という気もする。

 その舞う誰かは、水槽の分厚いガラスに隔てられたような、触れ合えそうな程近いのに手を付き出しても大声を張り上げても何一つ届かない場所に居たからだ。

 しかも、そのイメージの中でイルカのように水らしき空間を漂っていたのは俺の方だ。あの感覚が現実にあったことだとは到底思えない。

 

 けれども、そういう光景――人――が存在するのだと、腹や胸の奥底の魂とでも呼ぶべき場所から叫びが聴こえる。

 ただの夢か、現実か。この手で何を掴んでいたのか。何かを忘れているのか。

 まだ分からない。

 

 けれども、俺はが"誰か"をずっと探し求めていたのは、もう疑いようが無い。

 そして、この胸を鷲掴みにする喪失感が告げる。

 その"誰か"はきっと糸守町と関係がある。その足跡を辿る術は、最早存在しない。

 

 道の向うにもう一度目を向けると、三人の背中は痕跡も無く消え去っていた。

 目の前には色褪せたコンクリートの壁のような世界が広がっていた。

 

 瀧は頭では理解していた。

 俺があの子達に対して下した選択は、世間的には正しくない。

 例え祖母と仲違いしようとも、あの子達に恨まれようとも、憎まれ役を買って出て警察なり児童相談所なりに通報する。そうして彼らが然るべき施設に預けられるよう手配するのが、真っ当な大人というヤツなのだろう。

 だが、心がそれを拒絶した。

 あの二人の関係は泡沫の夢や恋とか言う奴で、この先彼ら三人に待っているのは悲愴な離別かも知れない。

 ひょっとしたら、年頃の少年少女に対して、中途半端に夢を見せる残酷なだけの仕打ちをしてしまったのではないか。

 

 ――だとしても、だとしてもだ。

 俺には、彼らを引き裂くことは出来なかった。

 

 この選択が間違いだとしても、あの三人――特に、少年と少女――には、ずっと肩を寄せ合い笑い合っていて欲しい。

 それが無理だというのならば、せめてもう少しだけ、あと少しだけだろうとも。

 とにかく、是が非でも、一秒でも長く。

 あの子達が一緒に居られる時間を作ってやりたかった。

 彼らに別れの時が来る時までに、一つでも二人の心に残り続ける想い出を、何がしかの記念を作って欲しい。

 例えたった一つのアクセサリーだって良いだろう。その手の中に残るものさえあれば、それはきっと、あの子達がこの先の人生を乗り切る為のこれ上無い支えになる。

 

 瀧はおもむろに右手を開いて、掌を穴が開く程じっと見つめた。

 冷たい風雨が降りかかる掌が疼く。

 

 

 

 

 

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