黄昏の向こう   作:テービット

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6話 黄昏に込めるもの

 

 夕方に差し掛かっても、ルミネの全フロアで盛況さは衰えを見せない。

 三葉がカウンター脇で控えるこの店舗にも、客が次々立ち寄って眺めては去っていった。

 今もまた、新たな女性客が立ち止まり、店頭のディスプレイを眺めている。

 三葉も気付いてはいるが、店員の方からすぐに声を掛けはしない。店員が早々に寄っていってもお客さんにとっては疎ましいだけだ。

 

 その女性客は腰に当てる片腕の肘を誇示するようにピンと突き立てている。最初に目にした時は、肘の肌の白さから彫像が動いているのかと錯覚しかけた。

 女性客が肩に掛けている派手めのブランド物のバッグが、持ち主の前では霞んで見えた。まるで豊満な女王蜂だ。控え目なフリルと紺色のタイトスカートが隠れ蓑になることで、横顔からも勝気さが溢れる美貌とメリハリのある体型を、辛うじて周囲に溶け込ませていた。

 

「ちょっと、店員さん」

 

 その女性客が、ワゴン上の二つ――三葉がデザインした指輪とその隣のものを交互に指差して尋ねてきた。

 

「あのさ、これとこれとか、セットならもっと安くなったりしない?」

 

 同性の三葉から見ても、少し胸元の開いたVネックの白いブラウスから甘い芳香が匂い立ってくる気がする。

 

「申し訳ございませんが、当店では提示価格からの値下げは出来かねますので、この価格でお求め頂ければと」

 

 目が眩むほど垢抜けた女性が自分の指輪を指差したことで思わず物怖じしかけながらも、どうにか緊張を隠して努めて丁寧に三葉は答えた。

 

 女性客は隠し持つ針か角をにゅっと絞り出そうとするように綺麗な眉間に深い皺を寄せて顔をしかめた。

 三葉が竦み上がりそうな心臓を宥めすかしながら、女性客の口が開くのを身構えて待っていると、

 

「ん?何だ、こんな安モン買うんで良いのか?」

女性客の背後から男性の低い声がした。

「まあ、気に入ったモンがあるなら、俺は何でも良いけど」

 

 女性客はファッション誌顔負けの見本のような笑みを一瞬で拵えて、空気中に漂う埃や塵を追い払うように三葉と指輪からさっと背を向けた。

 

「えー?やだーうっそ冗談。ちょっと見てただけ。次のショップ、行きましょ。寄りたいとこはまだまだあるんだから」

 

「いや、今日はこれで止めとこう」と男性は腕時計を見ながら言った。

「もうレストランに行かないと。ここから真直ぐ行って丁度予約時間だからよ」

 

「えー、でもでも、ディナーの後だと私の出勤時間に間に合わないでしょー?ウチって遅刻にメッチャうるさいんだから困るよー」

 

「また次の同伴でちゃんと買ってやるから。ここは我慢してくれな」

 

 女性客は男性の腕にしがみ付き、二人は人混みの中に紛れて行った。

 

 三葉はきゅっと唇を噛み締めた。

 ちらりと後ろを見ると、カウンター内で高島は口をヘの字に曲げて首を軽く振り「気にするな」と慰めを送ってくれている。

 今週はこれで三度目。人が増える夏休みはああいうお客さんも増えるようだ。

 とは言え、あの女性客は何も悪くない。当然の反応だ。

 

 人気モデルがプライベートでプチプラのジュエリーやアクセサリーを着こなす様子がSNSで話題になり、紹介された商品の人気に火が点く。珍しい出来事ではない。

 ただし、それは当のデザイナーにとって喜ばしい現象とは限らない。単純にデザインの良さが認められることはあるけれど、それ以外の場合も多いからだ。

 手頃な割に高級感があったり、大人びた雰囲気のあるデザインだからか。はたまた安っぽく見えがちな商品を魅力的に着こなすモデルへの称賛か。

 いずれにせよ「プチプラなのに凄い」という、軽んじられがちな位置付けの裏返しであることも少なくない。

 普段使いならともかく、誰かに買って貰う時には選択肢に入らないのは当然だ。よほど親しい友人でもない限り、プチプラアクセサリーの愛用者だと知られるのが恥ずかしいと思う女性さえ居る。

 

 何より、キャバクラ勤めのような水商売に身を置いているらしい彼女にとって、同伴出勤も装飾品の厳選も仕事のうち。

 職場に出た時に限らず、普段から身に着けていると他人に認識させる装飾品。顧客の男性に買って貰う贈り物。それらの質は彼女達の格の証でもある。

 プライベートではプチプラを愛好していようとも、同伴する仲になった太客に安物を好むと知られれば、今後の営業と沽券に関わる恐れはあるだろう。

 にも拘わらず、素の彼女興味を持ってくれていたことは間違いないし、同伴中でなければ普段使い用として買ってくれたかも知れない。

 

 興味を持ってくれただけも収穫はあった。そう思うべきなんだ。

 三葉は自分にそう言い聞かせて、理屈で呑み込もうとした。

 呑み込もうとして、苦いものが喉に引っ掛かった。周りの空気が薄くなっていく気がしてしょうがない。

 この指輪を哂われる度、白蟻が巣食った柱みたいに、心が少しずつスカスカになっていくのを感じる。

 

 三葉はおそるおそる自分の指輪を盗み見た。

 やっぱり、私は間違った道を選んでしまったのかも知れない。

 誰かと誰かの結びを取り持って、幸せにしてあげられる人間になりたい。

 そう誓いを立てて、目標にしていた筈だった。

 でも、打ち立てた目標に対して、余りにも的外れな場所に行き着いてしまった。

 

 ジュエリーとアクセサリー。この二つは同じようで違う。

 平たく言えば、ジュエリーは貴金属と宝石――相応の高価な材料で作られた物だ。

 物性的な制約の多い金属や宝石を扱うから、製作技能士や宝石鑑定師と言った資格を取得していないデザイナーが描けるのは、設計図とは名ばかりの画餅だけ。

 世間一般のお金のかけ方は、とことん贅沢するかなるべく安く済ませるかの徹底した二極化が進行中。そのテの話はこの業界も例外じゃない。

 結婚や婚約指輪のような祝辞用ジュエリーは、お金をかけたオーダーメイドが主流になりつつある。デザイナーが気の赴くままにジュエリーをデザインしプロデュースして商品を世に出す。それは、よほど高名な一流の人材にだけ許される贅沢だ。

 一方、アクセサリーは材料を問わない。資格の必要性も素材の制約も無く比較的自由にデザインが出来るメリットがある。

 ただし、安物と言うレッテルをどうしても貼られる。

 ただでさえジュエリーを他人に贈る機会が昔より随分と減った。

 大切な人――娘や妻、恋人――への贈り品として、プチプラアクセサリーに白羽の矢が立つことは、奇跡に近いだろう。

 

 今回の研修は、思うままのアクセサリーを作って、それを有名ブランドの商品としてより多くの人のお披露目出来る。

 デザインもプロデュースも思いのままの、極一握りの一流に仲間入りが叶う才能と運がある。そんな自信を抱ける楽天家になれない三葉にとって、この研修は二度と巡り会えない千載一遇のチャンスだと思えた。

 だが、作るのはプチプラアクセサリーだ。しかも、よりにもよってまだまだ未熟な今の自分が手掛ける。

 手にした人に末永く慈しんで貰える、”結び”を実現する装飾品の創造を命題とする上では、逆立ちしても褒められた条件ではない。

 そんなアクセサリーの題材として、あの隠し本尊の夕映えを選んでしまった。

 それは何故か。

 理由を自覚してしまってからというもの、三葉は暗澹たる思いに沈んで、達成感や充実感は胸中にぽっかりと広がる仄暗い沼の底へと消えてしまった。

 

 

 かつての三葉にとって、隠し本尊の夕映えは、インクが滲んで判別不能になった宝の地図だった。

 それが今では、解体されてほぼ更地になった豪邸跡に唯一遺され佇む豪奢な玄関扉のようでもあり、深々と刺さった棘でもある、と思い始めていた。

 

 彗星が落ちる最中のカタワレ時に、人生を賭す価値のある何かを得て、失った。

 この八年間で思い出せたのは、その直前の黄昏に染まる景色まで。優美な絶景の先について思い出そうとしても、その試みはいつも徒労に終わった。

 失くした大切な何かへの愛着と未練。

感傷に苛まれ続けることへの疎ましさ。

大切な記憶を疎ましいと感じてしまうことによる自己嫌悪。

 複雑極まる感情が混ざりよじれて固まり、棘はより太く大きな楔へと成長して、心をもっと強く痛めつける。完全に悪循環だ。

 この棘が刺さったままでは、心は引き攣り身体の自由を奪われ続けて、満足に表情を作ることさえままならない。

 

 もしも、心の棘をごっそり抜いて捨て去れたら――夕映えの記憶ごと何もかも、思い出せない大切な何かが在ったことさえ綺麗さっぱり忘れることが出来たなら、じりじりと焼かれるような痛苦から逃れられるだろうか。

 ……無理な相談だ。深々と食い込んだ棘を抜き去れば、心にこそぎ取られて二度と元には戻らない歪で大きな空洞が新たに残る。

 テッシーやサヤちんとの避難計画の時の二の舞だ。

私が忘れることで、大切だった何事かを存在しなかったこととしてこの世から消し去り、止めを刺してしまった。何が何だか分からないままに、当事者であることすら放棄した。

 そういう、漠然とした罪悪感と後悔に苛まれ続けるだろう。

 

 誰か親身になって話を聞いてくれる人に打ち明けて、想いや記憶の残滓を分かち合って懊悩を和らげることも不可能だ。

 出会ったことも無い何か――誰か――について真剣に思い煩っているだなんて、理解してもらうのを期待するのは無理な相談だ。

 

 でも――それなら。

 あの夕映えの光景を他の誰かが私の分まで慈しんでくれるような、そんなアクセサリーとして象ってはどうだろうか。

 常に身に着けた私の指輪――あの夕映えの結晶――に情愛や懊悩を向ける人が増える。同じものに強い想いを寄せる人が他に居れば、少しでも負担を分けることが出来て、慰めになるのではないか。

あの光景について私が何かにつけ思い煩わうことが無くなっても、どこかの誰かが引き継いで、あの景色を忘れずにいてくれる。

 そうやって、独り抱え込む苦しみを少しずつでも和らげてければ、あの夕映えについて他人事のように思いを馳せられる環境が整っていって、感傷を風化させることが出来るかも知れない。

 突き刺さった棘は少しずつ別の物に置き換わっていって、カタワレ時に向けて空が移ろう様子だって、心安らかに眺めていられるようになるかも知れない。

 

 もう良い。もう疲れた。

 ジュエリーだろうがアクセサリーだろうが構わない。

 とにかく一刻も早く形にして、少しずつでもこの苦しみを手放してしまえ――

 こういう考えが頭に無かった、なんて言ったら嘘になる。

 

 往来の人々の朗らかに談笑しながら過ぎ行く中、三葉は一人立ち尽くしていた。

 

 この指輪は、私の未練と感傷の塊だ。

 真っ新なアクセサリーとして、石とメッキで体裁を取り繕っただけ。

 持て余したペットを「今でも愛してる」だとか嘯きながら赤の他人に押し付ける。そういう身勝手な振る舞いと大した違いがあるだろうか。

 デザイナーになって"結び"の祝福を生涯かけて手掛けていくつもりだった。

 それがいざ、デザイナーになってまず最初に手を染めたのは、プチプラアクセサリーと呼ぶのもおこがましい、正真正銘の下心塗れのイミテーションだ。

 こんなもの、お客さんに鼻で哂われても当たり前じゃない。

 

 

 鼻の奥がつんとして、咄嗟に目をぎゅっと瞑って天井を仰いだ。

 口の中が苦いものがどんどん満ちている。

 今、目か口を開いてしまったら、溢れる感情が堰を切って止まらなくなりそうだ。仕事中にトイレに駆け込む訳にもいかない。

 

 何度も深呼吸して、やっと落ち着きを取り戻した。

 三葉が目を開けたその時、ぼやけた視界の中で黒いお化けのような影が揺らいだ。

 もう一度目をぱちぱちさせて、視界の霞を少しずつ取り払うと、影は形を整え始めた。

 影じゃなくて、黒いTシャツを着た少年だ。

 

 少年は、垢抜けた女性やカップルが行き交うこの場所では、明らかに浮いていた。

 揺らぐように見えたのは、彼が時折見せる不安げにきょときょと周りを見回す仕草が原因だろう。レジャーを愉しむどころか、まるで登山道から外れた遭難者だ。

 日焼けがようやく抜けてきたような淡い小麦色の肌と黒いTシャツ。顔立ちは整ってはいても精悍さはなく、ちょっと抜けてそうな愛嬌がある。

 少年に失礼かと思いながらも、店から店へと渡り歩く彼を見つめる三葉の頭に過ったのは、狸だった。

 

 あれは大学時代のこと、講義の一環で多摩美術大学に行った帰りだった。

 少し足を伸ばして寄ったアウトレットモールで、狸を見かけたことがあった。

 大きさが違う数匹が連れ立っていたから、多分親子だったのだろう。

 西側で緑が残る多摩地方とはいえ、限界集落手前の田舎の典型例だった糸守では良く見かけた山の動物に、西の外れとは言え大都会の東京で遭遇した。

 三葉にとって衝撃的な出来事だった。

 行き交う人々を警戒しながら、日が翳ったプロヴァンス風のリゾート感が漂う建物の隙間を縫うように駆け抜ける。痩せ細ったその躰からは、想像もつかないスピードだった。

 狸達に気付いた客達の中には、驚いて悲鳴を上げた人も居た。

 三葉はと言えば、胸を打たれて立ち尽くしていた。

 先祖代々、ずっと昔から住んでいた山岳地である多摩地区は変わり果てて、彼らにとって生きにくい環境になって久しい。

 それでも、彼らはこの地で奮闘してきたのだ。みすぼらしくも懸命な姿が、その生き様を雄弁に物語っていた。

 狸達はあっという間に暗い物陰へするりと潜り込んで隠れてしまった。

 三葉はその姿にすっかり見とれてしまって、日が完全に落ちてその物陰がすっかり夜闇に溶け込んだ後も、飽きもせずに凝視し続けた。

 

 三葉は今一度、数メートル離れた店舗のディスプレイの前でしゃがみ込む少年を見遣る。

 このフロアでは冷房が効き過ぎて寒いとクレームを入れるお客さんも居るのに、少年はサウナで我慢比べの真っ最中みたいな顔で、陳列されたアクセサリーと睨めっこしている。

 

 三葉は今でも時折考える。

 大学生だったあの頃の私には、何匹もの狸を飼える経済力は無かった。

 第一、野生として生きるあの子達も、人間に飼われることを望まなかっただろう。

 それでも、私はあの子達に何かしてあげたかった。

 

 少年はいよいよ三葉の近くまでやってきた。

 迷いを顔にありありと浮かべる少年に対して、三葉はたまらず声をかけた。

 

「いらっしゃいませ。お探しの商品があればお申し付け下さい」

 

「えっ!あの……その……」彼はまた不安げに周りを見回して、おずおずと答えた。

「その、プレゼントを探してまして。えっと……十八歳の女性に相応しいアクセサリーって、どんなの……なんでしょう」

 

「ご希望の条件はございますか?」

 

「すみません。条件って言っても全然分かんなくて。例えば、どういうことですか?」

 

「そうですね……例えば、プレゼントする方のご職業やお好みの色、普段は着用されてないアクセサリーの種類等でしょうか。それと、よろしければお客様の予算額を伺えれば、金額ベースでお勧めすることも出来ますよ」

 

「好みの色、ですか。何だろうな……すみません、ぱっと出て来なくて」

 

 少年は視線を泳がせて、フロアの壁の遥か向こうを見遣る目で詫びた。

 三葉に対して申し訳なく思っていると言うよりも、プレゼントを贈りたい女性について知らないことがある。その事実に、悔しさと不甲斐なさを感じているように見えた。

 

「でも、予算額は四千円を超えないように考えてます。俺――あ、僕の月きゅ――

えっと、小遣いが少ないんで」

 

「それでしたら、こちらの商品は如何でしょう」

 

 三葉は聞いた予算枠で収まる商品を収めたワゴンへと少年を促した。

 すると少年は、真っ先に三葉がデザインした指輪を最初に手に取って、しげしげと眺め始めた。

 三葉の心臓が跳ねた。でも、不思議と焦りや不快さは感じなかった。他の客さんがこの指輪を手に取った時は不安や躊躇が拭えなかったのに。今は何故か、純粋に心が躍る。

 

「そちらの指輪になさいますか?」

 

「……やっぱり、違うのにします」  

 

 少年は、丁寧な手付きで指輪を元の場所に戻した。

 やっぱり、予想通りだ。

 この指輪の値段は、ケース代三百円を付けると三千七百円。税込みなら四千七十円になる。彼は包装やケースもちゃんとした物を望むだろうから、予算額を超える。

 買って貰えないにしても、自分の指輪に対して彼が浮かべてくれる名残惜しそうな表情から元気を貰えた。

 この少年が満足行くまで、しっかり選ばせてあげたい。

 

「ネックレスは……やっぱ違うな」

頭をポリポリかきながら少年は言った。

「もうチョーカー着けてるんですけど、それを本当に大事にしてるんで。ネックレスを渡すと気を遣わせてむしろ迷惑かな」

 

「では、イヤリングは如何でしょう?」

 

「イヤリング……どうなんだろ。あの人、前やってた飲食店のバイトとかをまた再開するかも知れなくて。イヤリングだと外す機会増えて邪魔になるかも。えっと、すみません。出来れば長く身に着けてて欲しいと思うと、どうしても迷っちゃって」

 

恐縮する少年に対して、三葉はにこやかに言った。

 

「お気になさらず、ご相談に乗らせて下さいね」

 

 

 そこから彼は、とことん悩みに悩んだ。

 たっぷり三時間かかってもまだ悩み続けた。

 中でも長い時間をかけて眺めているのが指輪だ。指輪だけは、別のディスプレイに陳列した一万円の価格帯のものも手が届かない悔さを滲ませながら眺めて、またワゴンの方に視線を戻す。その動きを繰り返していた。

 色んな商品を見比べて右往左往しつつ、時々、壁に架かった時計と三葉の顔とを、

焦りと申し訳なさが浮かぶ目で交互にちらちら見遣っては頭を下げてくる。

 本当に懐が寂しい中で、それでも贈る相手に本気の想いを伝えたいのだろう。

 

 三葉は少年に見えないように、こっそり首を回して肩の凝りを和らげようとしたこれだけ長丁場だとやっぱり疲れる。

 けれども何だか、久々に心地良い疲労感だ。

 

 遂に、少年は一つの商品を掲げた。

「やっぱり、コレにします」 

 

 彼が最初に手に取った、三葉の指輪だった。

 

 三葉は思わずはっと口を覆いかけたのを辛うじて抑え込んだ。けれども、

「その指輪の何がお気に召したか、伺っても良いですか?」

無意識のうちに口走ってしまった自分に驚いて目を見開いた。

 

 やってしまった。

 折角購入の意志を示したお客さんを引き止めるような質問は、冷や水を浴びせて購買意欲を削ぎかねない。研修初日に松野店長から注意されて以来ずっと守ってきた注意事項だったのに、つい私情を優先してやらかした。

 カウンターの向こうには苦笑いの高島先輩。更にカウンターから離れた場所にはいつの間にか松野店長が控えていて、放たれるお説教オーラをひしひしと感じた。

 三葉は生唾をごくりと飲んだ。

 ここはもうお説教覚悟だ。どんな感想が飛び出て来るか、どうしても気になる。このまま引き下がりたくはない。

 

「もし宜しければ、聞かせて戴けないでしょうか」

 

「えっ!?……えっと」

 

 少年は顔を紅潮させて戸惑った。鼻の頭をぽりぽりとかいて押し黙ってしまったかと思ったら、

「……お世話になったしな」

と、不意にぽつりと呟いて、明朗な声で語り始めた。

 

「イメージにぴったり合うんです。石の優しい黄色と、リングのすっと入る白い光。このすらっとした綺麗な形。きっとあの人に似合うと思うから」

少年は目を細めながら続ける。

「それに、この間花火大会で丁度この指輪みたいな景色を見たんです。雨上がりの雲とビル街の隙間から夕陽が宝石みたいに輝いてて、夕日に照らされたビル街も銀色の海みたいで。そんな絶景の中心に、浴衣をはためかせた彼女が立ってて……」

少年は指輪を通して、うっとりと別の何かに見入っている。

「僕はこの先絶対に忘れない景色で、一緒に眺めた想い出を彼女にもずっと覚えていて欲しいから、彼女にはこの指輪を着けて欲しいんです」 

 

 彼の瞳に映っているのは、想い出の光景だろうか。それとも贈り物を指にはめる時のその女性の表情だろうか。

 

 三葉の潤んだ瞳の中で、フロアの照明がより眩く煌いて踊る。

 その中心に映る少年のはにかむ笑顔は一際強く輝いていた。

 幾つもの想いが心の中で、せめぎ合い、絡み合いながら、一本の線になっていくのを、三葉ははっきりと感じた。

 

 そうか。

 そうだったんだ。

 ジュエリーか、アクセサリーか。贈り物か、普段使いか。

 そんなことは全然関係無い。

 思い出を切り離して誰かに押し付けるだなんて、最初から出来やしなかった。

 

 この少年はたった今、二つの大切なことを教えてくれた。

 

 まず一つ、絶対なんてことはないということだ。

 長年探し求めたものがある日突然見つかる可能性も、仕事で一流デザイナーとして大成する可能性だって、ゼロではない。

 口に出してみると、あまりにも当たり前で陳腐過ぎる台詞だ。

 けれどもこの少年は、このプチプラアクセサリーに、年若い恋慕や憧憬をありったけ注ぎ込んで、人生における重大な局面を託した。

 それがどれほど眩く美しいことかを、たった今この場で体現してくれた。

 

 それともう一つ、故郷に対する自分の本当の気持ちだ。

 今後デザイナーとして活動を続けたとしても、この少年ほどに自分が生み出した作品を慈しんでくれるお客さんには、そうそう巡り合えないと思う。

 そのことは、震えあがる程に嬉しい。けれども、この震えには口惜しさが少なからず混じっている。

 一生懸命にこの指輪を選んでくれたこの少年。彼にさえ、私がありったけ注いだ糸守の記憶や切迫した想いまでは、たった一滴たりとも伝わっていない。

 少年は指輪を通して、雨露を纏って煌くビル街を投影している。白銀に輝く湖ではない。大自然と近代的建造物、全く真逆だ。

 

 作り手が被造物にどんな想いを詰めようとも、買ってくれる人には関係無い。

 傘が杖代わりになっていようと、使う当人は大事な相棒だと思っていたり。キャンプ用品が家庭用インテリアとして愛用されていたり。男の子向けのロボット玩具が、妹のおままごとでぬいぐるみと家族になって食卓を囲んだり。

 想いの多寡や方向性は違おうとも、作り出した装飾品が買われ贈られたその瞬間に、また別の感情や情景が吹き込まれて、新たな思い出が息吹く。

 そうして、指輪がデザイナーの手を離れて、お客様にとって唯一無二の存在へと生まれ変わる場に立ち会えたことを、きっと喜ぶべきなのだとは思う。

 それでも――どうしても、指輪に込めた情景が伝わらないことへの寂しさともどかしさを拭いきれない。

 

 そして、ようやく、三葉は自覚した。

 あの夕映えの絶景。その先にある筈なのに手を伸ばしても掠りもしない、大切なのに思い出せない記憶。

 重荷ではあった。でも、決してそれだけじゃなかった。

 私は、糸守を愛していた。

 糸守のことを自慢したくて、知って欲しかった。

 災害によって地図から消えて、もう二度と誰も足を踏み入れることが無いかも知れない、かつて糸守と呼ばれた土地。

 例え辛苦が連なっていようとも、心を優しく温めてくれる美しい光景が今も人知れず広がっている。

 そんなかけがえの無い土地が、今は打ち捨てられてひっそり眠っていることを、もっともっと多くの人に知って欲しい。

 いつの日か糸守だったその地を訪ねて、美しさを羨み、あの町が地図から消えて失われたことを惜しんで欲しい。

 だからこそ、この想いを共有して一緒に糸守を悼んでくれそうなこの少年との間で、認識がすれ違ってしまったことに、居てもたってもいられないもどかしさを感じてしまう。

 

 この指輪を大切にしてくれるこの少年のような人にこそ、秘めた情景と宿る想いを汲み取って欲しい。

 これは独り善がりな押し付けなのだろうか。

 はたまた、込めた想いが彼に一欠けらも伝わらないのは、自分がデザイナーとしての力量不足な所為なのか。

 あるいは、何かしら汲み取ってくれて感じ入るものがあるからこそ、彼はこの指輪に価値を見出して、大切な人への贈り物として選んでくれたのか。

 今の三葉ではその答えは分からない。答えを知りたい。

でも、この場で根掘り葉掘りこの少年に問いただして、水を差したくはない。

 

 デザイナーを続けよう。

 仕事を通して答えを探し続ける行為には、きっと生涯を懸けるだけの価値がある。

 三葉の心が震え、沸き立つ熱意が全身を駆け巡り、跳び撥ねたくなるほどに力が漲ってきた。

 

「あっ!すみません。俺、何言って――」

 

 いそいそと財布を取り出し始めた少年に釣られて、三葉もまた、今自分がルミネのフロアで接客中だったことを思い出した。

 思わず辺りをきょろきょろ探っていた時、不躾にも少年の財布の中身を覗いてしまった。

 まだ子供っぽい財布の中には五千円とちょっとしか無かった。この指輪を買う為に、本当にギリギリのお金を出そうとしているのだろう。

 

「ケースはどうされますか?」

三葉の問いかけには、自然と温かみがこもっていた。

 

「えっと……はい。ケースもお願いします!」

 

 いそいそとケース代の小銭と取り出そうとする少年を三葉は見守っていた。三時間付きっ切りだったことも忘れそうなほどに晴れやかな心境だった。

 

 ようやく少年から代金を受け取ると、三葉は心の底から言った。

 

「どうもありがとうございました」

 

 すると、少年は唇を噛み締めて、「あのっ!」大きな声で呼びかけた。

「こういうのって、貰って嬉しいって思いますか?」

 

 三葉は呆気にとられた。

 あれだけ一生懸命に入念に厳選していながら、この子はまだ自信を持てないでいるようだ。どこまでシャイなのか。

 こういう性格を可愛いと思う女子は居るだろう。

 けれども三葉としては、いざ告白という時は、根拠無く自信が空回りするくらいの勢いでガツンと着て欲しいと思う。まして、これだけ相手に想いを寄せているこの子がそういう態度になれなくてどうする。

 

 三葉は無意識のうちに、少年へと一歩歩み寄った。

 

「君、ここで三時間も迷ってたもの」

 

 これだけ一途な気持ちがこもったプレゼントを喜ばない人が、この世に居るだろうか。そんなことは、まず絶対に、あり得ない。

 

「私だったら凄く嬉しいです。頑張って下さい」

 

 少年とこれから指輪を受け取る女性の幸福を願って。

 心の底からあらん限りの感謝と激励を込めた笑顔で、三葉はエールを送った。

 少年はしばらく茫然とした顔をしていた。

 それからまた驚いた顔で我に返って、「ありがとうございます」と三葉に力強くお礼を言った。

 

 半ばスキップしながら意気揚々と立ち去って行く少年の背中を三葉が見送っていると、正面から松野店長が迫ってきた。

 

「宮水さん」

息遣いが耳に届く距離で、松野店長が呼び掛けてきた。眉間にしわを寄せている。

「さっきお客様の接客で拙かったところは、もう分かってるわよね?」

 

 周囲を気にしながら、三葉は軽く頭を下げて詫びた。

「はい。私情を挟んで要らない詮索をしました。申し訳ありません」

 

「そうね……ちゃんと分かってれば、まあ良いわ。以後ちゃんと気を付けて頂戴」

店長は頷いて、カウンターに入った。

 

「それとね」カウンターの戸が閉まると同時に、店長は出し抜けに三葉の方を振り返った。

「さっきのお客様に向けた貴方の笑顔、凄く良かった。その調子でこれからもよろしくお願いね」

 

 入れ違いにカウンターから外に出てきた高島先輩も、ニッっと笑って親指を立てた拳を向けて、「グッジョブ!」とメッセージを送ってきた。

 

 三葉はふっと一息ついて、フロアを見据えた。

 

 終業まであと一時間。研修修了まであと一ヶ月。

 まだまだ私は踏ん張れる。頑張ろう。

 目の前にはまだ見ぬ世界が広がっていて、そこに知りたい答えが待っている。

 私のデザイナー人生はここから。望むところだ。

 

 

 

 

 

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