黄昏の向こう   作:テービット

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7話 眠りについた不夜城

 

 ポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツポツ――

 

 

 ここ数ヶ月間いつもいつも必ず、瀧の朝は雨に起こされて始まる。

 

 窓を叩く雨の音を聞く度に、今こうしている間にも時間が流れていることを嫌でも意識させられて、脳は冷ややかな覚醒を強要される。目覚まし時計が朝一番の役目を奪い取られて久しい。

 スマホの待ち受けを確認すると、瀧が予定していた起床時間よりもまだ早い時間が表示されていた。もっとも、会社員の出勤時間や朝から授業がある学生よりは遅い。

 世間的には、のんびり遅起き出来る呑気な大学生に見えるかも知れない。

 

 ランダムで切り替わるスマホの待ち受け画面には、今朝は農村の小川に備え付けられた水車の景色が貼り付いていた。

 悠然とした牧歌的風景の象徴。だがその実、水流を浴びせられ急かされて、半永久的に回され続けているのだ。水車に人間を括りつける拷問だってある。

 特に気に入った画像ではないが、この画面が表示される度に、つい視線を奪われてしまう。だが、長く眺める気はなれない。

 無用になった時計の目覚まし機能をオフにして、再びベッドに倒れ込んだ。

 

 三ヶ月前のあの日――最後に僅かに晴れた八月二十二日以来、雨は一向に止まなくなった。

 

 何か行動を始める気になれない。されど眠たくもない。

 ここは一つ、音楽でも聴いて気分を変えよう。

 枕元のイヤホンを耳に突っ込んだ丁度その時、手の中でスマホが振動し始めた。液晶画面には、父親からの着信報告が表示されている。

 

「おお、瀧。おはよう。まだ寝てたところを起こしちまったか?」

 

 一週間ぶりに聞く父親の声には、奇妙な緊張と興奮が混じっていた。

 瀧は勢いよく上体を起こした。

 

「とっくに起きてたから別に問題無いけど。おはよう。こんな時間から電話して

くるなんて珍しいね。どうかした?」

 

「さっき仕事がようやく一段落ついたよ。今から仮眠とるところだ。お前に任せっきりの我が家とお袋の件がどうなったか、様子伺いにちょっとな」

 

「仕事……って、まさか、徹夜で例の荷運びやらされてたの?」

瀧は反射的に居住まいを正した。

「もういい歳なのに大丈夫かよ。この間も徹夜で書類まとめてたんだろ?」

 

 ベッドに座ったまま窓の向こうに目を向けた。

 雨垂れ塗れの窓ガラス越しでも、少しずつだが着実に水に沈みつつある東京の街並みが見える。

 

 この連日ひと時も止まない雨――特に先月まで断続的に発生した台風さながらの豪雨――とそれによる川の氾濫は、東京都の排水能力を上回る水をもたらした。

 大雨と荒川や隅田川の氾濫による浸水の脅威に対して、東京東部の住民の多くは早々に移転を決意した。

 瀧の父親が勤める霞が関も無論例外ではなく、武蔵野台地に守られる多摩地方へと拠点を移す決定が政府により下された。父親もここのところずっと、息子と同居するこの四谷の家を離れて、移転関連の業務に専念している。

 激務に加えて交通網の混乱で朝帰りになることも増えていく中で、移転先の近くに設けられた社員寮に単身引っ越したのは二週間前だ。これで親父も少しは楽を出来る。瀧はそう思っていたが、コトは甘くはいかないらしい。

 

「この三ヶ月でいい加減慣れたよ。若い頃のようにはいかないがな」

欠伸を噛み殺しているのだろう。声は時々聞き取り辛くなる。

「まぁ、お国の威光って奴ですんなり移転出来ただけ有難いってもんだ。泣き言は言ってられんさ」

疲労に満ちた声色の中に、仕事に対する達成感と自負を感じられた。

 

「そっか……そうだよな。お疲れ様」

言うが早いか、瀧はベッドから立ち上がり、吸い寄せられるように机に向かっていた。

「祖母ちゃんの方は何とかするよ。先月から堤防建設を始めた低地だけど、候補を三件見つけた。仏壇が収まるからってんで、祖母ちゃんも納得してくれてる」

 

「堤防か。……まぁ立川や八王子界隈はもう碌な物件が残ってはないって話だし、妥当な所だろうな。助かる」

 

 祖母の冨美が住んでいる下町界隈はこの数ヶ月で水害が一気に悪化した。

 冨美の家は今はまだ無事でも、浸水し始めるのは時間の問題だ。

 未だ就活の最中の瀧にとって、就活と並行して祖母の引っ越し先を探すのは決して楽ではない。だが、悠長に構えて先延ばしに出来る問題ではない。

 

「お袋もそうだが、お前の調子はどうだ?その――」父親は言い淀んだ。

「今日は面接じゃなかったか?」

 

「ああ、駄目だった。採用試験は中止」

 

 腹に抱え込む苛立ちを親に悟らせまいと、鬱憤晴らしに椅子にのしかかった。椅子がみしりと軋んで八つ当たりに抗議をしてくるが、無視する。

 

「まっ、このご時世仕方ないよ。二次面接を控えてる会社はまだ四社残ってるから、何とかなるさ」

 

 瀧は笑い声を絞り出した。出て来るのは乾いた音だが、電話越しなら笑い声に聞こえるだろう。

 

 多忙極まる父親が息子の面接の日をわざわざ覚えていたのは、今日採用試験に行く予定だった企業が、この時期まで三次募集をやっていたのが奇跡に等しい人気の

大企業だったからだろう。

 瀧は就職先としてゼネコン――建設業者を狙っている。

 一見すると市場規模が大きく華やかな業界だが、懐事情は大手だろうと存外厳しい。受注案件毎に必要な資金が巨額なだけに、たった一件が頓挫するだけでも経営が傾く恐れがあるからだ。

 受験先だった件の建設会社にしても、この異常気象の影響で受注していた大型案件がご破算になったことで、追加の人員募集をする余裕がなくなってしまった。

 ニュースで週に一度は見かける、ありふれた話だ。

 

「そうか。それなら、体に気を付けないとな。ちゃんと飯は食ってるか?」

 

 瀧は一瞬、言葉に詰まった。

 

「イタリアンだけとは言え、料理は親父より上手いつもりなんだけど。俺の心配

は要らねえから。親父こそ少しでもちゃんとしたモン食べて寝ときなよ」

 

 落ち着き払って冗談めかして受け流しながらも、瀧の双眸は否応なく泳いだ。

 画面表示付の通話でなくて良かった。

 

「そうだな。それじゃあ、まぁアレだ。頑張れよ」

 

「ああ、またな。親父」

 

 瀧はスマホの電源を切った。

 スマホを机に置くなり昨晩から机上に放置していたカップ麺の空容器を握り潰す。

 一人前だけだと作り甲斐が無い。就活と卒論とバイトの掛け持ちで忙しい。大雨で食材調達も手間がかかる。その他諸々。

 どれも事実ではある。

 事実であれど、連日徹夜して懸命に踏ん張る親父の耳に入れられる台詞ではない。

 

 

 手応えを感じていた企業から二次募集中止の報せを受け取った時は、数日間は食欲が失せる程に落胆した。

 一次募集で既に内定を得ていた連中にも内定取り消しの災難が降り注いでいる、とニュースで目にして、ようやく未練を断ち切れた。

 追加募集の打ち切りどころか、内定取り消しを迫られるほどの経営不振に陥っているなら、入社出来たその後が前途多難なのは目に見えている。

 この異常な長雨にも屈しない優良な就職先を厳選出来たと思えば良い。

 どの道、就活を辞める訳にはいかないのだから、そう思うしか無いのが現実だ。

 

 カップ麺をゴミ箱に押し込むと、就活ノートと企業のIR情報等の資料をまとめたコピーの束を手に取った。

 貰った内定を取り消されて右往左往している学生に比べれば、採用試験のフロー途中で中止の報せがあっただけマシ。就職先を掴むチャンスはまだまだ残っている。やるべきことは掃いて捨てる程ある。今やるべきことだけに専念しろ。

 自分自身に発破をかけて、湿気って半ばくっついたページを引っ掻くようにして資料をめくる。

 

 そして、そこから先は……何時も通り。

 堂々巡りの悪足掻きだ。

 集中しようと焦る瀧を嘲笑うように、文字を捉え損ねて目が滑る。

 何か少しでも収穫を、進展を、とノートに書き連ねた面接想定問答集のページにペン先を突き立てても、机ごと貫いてしまったかのようにペンが動かない。

 何か見落としがある。見落としがあるから、対策が甘いから、採用試験で失敗し続けているのだ。

 必ず対策の漏れを見つけろ。集中しろ。胸内で念仏のように繰り返す。

 同時にこうも思う。

 いっそのこと本物の念仏を唱える方が、気まぐれな神仏とやらの御利益に授かる可能性がある分だけ、まだ有意義な時間になるのではないか。

 

 すぐに気が散り始めて、纏わりつく湿気を帯びた空気の息苦しさが戻って来た。

 しとしとと控え目ながらも決して止まない雨にまで意識が向くと、ついあの夢を思い出してしまう。

 何とも奇妙で要領を得ない……そう、全くもって理解不能な夢。

 関東地方が最後に晴れた日の前夜――八月二十一日に見た夢だ。

 

 

 瀧はあの日まで、もうここ何年もずっと夢を見ていなかった。

 正確に言えば、実際には数えきれない程に見てきたのかも知れない。

 目覚めた途端に、見ていた夢の内容はおろか、それまで見たかどうかさえも朝靄のように消えてしまうのだ。

 そんな朝に限って、目覚めると泣いているのに気が付いた。

 どうして涙が出るのか分からない。泣くほど悲しい夢なら、何かしら覚えていても良いだろうに。

 涙を拭いながら何故思い出せないのかとぼんやり思いを馳せる回数を数えるのも、百を超えた頃には億劫になった。

 

 八月二十二日のあの朝だけは、違っていた。

 見ていた夢の光景は、汗でぐっしょり濡れたシャツよりも不快に、今もまだ瀧の脳裏にびったり貼り付いている。

 異様な夢だった。

 うらぶれた鳥居が佇む廃ビルの屋上。その屋上だけが陽光で照らされている。

 見上げた頭上に暗雲が広がる曇天において、鳥居の真上にだけ南国の海を思わせる青空が小さく口を開いていた。

 夢に登場する人物はたった一人だけ。

 祖母の家で送り盆をやった時に出逢った、あの少女だ。

 少女は祈りを捧げながら、極僅かな眩しい青空目掛けて、高く、高く、どこまでも浮かんでいった。

 見えない糸で引き上げられているようだ、と言った方が正しいか。

 何遍思い出してみても、心地良さそうな浮遊感は微塵も感じられない。むしろ、身じろぎ一つせずに祈りを捧げながら、深い深い井戸の底へと身投げして沈んでいくようですらあった。

 夢の中の瀧といえば、そんな少女を見送るように傍観していただけだ。

 金縛りにでも襲われていて、少女を引き止めたいのに叶わなかったのか。

 そもそも、少女を引き止める意志が最初から無かったのか。

 真意がどちらなのかは分からない。

 きっと、前者だ。前者に違いない。

 夢から目覚めた直後からずっと、瀧自身はそう信じている。

 

 

 八月二十一日という真夏の只中に突然始まった吹雪。

 窓ガラスが叩き割られるか停電になるのではと心配になるほどの暴風と雷鳴が荒れ狂ったかと思えば、嵐は真夜中に忽然と消え失せた。

 翌朝、前日までの冷夏が嘘だったように押し寄せた猛暑の熱を薄れさせる寒々しい青さで澄み渡った空。

 そして、その日の昼間には、未知の化け物の咆哮染みた雷鳴か何かの轟音と共に、突如都市を沈めんばかりの豪雨がまたもや降り始めた。

 

 何もかもが非現実的で、全てが悪い冗談としか思えない。

 だから、あの夢も何かの悪い冗談で、これといって意味なんて無いのだろう。

 

 

**********

 

 

 ふと時計を見ると、親父と電話してから、かれこれ一時間が経過していた。

 瀧は乱雑に椅子を除けて立ち上がった。

 

 下らないことをうだうだ考えてしまうのは、単に行き詰まっているからだ。

 これまで、就活の対策は思いつく限り全て実行してきた。ほとんど暗記してしまった資料を今更広げたところで、気休めにもならない。

 自分一人でやれることは全てやったという感触はある。これ以上は何をどうすれば良いか思い浮かばない。

 かと言って、大学に詰める就活アドバイザーの所へ行っても無駄だ。三ヶ月前も相談や面接練習に付き合って貰ったが、収穫は無かった。それに今は、内定取り消し組が採用試験の二次・三次募集枠に滑り込むべく長蛇の列を作っている。どの道、助力を乞うことは出来ない。

 瀧にとって今必要なのは、瀧の人となりを良く知った上で、歯に衣着せぬ助言をくれる協力者だ。

 

 雨音に支配された部屋で、スマホがSNSのメッセージ着信音を鳴らした。

 瀧は夏以降SNSの利用を止めている。理由はそう、一つだけ。就活に専念する為だ。

 ただし、彼にとって親友と呼べる人間からのメッセージは例外だ。

 

『今夜どうだ?飲みに参加出来そうか?』

 

 案の定、高木からのLINEだった。

 瀧は思わずニヤリと笑った。渡りに船とはこのことだ。

 同じ高校に通う同級生でバイト先も同じだった彼らとは、大学が別になってからも都合が合えば一緒に飯を食う仲が続いている。

 今日の飲み会にも前々から誘われていたが、瀧は返事を保留していた。

 

『やっぱ参加するわ。場所はこの前の居酒屋か?けど今から参加で大丈夫か?この前当日に予約人数増やしたら渋られたろ』

 

『司がまた新しいオススメの店を見つけてきた。そこのテーブル席だけ予約済。コース料理や飲み放題を頼む訳じゃないし別に良いだろ』

と高木が返信してきたが、

 

『瀧の参加、了解した。念の為に店には俺から連絡入れとく』

司のコメントがさっと挿し込まれた。続いて、店のサイトのアドレスと集合時間が画面に現れた。

 

 今度の店は小洒落たウェスタン風の店だ。昔から穴場のカフェの開拓に余念が無かったが、こういう目ざとさと手配りの早さが就職活動の明暗を分けたのだろうか。瀧は僻み混じりに感心した。

 

『頼んだ。あと、酒の席で悪いけど、ちょっと就活の相談もしていいか?』

 

 正直、飲み会の傘下には気が進まないきらいもある。

 卒無くこなす司は四社、高木にしても確か二社だったか、既に複数社から内定を貰っていて、取り消しになる気配は無い。未だナイ内定でもがき苦しむ瀧と違って、選り好み出来る幸福を日々噛み締めている贅沢者達だ。

 

『付き合ってやるよ。代わりに何かおごれ』

 

『積もる話もあるし、ついでに聞いてやる』

 

 司と高木の返事を見るや、瀧は軽く目を回した。

 積もる話、か。まぁ予想通りだ。

 気の良い奴らだから、相談に応じてくれるのは分かりきっていた。立花瀧という男を良く知るあの二人なら、自分でも気づけない見落としについて何かしらの有益なアドバイスをくれるという信頼と期待もある。

 ただ、彼らにとってのホットな話題――新しい恋人とののろけ話を聞かされるのは覚悟しなければならないだろう。

 司は、彼や瀧、高木を含む高校時代のバイト仲間達の憧れの的だった奥寺先輩といつの間にか婚約まで漕ぎ付けていた。一方の高木は言えば、対抗心を燃やして見事に可愛い彼女をゲット。どちらも恋人自慢をしたいという熱はまだ冷めていない。

 他人ののろけ話なんぞ好き好んで聞きたいものではないが、相談に乗って貰う対価は払わなければならない。

 

『了解。それじゃ現地で』

 

 それだけ送信し終えて電源を切ろうとした時、ふと一つ思い出して、追加でメッセージを送った。

 

『そういや高木、お前は明日早くから彼女と朝早くデート行くとか自慢してたろ。今日酒飲んでて大丈夫か?』

 

『んなもん中止だよ。中止』

今の彼女の影響か。プンプンと擬音付でむくれる愛らしいマスコットのスタンプ付の返事が来た。

『アイツ、この雨じゃ遊園地は無理って確定したら、機嫌損ねちまったよ。破局の危機』

 

今度は突っ伏して酔い潰れるマスコットのスタンプが主の心情を代弁していた。

 今日の飲み会にはヤケ酒要素まで加わるのかと今から辟易とするものの、こんなふざけた返信をする余裕があるならば酷い絡み酒にはならないだろう。

 気軽に構えつつ返信を考えながら打つ瀧の手を、メッセージ着信音が止めた。

 

『晴れ女への依頼。デート前に試しておきたかったのにサーバーは落ちたまま繋がんねえしよ』

 

 頭の中で組み立てていた返信の文章は、たった一語でバラバラに突き崩された。

 晴れ女。

 単語が頭の中を跳ね回って、文章がまとまらない。

 瀧は既読スルーを決め込んで、そのままスマホを仕舞った。

 返信しなかったのは、高木が大して落ち込んで無さそうで、不要だと思ったから。それだけだ。

 

 ――晴れ女に感謝だよ!

 

 最後に晴れたあの朝、瀧と同じくあの変な夢を見たと主張するSNSのコメント。

 これと似たコメントを幾らか見かけた。

 同じ夢を見たのはただの偶然だろう。少女が祈ったら晴れたように見えた現象にしてもそうだ。本物の力を持る晴れ女なぞ、やはり居なかったに違いない。

 このSNSのコメントが目にしたあの日以降、瀧はSNSの閲覧を断った。

 ただでさえ忙しいのに、SNSの流し見だなんて下らないことにかまける暇は無いからだ。

 

 顔を上げると本棚に仕舞っていた月刊ムーの背表紙が目に入った。

 瀧は舌打ちして大股で部屋から出た。

 

 ――東京を守る大量の人柱

 月刊ムーに掲載されていた記事のタイトル。

 

 江戸、そして東京と言う街を守る為に犠牲となったという人々の足跡を調査。

 知人友人達の手で生きたまま埋められた者達。人々の願いを集めてその力を一身に受け、やがてその特殊な力の代償として神隠しに遭ったという人々の伝承。

 そんな民話と遺跡の情報をかき集め、オカルト染みた量子力学と絡めて、場違いな文章力の高さで面白おかしくまとめあげた。

 与太記事の癖に、癪に障るほどに読ませる記事だった。

 だが、所詮はオカルト雑誌の記事だ。

 人柱ではないと学者が唱える人骨も、人柱の痕跡としてライターがカウントしていた。記事の誤りを炙り出してやった。徹夜して調べ上げた確度の高い情報だ。

 結局、信用に足らない与太話でしかないのだ。

 

 リビングに出ると、横殴りの雨風がベランダのガラス戸を叩きつけていた。

 もうすぐ出掛けるこのタイミングになって、雨足が急に強まってきている。

 一滴の水滴はガラス戸を伝って垂れ落ちて、他の水滴を呑み込み、一本の太い線を繋ぎ出す。収束する線はどんどん太くなっていく。

 

 ――目を逸らすな。

 ――何が起こったか。本当は薄々気付いてるだろ?

 

 どこからともなく囁きが聞こえた気がした。

 瀧はガラス戸を少し開けてから、ガラスが割れない程度に勢いよく戸を閉めた。

 衝撃で無数の水滴は弾き落とされた。だが、水滴が残した線は消えてくれない。

 

 もしも――もしも、だ。

 

 もしも、あの少女が人柱となり、その身を犠牲にして、あの快晴をもたらした。

 そんなことが起こったのだとすれば、その後また降り出した雨がずっと止まないこの現状は何を意味している?

 あの少女は、一体どうなった?

 

 躍起になって首を振り、全くもって馬鹿馬鹿しい妄想を振り払った。

 起こる筈が無い。起こっていい訳がないことを考えても、無駄だ。

 

 

**********

 

 

「それで、司、受け答えはこんな感じでどうよ」

 

 気後れしながら尋ねる瀧の視線を、司は真直ぐ受け止めていた。受け止めながら返事を思案するように口を結んだままだ。

 司も結構酒が進んでいる。だと言うのに、顔の仄かな赤みを除けば、つい三十分前まで一緒に面白おかしく騒いだ酔いどれの痕跡は綺麗さっぱり消えている。面接官顔負けの冷徹さだ。

 

 長雨による鬱憤や不安を三人全員が溜め込んでいたのだろう、バーには三人とも予定時間より大分早く集合した。

 乾杯した一杯目を口にした後はとにかく盛り上がった。中高生時代の昔話に花が咲いて、ツマミを片手に互いの近況の馬鹿話に腹を抱えて笑い、高木と司の遠距離恋愛気味の彼女に関するのろけ話に合いの手を入れたり茶々を入れる。

 一時間半があっさりと過ぎ去った頃には、瀧の中では喜びと迷いが混ざり合っていた。久しぶりの充実した時間だ。それだけでも参加して正解だったが、とてもじゃないが就職の面接練習を頼める空気ではない。

 そんな宴もたけなわに「そろそろ瀧の面接練習に付き合ってやろう」と切り出してくれたのは司だった。親友の気配りと冷静さに心の中で拝みつつ、練習はスタートした。

 順調なのはそこまでだった。

 質問が一つ一つ重ねられ、何時しか同じ質問がニュアンスを変え繰り返される。似通った質問の多さに瀧が怪訝さを覚えた時には、和気藹藹とした空気は冷めていた。

 

 黒縁眼鏡の向こうに控える司の眼差しは、普段なら漆器のような温かみと落ち着きを感じさせる。しかし今日に限っては、瀧の貧乏ゆすりでグラスの中を転げ回る氷よりも冷たかった。

 その隣に座る高木はと言えば、眉をひそめて瀧の就活ノートを黙読している。

 練習開始直後には掛け合い漫才染みた突っ込みが鬱陶しかったが、今では恋しく感じた。

 就活絶賛連敗中の身としては、忌憚ない助言は喉から手が出るほど欲しい。わざわざ飲み会の席で、予想よりも真剣に練習に付き合ってくれている二人には感謝し

ている。

 だが、二人の真剣さが想像を軽々超えてしまって、瀧の胸に不安ばかりが募る。

 普段は気の置けない二人をこうも深刻そうに黙らせる。俺が抱える欠点はそれほどまでに厄介なものなのか。指導を賜るどころか引導を渡されそうだ。

 

「この際だ。遠慮は要らねえ。俺の為だと思って、どういう印象受けたかとか思いつくこと全部教えてくれ」

意を決して瀧は言った。二人の答えを聞く前に逃げ出したい気分だが、本当に逃げたらこの席に参じた意味が無くなる。

「ノートには書けるだけ書いたしデータも頭に叩き込んだ積りだ。けど、何かまだまだ追記出来ることも、見落としもある気がしてならないんだよ。一人じゃそれが見つけられねえ」

 

 言い終えると喉の渇きを覚えて、グラスに残った酒を一気に飲み干した。氷で薄まり過ぎて味がしなかった。

 

 唐突に、司がニヤッと笑った。

 

「司先生、どうぞご指導願います――だろ?」

司は残ったツマミの串の肉を食い千切ると、指揮棒のように振り回し始めた。

「まだ模擬面接終了とは言ってないぞ?俺達面接官には誠意と敬意を示さないとな」

 

 瀧の肩の強張りがふっと抜けた。

「ハイハイどうか指導願います。司……センセイサマ」

 

 ふてくされた風に言いながら、口元が自然と弛んだ。

 内定者特有のナイ内定に対する上から目線を装いながら、重苦しくなりかけた空気を和らげるようとおどけて見せる。司の気遣いが有難かった。

 

 無表情の高木が告げた言葉は、空気を一変させた。

 

「あのさぁ、瀧。もうノートに書き足すとか止めれば?もうこれ以上、こんなモノを読み返しまくっても意味無いだろ。いっそ、一旦忘れた方が良いんじゃねえか」

 

「こんなモノってお前――」

 

 瀧の頭に血が上りかけた。

 こんなモノ?俺がどれだけ心血注いで推敲に推敲を重ねてきたと思っている? 

 思わず身を乗り出そうとテーブルに手を掛けて――体が硬直した。

 高木がテーブルをおしぼりで拭いて、綺麗にした一画にノートを置いたからだ。よくよく見ると、食器をわざわざ退けてノート用のスペースを確保している。

 ちょっと酔いが回っただけでも所作が極端に粗忽になって、しょっちゅう司に説教されていた、あの高木がだ。

 

 瀧は静かに座り直した。頭は一気に冷えたが、反省の念で耳に火照りを感じた。

 高木はこのノートを読み込んで、瀧がどれだけ努力してきたかをしっかり汲んでくれている。その上で「こんなモノ」と表現するのは確たる意図があってのことだ。

 

 高木は瀧の冷静さを計るような目で話を続けた。

「お前と司の面接練習を見てて思ったんだけどさ。お前が主張したいことは分かるんだけど……何つーかなぁ、ふわっふわな割に前のめりで危なっかしいんだよ」

 

「いや、すまん。ふわっふわって強調されても意味が分からねえんだが」

 

 司は組んでいた腕を解いて、

「俺には高木の言いたいことが分かる。つか、俺の感想を代弁してるな。なぁ瀧、一つ質問していいか」

真剣な眼差しで瀧を見据えた。

「どうして、『誰に向けてどんな建物を作りたいか』って具体的な将来の青写真についてだけ、碌に煮詰めてないんだ?」

 

 瀧は、胃が捻じれて飲んだ酒が込み上げて来るような感覚を覚えた。

 

「それは……アレだよ。受験者の希望が面接官の望む方向性とミスマッチだと面接でマイナスになるって聞いたから、強いて特定しないだけだ」

声が裏返るのをどうにか抑え込んで、そう答えた。

 

 司は、悪戯した生徒の言い逃れを受け流す教師のような仏頂面のまま、高木が置

いたノートに手を伸ばした。

 

「お前が書き溜めたこのノートを見ると、どんな質問にもバッチリ準備してある。過去のエピソードまで添えて端的に答えられるよう練ってあるし、決算の数字とか細かい企業情報まで自然な形で回答に盛り込んであるな。よくやってると思うよ。……幾ら就職活動の対策つってもここまで練り込む必要があるか疑問に思えるくらいにな」

 

 ノートをパラパラとめくり終えて、司は瀧にノートを返した。

 

「けど、『将来何を造ってみたいか』って青写真に関してだけは別だ。高木が言った通り内容が漠然としてて浮いてる。これだけ質にギャップがあると、将来の青写真については敢えて目を背けて、他の質問で穴埋めしようとして躍起になっている。そんな印象すら受ける」

 

「けど、ふわふわとか言われたって、俺は適当なことは一切言ってな――」

 

 司にビシッと一指し指を突き付けてきた。

「だからこそだよ。ある意味、その適当じゃない姿勢が問題なんだ」

 

 瀧はそのまま二の句を継げず、語気は喉の奥底まで押し戻された。

 

「『人の記憶に残って心温まる物を作りたい』って、ぼんやりした発言の割に、それを口にした時のお前の態度は鬼気迫るものがあった。ギャップが凄いなんてもんじゃなかったぞ」

 

 瀧は何か反論をしようと思考を巡らせた。何一つとして浮かんでこない。

 司は高木に目配せした。異論や補足があるか促しているのだろう。

 高木は敢えて会話から距離を置くように背もたれに寄り掛っていた。だが、司の視線に耐えかねたか。観念したように目を瞑った。

 

「この際だから要望通りに思ったことを言うぞ。……お前と司の練習を見てたらさ、ウチの爺さんのことを思い出したよ」

高木は身を起して、しっかり座り直した。

「爺さんは今は介護施設に居るんだけど、入所直前にはボケが酷くなっててな。腕時計やらリモコン、財布、どこに置いたか忘れた物を探し回る。紐付きの老眼鏡を首に下げてるのに気付かないまま探し続けて、挙句、自分が何を探してたかさえ忘れちまう。そんで、部屋中ひっくり返すんだ」

 

 そこまで言うと、高木は急に黙った。意図的に間を置くのではなく、続けるのを

躊躇う風だった。

 それから、意を決したように口を開いた。

 

「見てて特にキツいのがさ、爺さんが自分自身を恥じてるのが分かることなんだよ。自分がおかしくなってるのは嫌ってほど理解してるから、何とかしたい。そういう爺さんの焦りが伝わってきて、見てる方も胃が痛くなるんだ」

 

 言い終えた高木は気まずそうな面持ちで、ジョッキに残る酒を一気に飲み干した。

 高木の発言を咀嚼していた瀧は壁に掛かった鏡を見つけた。

 そこには、水槽の金魚みたいに口をパクパクさせる、呆けたような男の顔が映っていた。

 ぼけた老人と一緒にされても困る、そんな軽口さえ叩けずにいる瀧自身だった。

 

「なぁ、瀧」

高木に代わって、司が瀧に呼び掛けた。

「この酒の席ですら、俺らがそんな風に感じたんだ。面接官も似たような感想をより強く抱いたんだろう。それが、お前の就活が上手くいかない理由だよ」

厳しい口調ながらも、顔には心配と同情の色が浮かんでいた。

「志望通りにゼネコンの設計担当になれても、確認や打合せの為に建設現場に出ることはある。労災を起さない人材ってのは必須の業界だ。焦ってて危ういって印象をどうにかしないとな」

 

 助言の重たさで、瀧はうなだれた。今の自分がどんな顔をしているか、壁の鏡で確かめる気になれなかった。

 恐らく、「道端の石を拾って飲み込んでみせろ」とでも命じられたかのような困惑顔をしているだろう。

 

 すると、肩を何かが触れる感触がした。

 見上げると、司が身を乗り出して瀧の肩を掴んでいた。

 

「まぁ、半年前に練習に付き合った時よりかは遥かにこなれてる。何とかなるさ」

 

「面接はもう断然俺達より上手いぜ。場数を踏んだ面接のプロだな」

高木もまた、明るい笑顔を作って言った。

 

「そんなもんになるのは願い下げだっての。就活面接の熟練の業って、んなもん罰ゲームに慣れ過ぎたお笑い芸人のリアクション芸みたいなもんだろが」

瀧もまた、気楽そうな声色を捻り出して答えた。

 

 その努力が実を結んで、場の空気がやっと弛んだのを肌で感じられた。

   

「とりあえずはそうだな。もう一回、これから受験する会社が手掛けてきた建築物をチェックしてみるしか無いんじゃないか。そうすりゃ、その会社で何を建築したいか何かしら具体案も浮かんで来るだろ」

司は瀧の肩を数回叩いて、自分の腰に手を戻した。

「何か手伝って欲しいことが新しく出来たらまた言えよ。俺の卒論はあと一歩で仕上がる。そしたら余裕が出来るからよ」

 

 たった今口にした助言くらいは、瀧もとっくに実践済だろうが、原因を語る気が無い限りはしてやれることが何も無い。瀧の心境に変化があって初めて、何がしか手を貸してやれることがあるだろう。

 諦観を覗かせる司の表情が、気休めの助言に隠した本音を告げていた。

 

 親友の心遣いへの感謝と、和やかな緩みを取り戻した場の空気を尊重して、瀧は生返事にならないように注意を払って、

「ああ、そうする」とだけ言った。

 

「何にせよ、今日はこれ以上考えても仕方ねーよ」

高木が背伸びをしながら言った。

「久々の小雨なんだ。偶には息抜きでもしようや。これからカラオケとかどうよ。瀧もまだ面接まで日にちあんだろ?付き合えよ」

 

「別に良いけど、この辺で休業してないカラオケ店ってあったっけ?水浸しで休業してる店が最近増えてるだろ」

 

「駅前付近なら大体二階か三階に店構えてっから大丈夫だと思うけど。いや、店が空いてても満席かも知れないか」

 

「んじゃ、調べるついでに予約入れとくべ」

高木がおもむろにスマホを取り出した。

 

「ひとまず一次会は終了だな。ちょっと混んできたし、予約時間まで待つにしてもカフェに移動するなり、とりあえずは店を替えようぜ」

言い切るが早いか、司は立ち上がっていた。

「俺は会計を済ませて来る。お前ら、今現金を持ってるなら出してくれ。カードで支払うから、立て替えた金は今度くれるんでも構わんけど」

 

「これで丁度だろ」

テーブルに割り勘分の現金を置いて、瀧も立ち上がった。

「悪い、司。ちょっとトイレ行ってくるわ」

 

 行ってこい、と司が軽く手を振って応じたのを確認するや、瀧は足早にテーブルから離れた。

 

 

**********

 

 

 瀧は下のフロアのトイレまで足を運んだ。

 バーの店内トイレの長蛇の列に並ぶ気は更々無かったし、そもそも用を足したかった訳ではないから、フロアを移る良い口実になってくれた。

 今はただ顔を洗いたかった。他の利用客に混じって一人だけ顔を洗うのは気が引ける。

 無人のトイレに入るなり洗面台の正面に立って、蛇口の水を両手で受けた。センサー式の蛇口は水の出が弱い。少しずつしか溜まらない水に焦れて手が揺れた。

 前々から自分でも薄々気付いていたことあっても、他人から改めて図星を突かれると予想外にショックを受けるものだ。我ながら意外と細い神経に嫌気が差した。

 

 ――建設業界に就職したら、どんな建物を手掛けたいか。

 瀧にとって、目下、最大の悩みだ。

 

 大学受験に日々の課題、合間のバイト、就職活動。

 もう何年も、瀧は焦りと不安に突き動かされてきた。

 ある日突然、風景が変わり果てることがある。建物だって消し飛んでしまうかもしれない。

 それでも――いや、だからこそ。

 人の心に刻み込まれて、温め続けられるものを残さなきゃいけない。残せる力と立場が欲しい。それも、一刻も早く、だ。

 

 馬鹿げた終末論を怖れているかのような強迫観念染みた願いだと、自分でも思う。

 だがそれは、瀧を突き動かす本気の想いだった。

 だから、上手く言葉に出来ずに戸惑いながら、就職面接でも必死に訴えてきた。

 しかし、熱を入れて語れば語るほど、面接官達は一様に腰が引けていった。

 民家の生垣越しに、鎖に繋がれた猛犬に吠えられて思わず怯む、たまたまそこを通りかかっただけの不運な通行人。どの面接官もそんな顔付きで瀧を見返した。

 そんな自分自身に翻弄されるだけの日々が一変したのは、今年の八月の中旬。怒涛の如き半月間だ。

 

 あの迎え盆の日に希望を掴み――

 ――最後に晴れた日を境に、掴んだ希望は雨で流れ去ろうとしている。

 

 瀧は度々振り返る。

 祖母の家であの子供達――あの少女に出会った日を境に、俺の人生は大きな節目を迎えた。

 あの三人――あの少女は、喪失感と違和感が生み出して、頭を埋め尽くす霧を払ってくれた。

 だが、その先に待っていたのは、宛もなく誰かを探すという孤独な漂流感だ。

 

 俺は誰かを探し続けている。きっと糸守町と関係がある人だ。

 

 あの日見出したこの直感が正しいならば、その人を自力で探し出せる望みは無いだろう。

 糸守の情報は今まで散々かき集めてきたのにピンと来るものが無かった。まして情報を更に掘り下げようにも続報は途絶えている。

 手元すら隠す濃霧が晴れたは良いが、眼前に広がるのは、見渡す限り水平線が続

く大海原。名前も海図にも載っていない宝島を目指して、宛も無く海に繰り出してしまったことを、今更になって思い出した。

 そういう、途方に暮れる現実を突き付けられている。

 

 

 ただし、迎え盆の直後には、まだ一筋の希望が残っていた。

 思い出した――そう表現が正しいのかも怪しい、降って湧いたイメージだ。

 

 探し求めるその人のことは何一つ知らない。

 瀧にとってどういう存在なのか。一目でも会ったことはあるのか。どんな姿なのか。イメージしようとしても、はっきりとした像は結ばれない。

 何となく女性だという気はするが、実際には男なのか、子供か大人か。それすらも定かじゃない。

 頭に浮かぶのは、たった一つのイメージだけ。

 誰かがまるで子供みたいに、東京の街中をはしゃいであちこち見て回る。さながらカラフルな抽象画のように、曖昧さと強烈かつ鮮明に彩られたその様子が脳裏に焼き付けられている。

 

 東京――特に都心の風景は日々変わる。

 人間は全ての細胞が新陳代謝によって少しずつ置き換わり、五年も経てば肉体的

には実質別人になっているという。だからと言って、そいつが本当に別人になって

しまうことは無い。

 街も同じだ。常にどこかを工事していて店舗が入れ替わり、毎日少しずつ変化し続けようとも、冠する東京という名は不変だ。

 皆の憧れの的の人気店。地元の人間以外は知らない穴場。雑誌に取り上げられる絶景スポット。アスファルトの隙間からひっそりと咲く草花が四季を教えてくれる長閑な公園。洗練されたオフィス街。郷愁を誘う下町の通り。

 古今混在の様相を呈して様々な顔を持つ街。

 ごった煮で風情が無い、とこき下ろす声もあるが、瀧にとっては取るに足らない雑音に過ぎない。

 何故なら、そのごった煮感こそが、瀧の故郷たる東京の懐の深さの証だからだ。移り行く風景をつぶさに観察するのは楽しめるものだ。

 

 けれどもそれは、生まれた時から四谷に住んで、街並みの変化に慣れきっている瀧のような人間特有の感覚でもある。

 何年かぶりに訪ねた目当ての店が潰れてしまった、と残念がる観光客とすれ違ったことは、片手の指では収まりきらない。

 

 瀧は故郷――東京の街を誇りに思っている。

 愛するこの東京を、極彩色の爆発だって似合う街並みをそのままに、訪れる人達の心を温めて住み続けたいと思える、誰にとっても拠り所となる都市にしたい。

 いつしか瀧にとって、それが一番の目標となっていた。

 今は絵空事に過ぎなくとも、どうにか実現まで漕ぎ付けられれば、求める誰かはきっとこの東京のどこかに留まり続けてくれる。

 そうすれば、いつか出会えるかもしれない。

 

 瀧の頭にまず浮かぶ、人の心を温めてくれる風景の筆頭。

 それは、糸守町の町並みと一帯を取り巻く雄大な自然だ。

 古い社の柱を撫でた時の固さと柔らかさが両立した不思議な手触り。石垣に寄り掛かると、ひんやりとした心地良い冷たさが肌を伝わる。しっとりとして青くさくも爽やかな風が頬を撫でる。

 知らない筈の感覚の数々。それなのに、瀧の五感はそれらを知っていると主張して、懐かしさ混じりに恋い焦がれる。錆に塗れたブリキの看板や、自重で折れそうな遮断機の腕木を収めた写真を見るだけで、郷愁で胸がいっぱいになる。

 

 一つ一つを写真に沿って忠実に再現してみたところで、ありふれた鄙びた田舎にしかならないだろう。

 なのに何故、こうも胸が熱くなるのか。その理由を明らかに出来れば、目指す街作りを実現する上で重要なヒントになる。

 

 盆明けからの一週間。

 遠大な目標が見えた瀧は、とにかく時間が惜しくて焦りに焦っていた。

 就職面接の時だけ、取り繕ってそれらしい回答を用意することは可能だ。

 だが、この答えだけは嘘をつきたくない。

 心を温める街作りが一体どういうものかを見出す。

 その為に、自分を見つめ直し、東京という都市を巡り、糸守町の資料を一から徹

底的に調べ上げる。

 答えを見出すにはそれしかないと考えていた。

 

 しかし、瀧は今になって痛感している。

 俺は甘かった。

 まだ時間はある。明日以降も立ち止まりさえしなければ、きっと理想の街並みをこの手で生み出せる。強迫観念に晒されていると思いながらも、深層心理ではそうやって高を括っていたのだ。

 

 

**********

 

 

 冷たい水で数回顔を洗うと、やっと人心地つけた。

 酔いと動揺で掻き乱された頭が幾分すっきりした感じがした。

 瀧はトイレを出て、エレベータ―ホールに向かった。

 エレベーターは大分離れたフロアまで行ってしまっている。このフロアにある店の客だろう、かしましい団体客がエレベーター前を占拠していた。

 彼らの雑談がやたらと耳障りに感じて、エレベーターを待つのを止めて、すぐ傍にある吹き抜け階段に繋がる扉へ向かった。

 

 客が使うことを想定していないのか。豆電球に毛が生えたような照明だけの階段の踊り場は異様に暗かった。扉の向こうから流れ込む冷気と湿気、静まり返った密室の圧に身を覆われる。

 洞窟の入り口に突っ立っているかのような錯覚に戸惑っていると、今度は踊り場の壁が揺れた気がした。あれだけ顔を洗ってもまだ酔っているのかと、こめかみを揉んでも、壁が細かくカタカタと囁くように振動して見える。

 よくよく目を凝らしてみて気が付いた。

 ガラスだ。踊り場の大通りに面した壁が一面ガラス張りになっている。

 何の気なしに踊り場に踏み込んだ。扉が閉まる反響音が駆け巡る中、ガラスの壁に歩み寄って手を当ててみた。

 

 風や雨が打つ振動を掌に感じる。意識しないと分からないほどささやかだ。

 ほんの二ヶ月前まで、大きな窓ガラスの傍に立つなんて出来なかった。

 あの頃の東京は天候が安定せず、軽い風雨が突如として台風もかくやという暴風雨へ豹変することもしばしば。その度に横殴りの風の不意打ちで窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げた。実際にガラスが割れてニュースになったのはお台場の高層ビルの一件だけで、怪我人も出なかった。

 それでも、ガラス張りのビル壁に近寄ると、割れたガラス片のシャワーを浴び

やしないかと冷や汗モノだった。

 あの何かが怒り狂ったかのような天候は性質の悪い嘘だったように思える。

 けれども嘘じゃない。

 この掌に伝わる雨は随分穏やかにはなった。

 それでも、止むことも無い。

 

 

 瀧は宵の口の新宿の街を見回した。

 眠らない街、新宿。それはもう過去の話だ。

 

 星空を引っ繰り返したような不夜城の面影は無く、ビル群は仄暗い塊となってそびえ立つ。

 線路の排水能力が追い付き、電車の運行がまともに再開したのはほんの数週間前のことで、それまでは出勤や登校するだけでも一苦労だった。

 情緒不安定な天候に対応する為に、多くの企業が終業時間を短縮し、その営業時間を継続する会社は多い。窓の外を見渡す限り、消灯しているオフィスが大半だ。

 一方、視線を落としてみれば、街はまだそこそこ明るく見える。

 眼下の道路を行き交う人々のお陰だ。彼らが差す安物のビニール傘が、街灯を反射して明度を底上げしているからだ。

 光を反射しない、まともな材質の傘も混じってはいる。そういう傘を街で見かけるようになったのは極最近のことだし、数えられる程度の少なさではあるが。

 最後に晴れた日から約二ヶ月間ほどは、外出時にはよく突風に遭った。

 関東圏では安物の傘だけ使え。お気に入りの傘は風で瞬く間に壊される。

 皆の脳に刷り込まれたこの常識が完全に風化するには、今しばらくかかるだろう。

 

 瀧の口から大きな溜め息が漏れた。

 季節はまだ冬になっていないのに、冷え切った窓ガラスはあっさりと曇った。

 眼下で行き交う人々のビニール傘が雨粒を載せているからか、元々の安っぽい不透明さが一層増して、何もかもがくすんでいる。

 

 東京という街にはもう、来訪者の夢や憧れを受け止める包容力は残ってない。

 

 今の東京で建物を新たに建てるくらいなら、その資金をそっくり溝に捨てた方が時間の節約になるだけマシ。そう揶揄して立ち去る輩は増え続けている。

 もちろん、東京は腐っても首都であり、東洋有数の都市だ。留まる者は多い。

 親父の霞が関のその一例だ。気安く都外に移転出来ない人々の多くは、丘陵地帯を頼みに西へ移転している。

 だが、何しろ観測史上初と言う単語を耳にタコが出来るほどに聞く時世だ。

 東京西部なら絶対に洪水から守られる保証をしろとごねる素人を前にすると、専門家でも言葉を詰まらせる。それに加えて、現状はまだ被害軽微な事例ばかりであれ、土砂崩れのニュースを見かける頻度は着実に増えている。

 都内のどこに移り住もうと、水害は形を変えて付いて回る。

 

 一方で、沈み行く臨海地区に近い地域の人々の中にも、住み慣れた地で粘り続けようという意志を示す人達は居る。瀧としてはそんな人々に感じ入って、手をとって礼を言いたい気分になる時さえある。

 ただし、彼らの多くは、この地に一縷の望みさえも抱いてはいない。急落する家賃目当てに一時の腰掛けとして選んだか、愛着を持った地の最期を看取る覚悟でいるか。誰も彼も、実に現実的で悲観的だ。

 

 もっとも、関東以外の地方もまた、安泰とは言えない状況に陥っている。

 関東圏に低気圧が居直っている影響からか、他の地方もサウナ顔負けの残暑や水不足に悩まされたりと、異なる問題を抱え始めている。

 東京が今のように弱い雨が降る安定した天候を何年も保てたならば、この地を取り巻く事情は多少なり変わるだろう。

 良くも悪くも涼しくて――それこそ溺れるほどに――水資源に恵まれてた環境は転じてメリットになり得る。

 これ以上は浸水が進行しない、もしくはコントロール出来る緩やかさになると判断できれば、元都民が戻ってくるかも知れない。

 しかし、所詮は希望的観測だ。

 

 

 こんな有様の東京を誰の心をも温める――あの人を喜んでくれる街にする?

 一体どうやって?

 色彩を失うばかりのこの街にどんな彩り豊かな建物を添えてみても、墓標に鮮やかな花に供えるのと大差はない。

 変化があまりにも性急だ。

 このままでは、何が何だか訳が分からないうちに、残された希望も愛する故郷も全てが水底に沈んでしまう。

 生まれ育ったこの故郷を、あの人が好きでいてくれているだろうこの場所を奪わないでくれ。

 

 雨垂れ越しに歪む新宿の街並み。そこをのそのそと歩く滲んだ安っぽい傘の反射光を掲げながらのろのろ行き交う人々の流れ。

 モザイクで覆われた出来損ないの灯篭流しを前にして、瀧は夢想する。

 

 ……本当にどうしようもないのか?

 まだ、何か間に合わせる術は本当に無いのか。

 

 水浸しだった鉄道網だって、雨足が弱まったお陰でどうにか排水処理が追いついて運行再開に漕ぎ付けた。

 今からでも雨さえ収まれば、東京の街は元の姿を取り戻せる。

 まともに晴れるようになりさえすれば、うそ寒い海底遺跡予備軍になり下がったこの東京を、誰からも愛される温かな街に育て直せるかも知れない。

 ガラスに突き立てた瀧の手に、筋が浮き出るほど力が篭った。

 

 ――もしも。そう、もしもだ。

 

 もしも、あの愚にも付かない与太話が真実だとしたら。

 少女一人を人柱として捧げて、例え短期間だろうと快晴が戻ってくるのならば。

 そしてもし、その決断が俺に委ねられるとしたら――

 

 誰もが恋い焦がれる快晴を取り戻す為に。

 無性に叫びたくて堪らない焦燥と閉塞感に駆られる俺の願いの為に。

 大した知り合いでも無い、たった一人の少女を犠牲にする。

 果たしてそれは、望んではいけないことなのか?

 

 

 下の階から突き抜ける足音と、ガラス窓の鳴動に挟まれて、瀧はビクッと体を震わせた。腕に力が入り過ぎてガラスを突き破らんばかりに押していた自分に驚いて、半ばよろめきながら壁から距離をとった。

 一段一段階段を上る足音が大きくなってくる。誰かが近付いて来る。

 

 瀧は慌てて司達の居る上階へ駆けあがろうとして――思い直した。

 見知らぬ他人がここにやって来ようが、それがどうした?立入禁止エリアに侵入した訳でもない。

 俺は他愛ない妄想をしていただけだ。疚しいことなど無い。何も無いのだから、急ぎ立ち去る必要は無い。

 いやしかし、むしろこうして踏み止まる方が、何かしら疚しいところがあることを認めるのが癪で居直っているようで、不自然な気もする。

 

 どうするべきか、瀧が決断しあぐねている間に、足音に別の音が混ざり始めた。

 人の話し声だ。

 

「今の私に御声掛け頂いて痛み入ります。ですがやはり、この件はお断りさせて下さい。これでも徹底した現地取材が弊社のモットーってヤツですから、こうも材料不足ではお手上げです」

 

 声がはっきりと聞き取れるようになってきた。

 足音も声も一人分だけだから、携帯電話で通話しているのだろう。

 通話に専念しているからか、渡り廊下の暗さ故か、足取りは重く時折立ち止まっているようだ。足音のテンポはどんどんゆっくりになっていく。

 

「だから、それは誤解ですよ。第一、さっき伺ったお話だと、その少女の活動とやらが始まったのは七月末頃でしょう?例の都市伝説特集の〆切は七月半ばだったじゃないですか。……はい。恥かしながら、〆切を迎えたネタを、次の機会に備えて追い続けるなんて、人手不足の弊社には過ぎた贅沢です」

 

 相手が携帯電話で勝手に話してるとはいえ、立ち聞きするのはいかがなものか。

 瀧はそうは思いながらも、不思議と胸騒ぎと共に沸き立つ好奇心に負けた。

 イヤホンを耳に着けて、音楽を聴くフリをしながら聞き耳を立てることにした。

 

「ええ……確かに。件のサイトで過去の実績扱いになってた場所に、弊社の元従業員がうろついてたようですね。ですが、アレは未成年のバイトですから。使い走りはまだしも取材なんて絶対任せられませんって。……さぁ?買い出し中にサボってデートでもしてたんでしょうね。いや、監督不行き届きでお恥ずかしい。

 ……彼に取材を?……残念ながら解雇した後の消息は把握していないんですよ。ほら、今時は辞職願どころか、有給取得の理由さえ根掘り葉掘り聞けないご時世でしょう?一身上の都合と言われりゃお終いです」

 

 地底から迫る巨大もぐらに備える気分で身構えていると、階段の手摺の陰から男が現れた。

 年齢は四十代――いや、三十代後半だろうか。

 尖った顎と上背のある細身が締った印象を与えるからか、コールセンターのベテラン職員顔負けの語り口故か、無造作なぼさぼさ頭の割にはジャケットとスラックスが良く似合う。未だにリクルートスーツに慣れない瀧としては羨ましく感じた。

 

「――ですから、先ほども申し上げた通り。見間違いか思い込みですって。その子は私の姪の友人――後輩だったかな。目撃談か空撮か知りませんけどね、似てる少女なんて掃いて捨てる程居るでしょう」

 

 上ってくる男と見下ろす瀧、自然と目が合った。

 電話越しの会話で溜め込んでいるのだろう鬱憤が、汚れ尽くした排気口のフィルターを眺める清掃員に似た表情から漏れ出ていた。

 無音のイヤホンを装着した瀧は、スマホを片手に音楽を聴いていてたった今初めて男の存在に気付いた、という風に会釈してみせた。

 

「まあ、ここ最近では売れ線のネタですから、どの雑誌も血眼で関係者を探してるんでしょうけど。見当違いもいいとこですよ。その記者の妄想と言うか願望でしょう」

 

 男は若干バツの悪そうな顔をして、会釈を返しながら瀧の横を通り過ぎていった。

 

 瀧の突っ立っている踊り場から先へと男が階段を上り出した瞬間、瀧はどっと疲れを感じた。

 何を馬鹿らしいことをやっているのか。こんな悪趣味な徒労はもう止めよう。

 本当に音楽でも聴きながらそろそろ司達の所に戻ろうとか考え始めた。

 まさにその瞬間だった。

 

「そういう訳ですから、晴れ女の記事を弊社は請け負いません、と言うより書けません。お声がけ下さって、お気遣いはありがたいのですが」

 

 この男……今、『晴れ女』と言ったか?

 

「編集長には本当に感謝していますよ。……はい、はい。先方にはそう言い含めておいて頂けると助かります。姪は知人の弁護士に頼って然るべき対処をとると息巻いてたもので。……ええ全く、困ったもんですよ」

男は心底疲れた風に言った。

「しかし、泣く子も政治家も黙るあの雑誌が、晴れ女だなんてオカルトネタに手を出すとはね。がめついと言うか、このご時世同情するというか」

 

 暴れる鼓動音が耳小骨の邪魔をしていたが、やはり聞き間違いではなかった。

 瀧は握り締めていたスマホを操作して、

『急用が出来た。間に合えば後からカラオケ店に合流する。先に行ってくれ』と、司と高木宛に送るLINEのメッセージを慌てて入力した。震える指の所為で打ち間違えた箇所を修正する手間が心底煩わしかった。

 

「ハハハ、確かに自虐が過ぎますね。……はい。次の企画の記事はご期待に沿えるよう全力を尽くします。では、今後ともよろしくお願いします」

 

 スマホの光が消えて、男が首の凝りをほぐして関節が軋むような音が空間に鈍く

響いた。

 

「――ったく。同じ穴の貉の意趣返しなんて醜態を、よりによってアンタがやらかしてくれるなんてよ。洒落になってねえっての」

 

「あの、ちょっと良いですか?」

 

 宙に向かって悪態をつきながらスマホをポケットに押し込む男と、その足元に居る瀧の視線が再び交差した。

 不愛想に見下すようなその目付きが、小学生の頃に瀧を思い切り引っ掻いてきた野良猫を思い出させた。おまけに、左手の薬指にはやけにイカツい指輪。カタギなのかも怪しい。

 だが、ここで引き下がる選択肢は無い。

 

「あなた、さっき、晴れ女って言いましたよね?」

瀧は挑みかかる勢いで尋ねた。

 

「何ですか……いきなり。ハレオンナ?聞き間違いでしょう」

憮然として言い放つと、男は身を翻した。

 

 演技してまで盗み聞きしていた他人に悪感情を持つのは当然だろう。だが、この男の心中は、多分それだけではない。

 

 晴れ女。

 

 その単語を瀧が口にした時、男は顔を顰めそうになったのを気取らせまいとするように、無理矢理に無表情を拵えていた。

 

「いえ、さっき確かに晴れ女って言ってたでしょう。少し話を――」

 

「何だか知らないが、この後用事があるんでね。失礼する」

 

 男が階段を上るペースは明らかに速まった。

 間違いなく、この男は何か知っている。

 瀧は段飛ばしで男に追いつき、半ば縋りつくようにコートを掴んだ。

 

「待って下さい。お願いします。せめて――」

 

「しっつこいなアンタ。これ以上つきまとうなら警備員を呼ぶぞ」

男は細面に似合わない強い力で瀧の手はあっさり振り払った。瀧が踊り場までよろめきながら下がっていったのを見届けると、

「訳分からん因縁ふっかけるのは大概にしてくれ」

と吐き捨てて踵を返した。

 

 瀧は階段に手を付いて男に追い縋った。この機は絶対に逃せない。

 

「せめて――せめて、あの三人――いえ、あのおさげの女の子だけでも!!」

 

 男の体が感電したかのように揺らいで、そのまま階段を踏みしめて立ち止まった。

 手ごたえを感じた瀧は、すかさず駆け上って男の隣に立った。

 

「お願いします。三人全員が無理でも、せめてあのお姉さんが今どうしてるか。無事かだけでも教えて下さい」

 

 

 

 

 

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