黄昏の向こう   作:テービット

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8話 この背中を知っている

 

「どう?美味いでしょ、ここのクラフトビール。まぁ他にもおすすめはあるんだけど、何といっても珍しい銘柄が豊富なんだ」

 

 男は自慢げに語ると、ニヤケ面でグラスのビールをあおった。

 

 瀧は今、さっきまで司達と飲んでいた店の真上の階にある別のバーに居る。カウンター席の隣に座る、階段で引き止めたこの男から何とか話を聞き出す為だ。

 司達はつい五分前、開店しているカラオケ店に予約を入れて、空室が出来るまでファミレスに居ると連絡を寄越してきた。

 時間をかける気はない。知りたい情報を一通り聞き出し次第、合流する積りだ。

 

「そうですね。普段チューハイとか飲んでばかりですけど、これはこれで新鮮な感じがします。酒のつまみにチョコレートっていうのも意外に合うんですね」

 

「そうそう、この店の苦めの銘柄とだと特にね。どうやらチョコのポリフェノールと一緒に食うから健康にも良いらしい。まあ、姪っ子からは体型崩れてブクブクに太るから止めろってさんざっぱら説教されてるけどね」

すらすらと語り終えると、息継ぎ代わりにまたビールを飲んで、

「でも、何か悪いね。奢ってもらっちゃって」

もののついでのように言った。

 

「いえ、お話を伺う為に時間を割いて貰っていますからね、一杯くらいは奢るのは礼儀ですよ」

 

 一気にグラスの半分を飲み終えた男に対して、瀧は笑顔を心掛けた。

 おごるのはあくまで一杯だぞ?代わりにあんたもちゃんと話せよ?やんわりと釘を刺す。

 

「しかし何だか懐かしいなぁ。半年近く前にもこんなことがあったんだけど、もう何年も前の事のように思えるんだねぇ。歳はとりたくないもんだ」

 

 男はしげしげと弾けるグラスの泡を眺めながら呟くと、喉を鳴らしてビールを再び飲み出した。糠に釘とはこのことだろうか。

 

「いやぁ、大分爺臭かったかな。歳食うとどうもこういう感覚が染みついちゃってさ。お兄さん――君、大学生で良いんだよね?君くらいの子には分からないわな」

男の駄弁りは止まらず、顔を一層ふやけさせて、

「そうそう。君、本当に大学生だよね?ほら、未成年に酒飲ませたってなると俺が責任取らされちゃうから。ちゃんと確認しときたいんだわ、悪いけど」

今更なことを聞いてきた。

 

 言動に反して、男からは微塵も悪びれる気配は感じられない。

 伸びたゴムみたいに緩く、それでいて淀みない男の問いかけから、瀧は妙に強い圧力を感じた。

 

「お引き留めしておいて自己紹介が遅れました。俺は立花瀧と言います」

 

 渋々、男に学生証を差し出した。

 このままこちらの素性をはっきり示さなければ、この男はこの調子でのらりくらりと話題を逸らしながら、ただひたすら酒を啜り続ける気がしたからだ。

 

「……へぇ、建築学部、ね。年齢からして現役合格で留年無しか。凄いじゃない、タチバナタキ君」

 

 男の態度は物珍しげな品で戯れると言うより、幼児に買い与える玩具を吟味する親を思わせた。裏面はおろか側面も見たり、くっついた本のページをめくるように何度か指でなぞってみたり。

 そうして一頻り学生証を観察し終えると、学生証を瀧に返した。

 

「はいコレ、ありがとさん。確かに学生さんだな。安心したよ」

 

「学生証、何か変なところありましたか?」

 

 瀧は敢えて尋ねてみた。

 男はツマミを掴んだまま手を振って否定した。

 

「特に無いよ。職業柄出会うとしても文系の学生が多いから何だか珍しいもんでね」

男は、飲み食いを続けていた手を止めて、懐に手を突っ込んだ。

「まっ、自己紹介して貰ったんだから、こっちも名乗らないと失礼だわな」

出てきた手には名刺が握られていた。

 

 瀧は名刺を見た途端に両手を伸ばしかけて――止めた。

 軽くお辞儀をしながら両手を添えるようにして名刺を渡し、渡される方も同じく両手で丁重に受け取る。就活生がマナー講習で最初に叩き込まれる慣習だ。

 だが、この男は片手で名刺を放るように突き出している。

 人を食ったような男の態度からは、単にマナーを知らないとか、人懐っこく略式で接するとか言うのではなく、こちらを挑発するような意図が窺えた。

 年上だろうが、無礼な相手に礼節を尽くすほど大人にはなれちゃいない。

 大人げないのは承知の上で、瀧は敢えてひったくるつもりで無造作に受け取った。

 

 名刺のど真ん中にはでかでかと名前と役職が書かれている。

 須賀圭介。CEO――社長か。

 先程からのふてぶてしさはこれが理由だろうか。そんなことを考えるうちに左上に社名を見つけた。

 

 有限会社K&Aプロダクション。

 

 この名を目にした途端に、瀧の中で感情の燻りが一気にかき消された。

 ――K&Aプロダクション。

 

「これでも編集プロダクションの社長なんだ。君、ウチのこと知ってる?」

須賀は返事を聞く前にジョッキを煽り始めた。

 

「はい。御社の名前なら知って――いえ、存じ上げてます」

 

 須賀は苦笑を浮かべて、ツマミを口に放り込み、ボリボリ食べながら、

「まぁそりゃ知らないわな」

と、当然のように言った。

「つーか面接会場でも無いんだから、ウチみたいな零細に御社なんて畏まった表現は要らな――」

 

 須賀の口ははたと止まり、チョコと間違えて口に飛び込んだ虫でも噛み潰してしまったような表情で瀧に尋ねた。

「――何故知ってる?」

 

「え?今、なんておっしゃいました?」

 

「何で、ウチのこと知ってる?君、親兄弟にライターとか居たりするワケ?」

 

「いえ、別に居ませんけど……どうしてそんな質問を?」

 

 瀧の答えを聞くや、須賀はあからさまな呆れ顔をした。

「君みたいな学生がウチを知ってる道理が無いからだ。俺が言うのも難だがな」

 

 分かり切ったことを白々しくほざくな、とでも言いたげな口調だった。

 

「今日び、人好きだったり知識欲旺盛で色んなとこに取材する機会が欲しい奴らにはWebで応募するフリーライターって便利な立場がある。そんなご時世では編プロの門を叩く奴は限られる」

須賀は瀧に向かって片手の指を三本立てた。

「出版社のパシリに甘んじてでも、とにかく色んな媒体で情報を発信する側に立って何かしら書いていたい。フリーだと仕事を獲り辛いから、会社の傘の下で数をこなしたい。これは昔ながらのパターンだな。あとは出版社より軽いフットワークを活かして、好きな本を出したいって奴。大体この三通りかね。それにしたって、受け皿になれるだけの人や金を持ってる会社ってのが前提だ」

 

 須賀は鼻息を鳴らして急に黙った。左手薬指のゴツい指輪を弄る手だけがせわしなく動く。

 そのまま何秒黙りこくっていたか。須賀はグラスに残った酒を飲み干してから口を開いた。

 

「恥ずかしながら、ウチは受け皿どころか割れ鍋だ。昔っからバイトの求人を出す余裕も無かったし、特にここ二年間はほぼ開店休業。ライターだろうが編プロ志望者だろうが、まず寄り付かねえし見向きもしねえ。

 風前の灯。零細の中の零細。まさしくヘイシャのことだな。自慢じゃねぇが、業界人でもウチの社名を知ってる奴は多くない。K&Aプロダクションに比べりゃ、道端に生え散らかしてる雑草の方がまだ知名度が高いんじゃねえか」

 

 瀧はようやく、この男から感じる威圧感の理由に気付いた。

 須賀は瀧と出会った時からずっと、ふやかしたニヤケ面を貼り付けている。

 しかしその実、瀧を見据えるその目は、一瞬たりとも笑ってはいなかった。

 須賀はずっと、冷め切った視線で瀧に問いただしていた。

 

 ――お前は一体何者だ?ウチのことを知ってる?そんな下手なおだて文句を口にして取り入ろうとする?

 ――どういう魂胆で俺に近付いた?

 

 須賀が不審と疑念をぶつけてきていると察して、瀧が真っ先に感じたのは安堵

だった。

 初対面の時に須賀に対して感じた、野良猫に近いというあの印象。あれは正しかったのだろう。

 思い返してみれば、瀧の中で最も深く印象に残る野良猫はどれかと言えば、小学生の頃に出会った一匹だ。その猫は、瀧が可愛い子猫を撫でようとした時、どこからともなく現れて、突然瀧の手の甲を引っ掻いてきた。

 その癖、手の甲に引っかき傷が残っても、それほど悪印象を抱かなかった。

 あれは我が子を守ろうとする親猫の決死の逆襲だったことを、小学生なりに察していたからだ。

 須賀もまた、あの三人の子供達にとっての親猫なのではないか。

 

 あの三人にそういう人が居て欲しいという独り善がりな願望を、知りもしないこの男に押し付けているだけかも知れない。

 けれども。瀧は思ってしまう。

 あのK&Aプロダクションを率いる男だというのなら、俺の思う通りの優しい人であって欲しい。

 

「『千年に一度降る彗星から生き延びた被災者達』……K&Aさんの記事ですよね」

 

 瀧はそれ以上口をつける気の無かったグラスを手に取り、ビールで喉を潤した。

 社名を知っている理由を話しても、理解されるかは怪しい。

 自分が翻弄され続けるこの奇妙な執着。

 それについて話したところで、奇人扱いされるのが関の山だろうとは思う。

 それでも、この須賀には、あの三人の件だけでなく、どうしても聞きたいことと伝えたいことがある。

 

「変な習慣と言いますか。理由は自分でも分からないんですけどね、糸守町のことが五年くらい前から無性に気になりだして色んな記事漁り続けてたんです。

ここ何年も……ずっと。本当、変な話だと俺も思います。そんな中で、御社のあの記事は、俺が求めていた情報そのものでした」

 

 

 千年に一度の一大事件だった糸守町とティアマト彗星。

 あの災害を題材にして記事を書けば、内容を問わずとにかく売れる。そんな一大ブームが二年以上にも渡って日本全土を席巻していた。

 そうなれば必然、記事は量ばかりが優先されて、質は下がっていく。

 

 脳裏に焼き付くほどに衝撃的で、スピリチュアルで不可思議な事件だっただけに、過激さで分かり易い答えを求める人が多かったのも問題だった。

 何故、収穫祭の夜祭りというタイミングで避難訓練を実施出来たか。その理由を考えてみてたところで無意味だ。市長の娘である巫女の予言だとか、かつては神主だった元市長がマッチポンプの為に念動力で彗星を呼び寄せただとか、荒唐無稽で話題の発展性の無い結論にしか行き着かないからだ。

 そんなものに関心を寄せるのは、酔狂極まる――それこと瀧のような――人間かオカルトオタクくらいのもの。世間一般にとってはお呼びでは無い。

 災害の実状の続報に向けられる関心の低さはもっと酷かった。

 赤熱した巨大クレーターの映像は鮮烈でこそあれ、犠牲者はゼロ。

 例えば、夥しい犠牲による悲劇性を孕むとか。被災したのが高級住宅街で、その土地のステータスの高さに対する、普段は押し殺している嫉妬心が噴出したとか。一般的な災害の側面として、そういった下世話なエンタメの種があってこそ、需要

と関心が芽吹く。

 今まで見向きもされずにいた僻地の田舎町と、彼の地で起こったハッピーエンド。赤の他人にとってそれは、旅行中に車窓越しにすれ違う、遠方の禿山や廃屋くらいの価値しかない。

 

 ただし、渦中に居た元市長に関する話題は例外だった。

 彗星の落下に対処出来た理由の謎と違って、過疎地でのありふれた不正選挙や政民癒着という問題は、複雑かつ高尚なようでいて実に身近で単純明快な問題だ。

 地方自治政治の在り様を見直す議論の踏み台としても便利だし、近隣の土地で大昔に滅んだカルト宗教団体と強引に結び付けてキナ臭いネタをでっち上げることだって出来る。

 料理の仕方は幾らでもあり、ゴシップネタとして賞味期限を引き延ばすのは楽だ。

 そんな姿勢で記事を作る記者は日増しに増えて、やがて既出情報の編纂と憶測を捏ね繰り回すだけの粗製乱造が横行した。

「元町長への突撃取材班を敢行したが、彼は逃げるように立ち去った!」なんて煽り文で締める。敢えてアポなしで押しかけて挑発する意図が透けた記事が頻発した。

 悲惨なのは、そんなマナーの欠ける記事でさえ、現実で自分の足を運んで取材した努力が認められる分だけマシという始末であること。

 未曾有の大災害は半ば玩具扱いで使い潰され、無惨な残骸を晒していた。

 

 しかし、玉石混交という表現が褒め殺しになり、どのライターも中身が空っぽでも人気だけはある記事に倣う状況下でも、他とは毛色の違う特集記事や書籍が極僅かに存在した。

 その好例が『千年に一度降る彗星から生き延びた被災者達』。

 道端の雑草が咲かせる花のように、インターネットの片隅にひっそりと掲載され続けた、地味な連載記事だった。

 その連載では、災害当日についてはほとんど扱っていなかった。

 綴られていたのは、糸守という土地そのものについてだった。

 元糸守町民達のその後と、失われてしまった暮らしの対比。

 老人たちにとっての在りし日の糸守と、若者達にとっての感覚のギャップ。

 ド田舎と馬鹿にしていた若者達が、喪ってから気付いた故郷への愛着。

 失われる前の写真からは何の変哲もなく見える田舎町。そこにひっそりと根付き、時に疎まれながら愛されてきた独特な風習。

 いずれの回でも、本当の糸守の姿を丹念に、かつ真摯に見つめようとする記事が掲載されていた。

 今でも時折、あの連載を最初から読み返すと、どの回の記事からもその土地で生きていた人々の息遣いが伝わってくる。

 活字の一字一句をとっても、今は亡き町での生活や、文化に宿る想いに寄り添って理解したいという筆者の熱意が感じられるのだ。

 掲載されているサイトを見つけてから数年間、瀧は定期更新の日時になると急ぎサイトにアクセスして、便りの絶えた親友の消息を尋ねる思いで、貪るように連載を追ったものだった。

 

 だからこそ、連載の打ち切りを告げる殺風景な一文を見た瞬間の、心にぽっかり穴が穿たれたあの感覚を、瀧は今でも鮮明に覚えている。

 その穴を埋めたくて、縋るような思いで記事を手掛けた会社とライターのペンネームを探し出した。けれども、会社のアドレスにメールを送ってみても返事は無しの礫。連絡窓口と思しきSNSのアカウントも更新が途絶えていた。

 途方に暮れながらも、思い出したようにひょっこり掲載されやしないかと、掲載されていたニュースサイトを定期的にチェックしてきた。

 昨日までは、そんな徒労を長いこと繰り返してきたのだ。

 

 瀧は須賀に、記事にまつわる思い出を語った。

 見つけた時の衝撃が語りようもない程に大きかったこと。

 地元農家の老夫婦一組や土建屋の社長、酒場の店主、ごく普通の彼らの人生にも真摯に向き合うインタビューに、感銘を抱いたこと。

 添付される写真を叙情的に解説する文章に、狂おしい郷愁を覚えたこと。

 毎回五千字以上で全十二回というボリュームの連載だ。その気になれば小一時間は語れる自信がある。

 打ち切りによって抱え込んだ鬱憤をぶつけたい気持ちもあった。

 しかしそれ以上に、独りで苦しんできた飢えと渇きを少しでも癒してくれたことへの感謝の念が強くて、それを須賀に伝えたかった。

 

 感想語りの途中で、瀧はふと我に返って、自然と乗り出していた身を引いた。

 知名度が低いであろうノンフィクション連載について、一介の学生が語るにしては熱が入り過ぎた。

 須賀はさっきから無言を貫いている。気味悪がって閉口しているのだろうか。

 

 瀧はおそるおそる横目で見遣ると、須賀は予想外の表情を浮かべていた。

 不快さは全く見受けられず、懐旧と哀愁に浸る目でチョコをつまんでは口に運んで噛み締めていく。

 その様子はどういう訳か、咀嚼すればするほどにチョコから不思議な甘味が染み出るのを楽しんでいる風にも、襲ってきた持病の痛みを堪えようと鎮痛剤代わりに呑み込んでいる風にも見えた。

 

「成程ね。確かにウチの記事だ。……そうか、アレをな。……そっか」

 

 須賀はそれだけ呟くと、また口を噤んで俯いていた。

 

 それから一、二分は経っただろうか。

 須賀は徐に頭を上げてバーテンダーの方を向いて、

「すんません!今度はブラントンをダブル、ロックで。それとスペアリブ、二本頼みます」と、勢いよく注文したかと思えば、

「立花君も何か飲むだろ?」と、穏やかな口調で尋ねてきた。

 

 瀧は少し迷った。

 就活は終わっていようと司や高木も多忙な身だ。次に会えるのは何時になるか分からないから、二次会には参加しておきたい。

 ここから先は恐らく話が長くなる。親友か、須賀か。二択になる可能性が大だ。

 

「はい、では俺は……同じものを水割で」

 

 結局、須賀との会話を選択した。

 ほどなくして双方に酒が到着し、早速口をつけた須賀を横目に、瀧はグラスを弄んだ。

 バーボンの水割りはとりたてて瀧の好みではない。バーボン自体普段口にしない。長話をする上で、ペースが落ちて酔いの回りが遅くなりそうな酒を選んだだけだ。

 さて、どう会話を切り出すか。瀧が思案していると、

 

「あの連載を全部読んでくれた読者が居たとは、正直意外だった」

須賀が先に口を開いた。

「俺とあの連載の担当記者は、『糸守爆破事件』をリスペクトしててね。それこそ、つい最近まで作業机のど真ん中に置いてたくらいにな。でだ、あの連載の準備をしてた頃は、あの本と同じ路線を狙ってた。それが、あの連載の担当記者が、下調べ目的で現地に着いた途端に企画の方向性を変えたんだ」

 

 そして、須賀は照れを隠しきれていない笑いを浮かべた。

 

「色んな被災地を渡り歩いて、一度は自分も被災した記者として、とりわけ強烈に変わり果てた風景に思うところがあったらしい。読者の反応は薄かったけど、あの記事はまさしく入魂の作だったよ。面と向かって感想を貰えるってのは思ったよりも嬉しいもんだな」

 

 瀧は自然と弛む頬を隠したくなって、グラスを口に運んだ。

 水割りにしたお陰か、バーボンの口当たりは想像よりも遥かに良く、癖が強めの甘みを楽しむ余裕があった。

 

「それにしても『糸守爆破事件』ですか」

瀧は照明を見上げて、懐かしむように言った。

「年間ベストセラーになったのは納得の一冊でしたけど、俺にとってはありがた迷惑でもあったかなぁ」

 

 瀧はこれまで、糸守に関するあらゆる資料を読み漁った。その中で複数回読み返した著書や記事は片手に納まる程度だ。

 そのうち、『千年に一度降る彗星から生き延びた被災者達』の他に印象に残ったものと言えば、『糸守爆破事件』は外せない。

 

 彗星が糸守町北部が巨大クレーターに変えた時、影響範囲からギリギリ外れていた変電所も大破した。当初は彗星の小片が原因と考えられていて、死傷者も居ないので誰も気にしていなかったが、実は爆発物による人為的な破壊行為の疑いが有るとする地元警察の捜査資料が漏洩した。

 世間は一時的にお祭り騒ぎになって、憶測が憶測を呼んだ。

 だが、所詮はそれだけ。捜査情報が漏洩する前と変わらず、捜査は進展せず

逮捕者も誰一人出ないまま、一過性の暇潰しのネタにしかならなかった。

 現場で人為的な爆破の痕跡が見つかろうとも、そこから分かるのは、犯人が存在するということだけだ。

 逮捕に漕ぎ付けるには、使った爆薬の保管場所――有力候補は糸守町に実質一社だけ構えていたという土建屋の危険物倉庫だろうか――を捉えた監視カメラの映像なり、何かしらの物的証拠が必要になる。

 糸守町は、監視カメラはおろか街灯さえ碌に無いド田舎。しかも、彗星が証拠になり得る全てをあらかた消し飛ばされた後だ。爆破事件が事実だとしても、迷宮入りは避けられない。

 

 しかし、ある編集記者が、綿密な取材を重ねて当日の現地の状況を克明に書き起こすことで一石を投じようとした。

 あの夜の糸守町で一体何が起こったかを解き明かす。そう謳って世に出た近年で最も有名なノンフィクションの一冊。それが『糸守爆破事件』だった。

 臨場感溢れる秀逸な著書だったにも拘わらず、出版されてからこの方、批判意見の方が多かった。

 研究機関に分析を依頼する為の試料を自力で収集する際に、立ち入り禁止区域に無許可で侵入した法律違反。著書の主旨を偽ったインタビューで目撃証言をかき集めたという報道倫理にもとる行為。

 こうした熱意の暴走も批判の原因として挙げられるが、最大の原因ではない。

 何より、「地元神社の巫女の予言を真に受けた一部住民による暴走の可能性が高い」という結論を出したことで、読者の不興を買った。

 じっくり読みこめば、検証に検証を重ねた末の結論だと分かる。彗星を目にした市民が右往左往して暴走するのも、江戸時代以前の伝記にも残るありふれた事象だ。

 だが、世間が望むような下世話な政治ネタか僅かでも現実味を添加した陰謀論に対して、丹念な取材によって後ろ足で砂をかけつつ、

『単なる集団ヒステリーです。彗星が落ちて瓢箪から駒が出た理由?そんなもん

やはり分かりませんでした』

と、真顔でそう宣言した訳だ。読者が鼻白むのも無理は無い。

 今現在でもこの著書に向けられる反応は、「これこそ竜頭蛇尾」「肩透かしの見本」といった酷評が大半だ。

 ただそれは、途中までの秀逸な出来栄えに対する期待の裏返しであり、支持も根強い。

 主な層としては、巫女の予言は本物だと沸き立ちカルト的に支持し続ける、絶滅寸前のオカルトオタク。

そして「取材活動の指南書かつ反面教師としての側面を含めれば一読の価値あり」と看做す同業者だ。この須賀もまた然り。

 

 瀧はこの著書に対して、複雑な思いを抱いている。

 読み進めていくうちに、不思議と詰め寄らせて糾弾されているような緊張感を覚えて、取材から導き出した結論を読むと胃が縮む思いがした。

 それでいて、一見妥当そうで陳腐な答えを出して逃げを打ったから、と著者が世間から袋叩きにされる様には、同情の念を覚えたものだった。

 

 

「例の土建屋に対しても――実名こそ伏せてましたけど――社長の息子が怪しいだとか指差しておいて、訴訟沙汰になりかけて示談しただとか。自分達の目撃証言の扱われ方を知った元糸守町民から不興を買ったとか。

 内容の是非は置いといて、出版後には良い話聞きませんし、俺としては余り良い印象は無いですね。糸守関連の記事の質が一気に落ちたのは、あの本が原因で元町民の口が固くなってまともに取材出来なくなったのも一因って噂もあるりますね」

 

 瀧の意見に須賀は頷き返した。

「俺が取材に同行した感触からしてもその噂は正しかった。そういう意味でもウチの担当の嗅覚は正しかったよ。二匹目の土壌を狙って、まともに取材出来ず空振りじゃあアホらしいにも程がある。もっとも、記事としては売れ線から外れたから、読者の反応はイマイチ薄かったけどね」

 

 瀧は首を傾げた。

「でも、あの連載は隔月で二年以上も続いたじゃないですか。特に、元市長の独占インタビューは普段読んでない層にもSNSで話題になってましたよ」

 

「……そいつら全員、タイトル詐欺だの市長の太鼓持ちだのと、好き放題喚いて去って行ったよ」

須賀は苦笑混じりに吐き捨てた。

「まぁ、元市長直々の犯罪暴露話でも期待してんだろうが、蓋を開けてみれば全くの別物だったからねぇ。宮水神社と糸守の成り立ちだのって民俗学的知見。氏子の今後面倒をどう見ていくかとかいう今後の展望。その手のおカタい話は読者の皆さんはお気に召さなかったようで」

 

 昔に思いを馳せているのか、須賀の視線は宙を漂い、唇は歪んでいた。

 そして今度は、現在隣に居る例外的読者のことを思い出して、目尻と口元を緩めた。

 

「あの連載は、読者より取材対象の元住民達――意外なことに老若男女――に好評でね。あの市長のそうだが、紹介に次ぐ紹介で、良い意味で芋蔓式に取材が出来たんだ。Webサイトの編集部もその独自性を買ってくれていた。あの記事の担当者の熱意と気合で、ネットの片隅に喰らいてたようなもんだ」

 

 瀧は半身を乗り出した。

「そこまで熱意が篭ってたなら、どうして突然休載にしてしまったんですか?」

 

 気の所為だろうか。

 質問を受けた須賀は、来るべきものが来たと身構えたように見えた。

 

「担当記者が、その……アレだ、アレ。……辞めちゃってね」

途切れ途切れに沈んだ声で言うと、須賀は沈黙した。能面のような顔の下で薬指のイカツい指輪を弄り続ける。

 

 黙りこくったまま金庫のダイヤル錠を開けるように指輪を回し続けて十秒ほど経った頃か。須賀はバーボンのグラスを手に取って口を開いた。 

 

「引き継げる人材が居なくてどうにもならなかったんだ。立花君がメールをくれたのも、その人に管理して貰ってた誌面に公開してたアドレスだろう。パスワードを共有してなかったもんで、メール貰っておいて何年も放置しちゃって、すまなかったね」

 

 息継ぎするようにグラスの酒に口をつける須賀の語り口は、粛々と原稿でも読み上げるかのようだった。

 

「いえ、その……謝られましても。どう答えて良いか分からないというか」

瀧は気楽さを装って応じようとした。様変わりした須賀の雰囲気を前にして顔が強張ったのは否めない。 

 

 須賀は堪えかねたようにピシャリと額を叩いた。

「本当、しょうもねぇ。三流どころか四流編プロにしちまったよなぁ、俺」

 

 言い終えるより早く、須賀の萎れた顔がカウンターに突っ伏した。

 

「今日にしたって、さっさと拒否するつもりの仕事なのに、依頼料は美味しいなぁとか思って断るの躊躇っちまったし。……何がK&Aプロダクションだかな。貢献度からすりゃあ、さっさとAプロダクションに改名すべきだってんだよなぁ。

 ……いや、このザマで名前を戴いても逆に嫌がられるか。マジで二年間も何やってやがったんだってんだよなぁ……」

 

 ぼやきがどんどん掠れて小さくなり、やがて聞こえなくなった後も、カウンターに向けて延々と愚痴を吐いている。

 須賀が頭の傍に放り出したグラスを見ると、なみなみ注がれていたバーボンはもう半分以上無くなっていた。

 これがおっさんの泣き上戸という奴だろうか。

 

 瀧の中で、社名を目にした瞬間の感銘が薄れて、虚しさが湧き出してきた。何が悲しくて、こんな湿った乾燥へちまみたいなおっさんを介抱しなきゃならないのか。

 だが、それでも――

 あの連載に対する、飢え乾いていた丁度その時に欲しいものを施してくれたことへの感謝と敬意は根強い。

 その産みの親たるK&Aプロダクションの看板を掲げる人が己を卑下する様は見るに忍びない。

 須賀が気を取り直しそうな話題は何か無いか。

 瀧は思考をフル回転させて、どうにか一つ閃いた。

 

「須賀さんって、お見受けいたところお歳は四十代で合ってますか?」

 

「ああ、これでもまだ四十二だけど。それが?」

萎れた顔を引き摺って、須賀は瀧の方を向いた。

 

「御社――K&Aさんは零細だってお話ですけど、有限会社ってことは二十代の時にはもう起業されてた訳ですよね」

瀧は渡された名刺の一点――有限会社の表記を指差した。

「俺の周りの知り合いでも、起業しても数年で立ち行かなくなったとか、就職先のベンチャー企業があっさり倒産してまた転職先探してるとか、そういう先輩って案外居ますよ。会社がこれだけ長く続けてるなんて凄いことじゃないですか。俺じゃ真似できないっていうか、正直想像もできません」

 

 中年男に対する慰めの意図はあるが、同時に本音でもあった。

 二○○六年の法改正により、それ以降は有限会社の新設は不可能になった。

 つまり須賀は、今の瀧とさして変わらない年齢で設立した会社を、十五年間以上に渡って持ち堪えさせているのだ。

 

 須賀は体を起こした。

「あぁ、そこ?そこが分かっちゃう?まぁ色々乗り越えてきたし、それ程でもある――なんて、格好つけて言いたいとこだけどねぇ」

若輩者の気遣いを汲んで、複雑そうに薄く笑った。

「正直そんな大したもんじゃないんだわ。そもそもこの会社自体が――」

と言いかけたが、首を振って話題を中断した。

「悪い悪い。俺ももう歳か、ついつい昔話をしそうになる。おっさんの昔話なんざ煙たいだけだってのにな」

 

「いえ、聞かせて下さい」

瀧は思わず頼んだ。いや、せがんだ。

「俺もあの記事を書いてくれてた会社の人の話なら聞ききたいです。それに、経営者の話を直接聞けるのは結構貴重ですから。就活迷走中の身として興味があります」

 

 須賀を引き止めてまで聞きたかった本題――あの三人の安否からは大きく脱線してしまうだろう。自分もやるべきことは山ほどあるし、司達との約束に間に合う確率はますます低くなる。

 それでも瀧は、須賀とあの記事を発案したというライターについて是非とも知っておきたかった。

 干物みたいなだらしなさの中にどこか引き締まったメリハリを感じさせる、掴み所の無いこの須賀という男。

 自分とほとんど変わらない年齢の頃に会社を立ち上げて、今尚奮闘する程の原動力が一体どこに秘められているのか。

 それを知れば、この迷走続きの就活戦線において、そして五里霧中の将来に対して、活路を開く切っ掛けになるかも知れない。

 

 

 須賀は一瞬目を見張った。

「参考になるか分からねぇが」と口の中でもごもご言ってから、

「君くらいの歳の頃だな。自分探しと嘯いてバイト先をとっかえひっかえのフリーター生活に終止符を打って、中堅編プロを終の棲家と決めたんだ」

再び語り始めた。

「昔から文章力だけは人並以上って自信はあった。……とは言え、小説家とか創作で食えるだけの才能は無い。寄越された仕事だけ捌いて、読むに堪える体裁だけは取り繕った記事を量産する。結局はそういう生産性のせの字も無い誌面の穴埋め代打めいた編集者になってた。別名判子職人さ」

皮肉めいた笑みで曲がった口で語り続ける。

「だがまぁ、半端者にとっては妥当な終着点に思えたんだよ。とりあえず、自分は何かを生み出せていて世に発信する側に立ててる。有象無象とは違うんだ。下らん自己暗示で無聊を慰めようとしてた」

 

 そこで、須賀は不意に口をつぐんだ。

 バーボンをまた口に含んで、口内に馴染ませるように間を置いて、

「そうやって言い訳めいた自己満足に埋もれながら一年経った頃だ。転職してきたアイツと出会ったのは」と、感慨深げに言った。

「『出版社だと配属された部署や雑誌から数年は異動出来ない。私はもっと色んなことを知りたい。書きたい。伝えたい』……開口一番の自己紹介で街頭演説みたいに宣言してたよ。よりにもよって、大手の出版社から好んで都落ちしてきた、酔狂な奴だった」

 

 肩を竦め両手の掌を上に向ける、お手上げのハンドサインを須賀はやってみせた。如何にも愉快げだった。

 

「アイツは趣味も変わってたな。立花君、ウチのこと調べたんなら、記事の傾向として何が多かったは分かるか?」

 

「ネットと図書館で調べられた範囲だと、オカルト系が特に多かった気がしますね。グルメや観光地特集とか色々でしたけど。あの糸守の記事の印象が強くてノンフィクションがメインかと思ったんで、意外でした」

 

「そう、それ!」

須賀は指をビシッと瀧の方に伸ばした。ミュージカル映画だったら、ここから合いの手を入れながらダンスでも始めそうな勢いの良さで。

「入社宣言通りに色んなジャンルに食指伸ばしてたけど、中でもオカルトを好んでたんだ。ノストラダムスの大予言が盛大に外れて引き潮みたく流行が去ってく只中だろうがお構いなし。昔っから悪目立ちしてたよ」

 

 天井を仰ぎ見る須賀の表情は、呆れや諦めとは程遠い。公園ではしゃぐ我が子の腕白さを謙遜する親の照れ笑いに似ていた。

 

「とにかくアイツは熱意と人懐っこさとバイタリティが凄くてね。でもって、好奇心旺盛。取材先の現地に着くまでに資料を読み漁って乾燥スポンジ並の早さで知識を吸い込んで、取材相手の懐に上手く飛び込んでいく。ポメラニアンみたく丸っこい癖に、矢の様にとか矢継ぎ早って言葉がよく似合ってたよ。そういやポメラニアンって元々狩猟犬だったっけ、なんて原稿に目を通しながら考えたもんだった」

 

 興が乗ったのか、須賀のトーンはどんどん上がっていく。

 件の記者に対して、親しみを込めて「アイツ」と呼んでいることさえ、

どこか興奮している彼は自覚していないだろう。

 

「ただねぇ、勢いが文章に納まらない、興奮と熱気が駄々漏れのとっ散らかった原稿が送り付けられることも、そりゃもう多くて多くて。そんで、その推敲は補佐でもあった俺の仕事だ。苦労させられたよ」

 

 須賀は一旦話を切った。喉を潤すのにバーボンではなくチェーサーの水を選んだのを見て、瀧は内心ほっとした。

 このままヒートアップしてまた悪酔いされたら堪ったものではない。それに、惚気めいていても畑違いの話には新鮮味があり聞いていて嫌な気分はせず、続きが気になった。

 瀧はグラスをちびちび啜り、相槌代わりの適当な問いを思案した。

 

「編集の仕事って、赤字で修正を入れまくりながら記者と折衝して、記事を良い方向に導いていく感じで良いですかね。最近漫画か何かでそんな描写を見た程度の知識ですけど」

 

 人気漫画の描写を参考しているから無難な鉄板ネタだろう、という瀧の予想に反して、須賀は仏頂面に近い顔で否定を表明した。

 

「記者が寄越した原稿を赤字塗れにして突っ返して働いてる気になってるとしたら、そりゃ三流の仕事だと俺は思うな。編集がバッチリ仕事してりゃあそうはならない。取材も原稿作りもアドリブは要る。けど、それだけじゃあダメだ」

全身から漏れ出すだらけた雰囲気とは裏腹に、須賀は力強く断言した。

「取材対象をノセて本音を引き出す。その取材を基にして記者の独自色の残る記事を書けるようにしてやる。

 その為には、記者の長短や志向を把握した上で、企画において何を重視し、取材が想定外の展開になればどうするか。打合せとか事前準備が欠かせない。限られた準備時間の中で濃密な協議をしていくには、編集者と記者で試行錯誤せにゃならんのさ」

 

 話に没頭すればするほど、須賀の面持に真剣味が増していく。

 いつの間にか、二人とも姿勢を正していた。 

 

「だから必然的に、編集者と記者の相性と信頼関係が仕事の質と量を変える。ひたすら数をこなすうち、俺はアイツの専属同然、二人三脚になってた。家に帰る頻度が低過ぎて家賃を払うのがアホ臭くなる忙しさだったけど、充実してた」

 

 熱く語る須賀と、意気込みに押されながらも聞き入る瀧。

 バーテンダーから替えのおしぼりを差し出されて、二人は自分達がバーに居るのを思い出した。

 

 須賀は気恥ずかしげに咳払いをして、

「で、アレだな。そうやって一緒に仕事を三年くらい続けた頃だ。アイツが、『二人でこの会社を立ち上げよう』って俺に提案してきた」

澄まし顔を作って言った。

「当時在籍してた編プロは手掛けるジャンルは広くて、その点ではアイツは満足してた。けど、完全に出版社の下請けでね。取材ネタや仕事のペースにもっと幅や融通が欲しいと思い始めてた。それにあの頃は自分達で本を出版する同業者が目立ち始めてて、ソイツらに触発されたんだな」

 

「それで、お二人で独立されたんですか」

 

「ああ。俺の方はもう、アイツ以外と仕事する気なんざ微塵も起きなかった」

 

 須賀はスペアリブに齧り付き、八つ当たりするように残った軟骨をゴリゴリ噛み砕いて、「んで、そっから先がもう、揉めに揉めまくった」と、吐き捨てるように言った。

「アイツは名家の長女でね。両親が就職を許したのは可愛い子には旅をさせろってなもんで、"然るべき立場や家"に納まるまでの道楽に過ぎなかったんだ。アイツが転職までして、とにかく取材の幅を広げようと躍起になってたのも、その迫る期限が来る前にって焦りも大きかった。……それが『起業して仕事を続ける』と着たもんだから、蜂の巣を突いたような大騒ぎよ」

 

 須賀はその当時の狂騒ぶりをせせら笑うような声を上げて、喰らい尽くした骨を皿に放った。

 

「おまけに自慢じゃないが、俺もそこそこの家柄の出。旗本の部屋住の出涸らし次男、三男坊ってなポジションだ。アイツの実家からの反応は、手切れ金を渡せば済む純然たるチンピラのヒモよりも面倒な、厄介な寄生虫同然の扱いだった。

 それでも二人で突っ撥ねて、貯金はたいて資本金を確保して、何とか会社を立ち上げたんだ」

 

「それでわざわざ起業を?……言っちゃ難ですが、無駄が多いのでは?」

瀧は首をかしげて、須賀の述懐に異論を挟んだ。

「受験勉強のうろ覚えですけど、合弁企業でしたっけ?その時期なら、もう少し待てば資本金無しで楽に起業出来るように制度が変わったのでは?知らずに起業してしまったにしても、一回会社を畳んで再出発した方が楽じゃないですか?」

 

 須賀はハハハとわざとらしい大声で笑って、

「ぐうの音も出ねえ指摘だな。ホントその通りだ。失敗って言えるかもな」率直に認めた。

「俺達二人して焦ってたのが大きかった。大して稼いじゃいないから税金も余計にかかったし面倒な手続きばかりが増えたから、確かにいっそ一旦畳もうかとは何度も思ったよ」

でもな、と須賀は語気を強めた。

「それでも、石にかじりついてでも会社を続けてやる。古アパートの狭苦しい一室が登記先なんて状況から脱しよう。もっと広い所に居を構えて、従業員も雇って、いずれ俺らの本だって出版しよう。二人で、そう誓ったんだ。

 意地を張るのを止めちまったら、ようやく見つけた生き甲斐を――アイツと過ごしてきた時間を、全部否定するような気がしてた」

 

 須賀は左手の指輪を右手で触れた。見るからに力を込めて指輪を薬指ごと握り締めて、氷が溶けていくグラスを睨みつける。

 

「他人の目には滑稽に映ろうとも、実際に余計な荷物抱えてるんだとしても、今のこの想いを――思い出を放り出したら、自分が自分で無くなっちまう。俺にとってこの会社は、楔か錨みたいなもんだ」

 

 隣に座る瀧はただただ閉口していた。

 指から噴き出す透明な血を止血しようとしているかのような須賀に、どう声をかければ良いのか見当がつかなかった。

 

 そして、閉口していた瀧の様子に気付いた須賀は、

「って、悪い悪い。おっさんの感傷なんてピンと来ないこと言われても困るわな」

どことなく悲しげな口調で、そう言った。

 

 瀧はゆっくりと首を横に振った。

 

「俺には分かります」

開いた右の掌をじっと見つめながら呟いた。

「若僧が何言ってんだ、とか思われるかも知れませんし、俺にもどうしてかは答えようがありません。……だけど、それでも、痛いくらいに分かるんです」

 

 自分の掌から須賀の手元へと、何となく視線が移って、瀧は遅まきながら気付いてしまった。

 今も彼が弄っているあの指輪は幅広のイカツい指輪なんかじゃない。二つの指輪を左薬指にしていて、しかも全く同じデザインだ。その所為で幅広に見えたのだ。

 それに、「アイツ」と呼ぶ人に対するどこか湿っぽい述懐は、親愛を込めた異性に対するそれの印象を受けた。

 加えて、「辞めた」と濁したあの表現。

 それらが意味するところはただ一つ。

 恐らくだが、離別の理由は退職でもなければ、破局や離婚でもない。

 それはもっと深刻な――

 

 瀧はそこから先の思索を止めた。

 推察の通りなら、この人が抱えているのだろう傷は、興味本位で触れるには深過ぎるし重過ぎる。彼が封じる痛みが伝播してきたら、今の自分には受け止める余裕なんて無い。

 

「ほら、立花君。スペアリブが冷めちまうぜ」

 

 押し黙る瀧がカウンターに突き立てる肘の傍へと須賀はそっと皿を差し出した。

 瀧の揺れる視線からその心情を察したからか、浮かれるような熱は冷めていた。

 

「けどまぁ、メリットもあったさ。君がさっき言ったみたいに、有限会社イコール資本金があってそれなりに続いてる会社。って言う看板を掲げてるだけでも、案外取引先の反応は違うからね。それを肌で感じる度に努力が報われてる気がして達成感みたいなモンはあったよ」

 

 どう返事をすれば良いのか、何の話題を切り替えればいいのかが分からない。

 瀧はしばらく黙々とスペアリブを片付けて、須賀はバーボンとチェーサーを交互にちびちびと飲みながら、店内のスロージャズに耳を傾けていた。

 

 一曲終わって音楽が一旦途切れた。須賀はチェーサーを一気に飲み干して、

「さて、脱線が過ぎたな。そろそろ本題に入ろうか」と、切り出した。

 

「その前に、だ。立花君が消息を聞きたいっていうその三人とどういう経緯で知り合ったか、もう少し詳しく聞かせて貰えるか?」

 

 瀧は頷いた。

 祖母が迎え盆を晴れにする為に彼らを招いたこと。そしてその一週間ほど後になって奇妙な夢を見てからずっと引っ掛かっていること。隠さず素直に話した。

 他の人間には気でも触れたような目を向けられるだろう話を、須賀には臆せず打ち明けられた。

 これまでの反応からして、あの日に同じ夢を見ている気がするこの男になら、隠し立ては要らないだろう。

 

 須賀は掌中でグラスを弄び、揺れる氷を眺めながら耳を傾けていた。

 瀧が話し終えると、須賀はその手の動きをピタリと止めた。

 

「経緯は分かった。あとはそうだな……もう一つだけ。差し支えなければ、立花君のお祖母さんの家ってのはどの辺りなのか教えて貰えるかな」

 

「はい。下町の方で、駅で言うと京成曳船が最寄駅ですかね」

須賀の慎重さに引っ掛かるものを感じながらも、瀧は率直に答えた。

 

 須賀は腑に落ちた様子で何度か小さく頷きながら

「あの日だから……そうか、辻褄は合うか」

と自分に言い聞かせるような微かな声で呟いたのを、瀧は確かに聞いた。

 

「まずは、そうだな。立花君がさっき階段で俺にした質問への答えだ。あの姉弟は今も元気だ。少なくとも体調はな」

須賀はふと漏らすようにそう言った。

 

 瀧の顔ににわかに笑顔が浮かんだ。しかし、長くは持たなかった。

 少なくとも体調は――

 それはすなわち、心を病んでいると言ってるのと変わらない。

 瀧の表情を観察していた須賀は、すかさず話を続けた。

 

「悪いが、あの子に会わせる気は無い。あの子は今、色々と微妙な時期だ。言い方が悪いのは承知の上だが、この時期に余計な人間と会わせるのは得策とは思えない。俺は保護者って訳じゃないが、一応は近い立場に居る。ここは仕切らせて貰う」

 

 厳しく釘を刺した須賀は、体ごと瀧の方へと向き直った。

 

「あの……何だ。例の変な夢にしても、嵐による脅迫観念が、偶然似た夢を色んな奴に見せた。そういう集団ヒステリーの一種とかいった代物だろう。祈ると晴れたって現象もそうだ。偶然タイミングが重なっただけに違いない」

須賀は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「つっても、そういう不可思議な出来事も有り得る、と思い込んじまいそうな妙な天候だったのも事実ではある。

 少なくともあの子にとっては馬鹿らしい妄想じゃない。実の弟の呼び掛けにさえ時々上の空だ。そんな時に、あの子達が晴れ女として方々を巡った時に知り合った連中に今更対面させて、変に刺激したくない。分かってくれるな?」

 

 真剣に語りかける須賀に対して、瀧は信頼の意を込めてしっかりと頷き返した。

 

 須賀はやはり想像した通りの立場のようだ。

 少女を人柱にするという妄想染みた概念と、その少女が今生きていることがどういう意味を持つ可能性があるか。半信半疑ながらも軽視はせずに、自分以上に少女のことを心配している。

 

「須賀さんの判断に従います」

 

 異論は無い。

 ただ、どうにも引っ掛かるものはあった。茶化しながら探りを入れてみることにした。

 

「それにしても、階段で話しかけた時の須賀さんの剣幕には正直ビビりましたよ。まぁ俺が盗み聞きなんて真似した所為だって分かってますけどね」

 

 デリケートな時期の子供をそっとしておいてやりたい。その理屈は分かる。

 しかし、それにしたって、この気さくなおっさんからは想像し難いほどに敵意が剥き出しだった。単に盗み聞きする不審人物に対する以上の、具体像が存在する敵に身構えるような警戒ぶりだった。

 それに、あの時の通話の内容を思い返すと、随分と剣呑な単語が飛び出していた。

 

 須賀は瀧の懸念を受け流さず、ほとんど睨みつけていた。

 

 ずっと片手で弄んでいたグラスをカウンターに置いて、

「週刊誌の記者があの子のことを嗅ぎ回ってる。幸い、当人は気付いてないがね」

と、呻くように言った。

「妙なのが周辺をうろついてるのに俺の姪が気付いて、最初は姪が目当てのストーカーかと思った。んで、警察に相談するか考えてた時に忠告――と言うよりタレコミか――を受けてね。立花君のことは記者かそのパシリかと思ったよ」

 

 予想外の話に、瀧は思わず息を呑んだ。

 

「忠告の限りだと、その記者の所属先は有名誌だそうだ。君も間違いなく誌名を聞いた事はあるよ」

 

「それって例えば、週刊祥雲とかですか」

 

 あてずっぼうで誌名を挙げただけだが、須賀は無表情になって硬直した。

 まさか図星か。

 

 瀧は思わず息を呑んだ。

 オカルトだなんて低俗なジャンルをあの雑誌が手掛ける?嘘だろ?

 茫然としながらも、オカルト関連の記事で糊口を凌いできた須賀の前でそう本音を漏らさなかっただけ、よくぞ自制心が働いたと自画自賛すべきだろう。

 

 週刊祥雲の取材力は群を抜いている。大スクープを真っ先に物にして、この雑誌にテレビの報道番組が追従するのは日常茶飯事だ。

 あの雑誌に追い回されるとなれば、およそ想像し得る中で最悪の状況だ。

 ただ、週刊祥雲は政治経済や社会ネタが中心。例え超大物芸能人の不倫騒動だろうと完全なプライベートのゴシップネタは倦厭するおカタい雑誌の筈だ。

 

「つい最近まで外に出るのも一苦労の天候だったからな。俺ら業界人からすりゃあ雲上人みたいな記者サマだろうと、背に腹は替えられねぇのさ」

 

 須賀の自嘲めいた笑みは、瀧の腹蔵をお見通しだと告げていた。

 

「政治家も芸能人はおろか、犯罪者すら動きが鈍くて裏取りが全然進まねえから、どの週刊誌も思うように記事を書けていない。そうなりゃ祥雲みたくこのご時世でも売れてる稀少な紙媒体の雑誌は、誌面を何とか埋めようとネタを求めて血眼だ」

 

「晴れ女が目を引きそうな話題なのは間違いないでしょうね」

瀧は堪りかねたように深呼吸しながら言った。

「それにしても、あの子達はあちこちで活動してたようですけど、それだけで須賀さんに辿り着くなんて、マジで洒落にならない取材力ですね」

慄きと感心が口から漏れた。

 

 すると、須賀の皮肉げな笑みは消え失せて、バツの悪そうな表情がとって替わり、後頭部をボリボリとかきむしった。

 

「いや、ソイツが自力で嗅ぎ付けたんじゃない。俺だ。俺がその雑誌に晴れ女の企画を持ち込んだんだよ」

酒焼けしたような声だった。

「あの夏は訳あって、少しでも収入を上げたくて焦ってた。でもって、おカタいあの雑誌も夏になると、肝試しやパワースポットだとかの、長期休暇向けのお遊びネタを載せる。だからまぁ、別の雑誌でボツになった都市伝説特集ネタに脚色を加えて駄目元の記念受験感覚で持ち込んだ。

 ……まさか、その後になってウチのバイトがあの子と出会って、瓢箪から駒が出るとは思ってもみなかった」

 

 須賀の頭をかく手のスピードは緩やかになり、やがて完全に止まった。

 

「相手が相手だから一時はどうなるかと思ったけど、まあ成せば成るってヤツだな。記者の件はケリがついた。自分で蒔いた種は狩り獲れて安心したよ」

 

 須賀の声と表情は穏やかになっていたが、瀧は予想外の話で受けた動揺を押さえられなかった。

 指で頭を強く握ってみるが、こめかみは反発するように強く脈打つ。

 今の話は本当だろうか。須賀に担がれている可能性はあるだろうか。

 ……多分、本当のことを言っている。

 ほんの一時であれワイドショーやSNSで晴れ女が取り沙汰されたことはあったのだから、週刊誌が目を付ける可能性はある。第一、出会ったばかりの若僧相手にこんな作り話をするメリットは無いし、そんな酔狂な人間にも見えない。

 

「そう言えば、階段では編集長とか言ってましたよね。ケリがついたっていうのは、電話で話してた編集長が部下を諫めてくれたってことですか?」

 

 瀧の問いを聞くや、須賀は不満げな鼻息で応じた。

「そんなご立派な話じゃねえよ。内情は違――」そこまで言いかけると、唐突にすとんと真顔になって、

「――わねえか。まぁ言ってみれば自浄作用だな。ともあれ、この件はもう心配要らねえよ」

 

 急に真逆の事を言い出して茶を濁すような須賀の物言い、瀧は眉をひそめた。

 果たしてこの話をどう受け止めるべきか。俺は何をするべきなのだろうか。

 そもそも、俺がやれることが、何かあるのだろうか。

 あの少女が果たして無事かと気が気でなかったが、近況を知って別の心配事が出来てしまった。

 須賀が階段で口にした、牽制目的だろう剣呑な単語の数々が心に突き刺さる。

 

 すると、振動と肩を握られるような感触がして、憂いは遮られた。

 

「君が心配することはねえって。弁護士の存在もちらつかせたし、もうあの嬢ちゃんに下手な手出しする奴は居ねえだろうから」

 

 肩に視線を移すと、須賀が伸ばした手を引っ込めていくのが見えた。

 

「見知らぬ他人が小中学生に近付くだけで通報されかねんこのご時世だし、何より、話題性はあろうと所詮はまともな収穫を望めない与太話だ。訴訟や警察沙汰を覚悟で、与太話を掘り下げる為だけに子供に付き纏って油売るアホに記者は務まらんさ」

 

 須賀はのんびりした面持ちでスペアリブに添えられたレタスをもしゃもしゃと詰め込み始めた。

 

「あの姉弟が大丈夫なのは分かりました」

 

 瀧はいからせていた肩の力を抜いた。

 ここは、須賀の言葉を信じるとしよう。それしかない。

 元より門外漢の俺がどうこう出来る話ではない。

 それにもしも、牧羊犬不在の平原で草をはむ羊めいたこの態度が俺を安心させる為の演技なら、このおっさんは早々に編プロを畳んで俳優に転職するべきだ。

 ケリがついたというのは嘘ではないのだろう。

 

 ただ、少年の方もやはり気懸りだ。

 この分だと、彼も拙いことになっているのではないか。

 

「もう一つだけ教えて下さい。もう一人少年はどうなんです?」

 

 ここまで知ったなら、せめて一通りの情報は得ておきたい。そう思って瀧が質問すると、

「立花君ってさ、SNSはやってないの?」

質問を質問で返された。

 

 瀧は反感を示そうとしたが、自分以上に怪訝そうな、露骨に探りを入れてくる眉間の皺に気付いて思い直した。

 これはさっさと質問に答えた方が話が早い。

 就活に専念する為にSNS断ちしている。

 常套句になっていた建前を口にしかけて――止めた。

 

「ここのところずっと、友人とのLINE以外は見てません。今年の夏、最後に晴れたあの日から、どうにも見る気になれなくて」

 

「ああ、そっか。なるほどな」

風船から空気が抜けるように漏れる息と共に、須賀の眉間から皺が消えた。

 

 ――晴れ女に感謝だよ!

 

 あの一文を目にしていようがいまいが、思い当たる何かがやはりあるのだろう。

 瀧の心は幾らか軽くなった。他人に奇異の目を向けられず本音を遠慮なく言えるのは、何て気楽なものか。

 

 だが、須賀はまた苦虫をかみつぶしたような顔を作って固まった。

 そうかと思えば、おもむろにジャケットの内ポケットからスマホを取り出した。

 

「俺が隠してもいずれどっかで見つけるだろうし、勿体ぶることでもないわな」

スマホを操作して、何かを探しているようだった。

「しっかし、変な加工された動画ばっかだな――っと、あったあった。これが大元の動画だ。ほら、コイツを見てみな」

 

 動画再生待ち状態になっているスマホが瀧の手元まで滑り込んできた。

 スマホの画面には見覚えのある緑色の鉄橋が映っていた。

 そびえたつ続くビル群に挟まれて、澄み渡る青空を真一文字に横切っている。

 間違いない。これは新宿大ガード――新宿の中心に架かる巨大な跨線橋――だ。

 

 瀧はすぐにピンときた。

 この動画は多分、「電車少年」だ。

 

 所々冠水して通行止めになった線路に侵入して駆け抜けた馬鹿な少年。それを大ガード下の通行人達や周辺のビル上階の人々が、遠巻きに見物して動画に収めた。

 被写体になった少年自身と、映像を編集加工した一連の悪ふざけ動画の総称。

 それが「電車少年」だ。

 この通称の由来は、何十年も昔にあった奇抜さが売りのバラエティ番組だったか。訴訟沙汰スレスレの問題だらけの映像、という点では確かに似つかわしい名前だ。

 おふざけ迷惑動画なんて気晴らしにもならないから観る気は全く起きなかったが、高木達から伝え聞いた限りでは流行するだけの理由はあったらしい。

 

 通行人達が各々ネットに上げた動画は、ピンぼけや手ブレが酷かったり、角度が付き過ぎていたりで、少年個人の容貌をはっきりと捉えたものは無いそうだ。

 にも拘わらず、その少年には、このテの動画にありがちな酔っ払い染みたへらへらした態度は見られず。熱中症に罹りながら走り続ける陸上選手めいた凄みがあり、目に沁みる青空が背景として広がることで、視聴者は清々しさと狂気さえ感じるのだという。

 結局、少年は運休点検中の線路を走り去っただけで、線路や職員が実害を被ることは無かったとも聞いている。

 印象深さと映像として収められた犯罪の軽微さが、この動画の流行に加担したのだろう。

 世の暇人達は「電車少年」を、気兼ねなく茶化して遊ぶ格好の玩具として扱った。

 彼らは、幾つもある元の動画はコピーして好き放題に編集した。

 アスリートの応援歌や滑稽なギャグアニメのBGMを挿入したり、ゲーム実況等の他の動画や効果音等の素材を混ぜ込んでみたり、素人がCG合成を試みたり。

 いい加減飽きられて廃れてきたのは最近のことで、それまでは遠慮なく加工され尽くした画像や動画が大量に投稿されていた。

 瀧も無数のサムネイル画像を見かけた事くらいはあったが、そこから動画の原型を窺い知ることは不可能だった。

 司は「悪趣味な大喜利」と高尚に表現していたが、瀧に言わせれば酔っ払いの落書きの方がまだ芸術性を感じられたくらいだ。

 

「これ『電車少年』ですよね。こんな下らない動画を見て何になるんです?」

 

 瀧は敢えて抗議した。

 すると、須賀はそっけなく「観りゃ分かるさ」とだけ答えた。

 据わった目をした須賀が、ここには居ない遠くの誰かに向けた憤懣を抑え込んでいるようにも見えた。

 瀧は渋々スマホに手を伸ばした

 俺とは無縁の馬鹿げた動画だ。その筈だ。再生時間も短いのだからさっさと目を通して下らない用件はさっさと終わらせれば良い。

 胸騒ぎから意識を背けて動画再生のアイコンを押した。指が震えた。

 

 それは、様々な位置から撮影された映像を繋げただけの、控え目な編集をした動画だった。

 視点が次から次へと切り替わって、件の少年の上下と前後を捉えている。

 いつもの新宿の街並みだったが、車の音が全くしない。前日の嵐や雪であちこち冠水した道路を走れないからだ。

 当然ながら、快晴の下では雨の音もしない。

 その代わり、どのアングルからの映像でも、囃し立てる見物人の嘲りが耳を打つ。

 

 五十メートルにも満たない大ガードを、少年が走り抜けるまでの短い動画だ。

 一度目の視聴中に目を剥いた。

 それからは、繰り返し繰り返し、何度も何度も再生した。

 

 屋内の上方から撮った映像では、線路の上の少年はほとんど揺らぐ白い塊にしか見えない。

 降り注ぐ炎天下の日光と線路の所々に残る水面の反射光が生み出す強烈な光量をスマホのレンズでは絞り切れず、水蒸気が薄霞のように周囲を覆ているからだ。

 その中で、少年の脛は中ほどまで水に浸かっていると辛うじて判別出来た。

 

 切り替わった下からの映像は距離が近い分だけ、少年の様子は大分良く見えた。

 顔を下から反射光で照らされている所為で細かい表情までははっきりしない。

 だが、険しく歪んでいるらしいとは分かる。姿勢が前のめりになって、顎は上がり切っていることも。 

 長距離走に不慣れなド素人のフォームだ。スタート時に全力疾走してそのままバテる間抜けの典型例だ。

 匿名の鉄道職員のリークとそれに基づく暇人達の計算――これも高木からの又聞きだ――とやらが真実なら、この少年は高田馬場より北の目白付近から、ノンストップでここまで着たと思われる。

 つまり、小石が敷き詰められ所々が冠水した線路の上を、五キロメートル前後も走ってきたことになる。陸上選手でも安定して走破するのは無理だろう。

 この大ガードまで差し掛かったこの時点で限界を迎えていたに違いない。交互に挿し込まれる映像の中でも、少年が数回足を押さえていた。

 けれども、この少年は走っていた。ひたすら走り続けた。

 決してペースが落ちず、乱れさえもせず。転びかけて頭が揺らいでも踏ん張って、その勢いをバネにするかのように、ただただ我武者羅に突き進んでいた。

 溺れて喘ぐように、一心不乱に、もがくように、前へ前へと足を運んだ。

 

 余程親しい人間でもなければ、この動画から顔を判別するなんて不可能だろう。

 それなのに、瀧には分かってしまった。

 あの子だ。

 迎え盆の日に祖母の家で出会ったあの少年だ。

 あの穏和な少年がこうも鬼気迫る形相で求めるもの。

 それはきっと、あの少女に違いない。

 

 瀧の視界が急に画面がぼやけて歪んだ。

 停止した動画をまた最初から再生しようと画面に触れると、今度は指が濡れてタッチパネルが反応しなくなった。

 

「立花君、どうした?君……それ……」

 

 瀧が顔を上げると、輪郭のぼやけた須賀が唖然としながら瀧の目元を指差しているのが分かった。

 

 胃の底からない交ぜになった感情が込み上げた。

 須賀の顔もカウンター奥の棚も、自分で操作していたスマホの画面さえも、瀧の瞳には映っていなかった。

 目から溢れる涙が頬を伝うに任せて、線路を走る少年の姿に思いを馳せていた。

 

 あの貌を俺は知っている。

 あと少し、ほんの少しでも長く、一緒に居たい人が居る。

 誰も彼もが後ろ指を差して嘲笑しようとも、救いたい命だけを見つめる貌だ。

 あの背中を俺は知っている。

 真に自分を理解してくれる人が居なかろうとも構わない。

 大切な人の為にまだ何かが出来ると信じて、祈る思いで歯を食いしばって、立ち向かおうとする背中だ。

 胸が張り裂けそうな熱情が伝わって来る。

まるで、俺もこんな風に走ったことがあるような気がして、少年と自分を重ね合わせずにいられない。

 孤独と焦燥と決意を胸に、一心不乱に抗い続けるとんでもない馬鹿が、俺の他にも居てくれた。

 むせ返りそうな濃霧に包まれた山中で道連れを得られたような共感と安堵が胸を満たしていく。

 

 ――それなのに。 

 込み上げてきた温かな想いは、喉元で途端に凍てついて、後悔と自己嫌悪が取って代わった。 

 それなのに、俺はあの子達のことをどう思っていた?

 俺の他にもこの想いを共有出来る連れ合いが居てくれた。

 そんなことを思う資格が、今の俺にあるのか?

 

 瀧は、握り締めて爪が食い込む拳で衝動的に自分の額を殴りつけた。

 乾いた鈍い音が頭蓋骨と鼓膜を突き抜ける。だが、一瞬痛みと衝撃で思考がぼやけただけだ。血の一滴も流れず、滲みさえもしなかった。

 須賀やバーテンダー、離れた席に座る客達が目を丸くして見ている。

 そんなことはどうでも良かった。

思い切り爪を立てた掌からも殴った額からも、血の一滴も流れない自分が冷えた石の怪物にでも思えて、情けなさで窒息しそうだった。

 

 俺だけはこの少年を理解してやれるのに。

 この少年となら、きっと俺の苦しみを分かち合えるだろうのに。

 俺だけは、他の奴らみたいに彼を嗤ってはいけなかった。

 俺だけは、あの少女が消えても仕方が無いことだなんて、思ってはいけなかった。

 大切なものを踏み躙るように奪われる辛さも、取り戻す為に追い求める縋るような焦りも、嫌というほど理解していた筈なのに。

 どうして、あの苦しみを抱える子達を見捨てる真似を、よりにもよって俺が出来てしまったのだろう。

 

 涙を流すことさえ贅沢に思えて、嗚咽を噛み殺そうと歯を食い縛る以外に何をすれば良いのか見当もつかないまま、ただ身を震わせていた。

 

 

 

 

 

 

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