黄昏の向こう   作:テービット

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5話 夢にまで見た筈の日々

 

 松野は手首を翻して腕時計を一瞥した。

 

 この新宿ルミネの営業終了まであと三十分を切った。ほとんど途絶えたお客様の賑わいに替わって今は緩やかなBGMがフロアを満たしている。

 そろそろ今日の売上集計と報告書をまとめ始めよう。最後のフロア巡回の締めくくりに、彼女が店長を務めるアクセサリー店の様子見に向かっていた時だった。

 

 微かにヒールの足音がして、そちらに自ずと目が向いた。

 自分の店が目当てのお客様だ。

 このアクセサリーショップで店員として働いて五年が経つ。このフロアの足音を聞けば、向かう方向と歩調の緩みから、その人がどの店を目指しているかを大体予測出来るようになっていた。

 一般スタッフだった頃は、お客様に失礼のないようにすぐにでもカウンターに入って応対していた。しかし、今は店を預かる身だ。店員の教育の為に、お客様に対する多少の粗相は覚悟の上で普段の接客を部下に委ねなければならない。

 今はカウンターの外に販売員が一人立っている。ちゃんと接客出来るか、遠巻きにそれとなく見守ることにした。

 さて、店頭を預かる彼女――宮水さんは、今日こそはちゃんとやれるだろうか。

 

 しばし宮水さんの様子を観察した後、松野は天井を仰いだ。

 やはり、今日もか。

 客足が途絶えていた油断もあるだろう。宮水さんはカウンター脇の低額品が陳列されている低額品のワゴンを見下ろしたままで、女性客がカウンターディスプレイの前で商品を眺めているのに気付けていない。

 顔を上げた女性客はじっと宮水さんを見つめている。

 

 数呼吸分間を置いて、女性客は意を決したらしい顔付きになって、宮水さんに声をかけた。

「あのー店員さん。ちょっと良いですか?」

 

 ワゴンを見下ろしていた宮水さんは、ぱっと顔を上げた。所作は慌て気味で、向ける笑顔は少し硬い。それでも持前の涼やかさは損なわれていなかった。

 

「はい、どうかなさいましたか?」

 

 女性客はジュエリーディスプレイに置かれたイヤリングを指差した。

「これなんですけど、ピンクじゃなくて、別の色はあります?」

 

 お客様の質問を聞くや、宮水さんの表情が和らいだ。

 

「申し訳ございません。先程売り切れてしまいました」

そう言って軽く頭を下げてから、

「ですが、明日になればまた再入荷します。青か黄色、お好みの色があれば、お客様の為に取り置くことも出来ますが、如何致しましょうか?」と続けて尋ねた。

 

「あれ?でも前は緑もありましたよ。形も何かこう……ちょっと違うような」

女性は不満げに首を傾げた。

 

「それでしたら――」

宮水さんは唇にすっと手を当てて思案した。それから、業務用のタブレットを手に取って操作して、ものの数秒で女性客に画面を向けた。

「お求めなのは、こちらの商品でしょうか」

 

「ああ、そうです。これです」

 

「こちらは三世代前のモデルの商品ですね。申し訳ありませんが、店頭販売は停止しておりますので、現物をご確認頂くことは出来かねます」

宮水さんの口から紡がれる説明もタブレットを操る手もほとんど淀みがなく、それでいて彼女の視線は女性客から外れない。

「ネット通販では引き続きお求め頂けますし、お買い上げ頂けるなら当店でお取り寄せも可能ですよ」

 

 結局、お客様はネット通販で購入すると告げて立ち去って行った。

 宮水さんは整ったお辞儀で後ろ姿を見送った。

 

 松野の評価では、宮水さんと接客業の相性は悪くはない。むしろ、かなり良い。

 彼女の所作は自然体でありながら綺麗だ。幼い頃から日本舞踊や茶道のような芸事を習っている子達に通ずるものがある。

 生真面目な聞き上手でもあるし、お客様と店舗双方の利益に適うようにと、ちゃんと自分で考えて、その都度提案出来ている。

 彼女がここで働き始めて数日経過した頃に、美大卒だと当人から聞いた時は少なからず意外に思ったものだ。

 松野が知る限りでは、美大出身者の多くは店舗販売に馴染むのに時間がかかった。日々磨き鍛え上げ積み重ねた表現力と自負が災いして、接客の際に押しが強くなり過ぎる傾向があった。

 その点、宮水さんは違う。普段は引っ込み思案で遠慮がちな印象を受けるが、その性格が美大で培ったのだろうプレゼン力と調和をとっている。

 彼女が単なる一般スタッフとして応募してきたなら喜んで採用しただろう。

 多少の短所や改善点くらい誰にでもある。腰を据えて付き合って、じっくりと一つ一つ直して貰えばそれで構わない。

 だが、宮水さんの場合はそうはいかない。販売員としての彼女に残された時間は決して多くない。

 

 

 閉店時間を過ぎた後、松野は頃合いを見計らって作業の手を止めた。

 そして、背後で一緒に店仕舞いの作業をしている宮水さんに顔を向けた。

 

「宮水さん。作業は止めて良いから、ちょっと付いて着て頂戴」

 

 松野は一緒にカウンター内で店仕舞いの片付けをしていた宮水を連れ立って、店舗脇の通路をツカツカと歩いていく。

 二人して五メートル程歩いて、丁度フロアから死角に入った。松野は急に立ち止まり、宮水も少しつんのめりながら立ち止まった。

 

「業務中のことでね、話があるの」

振り向きながらそう言って、周囲を軽く見まわした。

「貴女、業務中に気が散ってる時があるでしょう。今日に限ったことじゃないのは自分でも分かってるわよね?」

 

 宮水はぎくりとして肩を落とした。

「……はい。すみません」

 

「言っておくけど、貴女にやる気が無いとかって疑ってはいないわよ。貴女みたくウチの何世代も前のラインナップまで覚えてる人、正規スタッフでも多くないしね」

 

 窘める態度はいたって冷静で、宥めているかのようでもあった。

 それでも、組んだ腕をトントンと叩く指は僅かに苛立ちを滲ませていた。

 

「それでもね、ここに立つ以上は他の考え事で気をとられて、立ち寄られたお客様に気付かないのは困る。それに、貴女がそうなってる時は表情も少し暗くなってるわよ。貴女に話しかけ辛くなってるのも、お客様の反応で分かるわよね?」

 

「……申し訳ありません」

 

「貴女の場合、身構えてないでリラックスするくらいで丁度良いんじゃないかしら」

そこまで言って、ワゴンの方をちらっと見遣った。

「考え事の原因は分かってるつもりだから、まぁ難しいのは分かるけどね」

 

 宮水は店長の視線を追ってその先にワゴンがあるに気付くと、肩を竦めて、

「本当にすみません。以後、気を付けます」と消えるように言った。

 

 松野はパンッと手を叩いて大きな音を立てた。

 

「それじゃあ、これで話はお終い。今日はもう帰って良いわよ」

 

「いえ、でも、まだ片付けが終わって――」

 

 言いかける宮水を、松野は肩を軽く叩いて制止した。

 

「先週からずっと、当番でもないのに一番乗りで掃除してたでしょ?やってくれるのは有難いんだけど、当番の子達を甘やかすことにもなるから。無理に気を回さなくて良いの」

敢えてきつめの口調で告げてから、ふっと表情を緩めた。

「早めに帰ってゆっくり休んで。その分、さっき言ったことをばっちりこなして」

 

 宮水は少し迷った様子で目を伏せて、

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせて頂きます」

深く一礼すると、そそくさと踵を返した。

 

 立ち去る宮水の背中を見送ると、松野は首を回して肩の凝りを解した。。

 何年経とうが、大して年齢の変わらない相手に説教をするのは良い気分はしない。 

 

「気にするなっていうのは無理よね。あの子の事務所も酷なことするわ」

 

 店長はワゴンから商品を一つ手に取った。

 宮水がここに居る理由であり、彼女が気を揉んでいるのだろう原因。

 彼女がデザイナーとしての初仕事でこの世に送り出した指輪だ。

 

 白く光る翼がモチーフの真鍮製リングに、黄色いスロバキアクリスタルを誂えている。希望した低い予算枠にきっちり収まりながら、清潔感のある意匠。

 松野から見ても良い商品だ。このブランドは可愛らしいデザインに定評があるが、この指輪のようなシンプルなデザインにも需要はある。どんなコーデにも合わせられるから日用品としても扱い易い。

 一つも売れていないと言っても、店頭に並べ始めてから二週間目。まだまだこれからの商品だ。

 

 宮水の所属するデザイン事務所は、松野が勤めるブランドに対して毎年出向の受け入れを頼んでくる。

 一通りの新人研修を修了した新米デザイナー達を対象に、商品開発から納品先での店頭販売まで、全ての工程に関わらせるという研修が目的の制度だ。

 その制度の下、この販売店に出向してきたデザイナーは宮水さんで七人目。既に毎年の恒例行事になっている。

 

 ジュエリー、アクセサリー産業も厳しい局面を迎えている。

 格式と伝統に裏打ちされた高額ジュエリーの売れ行きは鈍っても、方針転換は困難で、打開策は簡単には見つからない。万人が欲しがって実際に手が届く価格の商品などという都合の良い存在は有り得ないのだから。

 高級、高額が許されるオーダーメイドのジュエリーか。大量生産にも耐える低価格商品――所謂プチプラアクセサリーか。多くのブランドでどちらかに重きを置く賭けに出て、目減りする一方のリソースを集中させている。

 

 宮水が属するようなデザイン事務所もまた、難しい舵切りを迫られている。デザイン事務の顧客はブランドが主だが、ブランド毎に得意とするジャンルは違う。

 デザイン事務所がより広く顧客を開拓する為には、あらゆる消費者のニーズに合わせられるように、趣の違う商品を生み出せる引き出しの多さが求められる。

 デザインや発想力は生水に似ているという。蓄積させればかけがえの無い財産になる。けれど、溜まり水がやがては淀んで苔が蔓延り腐るように、デザイナーが一所に留まり続ければマンネリ化は避けられない。

 対策として、デザイン関連の企業は常に転職者を歓迎している。だが、指をくわえて新風が吹き込むのを待ちぼうけする怠惰な会社には、優れた転職希望者は見向きもしない。

 だからこそ、社内から絶えず新鮮な空気を巻き起こして、人材とデザインの好循環を作ろう。その為にまず現場を知れ。

 大いに意気込んで導入されたのが、今現在宮水さんが参加している研修制度という訳だ。

 リスクヘッジは徹底されていた。

 発注元のブランドにとっても、気心の知れた取引先が品質を上げてくれるならそれに越したことはないが、出来る限り損は避けたい。

 だから、この新人研修に協力する前提として、普段より安い依頼料と簡易金型で作れる簡素なデザインに限った。しかも、当面はハンドメイドによる少数販売に絞る。これらの条件をデザイナーに呑ませて、徹底的にコストを抑えている。

 出向してきた子達の商品が万一全く売れずとも、さしたる損は無い。

 

 とは言え松野は、ひよっこ販売員達に「貴方達の商品が売れなくても平気だから、気楽にやりなさい」などと気休めを口にする気は毛頭無い。

 販売員として店頭に立つ以上は、腑抜けた姿勢で構えられては困る。

 それに、デザイナー達当人としても、デビュー作の売れ行きが好調だったという箔をつけて元の事務所に凱旋出来るに越したことはないだろう。

 出向してきたデザイナー達が気もそぞろになるのは、熱意と真剣さの裏返し。配属されてから一ヶ月くらいはやる気が空回りして、お客様の目を凝視して尻込みさせてしまうのもしばしばだが、それもご愛敬だ。

 

 ただ、宮水を見ていると、店長は何か引っ掛かるものを感じた。

 彼女の場合、自ら手掛けた商品が売れて欲しくて焦れていた他の子達とはどこか違う。

 むしろ、他人に触れられるのを怖れているように見える。時折覗かせる迷子のような横顔は、突風が吹いたらそのままどこかへ攫われそうな儚さを孕んでいる。

 デザイナーは皆、強情に見えてその実、繊細な人が多い。人にとっては取るに足らない悩みでも、それが致命傷になりかねない。

 彼女はこの先、デザイナーとしてのプレッシャーや苦悩に耐え切れずに心が折れてしまうのではないかと不安になる。

 泣いても笑っても、宮水さんはあと二ヶ月で自分の手から離れていく。

 デザイナーに向いてないならいっそ辞めてしまえばどうか、などと無責任なことは言えない。

 

 宮水三葉。あの子はこの先、ちゃんとやって行けるのだろうか。

 

 

**********

 

 

 パタンと音がした。吸い寄せられるように音がした方にすっと手を伸ばす。

 掴んだ手がぐっしょりと濡れる感触がして、三葉ははっとした。

 まだ雨露が滴る傘のぐっしょりとした感触を確かめるように何度か握り締めて、ようやく状況を呑み込んだ。

 

「もう着いてたんだ」

 

 自宅の玄関先にとっくに戻っていて、玄関脇に立て掛け損ねた傘を拾ったのだ。

 はっきりと覚えているのは新宿駅のホームに着いた時まで。電車を待って手持ち無沙汰になり悶々と考え事を始めた辺りから今までの記憶が曖昧だ。

 濡れた傘の雨露を払い散らす作業も、水浸しのアパートの階段で滑らないように歩くのも、二ヶ月以上雨が続く今となっては習慣になっている。意識せずにこなせても不思議は無い。

 とは言っても、夜道に帰路につく独身女としては不用心が過ぎる。

 

「……何やってるんやろ、私」

 

 向かいのマンションの手摺壁の先を何となく見上げた。

このアパートよりもずっと高くて大きい周辺のマンション群と立ち並び、各階のベランダからは蛍光灯の光が滲んでいる。

 

 宮水神社の神楽殿の篝火とは似ても似つかない。

 満天の星空さえ地上では無力だと思い知らされる真っ暗な糸守町の夜。

 そこにあって一つ、宮水神社を構える山の方を見上げればぼうっと揺らめく炎が目に入った。あの灯りが見張りの光る眼のように思えて、疎ましさを感じることもあった。

 けれども、あの光を失った今になって痛感する。

 疎ましく感じようとも夜道を出歩く度に山を振り見ていたのは、篝火を見つけると安心したからだ。

 すっかり暗くなった時だって、見上げてあの唯一無二の温かな色の灯を探せば良かった。自分が今どこに居るのか、どっちに向かえば家に帰れるのか、はっきりと分かった。

 今はもう、あの灯はどこにも無い。

 ここから見えるのは、雨で滲んで余計に眩しく感じる無数の照明と、照らされて浮かび上がる沢山のベランダの輪郭だけ。どこもかしこも同じに見えて、目印にはなりそうにない。

 

 

 雨の日に自宅に戻ってからの三葉の行動は決まって同じだ。

 

 まずはバッグをマットの上に放って、手を洗い終えたらハンガーラックに向かう。

 そして上着を脱ぐよりも先に、髪を結っている組紐を解いてラックに吊るす。

 あとは組紐の真下の除湿器を点けて、組紐をタオルで両側から叩くように挟んで水気を取っていく。

 今日は雨足が強かった所為か、組紐が大分濡れた。乾かすにはいつもより多く時間がかかるだろう。

 

 時計を見ると、もう夜の十時半を過ぎていた。

 吊るした組紐をタオルでぽんぽんと軽く叩く単純作業は、仕事後の疲れた頭を麻痺させて視界は溶けるように曖昧になっていく。

 眠気を我慢しながら手を動かすうちに、三葉はぼんやりと物思いに耽っていた。

 

 組紐は、私にとってまさに人生を紡ぐ"結び"だった。

 そう思ってきたからこそ、こうして愛用の組紐を手入れしてきた。

 高校二年からの八年間、雨の日の手入れを欠かしたことは無い。

 

 御神体のカタワレ時をサヤちん達と見に行ったあの日。この組紐を握り締めて、

人々に"結び"をもたらすと決めたあの夜。ジュエリーデザイナーになるという決意を胸に、必死に猛勉強を始めた。

 目指したのは、東京藝術大学。国内唯一の国立美術大だ。

 受験倍率は十倍以上。現役合格者は全体の三割弱が当たり前で、四浪以上の

受験者だって珍しくない。ある意味で東大を上回る難関と評される。

 デザイナーを目指せて学費も控え目な大学が他にあったなら、妹の学費分のお金が十分にあったなら、わざわざこの大学を選ばなかっただろう。

 美大受験では高校二年の冬には美術予備校に入るのが常識とされる。四ヶ月分も出遅れただけに、やっぱり現役合格は叶わなかった。

 それでも、歯を食いしばって諦めなかった。不合格を通知された翌日には予備校費用を捻出するためのバイトを始めて、勉強を重ねて再挑戦に備えた。

 そんな努力は実を結び、翌年には何とか大学に合格出来た。

 

 一浪でどうにか乗り越えることが出来たのは、多分、お祖母ちゃんのお陰だ。

 幼い頃から続けた組台を使った組紐作りが、平面や立体構成のセンスを鍛えてくれた。

 "結び"が私を夢へと導いてくれたんだ。

 合格直後は、素直にそう喜んだものだった。

 

 

 首がかくんと傾いて、三葉は意識を取り戻した。

 うとうとしながらでポンポンと軽く叩き続けた組紐は、もうほとんど乾いている。

 手にしていたタオルを椅子の背もたれに掛けて、三葉は組紐を優しく撫でた。

 

『もう作り直した方が良いんやない?随分古くなってきてるじゃん。毎日着けてるとどんどん駄目になるし、そのうちケバケバだって目立ってくるよ?大事な物なら尚更新しいの作りない。その組紐は保管しといた方が良いやろ』

 

 四葉は顔を合わせる度に、口を酸っぱくして姉に忠告してきた。

 

 もっともな指摘だとは三葉も思う。

 茜色に染まっているから目立たないものの黄ばみで色ムラが出ていて、おまけに

何か所か毛羽立っている。これ以上の劣化を防ぐには、仕舞っておくのが一番だ。

 ただ、妹の指摘には間違っている部分がある。

 しっかりと手入れをするようになってから、この組紐の品質は保たれている。

 八年前には既に、この組紐はこんな状態だったのだ。

 

 それは、何年間もずっと伸ばしていた髪をばっさりと切って、もう髪を結う必要が無くなった後のことだった。

 組紐をよくよく見たら、三葉が見慣れた普段の状態と比べて明らかに変化していた。随分とボロボロになって縮んで変色さえしていた。その癖、頻繁に洗濯をしているみたいに清潔だった。

 まるで、手入れの方法はおろか組紐とは何なのかさえ知らない誰かが、マメに洗濯しつつミサンガみたいに肌身離さず身に着けていたかのように。

 この組紐の毛羽立ちを手で撫でる度に、幼い子供がぶきっちょながらも一生懸命に作ったプレゼントを受け取った時のような、温かくも切ない親愛の情が胸を満たしていく。

 それがただの思い込みで、組紐の急激な経年劣化はただの記憶違いしてるだけに違いないと分かっていても、この組紐を毎日髪留めとして使い続けている。

 今後もきっと、疎ましく感じるようになっても、それでも手放せはしないだろう。

 

 

 室内で唯一音を立てていた除湿器も鳴りやんで、三葉がまたもや立ったままうとうとし始めた。無音の室内で、バッグが小刻みなステップで踊り始めた。バッグの中のスマホの仕業だ。

 寝ぼけ眼をこすりながら三葉はバッグからスマホを取り出した。

 着信画面には事務所の先輩の名前が表示されている。

 

「はい、宮水です」

 

「おぅ三葉チャン。調子どう?何か浮かない声してんね。ごめんね、こんな時間に」

 

「そんなことないですよ。ちょっと眠くなっただけですから。久しぶりに声を聴けて元気を貰えた気がします。先輩こそ、最近は如何ですか?」

 

「いや~何とかね。ついさっき仕事を切り上げて、今はいつもんトコ。ほら、事務所の真向かいのお店。今生き返ってる真っ最中よ」

 

 スピーカーの向こうから何かが小さく当たる音がした。ビールジョッキとテーブルがぶつかった音だろう。

 

「先輩、また一人でお酒ですか?飲み過ぎは体に毒ですよ?」

 

 三葉が口をとがらせて意見すると、豪快な笑い声が耳に響いた。

 

「まあまあ、リラックス出来る心の洗濯だから大目に見なさいって。それにねぇ、私らデザイナーは座ってる時間が長いんだから。こうやってアルコールで血の巡りを良くして健康に備えてんのよ。これが私のエコノミークラス症候群対策よ」

 

 おじさん染みた無茶苦茶な冗談の後でゴクゴクと喉を鳴らして飲み続ける元気な連続音が伝わって、三葉は思わず吹き出してしまった。

 

「で、それはそうと」

先輩の声のスイッチを切り替わった。

「こんな時間に電話しといて聞くのは変だけど、やっぱ声にハリが無いよ?本当に眠いだけ?ちゃんと眠れてる?」

 

 明け透けで面倒見が良いこの先輩に、入社してからこの研修が始まる前の一年と少しの間、三葉は世話になっていた。

 そこそこに長く付き合って着たから、先輩の思惑を三葉はもう察している。

 声からして、気紛れに絡み酒で電話してくるほど酔ってはいない。第一、この人は職場では話し好きの割に、お酒が一度入ると静かにしっとり飲みたがって口数が一気に減るタイプだ。

 三葉が任された仕事が終わりそうにないと、一緒に残業してやり方を丁寧に指導しながら手伝ってくれる人だった。

 三葉が丁度帰宅する時間を見計らって、様子伺いの電話をくれたのだろう。

 

「ええ。ずっと立ちっ放しの仕事は思った以上に疲れますね。でも、二週間も経ったからか流石に少し慣れて着ました」

 

「肉体労働だもんね。私がやった時も最初のうちは腿パンパンになって参ったわよ。流石に店先でジュエリー売ってる最中にストレッチ始める訳にはいかないしね」

からからと笑った先輩は一呼吸置いて、

「でも、そんな研修に今年は全員参加したからちょっと意外だったわね」

幾らか神妙なトーンで話題を変えた。

「新人研修が終わっていよいよデザイナーデビュー!……ってタイミングで、ガチで畑違いの仕事へ出向。研修目的で数ヶ月つっても、なかなかにふざけた打診じゃん?お給料とか雇用条件は勿論変わるしさ。そんなだから、断る子も毎年結構居たのよ?」

 

「部長から、任意だってことも受けた後のメリットについても、ちゃんと説明して頂きましたからね。それに、先輩の活躍ぶりを傍で見てれば誰だってOKしますよ」

 

「あら、そんな嬉しいこと言ってくれても、何も出ないよ?三葉ちゃん」

電話越しでも変わらず屈託なく笑う。

「けどまぁ確かに、あの研修やってなかったら、社内ニートになってた時期は私にも間違いなくあったわね。出向に応じないと、通例通りに二年間は先輩の補佐と雑務の下働きで大忙しになるのはダルいしね~。……って、貴方達にその下働きやらせてた私が言えた義理じゃないか」

 

「いえ、下積みも大事な経験ですから。それに私の補佐の分なんて消し飛ぶくらい出向用の商品製作のサポートでご迷惑おかけしてしまって。本当に感謝してます」

 

 山のような仕事を抱えて新人の手伝いまでするのは相当な負担だ。三葉が退社する時間には大抵いつも、先輩は自分の分の仕事を片付けていた。午前様か、下手すれば徹夜になった回数も片手では収まらなかった筈だ。

 

「良いのよ。それこそ会社が決めたコトだし、むしろこっちも行き詰ってた時に丁度良い気晴らしになったわよ」

 

 当人は事も無げに言うと、「アンタほんとマジメね」と付け足した。

 

 

 先輩の言う通り、三葉達新入社員が今参加中の研修を兼ねた出向に応じるかは、個々の意志に委ねられていた。

 この研修制度の初回は新入社員全員が強制参加だった。期間も今よりも長かったらしい。それで新人達の中から、嫌気が差して辞表を叩きつける者達が少なからず現れて、翌年から修正を余儀なくされたそうだ。

 こういった経緯で参加するかは任意になったにも拘わらず、今では研修に応じる

新人は多い。

 何と言っても、色々と制約はあれど普通の依頼では考えられない自由度で、自ら練り上げたデザインや製作プランを顧客に提案出来るからだ。低価格モデルに限定されていようと、手の空いた先輩デザイナーが積極的にサポートしてくれる環境もまた破格だ。

 かつては強要された長い下積み期間をパスしつつ、一年目から早々に自分がデザインした商品を世に出せて、実績まで積める。おまけに、先輩のように出向先のブランドに気に入られて、出向から戻った後も直接指名してくれるようになる前例は幾つもあった。

 創作意欲が燃え滾る野心的な新人にとっては渡りに船だ。

 

「でもねぇ、何ヶ月か前にも言った気もするけど、この研修でデザインした商品があんま売れなかったとしても、思い詰めるんじゃないわよ。

 アンタが行ってる店舗以外では売れてるかも知れないし、何より、人事のオヤジが酔い潰れた時に白状してたの、アンタも聞いてたでしょ?」

 

「はい。この研修では評価項目としては売上を重視してないって話でしたよね。人事部があんな話して大丈夫なのかなって、ちょっとびっくりしました」

 

 先輩がお替りの酒を頼む声が微かに聞こえる中、出向する直前の新人研修修了の打ち上げで酔った人事部課員が愚痴混じりに漏らした話を、三葉は思い出していた。

 三葉達の事務所にとっての主目的は、デザイナー当人に顧客の目線や感性を肌で感じさせて刺激を受けて貰うことだそうだ。

 当人がデザインして取引先に卸した商品の売上自体は二の次。もしも碌に売れなくとも、悔しさをバネに頑張ってくれれば重畳。むしろ、美大や専門学校で優秀な成績を修めて天狗になってる新人の鼻っ柱をへし折る意図すらあるらしい。

 だから、売れなくても被害が小さく済むように事務所側は配慮していて、取引先にも了承を得ていると三葉達は聞いた。新人デザイナー達に任されるのは少数限定生産のプチプラアクセサリーに限られ、金型や材質もその条件に見合うように上司達が査定するのもその為だ。

 この出向を伴う研修は事務所と顧客双方にとって、良く言えば先行投資で、悪く言ってしまえば駄目で元々ということだ。

 

「酒に呑まれた駄目人間の見本だったけど大目に見てあげなさいね。あのおっさんも新人教育をどうやっていくか、アレでかなり悩んでんのよ」と先輩は言った。

「事情を漏らして、出向した子が『自分は端から猿回しの猿だったんだ』だなんてショック受けたり、お世話になってる出向先でサボり始めちゃ困るわよ?

 でもね、美大の講評で教授のサンドバッグにされる以上に、お客さんのシンプルな酷評は胃と脳味噌に響くこともあるから」

 

「自分の作った商品がずっと売れなかったり面と向かって貶されたりで、ストレスと不安で精神的に参っちゃった先輩も何人かいらした……聞いた事はあります」

三葉は自然と、実感を込めて呟いていた。

 

 すると、さっきまで相槌を打つなり、とにかく賑やかだった先輩が急に黙って、

「……あのさ三葉、アンタ、本当に研修がキツて仕方ないって思ったら、中断して戻りたいって願い出ても良いんだからね」と言った。

「元々任意なんだし、こっちも人手不足でさっさと戻ってやって貰いたい業務は幾らでもあんだから。実際にそうやって研修を中断した子も居るけど、変なペナルティも無く今では一端のデザイナーやってるしね」

普段の先輩の様子には似合わない神妙な気配がスピーカーから染み出してきた。

 

「私なら大丈夫ですよ、先輩。これでも神経は図太い方ですよ?」

三葉は努力を払って、どうにか軽い口調で言った。

 

「私もね、三葉が特別神経の細い方だとは思ってないわよ」

努力の甲斐は無く、先輩は受け流すような軽い相槌を打つと、

「けどさぁ、アンタにとってあの指輪、かなり特別でしょう?」と言った。

 

 思わずスマホを取り落としそうになって、三葉は慌てて強く握り直した。

 

「何をおっしゃってるのかさっぱり。確かにあれはデビュー作だから特別って言えなくはないですけど、そこまで大したものじゃないですよ」

 

 三葉はおどけた笑い声を作って、先輩の問いを振り払おうとした。

 自分でも作ってるのが丸わかりの乾いた音が喉から耳小骨へと響く。

 

「私、これでもそこそこに経験積んだ中堅社員よ?デビュー作ってだけじゃないのは分かるわよ。デザイン起案からサンプル製作まで隣で見てたんだから。

 ……何て言うかね、あの指輪を作ってる時のアンタさ、人生賭けてるってか、願掛けしてるみたいだった。どれほどのどんな想いを込めたのかなんて詮索する気は無いけどね」

 

 先輩はきっぱりと、三葉のその場凌ぎの嘘を切って捨てた。

 三葉はまた言葉を紡ごうとした。気の所為だ。あの指輪に別に大した意味は無い。とかいったことを。

 けれど、乾ききった口に大きなガラス玉を含んだみたく舌が回らなかった。

 

「余計なお世話かも知れないけど、あんたのデザイナー人生はこっからなんだから。一球入魂なんてのがデザイナーとしても理想形だろうけど、私らは甲子園球児でも漫画の熱血主人公でもないからねぇ」

またグビッと喉を鳴らした後で、先輩は更に続けた。

「一作目に注力し過ぎて燃え尽きたり気に病んだりしちゃダメよ。クソマジメなアンタなら、適度な力の抜き方見つけるつもりで研修こなすくらいが丁度良いわよ」

 

 強まっている語気以上に、心配がスピーカーから漂ってきてじんじん響く。

日に二度も同じ助言をされていながら、上手い返しが思いつかない。

 ご心配をおかけしてすみません。お休みなさい。お疲れさまです。ありきたりな挨拶を強引に捻り出して、三葉は通話を切った。

 

 

 三葉は長く溜息をついた。今日何度目の溜息かは数えるのも億劫だ。

 

 同期の新人デザイナー達と同様に、三葉も今回研修には率先して参加した。

 ただ、参加の動機は彼らとは違う。

 勿論、キャリア形成にだって興味はある。ただ、三葉にとってそれはあくまでおまけだ。

 

 スマホを置いて立ち上がると、棚の引き出しを開けて箱を手に取って、デビュー作である指輪のサンプル品を取り出した。

 自分で好きにデザインした作品を世に出せる。

 その謳い文句を耳にした時、三葉には、瞼の裏に焼き付いて離れない故郷の山頂の夕映えが見えていた。

 

 カタワレ時を迎える寸前の夕映え。

 自分の中から失われた大切な何かに繋がるあの光景を、今の自分が作れる最高のアクセサリーとして生まれ変わらせよう。

 出向の打診に首を縦に振ったその瞬間から、何日も何日もデザインとサンプルの製作にのめり込んだ。社内のデスクで夜を明かしたことも何度もあったし、途中で意識が途絶えて床で気絶して、寝不足の三葉よりも青ざめた先輩社員に起こされたことだってあった。

 そうやって、とうとう出来上がったのがこの指輪だ。

 

 夜の帳を優しく押し留める橙色の夕日を、黄色のスロバキアクリスタルに準えた。

 白銀と見紛う煌きを湛える糸守湖を、真鍮のリングで再現した。

 足元の岩場から下は雲以外見えない山頂に立って感じた、風を切って空を飛んでいるかのような浮遊感を、大きな翼の意匠に託した。

 黄昏に包まれる大自然を、一つのアクセサリーに封じ込めた。

 完成品を見た時には納得行く指輪の仕上がりに心から満足したものだった。

 

 でも、三葉は最近、どうしても考えてしまう。

 

 このアクセサリーを生み出した――あの夕映えをアクセサリーにした――こと。

ひいては、自分がジュエリーデザイナーになるという人生の選択。

 何もかもが間違いで、私は取返しのつかない失敗を犯したのではないか。

 もしかして、そのことにずっと前から気付いていながら目を背けたかったからこそ、製作に没頭することで忘れようとしてきたんじゃないか。

 

 

***********

 

 

「あー!ミツハちゃん、おはよー!」

 

「おはようございます」

 

 三葉はこの職場の先輩である高島に挨拶した。

 年齢は三葉より六つ下、最年少の女子大生だ。けれども、先輩販売員として仕事を教えて貰っている手前、三葉は敬語で接してきた。先輩と呼ぶと、照れと誇らしさが混じったはにかみ笑いを向けてくるのが可愛らしくて、わざとそう呼んでしまうのも理由の一つではある。

 

「何か浮かない顔してない?あっ、ミツハちゃんもキョクチョーに叱られた?」

 

「ええ、まぁ。でも私のミスが原因ですから」

 

「私もさぁ、ミツハちゃんばっかに掃除押し付けんなって昨日こってりやられてー。まー確かに今まで任せきりだったもんね。ごめんね」

 

 高島は軽く拝むようなポーズでウィンクをすると、「さぁ、切り替えて行こう」と

気合を入れて準備を再開し始めた。

 

 キョクチョーとは、高島が松野店長につけた綽名だ。

 松野店長が今の役職に抜擢されたばかりの頃は、店舗スタッフとの間に軋轢が生じてお局様だ何だと揶揄される時期があって、丁度高島が採用されたのと同時期だったそうだ。

「この漢字、キョクでしょ?何で皆して間違えてんの?えっ、この字、ツボネって読むモンなの?マジ?……何かピンと来ない。もうキョクチョーで良いっしょ」

 そんなことを彼女が言い出して、その呼び方を実践し始めたらしい。

 やがて、この綽名が浸透して皆が冗談めかして口にするうちに、松野店長に対する不平不満にワンクッション置いてガス抜きする効果を発揮し始めて、徐々に店舗が円滑に回るようになったという話だ。

あっけらかんとしてあけすけで、アクセサリーは大好きな高島が、ムードメーカー兼緩衝材になってくれるお陰で日々助かっている。三葉の歓迎会で吐露する松野がどこか誇らしげだったのは印象的だった。

 

 当の高島は、演奏の初心者が木琴か太鼓を奏でるようにカウンターやディスプレイをハタキで掃除していく。

はっきり言えば大雑把な手並みなのにどことなく愛嬌を感じてしまうのは、彼女が毎日働くのを楽しんでいるからだろう。

 晴れ晴れとした高島が羨ましく感じる自分が惨めに思えてきて、三葉は視線を逸らして目のやり場を探した。

 当然ながら、飽きる程に見慣れたルミネのフロアが視界に広がる。

 

 かつての三葉にとって、ここは夢と魔法の地だった。

 洗練されたクロスやタイルで誂えられた店舗や、洒落たデザインの照明で明るく照らされ輝く通路。昼間でも宵の口でもお祭りみたいに沢山の人が行き交うのに、不思議と騒がしくはなくて、お洒落で落ち着いた音楽が控え目に耳に届く。心地良い賑やかさが保たれた空間だった。

 上京したばかりの頃の三葉には、ここは輝きで満ちて見えた。

川の飛び石を渡るように色違いのタイルの模様をなぞって踏んで、ずらりと並ぶ洋服やアクセサリーを手に取って見ながら、店舗を次から次へとぐるぐる巡る。

 かつてはよく思ったものだった。

 まるでお城のダンスホールに踏み込んだおとぎ話の主人公になった気分。もしここで働けるなら、まさに夢の職場になるだろう。

 

 それが、今ではどうだ。

 営業時間中はサウンドマスキングで騒音を封じ込めるフロアには、開店準備に勤しむ他店のスタッフや業者の掛け声が雑多に駆け巡る。

 タイルのデザインの基調が変わる境界が目立たないように、配色を工夫している努力の跡がよく分かる。分かるけれども、フロアの継ぎ目や光沢が存在感を放つシャッターの枠、店舗の隅に見えるがさつな打ちっぱなしのコンクリートが、どう抗っても視界に割り込んでくる。

 テーマパークのファンシーな園内を歩いていて、デザインコンセプトが違うエリアの境界線周辺で、融和し切れない建物やオブジェ同士のちぐはぐさに気付いてしまった時。ショーで愛らしく踊るのは妖精でなくて、着ぐるみを着た人間だと意識してしまった時。

 ああいう冷やかな感覚が足首を掴んで徐々に這い上がって、背中と肩にのしかかるようになったのは、いつ頃からだっただろう。

 

 三葉は、きっちり結った髪が乱れそうなくらいに勢いよく首をブンブンと振った。

 そうやっても暗澹たる思いは全く和らぐことはなく、頭の中で存在感がより増していく。

 

 この職場に限ったことじゃない。

 私の人生はずっと、こんな感じだ。

 母が他界してからは、世界はどんよりと暗く息苦しくなった。

 彗星が糸守に落ちてからは、感動が胸に芽生える度に、根腐れするように色褪せていった。

 

 あの災害から八年経った。

 八年もだ。

 それだけの時間があれば色んなことが起こる。

 美大の受験に合格した後は、それまでの人生で想像すらしなかった個性的な同世代の子達に出会った。

遊園地やカラオケにショッピングモール、美術館、同期の皆と色んな所に行った。

 撮り過ぎるくらいに撮った写真はどれも惜しくて消せない。カラオケで初めて歌った一曲に出くわすと、緊張しながらマイクを構えたあの一時を思い出して、ついつい頬が緩む。

 彼らの作品に憧れ、時に才能に嫉妬し励まし合った。自分では及びもつかない鬼才がスランプに陥った末に退学した時は、残念さと安堵感が混じった複雑な気持ちに翻弄されて、自己嫌悪に苛まれたこともあった。

 赤の他人は、誰もが経験するありふれた出来事だと吐き捨てる知れない。

千年に一度の彗星落下や、その大災害から生き延びた奇跡に比べれば、物珍しくないのは事実ではあるだろう。

 とは言え、それは余計なお世話というもの。

 受験に苦しみ、大学の課題とバイトの両立で悩み、就職後の研修に翻弄された日々。その全てが、宮水三葉という人間を形作ってきた大切な一部だ。

 

 ――こんな気持ちになったことは今までにあっただろうか。

 ――嬉しさ、悔しさ、悲しさを誰かに伝えて分かち合いたい。

 

 今まで、何度もそう思ってきた。

 その想いを強く意識すればするほどに、記憶にぽっかりと空いたあの穴から、じめじめした囁きが這い寄って来る。

 

 ――自分の胸の最も深いところに刻まれた、カタワレ時の最中の想い出。

 それが今も欠けたままだ。

 ――真っ先に思いの丈を打ち明けて分かち合いたい人が、どこかに居る気がする。

 なのに、居場所はおろか、顔さえも分からない。

 

 囁きはこだまになって身体の中で反響し続ける。土砂降りの中で割れたガラス窓から雨風が吹き込むように、胸をみるみるうちに侵していく。

 そうして、何もかもが台無しになる。

 日々を彩る出逢いや体験が贈る感激は、受け取った途端に水を差されて薄まってしまう。

 いつしか三葉はそんな風に考えて、三葉の意識をあの記憶の欠落の穴へと誘う思い出の山頂の夕映えに対して、恨めしさに近い感情さえ抱くようになっていた。

 今では、燃えるように美しい夕暮れをどんよりと覆って空を濁らせる、あの分厚い雨雲の存在をありがたいと思う時もある。

 

 

 三葉は両方の頬をピシャリと叩いた。

 これから仕事が始まる。憂鬱さがかさを増す一方だろうと、溺れてはいられない。

 

「高島先輩、やっぱり私も掃除手伝いますよ」

三葉は大声で呼び掛けた。

 

「えっマジ!?助かるわー!」手を合わせて喜んだ高島だったが、すぐさま

「あーでも、キョクチョーにちゃんと掃除しろって言われっからねー。ありがたくキモチだけってとこで」と言った。

 

「一人でやるなとは言われました。でも、何も手伝うなとは言われてませんから」

 

 三葉がそう言って雑巾を手に取ると、高島は悪戯っぽい笑みで親指を立てながら水の入ったバケツを差し出した。力いっぱい雑巾を絞って、ゴシゴシと塗装が剥げそうな勢いでカウンターを拭き始めた。

 

 

 

 

 

 

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