黄昏の向こう   作:テービット

9 / 14
9話 甘苦の再会に乾杯

 

 掌の氷をグラスごと転がして、酒をちびちびと啜り、また氷を転がす。

 圭介は一人カウンターで頬杖をつき、仕掛け時計よろしく同じ動作を繰り返す。

 頭の中では、今日出会った青年、立花瀧との会話を一から反芻していた。

 

 咽び泣いていた立花はどうにか落ち着き、友人達からの誘いの連絡に応じてこの店から立ち去った。否、圭介が送り出した。

 

 警戒と嫌悪から始まった会談は予想外の方向に転がった。久々に口にした酒を随分と美味く感じられたことにも満足している。

 それにしても、興が乗るあまり口が弛み、話す気なぞ更々なかったことまでベラベラと語ってしまったのは反省すべきだろう。

 立花を宥めるために、帆高が保護観察処分で済んだこと等の幾らかのプライベートを当人の許可無しに明かしてしまったのは反省点の一つだ。

 だがまぁ、名前は無論、細かい住所は明かしていない。それに、帆高も彼と再会出来たらきっと話したがる予感はあるから、ひとまずはセーフとしておく。

 

 だが、返す返す、我ながら戴けない言動はあった。

「酒の席では誰でも数回くらいは粗相をやらかすもんだ。酒を飲んでも呑まれるなって訓戒が出来ること自体が、やらかす奴が掃いて捨てる程多い証拠さ」などと言う慰め文句がまず一つ。

 笑い話にすらならない。

 立花の様子に泡を喰って口を衝いたとは言え、酒に逃げた挙句に命より大切な娘を失いかけた、圭介のかつての醜態を知る者が耳にしたら絶句するだろう。

 

 おまけに、「おっさんの昔話と自慢を聞いて貰った駄賃代わりだ。俺がここの代金は払おう」と言い張って、「誘った自分が奢る」という立花の申し出を反故にしてしまった。

 鳴き狂う閑古鳥を連れて、水底に沈んだ事務所から仮住まいの四畳半激安アパートへと避難した素寒貧には不相応な振る舞いだ。

 

 今日一日、今後は自省すべき振る舞いは多々あった。

 それでも、圭介の胸には後悔や自己嫌悪は一切無かった。

 この酒席での言動は、何も若僧に対して見栄を張ったのでは断じてない。

 すべきことだと感じたからそうした。

 あの立花という男を、どうしても放っておけなかった。

 

 ――もしかしたらだけど、立花君はずっと探し続けてるものか、人が居るんじゃないのか?

 

 余計な詮索だとは思いながらも、圭介は聞かずにはいられなかった。

 

 ――奢りの代わりと言っちゃ難だけど、もしも探しものが見つかった時は、良かったら改めて話を聞かせてくれないか。

 

 どうしてそれを。

 立花はその一言を口に出す代わりに、しばし驚きの表情を貼り付けていた。

 同じような表情をする人間を、圭介は既に二人知っている。見間違えようが無い。

 

「約束は出来ません。何を探してるかも俺自身が分かってませんし、見つかったとして何年後かもさっぱり分かりませんから」

立花は憑き物の落ちたような顔でこう続けた。

「でも、もしそうなったら、また俺の方から誘わせて下さい」

 

 立花は、決意を新たにしたのか力強く立ち上がり去って行った。

 廃ビルで対峙した、あの時の帆高を彷彿とさせる姿だった。

 帆高の保護観察が終了するまでは二年半。いざその時を迎えたところでアイツが上京すると言う確証は無い。進学するにしたって別の地方へ行ってしまう可能性はある。

 しかし、アイツは石に齧りついてでも、この地に――陽菜の下に戻る。

 あの日圭介を射貫いた眼光と叫びを思い出す度に、確信はより一層強くなる。

 そして今日もまた、あの時と同じ感覚を味わった。

 立花の念願が成就するのは何時になるか、そもそも成就する目があるのか、圭介にもまるで見当がつかない。

 それでも、彼らの瞳は、圭介にはもう届かないどこかを真直ぐに見据えている。

 彼らの双眸の奥底に湛える光は、激励を贈りたくなるような胸がすく感動と仄かな嫉妬や焦燥を駆り立てて、青少年達の行く末を気長に見届けたいと思わせる。

 

 もっとも、幾ら圭介が情に絆されて立花に肩入れしたとは言えども、伏せている情報はある。余計な事情を伝えても毒にしかならないからだ。

 

 

**********

 

 

 圭介はカウンターに放ったままにしていたスマホを手に取って、時間を確認し、アドレスを呼び出して電話をかけた。

 呼び出すコール音が繰り返される。

 生活パターンからしてバイトや風呂の最中ではない筈だが、アイツにしては出る

のが遅い。

 

「あっと、圭ちゃん……やっほー」

 

 夏美がやっと電話に出た。

 普段は何時であろうと開口一番真昼間みたいな挨拶を返す癖に、今日は妙に歯切れが悪かった。

 

「おお、お前にしちゃあ、やけに出るの遅かったな」

 

「なによー。用があるならLINEでメッセージくれれば良かったのに。良い歳して女子を急かすなんてマナー悪いわよ」

夏美は不機嫌そうに文句を垂れた。

 

「直に話しておきたい用でな。拙いタイミングに電話しちまったか?」

 

「……そんなことないけど。今は、そうね。夕ご飯食べ終えてくつろぎ中だし。ってか、そっちこそもう遅い時間だけどちゃんとご飯食べた?」

 

 返事をする前に、レタスの破片が残るのみのスペアリブの皿とチョコが数粒残る皿に目をやった。

 まぁ、問題無いだろう。カロリー的には。チョコだってポリフェノールの塊。ポリフェノールは健康的だ、多分。野菜だって食った、一応。

 

「まぁ、そうだな。食い物なら食ってるよ」

 

「ほんとにぃ?」夏美は疑ぐり深く聞き返した。

「何か音楽が聴こえるけどさ、喫茶店じゃないわよね。そこ」

 

 バイト先のキャバクラの先輩や大学の友人を連れ立って、新宿界隈の店に通い慣れた夏美の勘は研ぎ澄まされている。下手な誤魔化しは通用しない。

 

「ま、まぁな。……ほら、お前が二年前までバイト掛け持ちしてた店だよ」

 

「あぁ、あそこね。って、そこバーじゃん!ちょっとマジでお酒飲んじゃってんの?まったくもうっ!しばらくお酒は控える~とか、言ってたのに」

夏美の声のトーンが一気に跳ね上がった

「折角、二ヶ月我慢出来てた禁酒期間がリセットされちゃったじゃないの!ほんと、目を離すとすぐだらけちゃうんだから!」

 

「酒についてはお前の聞き間違いだよ。出来る限りっつっただけで完全な禁酒じゃねえから。前みたいに昼間っから酒をかっ喰らったりは絶対しねえし」

圭介は苦し紛れに言った。

「仕事が一区切りついたら自分への褒美として久々に飲もうって決めてたからよ。勘弁してくれって。明日からはまた摂生する」

 

 目を瞑った圭介の瞼の裏に、夏美の据わったジト目が浮かんだ。

 

「自分へのご褒美とか、おっさんがスイーツ大好き女子みたいなこと言っても似合わないわよ」

夏美がこれみよがしな溜息を叔父に聞かせた。

「食べ物って、どうせおツマミとかそんなんでしょっ。マジ体壊すわよ?圭ちゃんはもういい歳のおっさんになってんだから、私くらいの子みたいな飲み方してるとブクブク太るからね」

 

「分かってる。これでも三食ちゃんと食ってるしてるし普段は摂生もしてるから。お前に世話になるような真似はしねえ」

 

「あっ!そうそう、世話って言えば」夏美は更に大声になった。

「アメはどうしてんの?ちゃんと面倒見てるの?」

 

「問題無ぇよ。空調はばっちり設定して猫用トイレも部屋もきっちり片付けたし、飯もたんまりと置いといた」

 

「たんまりって、またこの間みたいな量あげたの!?」

 

「いやだってよ、アイツ飯の量減らすとやたら纏わりついてねだるから。育ち盛りだし食わせたって問題は――」

 

「圭ちゃんはアメにご飯あげ過ぎって言ったでしょ!もうっ、そうやって甘やかして飼い主と飼い猫一緒にブクブク太る気?大体圭ちゃんは昔っから丼勘定で――」

 

 その後も止まない小言のマシンガン掃射を浴びて、圭介は思わずのけぞった。

 つい先日に「K&Aプロダクションに入社する」と夏美が宣言して以来、二人の間である種の儀式になっている。

 圭介にとっては鬱陶しくもあるが、懐かしくもあった。

 緩い適当人間に見える夏美は、実際にはまめまめしい性格だ。親譲りの本来の気性が戻ってきただけと言える。

 

 圭介と夏美が一緒に過ごす時間が何倍にも増えたのは、夏美がK&Aプロダクションでバイトを始めてからだ。

 間宮家の面々に萌花が引き取られた――もとい、連れ出されて以降、完全に抜け殻と化した圭介の下に、夏美はライターのバイトをやらせろと言い張り押しかけた。

 叔父のことが心配だったのだろう。夏美は遠慮がちながらも何かにつけ叱咤激励してきた。

 圭介はそんな姪の心情を察しながらも、ありがた迷惑な疎ましさを感じる自分に情けなさを覚えて、多少は生活態度を改めた。

 されど、性根が後ろを向いたままだから、細枝で突かれた亀がのろくさ首と足を伸ばしてみた程度の変化しか生まれなかった。

 

 そうして一年ほど経過した頃、ミイラ獲りはミイラになった。

 エリート揃いの須賀家の中で卒論と就活のプレッシャーに晒されて続けた夏美は、弛緩して寝惚けた空気が漂う圭介の事務所に憩いを見出してしまったか。

 気付けば二人して、ボウフラ塗れの池を漂う亀の親子染みた生活に呑まれていた。

 

 

「ちょっと、圭ちゃん。ちゃんと聞いてるっ?」

 

「ああ、聞いてる聞いてるって。骨身に染みてるよ」

鋭い呼び掛けで追憶から引き戻されて、圭介は慌てて答えた。

 

 夏美は今や心機一転。

 ボンクラ社長の叔父の尻を叩いて真っ当な社会人へと更生させられるのは、来春にK&Aプロダクション二人目の社員になる自分だけ、と躍起になっている。

 

 圭介は電話をかけたことをにわかに後悔し始めていた。

 いい歳こけばこいた分だけ、年下の諫言は素直に受け止められないものだ。

 さっさと用事を済ませようと思っていたが、このお説教は九割九分長引く。

 適当に相槌を打ってやり過ごそう。圭介は無言で聞き役に徹することにした。

 すると、

 

「あ、そう言えばね」夏美はすっとぼけたような調子で話題を変えてきた。

「今日、お父さんがこっち来たよ」

 

「へぇ、兄貴がねぇ――ってえっ、兄貴がそっちに?!」

思わず聞き返した圭介の声は酷く濁っていた。

「そ、そいつは珍しいな。わざわざ何の用だったんだ」

 

「んー、様子窺いって感じかなぁ。お土産にケーキ持ってきてくれてね、んで今は陽菜ちゃんと凪君の三人で分けて食べてるとこ」

お茶か何かをずずっと飲む音がした。

「けどさぁ、おカタいお父さんにしては、やたらとセンスの良いケーキなのよ。でもお母さんの趣味じゃないし。となるとこのケーキに女の陰っぽいものを感じちゃってさぁ。邪推かな」

 

「おうおう、そいつは良かったな」

 

 圭介はぞんざいに受け流したが、夏美は意に介す様子は無く、無言でケーキをもぐもぐ賞味し続ける。真面目一徹という概念の擬人化である父親の浮気など、夏美自身が露ほども信じていないから、言ってる本人にとっても冗談に過ぎない。

 

「で、兄貴は他に、俺には何か言ってたか?」

 

 待ってましたと言わんばかりの、クスリと笑い声が聞こえた。

 

「うん。なかなか携帯繋がんないから、って一言伝言頼まれてるよ」

夏美はケーキを口に運んで勿体ぶって間を置いて、

「今度、時間がとれたら二人でじっくり話そう、だってさ」と、愉快そうに答えた。

 

 圭介をからかって反応を楽しんでるのを隠そうともしない。

 叔父が自分のお説教を聞き流していると看破して、意識せざるを得ない兄弟の話題を振ったのだ。

 

 

 夏美は今、圭介と分担して天野家の後見人に――と言うより、実質的には居候になっている。

 後見人は別に同居する必要は無いのだが、就職先について実家の父親――圭介の兄――と喧嘩してそのまま転がり込んだ。

 家出の数日後には、兄夫婦は天野姉弟との面談の機会を設けた。今では、降って湧いたお荷物だと言う認識は変わって、夏美の選択を受け入れたようだ。

 圭介が電子メールで兄と少々やり取りした限りでは、愛娘に社会的責任感を芽生えさせて自堕落生活の毒沼から抜け出す切っ掛けになった、とむしろ歓迎すらしているのが窺えた。

 おまけに、コブ付きという防虫効果のある看板がぶら下がっていれば、ホスト崩れのチンピラだの自称ミュージシャンのヒモだのといった、娘に寄り付く害虫を防いでくれる。そんな下世話な期待をしている節もあったが、それはまぁ良い。

 

 いずれにせよ、それらは全て、圭介が兄から監督役として期待された役割だ。

 圭介とて、放任主義を称して姪を粗雑に扱ったつもりは無い。

 だが結果として、自堕落生活に巻き込んだ挙句、逮捕劇という不始末まで起こさせてしまった。

 不行き届きを責められ、徹底的に締め上げられるのは目に見えている。

 昨日までの圭介は、正論で上から捻じ伏せる兄と会話するのも億劫で、ひたすら言い訳をして顔を合わせる機会を先延ばしにしてきた。

 最近は、ドラマー顔負けに尻を叩きまくる姪が貼り付いているのだ。アコーディオニストさながらに首根っこを締め上げる兄まで加わるのはぞっとしない。

 

 だが今は、悲鳴だろうが宣誓だろうが存分に奏でてやろう、という気概が逆巻いている。

 

 

「そうだな。良い加減にだらだら延ばすのも難だし、この電話の後にでも兄貴に連絡するよ」

 

「えっ」夏美の口から戸惑いが洩れたが、

「そ、そうね。それが良いよ」瞬く間に素直な喜びが取って代わった。

 

 圭介には姪の反応が意外だったが、すぐに思い直した。

 少しばかり考えてみれば、どこも意外ではない。

 反りが合わない親への愚痴で、酒を片手に叔父と意気投合する夜があろうと、親は親だ。気にしない風を装ってみても、親戚同士の軋轢は少しずつでも着実に、人の心を軋ませる。

 今更になって圭介は思い出した。

 萌花がハイハイもままならない頃から従姉として嬉しそうに相手をしてやってくれた夏美が、その手に抱いていた萌花を兄貴に手渡したことは何度かあった。その度に、兄貴はぎこちなくも優しく抱いてあやしていた。

空手になった夏美はと言えば、そんな父親の様子を、赤ん坊の愛くるしい仕草を見守る時と同じ表情をしていたじゃないか。

 至極当たり前のことを、俺が忘れてしまっていただけだ。

 

「うん、そうね。禁煙のその店を選んだってことは煙草はちゃんと止めてるみたいだし、今日はこれで良しとしましょ」

 

 すっかり気をよくした夏美は、朗らかに言う。

 圭介は、そんな姪の声を聴くうちに、喉の底から酒とは違う深いな苦味が広がるような感覚を覚えた。

 

「ところでよ、のっけから脱線しちまったから本題に戻すけど良いか」

 

 気遅れから口を開くのも億劫になる前に、圭介は意を決して切り出した。

 

「本題?あぁ、狸のことね。……良いよ。分かった」

 

 夏美の声が明らかに沈んだ。かと思えば、

「そんで、どうだったのよ?二度とタカって来たり出来ないようにけちょんけちょんにしてやった?」

ギャグが滑って客席が白けたのを挽回しようと躍起になった芸人のような明るさで聞き返してきた。

 

「けちょんけちょんには出来ねえよ。取引を切れたらこっちの後がなくなるお得意様だぞ」

圭介は苦い顔で言った。

「けどまぁ、さっきも電話で駄目押しした。こんな不毛なネタに何時までも食い下がる人じゃない。これでもう問題無くなった」

 

 

 夏美の言う狸。

 それは、圭介達の周りにうろつく週刊誌記者の存在を忠告してくれた男のことだ。

 彼はかつて、週刊祥雲の編集長に上り詰めた一角のジャーナリストであり、圭介と夏美にとっては憧れの大先輩だった。

 しかし、大物政治家の収賄ネタを掲載して相手に提訴され、出版社の上司に一方的に詰め腹を切らされてからは一転。同社内の格が落ちる二流ゴシップ誌の編集長として燻っている。

 明日花が事故死してから、錨の壊れた船同然だった自分に定期的に仕事を振ってくれた恩人として、圭介は今も感謝の念を抱いている。

 だが、かつての覇気は消えてしまった。

 そして先日、記者の存在を教えた見返りとして自分のゴシップ誌で晴れ女の記事を書けと、よりにもよって圭介を誘ってきた。圭介が断れば、別の記者に仕事を振って嗾けて着そうな気配も透けていた。

 古巣からネタを横取りして意趣返しするついでに、あわよくば返り咲きの布石を打つ魂胆だったのだろう。

 無碍に扱いたくない相手だ。憧憬は失せても敬意は死んでいない。本当はペーペーの夏美風情が彼を狸などと揶揄する、その態度を諫めるべきではないかとも思う。

 だから、番犬代わりに弁護士を間に挟み、頭を冷やしてくれるのを待つ。

 祥雲の記者にしたって、食いブチを求めるあまり、一時の気の迷いを起しただけだろう。狸オヤジへと堕ちた彼も、社内抗争に他人様の子供を巻き込む愚かさに気付かない訳がなく、耄碌しようが掴んだネタを社外に漏らすほどワキは甘くない。

 そもそも彼らが圭介に接触してきた行動自体が「胡散臭いゴシップだろうと、裏取りを取れていないネタは載せない」という、節度と良識の現れだ。

 

 普段追っているのが他愛ないネタだろうとも、圭介はこの編集記者という仕事に誇りを持っている。一緒に仕事をする人間を見る目も鍛えて着た。

 以前は腰掛けの積りだった夏美に対しても「例え幼児相手だろうが、取材の際には、録音の許可を始め相手の合意を貰うこと」を始め、マナーを徹底的に叩き込んでいる。

 腐っても記事を書いて食っている人間が――ましてや自ら面と向かって言葉を交わして、取引先として信任した相手が――こんなネタで子供を追い回すみっともない真似はすまい。

 圭介は信じている。だからこそ、「心配するようなことにはならない」と立花に告げたのだ。

 とはいえ、万が一、夢うつつのおかしな輩があの姉弟に寄り付いて着たら――

 その時は、せめて帆高が戻るその時まで、二人を守ってやろう。

 未成年後見人になると決めた時から、そのくらいは覚悟出来ている。

 

 

「そっか……良かった。何か、安心しちゃった」

 

 夏美は何かが抜け落ちたような声を出した。そのすぐ後に、スマホから口を外して、囁くような小さな声がした。

 

「ううん、何でも無い。ってかほら、圭ちゃんのアパートに狸が出たのよ。獣害って言うのかな。珍しいよね」

 

 夏美が慌てて話すのが圭介にも聞こえた。 

 今ケーキを一緒に食べてるという陽菜か凪を相手に、スマホを外して話しているのだろう。

 今更になって、ようやく夏美のテンションが普段と妙に違う理由に察しがついた。

 陽菜と凪を不安にさせないようにと気遣っていたからだ。

 

 夏美はスマホを充電しっ放しで放っておく癖があるから、陽菜や凪に着信画面に圭介の名前が表示されてるのを見られたのだろう。

 そうなったら手遅れだ。天野家のアパートは狭いからと声を潜めてもどの道話は聞こえる。雨が吹き込む玄関先に出て行っても、それは「今から、貴方達について、聞かせたくないくらい深刻な話をします」と宣言するのと大差無い。

 

 圭介が出版社での用事を済ませた直後なのはタイミングからして明らかで、用件は分かっている。

 子供達には伏せておきたい話題の電話が当人達の目の前でかかってきたならば、何とか深刻なムードにならないように神経を削りながら誤魔化し通すしかない。

 圭介が夏美にしてやれることは、さっさと用件を済ませて電話を切ることだけだ。

 

「そういう訳だから、やることはやったし明日はちゃんと時間通りそっちに行く。幸いなことに、懐が寒過ぎて飲み明かす余力なんざまるっきり無いんでな」 

 

「それ、自慢気に言うことじゃないでしょ」

 

 呆れを強調したオーバーな溜息が突風のようなノイズを立てた。

 

「心配すんなって。打合せ通り、明日は朝の十一時にはそっちに邪魔して、一日で作業を終わらせるからよ」

 

「……約束の時間は十時でしょ。早速間違えてるじゃん」

 

「ああ、悪い悪い」

 

 

 圭介と夏美が帆高に助勢した直後、二人は揃って逮捕されて、幸いなことに不起訴で済んだ。

 帆高がその動機故に情状酌量されたことも一因ではあるが、何よりも、池袋署の対応の不備が取り沙汰されるのを、警察や検察が危惧したからだ。

 拳銃絡みの一大事とは言え、物証は出ておらず、帆高は任意同行しか求められていなかった。その帆高を強引に引き止めた池袋署の行動は脅迫罪に該当しかねない。

 おまけに、圭介の兄が雇った弁護士が探偵に調べさせたところによると、帆高が発砲したのは、違法スカウト常習犯から陽菜を救おうとした際に暴力を振るわれたのが理由だと分かった。拳銃を向けられた相手は拳銃捜査を優先した結果としてか逮捕されておらず、一連の動画は警察が証拠として押さえていたとも聞いている。

 つまり、帆高が拳銃を所持し発砲した物的証拠は、違法スカウト常習犯が女子供に暴力を振るう物的証拠を押さえておきながら、所詮は小物だからと警察がみすみす放置した証でもある。

 バイクで暴走チェイスを演じた夏美にしても、任意の聴取を拒否しただけの帆高を乗せる分には逃亡幇助にはあたらず、危険運転で免停になるのが精々。むしろ手錠までして連行した警察が監禁罪に問われる恐れすらあった。

 池袋署がそこまで厳格で拙速な対応をとったのは、圭介を警戒したからだ。

 家出した少年少女を甘い言葉で囲い込み、暴行と洗脳でもって犯罪の手先に仕立て上げる。悪質な誘拐・監禁事件が先日も他所の区で発生したから、類似の事件が進行しているのではないかと疑っていたのだ。

 しかし、完全に見当外れだった。

 そもそも、池袋から新宿へと拳銃を拡散させてしまい水際で防げなかったのは、池袋署の責任でもある。

 

 いざ起訴すれば、一連の不手際を深掘りして、世間に向け大袈裟に喧伝して裁判で徹底的に争う。

 兄が雇った弁護士にとって場外乱闘はお手の物で、そういう腹積もりをチラつかせた。

 はっきり言えば公判を維持できるかも怪しい案件だが、それでも相手にするのが真に凶悪な犯罪者だったなら、警察は脛の傷を抉られようとも徹底抗戦に応じただろう。

 だが相手は、間が悪く傍迷惑なだけの一般人が三名。事を荒立てずに保護観察や不起訴で済ませたのは、妥当な帰結と言えた。

 

 

 そういった事情で、夏美は逮捕されたその日の夜に釈放された。

 一方、圭介は期限ギリギリまで勾留された。怪我人は出していない夏美と違って警官と全力で殴り合ってしまったし、帆高の両親が感謝を込めて追認してくれなければ、家出少年を匿うのは未成年誘拐にあたる。やむを得ないことだ。

 夏美は釈放されるとすぐに、勾留中の圭介に代わって、水没しつつあった神楽坂の事務所から出来る限りの荷物と飼い猫のアメを運び出した。

 それらは全て、天野姉弟の了承の下で田端の家で預かって貰った。

 遅れること三週間。圭介は釈放されるや仮住まいの四畳半アパートを借りて、それから取る物もとりあえず田端へと向かい、預けていたアメと荷物を引き取れるだけ引き取った。

 失くしたら干上がってしまう仕事関連の機材や資料、契約書の類。萌花の描いてくれた似顔絵や工作品といった品々。

 そうした必需品や嵩張らない大切な物は、圭介の周りの壁を覆い寝床の枕元や足元に敷き詰められ、最早アパートには足の踏み場も残っていない。アメのトイレの躾が済んでいなければ大惨事になっていたところだ。

 

 とは言え、圭介が天野家から引き取れたのは、預けた物のうち極一部だけ。

 残りのほぼ全てはまだ預けっぱなしになっている。

 今や関東地方の物件は、アパートやレンタルルームどころかちょっとした貸倉庫さえ、水害の恐れが無い地域に建っていれば、その賃料は鰻登りに上昇中だ。

 圭介が手持ちの資金で借りられそうなのは、少し雨が強まれば一夜にして水没しそうな地域の物件のみ。これ以上の荷物を引き取る余力が無い。

 

 天野家では、二段ベッドを除いたスペースのほぼ全てを荷物の山脈が覆い尽くし、子供達にゴミ屋敷手前の環境を押し付けている。

 いっそのこと全て捨ててしまえば良い。たったそれだけの行動で解決する問題だ。

 だが、出来なかった。

 

 まだ預けている分がほぼ全て、明日花の遺品だからだ。

 

 

「寝返りも満足に出来ないとメッチャ肩凝るんだから。やっすい夜行バスに乗ったことあるけど、もう毎晩あんな感じ?」

 

「そいつは丁度良い入社前研修になるかもな。マジでウチに入社するなら、これから地方取材の度に激安夜行バスか徹夜で車転がすかの二択だぞ。俺も地方取材の旅に腰がバッキバキだよ」

 

「ちょっと、可愛い姪っ子で未来のスター社員よ?もっと丁重に扱ってよね。昔のエライ人の諺もあるでしょ?人は石垣、人は堀、とか言うアレ」

 

「そりゃ諺じゃなくて和歌だ。第一、俺が立派な戦国武将にでも見えるのか?」

 

 しばらくの間、互いに遠慮と憂慮を隠した冗談めかした掛け合いを続けた。

 そうするうちに、言葉の端から少しずつ虚勢が剥げ落ちていく。

 

 圭介はとうとう耐えかねて、

「夏美。いつもいつも、気ばっか遣わせて悪いな。面倒かける」

口からぽろりと本音が零れた。

 

 明日花に関する品々を、圭介は目につく限り手元に保管してきた。

 明日花当人にしか読めないだろう走り書きの取材ノート、注釈入りの書籍はおろか、伝言メモの切れ端、身内の誰も使わない日用品や衣類にいたるまで、全て。

 明日香の両親、間宮夫妻への形見分けは済んでいる。

 無様に酩酊する義理の息子から孫娘を引き離したのと同時に、彼らにとってめぼしい思い出の品々は持ち出されていた。

 だから、事務所に溜め込んでいたのは客観的に見れば不用なゴミばかりだ。

 それでも、圭介は捨てられなかった。

 

 夏美は、積み重ねられたそれらに、幾度となく足を引っかけ転びかけもしていた。

だが、うっかりカサブタを引っ掻いてしまったように顔をしかめるくらいで、それらについては小言を言わなかった。

 それどころか、ただ放置するだけの叔父に内緒で、埃を払ったり虫干しさえしてくれていた。

 

 夏美は鼻息を一つ、それから数刻後。

 

「そんなのは、陽菜ちゃんと凪君に言いなさいよ」

ふわりと包み込むような口調だった。

 

「明日伝える」

もう一度感謝を素直に口に出すのはこそばゆくて、圭介はそれだけ言った。

 

 

 その時、台風の只中で通話したような、スピーカーを劈きそうなノイズが走った。

 ノイズは断続的に続き、合間に混じる声のお陰で、夏美の吐息が吹き込んでいるのだと分かった。

 唐突に大きなノイズが止んで、空間が広がったように音の質が変わった。複数人が同時に話せるようにスマホをスピーカーフォンに切り替えたようだ。

 

「あの……須賀さん」

 

 圭介の耳に、おずおずとした声が届いた。

 

「ああ、陽菜ちゃんか。すまないね、明日にはきっちり綺麗にするからちょっと

辛抱してくれ」

 

「えっと……あのですね。もし良ければ、ここにある荷物をこのまま預からせて貰えませんか?」

陽菜は朗らかに言った。朗らかさを装い過ぎた上擦った声だった。

「夏美さんの寝床も解決出来ます。夏美さんが嫌じゃなければ私のベッドを使って貰いますから。それにほら、居間で寝れば夜中も受験勉強が出来るから、私にとっても一石二鳥っていうか。夏美さんがベッドで寝るの苦手なら、私の机に荷物を積んでおきますよ。私、勉強机よりもちゃぶ台の方が集中出来るんです」

 

 矢継ぎ早に次から次へ繰り出される提案が、圭介には懇願に聞こえた。

 

「お願いですから預からせて下さい。凪も大して困ってないって言ってくれてますから。私達は平気ですから」

 

 申し出の懇願の色はより濃くなっていた。

 

 直後に「ちょっと陽菜ちゃんっ」と焦りを露わにした夏美の声がして、そこからしばらく、途切れ途切れの微かな会話が聴こえるだけになった。

 「キャバクラのバイトで帰りが遅くなるから、陽菜ちゃんな居間で寝てると起こしてしまう」だとか、「一度寝入れば簡単に起きないから心配ない」とか。凪も加わって「自分が一番背が低いから自分が床で寝る」だとか。

 やいのやいのと言い合い――もとい、遠慮合戦を繰り広げている。

 

 

 初めて天野家に足を踏み入れた時のことを、圭介は今もまざまざと思い出せる。

 あの時は受けた衝撃が大き過ぎて、荷物を預かってくれることへの礼を噛まずに言うだけで手一杯だった。

 

 天野姉弟は、十畳そこそこの古アパートに子供達だけで住んでいた。

 

 家の壁やテーブルには幼児の落書きが残る。敢えて残した状態のまま綺麗に磨かれていた。棚には学校で作ったのだろう工作品が並び、様々なジャンルの本が対象年齢に則って収納されていた。家具を彩る手作りの飾り一つ一つが、持ち主の幼子が少しずつ歩んだ成長の足跡だった。

 姉弟の勉強部屋を兼ねた奥の部屋には、凪のトロフィーや表彰状もずらりと並んでいた。圭介が目を見張って称賛すると、凪は俯き顔を少しばかり赤らめて、陽菜は自分が褒められたかのように、花より可憐な笑顔を向けた。 

 物は多くても整理整頓と掃除が行き届いて、そこかしこに家族の思い出と愛着が詰まっている。

 家全体が温かなアルバム。それが天野家の本来の姿だ。

 

 今現在は、圭介が預けた遺品が部屋を覆って、様子が一変している。

 

 神楽坂の事務所が水没して強制的に想い出から引き離されて、ようやく圭介は己の在り様とかつての住処というものを直視して、思い知った。

 あそこは、時間の流れが澱んだ墓場だった。

 その中で俺は、前向きに生きることも人生を諦めることもどちらも手放し、毎日流されるままに、墓と共に朽ちるに任せていた。

 気もそぞろで昼間から酒をちびちびと啜り仕事の真似事をしていた男。ソイツが後生大事に抱え込んでいた遺品の山。墓石に取り付き びっしり蔓延って保護被膜と化した苔や黴が、墓守を気取るに等しい日々だった。

 

 そんな未練がましい感傷の具現が、子供達がせっせと守ってきた在りし日の家庭の団欒の場を、我が物顔で侵食していた。

 十畳ほどの部屋を、足の踏み場も無く青いビニールシートが埋め尽くす。その上に、一度は水没しかけて湿りながらも、どうにか元の形を取り戻した衣服や紙束が山脈を築いている。

 丑三つ時に目が覚ました夏美が、せっせとアイロンをかけて乾かす陽菜に気付いて、自分より先に床に入った筈なのにと絶句した、とも伝え聞いていた。

 圭介は週に一度は天野家を訪れていたが、その度に、ビニールシートの湖に浮かぶくすんだ山脈めいた墓場の残骸が視界に割り込んできた。

 そんな陰惨な環境の中で、来客を歓待する陽菜と凪の笑顔が胸に突き刺さった。

 突き刺さっていながら、明日花の遺品を目にすると湧き上がってしまう安堵感を捨てきれずに、ずっと放置してきた。

 

 スマホのスピーカーの向こうでは、陽菜に圧されて夏美の反論は段々弱まっている。圭介と同じく、子供達の申し出の理由に見当がついている所為で、強く言えないからだ。

 

 陽菜は、雨が止まないこの天候の原因が自分にある、と思い込んでいる。

 凪がどこまでそれを真に受けているかは分からないが、弟なりに心配して、少しでも姉の心が安らぐのなら付き合ってやろうと考えているようだ。

 普段は気丈に振る舞う陽菜は、独りになると、秘かに何かに向かって祈っている。

 自責の念に潰されかけているのか、少女は細い肩を震わせ真摯に祈る。

 

 ――誰かの所為で雨が止まなくなるなんて有り得ない。気にするな。

 

 夏美と一緒に幾度となく口にしてきた、少女を慰めるお決まり文句だ。

 だがそれを口に出す度に、あの日の光景――少女が空に消えていく夢と、急激に立ち込める暗雲と共に現れ、咆哮で大気を揺るがす巨大な龍のような何か――が頭を過り、慰め文句から力強さが削ぎ落とされる。

 

 ――もしも、この子と引き換えにあの澄み渡る空が戻っていたのだとすれば。

 ――あのままずっと、この子が行方不明のままだったら。

 

 実に愚かしい妄想だ。

 あの子は、世を儚むあまり自決することさえ頭を過ってしまい――どうにかして、

監視カメラに映らず誰にも目撃されずに、所々冠水した東京の街を、池袋から代々木まで裸足で踏破して――あの廃ビルの屋上にふらふらと辿り着いて、長時間隠れ遂せていたのだ。

 手段が見当もつかなくても、あの子は口を噤んだままでも、そうに違いない。それ以外に有り得ないのだから、泡沫のような妄想は完全に忘れ去るべきだ。

 しかし、その下らぬ妄想が浮かんで消えずに中空を漂う時間は、少しずつ少しずつ日増しに長くなっている。

 

 腹の底に秘めた本音と違う上辺の気休めを投げかけても、相手を傷つけるだけ。

 理解はしていながら、他にどうしていいか分からぬままに、「君の所為では無い」

と唱えてきた。

 念仏のように――或いは呪詛のように、繰り返し、繰り返し。

 力及ばずとも慰めてやりたいのか。それとも、『お前の所為だ』と責め立て釘を刺す意図が、目に見えない黴のように根を張っているのか、圭介自身分かっていない。

 

 

 そうやって、十五歳になって間もない少女が独り抱える自責の念に付け込んで、溢れた荷物を押し付けゴミ屋敷手前の環境に押しやってきた。

 

 圭介はようやく決意した。

 そんな情けない日々はもう今日までだ。

 このみっともなく歯痒い日々に、俺の手で、今ここで、終止符を打つ。

 

 

「気遣い無用だよ、陽菜ちゃん。明日になったら、きっちり全部まとめて捨てちまうからさ。今まで苦労して手入れしてくれてたのに、ごめんな」

圭介はきっぱりと断言した。

 

 「え……でも――」と茫然とした陽菜の声が微かに耳に届いた。だが、

 

「ちょっ、ちょっと待ってよ!圭ちゃん」

 

夏美の大声がかき消した。

 

「それで圭ちゃんは良いの?だって、これ全部……その――」

 

 ――明日花さんの遺品だから捨てられないんでしょ?

 

 夏美は言い淀んで、そのまま言葉を飲み込んだ。

 圭介への気配りと同時に、同席する二人――特に陽菜にを追い打ちをかけないよう遠慮しているのだろう。

 

「夏美。お前がトランクルームを探してくれてたのも、衣装用のクリアケースとか通販で買い込んでたのも知ってるよ。無駄にさせちまったな」

 

 夏美がうたた寝して広げたままにした広告やwebサイトを圭介は盗み見ていたから、明日の主旨はとっくに察していた。

 明日天野家に来るようにと夏美が招集をかけたのは、遺品は保管するのが前提だ。

あくまでも運び出して預ける場所や時期、方法を相談するのが目的であって、叔父に妻の遺品を捨てさせる意図は無かったのだろう。

 

「今日、ファンとの親睦会があってな。それで踏ん切りがついた」

 

「……ファン?」訝しげに夏美は言った。

「もうお酒に弱くなって着てんだから、調子乗ってそれ以上飲み過ぎないでよ」

真面目な話の最中に茶化されたと誤解したか、声に怒気が混じった。

 

「年寄りの酔っ払い扱いすんじゃねえよ。つーか、酔いはとっくに冷めってから心配すんな」

先走った姪を宥めるうちに、自ずと感慨が漏れ出た。

「ファンって言っても俺のじゃねえよ。わざわざ取っておかなくても、残るべきものはちゃんと残るってやっと分かった。だから、もう大丈夫だ」

 

 夏美がはっと息を呑むのが聞こえた。それから、

「そっか……そっか。二人共、良かったね」しみじみと噛み締めるように言った。

 

「ああ。懐かしくて楽しい酒だった。俺達の活動が無駄じゃなかったってはっきり

すると嬉しいもんだな。陽菜ちゃん、凪も、明日はよろしく頼むよ」

 

「ごめんなさい。須賀さん」謝る陽菜の声は震えていた。

 

「こちらこそ、今まで預かってくれてありがとうな。腹が据わる前に捨てちまってたら、こういう心境にはなれなかったから、助かったよ」

 

 ふっと、夏美の笑い声がした。

 

「そんじゃ、衣装ケース代は明日立て替えて貰うからね。事務所移転は我らがK&Aプロダクション再出発の初仕事なんだから、当然、経費で落ちるわよね」

 

「分かった分かった。しかし夏美、お前、ここ最近は本当にちゃっかりしてきたな」圭介は苦笑した。

 

「そりゃねぇ。私だって実家を出たから何かと入用だし、ザル経営に慣れ切っちゃった社長を叩き直せるのは社員だけでしょ。これからビシビシ監督してあげるから覚悟してよね。んじゃ、おやすみ」

 

「ったくよ、これじゃどっちが上司だか分かりゃ――」

圭介が軽口を叩こうとしたが、

 

「圭ちゃん。あのさ」

しっとりとした夏美の声が重なった。

「これからさ、一緒に頑張ろうね」

 

 そこで通話が切れた。

 

 

 しばらく終了のアイコンを見つめた後で、圭介は名残惜しげに通話終了のアイコンを押した。

 喧噪が去って、ほっと一息ついた。ただ電話を一本かけただけなのに、どっと疲れが押し寄せたものの、悪い気分ではなかった。

 そんな圭介の頭には、明日花と共にインタビューした宮水元糸守町長の言葉が浮かんでいた。

 

 ――糸守という土地に二度、三度と彗星が落ちて、その度に人の往来が途切れて数多の離別を迎えたことは地形が証明している。その苦境を乗り越えて糸守での営みが連綿と続いてきたのは、切り捨てずにまた繋げたいと、住民達が願ったからです。

 ――また紡ぎたいという意志がある限り、不幸にも失ってしまったものや人があろうとも、いずれ何かしらの形でまた会える。亡き妻の教えです。

 ――彗星が落ちたあの日、娘が思い出させてくれました。

 

 神社の神主の癖に、輪廻転生だのと言い出しそうな抹香臭い説法をぶつものだ。当時は内心で小馬鹿にして、歯牙にもかけなかった。

 森島帆高と言う少年と立花瀧という青年。

 あの二人に出会って、ようやく元市長の言葉の意味を理解出来た気がする。

 

「お客様」

 

 斜向かいから声を掛けられた気がして、顔を上げた圭介の懐に、新たなグラスが飛びこんで着た。未練を断ち切る儀式として。そして、新たなK&Aプロダクションの門出を祝して。予め注文していた本日最後の一杯だ。

 

 波紋が治まるのをぼんやりと見下ろしていた圭介は、グラスに手を添えた。

 

「なぁ明日花、あの立花とかいう小僧、お前のファンなんだとさ。奇特な野郎が居るもんだよな。ほんとビックリだわ」

グラスを取る手に自然と力がこもった。

「家が沈んで宿無しになろうが、会社が傾こうが、生きてさえいりゃあ、色々と面白いことがまだまだあるだろうによ。自分の記事の感想を読者から直接聞ける機会を逃すなんて、マジで馬鹿だぜ。お前」

 

 圭介は目の前にグラスを突き出しかけて、手を止めた。

 バーで乾杯は御法度だったか?……いや、グラス同士をぶつけなければ問題無い

筈だ。

 

「……これも、お前が教えてくれたんだっけか。ありゃあ一体、何年前だっけな」

 

 バーで扱うのは繊細なグラスが多いから、グラス同士をぶつければヒビが入りかねない。だから乾杯は御法度。

 明日花にそう説教されたのは、初めて組んだ仕事で無事脱稿した直後の打ち上げの席だったか。好奇心旺盛で、本当に色んな知識をかき集める女だった。

 

 ――妖怪とかUFOとかさ、実際に存在するか怪しいけど、もしも存在したらスゴいじゃない。

 

 女でチュパカブラだのオカルト好きって一体どういう心境だよ。

 かつて、妻にそう問いかけたこと時のこと。

 彼女は、輝く笑顔で自信満々に答えていた。

 

 ――しかもさ、実在するならどんな理由が考えられるか。自分が持てる知識を振り絞って、色んな資料を掘り下げて、あるか分からないものが実在する可能性を探る。

 ――こじつけだって言ったらそうかも知れないけど、そうやって毎日全力投球で生きてる人から話を聞けたら、見慣れた物や景色だって、視点が変わって知らない世界が開けるかもしれない。想像するだけでワクワクしない?

 

 二人で組んでいた頃は、その考え方を心底では理解出来ないままに、彼女に引っ張られてオカルトネタの取材で方々を駆け回った。

 明日花がこの世を去ってからは、彼女の考えを理解したくて、敢えてオカルト関連の仕事を率先して選んだ。

 その取材の一環で神津島へと足を運んだ帰りに、圭介は帆高と出会った。

 そして、明日花の考えを多少なりとも理解すると同時に、自分自身と言う男への理解をまた少し深めた。

 

 これまで仕事が上手く行かず、原稿まで仕上げて添付した企画書を出版社に提案しては突き返されてばかりだった理由。

 それは、圭介が取材をするフリをして、明日花の猿真似をすることが目的と化していたからだ。

 圭介が追い求めていたのは、取材を通して不可思議現象が起こる可能性や、その真偽を暴くことではなかった。

 振り回され呆れながらもそれ以上に愉しみ二人で奔走した、あの幸福な時間の追体験を求めていたのだ。

 そうして、「勉学が本文の学生には遠方の取材を任せられない」ともっともらしいことを言いながら、オカルトネタに乗り気の夏美を差し置いて社会人たる圭介の役割が遠方の出張取材を一手に請け負ってきた。

 

 ジャンルを問わず、趣味に没頭するオタクは、その記者が手掛けた題材に対して熱意や関心を寄せているかを敏感に嗅ぎ分ける。

 売上狙いでオタクの琴線に触れようとする真似事だけしながらまるで掠っていない記事は、建前と本音の温度差が如実に表れてしまう。

 題材への熱意は無い癖に文章だけは綺麗に整っていると、むしろ余計鼻について、読者から大いに不興を買いかねないから気を付けろ。「このインテリ気取りっぽいライター、飯の種や踏み台にする為に知った風なクチを利いて、俺らのテリトリーに土足で踏み込んで媚を売ってやがる」という寸法だ。

 

 夏美に狸と扱き下ろされた、かの大先輩が最初にくれた諫言だ。

 すっかり忘れていたか、或いは無意識のうちに目を背けていたのかもしれない。

 出版社の編集部も、読者達のことを馬鹿げた妄想に金を払う阿呆だと斜に構える圭介の胸内を見抜き、読者にも見透かされることを危惧していたのだろう。

 

 圭介は独り胸に誓い、同時に確信していた。

 ここから先はもう、同じ過ちは犯さない。

 今の俺なら、しっかりと取材対象を見据えて記事が書ける。

 

 すると、自ずと青写真が頭に浮かんだ。

 まずは堅実に仕事をこなして、今の仮住まいの安アパートから脱出しよう。

 まとまった金が出来たら、マンションの一室にでも引っ越して、そこを事務所にするのも良い。従業員をもっと雇って、夏美に楽をさせてやる必要もある。

 そして、その頃にはきっと、帆高は東京に戻っている。

 アイツが戻れば、陽菜ちゃんもきっと心の底から笑えるようになる。

 凪も最初は姉を待たせて気を揉ませたと説教するかも知れないが、内心喜んで受け入れるだろう。

 夏美や萌花も恋人を連れて来るか。……予想外の知り合いを連れて来られたら、どう反応して良いものか。

 もしかしたら、立花という青年も探し人と二人でやって着るかも知れない。

 

 明日花の足跡が新たな"結び"を紡いで、今日の様に、懐かしさと誇らしさ、そして少しばかりの嫉妬に浸る時間が訪れる。

そういう日々がこの先も続いていくのだろう。

 

 圭介は独り、おもむろに空中へとグラスを掲げて、乾杯の仕草をしてみた。

 乾杯の相手も、ぶつけるグラスも無いのだから、音はしない。

 当然、説教も飛んでこない。

 

 きっとまた、どんな形であれ、今日のように明日花と再会出来る。

 次はどんな形になるだろうか。

 

 今から焦がれるほどの楽しみと掻き毟りたくなる寂しさに襲われる胸へと、ストレートの酒をぐっと呷って流し込んだ。

 燻した煙臭さと苦味が口から喉から鼻腔へ広がり、その後に仄かな甘みが残る。

 一口、また一口とグラスを傾け、喉を走るビリビリと灼ける感覚とじんわり染みる熱に、体を浸して慣らしていく。

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。