昼休み。新入生が集まる幻想郷のお食事処は、夜よりも暗い空気が漂っていた。
並の戦場よりも苛烈に感じたあの時間を乗り越え、午後からは魔物学と呼ばれる穏やかな座学の予定だった。しかし、先程の幻想術の授業が破綻していたという理由で、急遽魔物学が潰れ、再び幻想術の授業をすることになってしまったんだ。
「「「「「…………」」」」」
周りもそうだが、俺たち五人も一切食事が進んでいない。
食べなきゃいけない。空腹の力が出ない状態であの授業を受けてはならない。それは十分に理解しているのに、一向に手が動かない。
このままじゃいけないと、俺は頭をフル回転させて話題を掘り出す。
「……そ、そういや、博麗神社って学園の敷地内にあ、あるんだな……」
「え、ええ! そうなのよ!」
なんとなく察した様子の霊夢があからさまに声を上げる。
「だから、みんなの寮生活が羨ましいわ! 寝る前なんか恋のお話で盛り上がるんでしょ? 誰々がかっこいいとか! 私もしてみたいな!」
「そ、そうらしいぞ女子は! あ、あは! あはははははは!」
霊夢が何を言ってるのかわからないけど、とりあえず笑ってみた。
しかし、向けた本人たちは変わらずの上の空。一切こっちの言葉なんて届いていなかった。
すると、どこからか鋭い声が聞こえてくる。
「いけません、博麗の巫女。我々のような下流の民と寝床を共にしたいなんて」
霊夢のすぐ後ろに、声の主が立つ。
少し赤みを帯びたストレートの茶色い髪。それに交じって頭上に生えているのは、狼の耳だ。その特徴だけで、彼女が訳ありなのだと理解した。
「今泉、さん……」
振り向いた霊夢は、少し悲しげな表情で彼女の名を呼ぶ。
「え、≪今泉≫ってあの守護━━」
「━━っ」
口を挟む俺を今泉が睨んだ。敵意を剝き出しにした双眸に内包されたタペータムが紅く発光する。その現象も風貌も、俺にとって縁のある妖狼のそれだ。
「二葉稜花、だな」
「おう、そうだけど。おまえは?」
「今泉影狼よ」
霊夢ほどではないが、それでも十絶な存在感を放っている。それは名家特有の英才教育から漏れ出る実力の裏打ちだ。
今泉家。それは古くから博麗家に仕えた家の一角。
「単刀直入に聞くわ、あなたはどうして博麗の巫女の傍にいるのかしら」
隠すことなく向けられる敵意を浴びて、少し身体が熱を帯びてくる。これから交わす言葉次第では、いつ攻撃が飛んできてもおかしくない。
しかし生憎、俺は彼女が納得できるような理由は持ち合わせていない。
「気が合うから」
「最悪な理由ね」
予想通りの返事。今泉は俺を睨んだまま、けれど諭すかのように言葉を紡ぐ。
「博麗の巫女はこの世界の象徴、宝よ。あなただって知っているでしょう?」
視界の端で霊夢の身体が僅かに震えたのが見えた。
「この千年間、誰もが博麗の巫女に希望を託し、数えきれない力ある者が守ってきた。時には力ない者さえ、その身を盾にしてきたのよ」
博麗の歴史の一端だ。
博麗輪廻の誕生から、すべてが優勢に進んだわけじゃない。
大結界から溢れ出した妖怪の中には、人の言葉を話し、理解する存在もいる。いつの時代もそんな大妖怪の標的は、博麗の巫女だった。
現に、三代目博麗の巫女の第一子は二歳で喰い殺されている。
「その博麗の巫女を、あなたがそんな理由だけで関わるということが許されると思っているの?」
だからこそ、歴史を垣間見たら誰もが言うんだ。
━━博麗に関わるなら命を懸けろ。
って。
「私は許さないわ、博麗の巫女に砂をつけたあなたを」
言い終わると、彼女は俺に背を向けてお食事処を出て行った。
気づけば部屋中の視線を浴びており、小声で何かを話す人たちが目に映る。
もう完全に俺の頭は食欲を失っていた。
「……なんだか、こう、すごく、博麗の巫女に対して、想いがあるのね」
チルノが出入口を見つめながら言う。
「ごめんなさい……」
すると、霊夢がぽつりと呟く。
それが何について謝っているのか俺には理解できなかった。それを問いかけようとするが、魔理沙に先を越される。
「なんだ霊夢が謝るんだ? 上手く着地できなかったからとかか?」
「違うの。……今泉、いや、影狼があんな風に言ってしまうのは、元はといえば私が原因だから」
その一言で誰よりも早く真実に辿り着いたのは、アリスだった。
「そういうことなのね、霊夢」
「うん……」
「どういうことだ? 私にはさっぱりだぜ」
二人を置いて答えに辿り着けない俺たちに、アリスは少し声を落として告げる。
「彼女は、見た目通りの妖交じり。それも、
それが何を意味するのか、俺はようやく理解することができた。だが、チルノだけはいまだ分からないというような表情を浮かべる。
「それが、なにか? ごめん、あたしにはまだわからない……」
「あなたの前で言うのは少し気が引けるけれど、この世界には≪
チルノを相手にしてもアリスは怖気づくことなく言った。
初めてそのことを知ったのだろうか。チルノは少しショックを受けたような、哀し気に視線を落とす。
ならばこそか、アリスは言葉を止めない。
「こればかりは仕方ないのよ。妖怪による人的被害が溢れたこの時代では、友好的な人の方が稀有。むしろ、なまじ意思疎通が図れてしまうが故に、妖怪よりも半妖が憎しみの的になってしまうの」
でも、彼女の言葉が全てというわけでもない。チルノのような半妖精に対しての意識は昔と比べて大分緩和されていると聞く。彼女が町を歩き、突然危害を加えられるなんてことは無いはず。
ただ、彼女のような存在すら許容できない組織も世界にあるのも確かだ。
「それを理解しながら、今泉家は博麗の巫女を守るために妖と交じった。生まれてくる子どもの人生を天秤にかけて」
そこにどれほどの覚悟があったのか。どれほどの苦悩と涙があったのか。
しかし、世間はその背景なんて目もくれず、
いままでも。これからも。
☆ ☆ ☆ ☆
「えー、まずみなさんに謝りたいと思います」
午前と同じ広場に集められた俺たちの前で、遠目で見てもわかる程度の大きなたんこぶを持った先生二人が綺麗に頭を下げた。
「すいませんでした」「ごめんなさい」
赤く滲むたんこぶが痛々しい。
どうやらどこかの教師がガッツリとお灸を据えてくれたようだ。ようやくまともな授業が始まると何人かの生徒が安堵の息を吐いた。
「じゃあ、気を取り直して幻想術の授業を始めるぞ。今日、おまえたちにやってもらうのは」
妹紅先生が指差し先には、あの巨大な岩石。
「あの岩に、一人一つ穴を空けてもらうことだ」
おえ。やらなくてもわかる、苦手なやつだ。なんて考えていると、不意に妹紅先生と目が合ってしまった気がした。
先生は鼻で笑う。
「いま苦手だって思った奴らは、手本見せてやるから死ぬ気で見ろ」
そう言って先生は岩石に向けて片手を伸ばす。
胸から腕へと伝うように炎が顕現し、岩石に向かって噴出した。凄まじい熱量が岩石を直撃するが、温度が上昇するだけで肝心な穴は空いていない。
「馬鹿みたいにただ幻想を垂れ流した状態だと、貫くなんて夢のまた夢だ。けれど━━」
第二撃。
顕現した炎は、妹紅先生の伸ばした手のひらに留まり、収束を重ねていく。徐々に周囲諸共大気の温度を上昇させ、陽炎を引き起こす。
先程の炎とは熱量も、輝きも、感じる力が段違い。
「こうやって時間を掛けて幻想を鋭く研いでやると……」
炸裂する音と共に炎が射出される。一直線に飛んだそれは、まるで紙切れのように岩石を容易く貫通し、彼方へと消えた。
「こんな感じだ。コツを掴めば簡単だから、今日はそのコツを掴んで帰れよ」
「ここからは二手に分かれるから、私か妹紅、好きな方についてきて」
随分あっさりと授業が始まりを告げた。
気後れする新入生たちは慌ててそれぞれ移動を始める。即席のように思えて、皆は自身の幻想に近い先生の方へと移動しているように見えた。
「稜花、おまえはどっちに行くんだ?」
魔理沙に肩を叩かれる。
「俺は、妹紅先生だな。魔理沙は?」
「奇遇だな、私も妹紅先生だ! 私の幻想は火力重視だからな」
「そうか。じゃあ、他の三人は……」
と、辺りを見渡すと、アリスとチルノはもう輝夜先生の元へと歩いていた。霊夢はというと、真ん中でどっちに行くべきか迷っている様子だった。
その姿を見た魔理沙が楽しそうに笑顔で彼女に手招きする。すると、霊夢はぱぁーっと表情を咲かせてこちらへ駆け寄ってきた。
「あーそうだ、博麗霊夢」
「あ、はい!」
忘れていたと言わんばかりに妹紅先生が霊夢に声を掛ける。
「おまえは端で自主練でもしてろ。その力は貫くとか破壊するとかどう足掻いても無理だから」
「…………はい」
元気無く返事をした後、彼女は子猫みたいな潤んだ目を向けてきた。とぼとぼ遠ざかっていく背中を見ていると、なぜか悪いことをしたような気分になる。
「おーし! さっそく始めるぞ! 腕に覚えある奴からやってみろ!」
妹紅先生の言葉を受けてやる気に溢れる生徒数人が巨大な岩石の前に立った。
一拍置いて、一斉に幻想が解き放たれる。少し周囲の明度が下がった気がした。
『はぁあああああああああああああああああああああああ!!』
繰り出される異能の奔流。鼓膜に強く響く轟音を立てながら岩石を襲う。
しかし、岩石は傷一つつかない。
『━━ッ!?』
全身全霊で異能を放った生徒たちは息を切らしながら、目の前の惨状に言葉を失った。
後方に位置した俺たちは言葉にせずとも、その岩石がただの岩石ではないことをようやく理解した。
これは≪魔石≫だ。俺たちの訓練の為に、なんらかの異能による加工が成されたもの。
力圧しでは穴を空けられない。先生の言う通り、力を研ぎ澄ませなければ。
「さあて、何人が乗り越えられるかな」
妹紅先生が心底楽しそうに笑った。
『…………』
それを知って、俺たちはすっかり意気消沈する。良くも悪くも、新入生たちは自分自身の実力を解しているようだった。
俺は魔理沙と視線を合わせ、頷き合いながら一緒に前に出る。
━━刹那、輝夜先生のグループの方から歓声と拍手が聞こえてきた。
「へえ、私ってこういうのが得意だったのね」
称賛の渦中にいたのは、アリスだった。
周囲を漂う七体の人形、その先にある岩石には一つの穴が空いていた。妹紅先生程の大きな穴ではないけれど、そこには確かに岩石を貫いた跡がある。
「驚いたわ。こんなに早くこの課題を乗り越えられるなんて」
輝夜先生も驚愕の表情を浮かべながら拍手する。
「おー、やるなあいつ。もしかして、今年の一年の頭はアリス・マーガトロイドか?」
「…………」
心が熱くなった気がした。
一年の頭。その一言が、妙に引っ掛かる。
さっきまで抱いていた不安が消えていき、肩が軽くなっていく。そして、これでもかというほどに力が湧いてきた。やる気が溢れ出してきた。
「なあ、稜花」
「おう、魔理沙」
彼女と想いは一緒だ。
「アリスに負けてられないぜ!」
「当たり前だ!」
踏み出した一歩に、思いっきり力が入った。
「「
「「はぁ……はぁ……はぁ……」」
授業開始からかれこれ一時間が経った。
「情けねえな、一時間経ってこっちは誰一人空けられてねえじゃねえか」
妹紅先生が息を切らして横たわる俺たちを見下ろす。
先生の言う通り、あれから負けじと課題に挑むも誰一人として貫けた者はいなかった。
やってみてわかったことは、俺たちがいままで扱ってきた幻想というものは、ただその力を行使するだけだったということ。なにせ、仕留める技を持ち合わせず、些細なダメージを与え続け、時間を掛けて一匹の妖怪を倒してきたのだから。
先生はあえて言葉にはしないけれど、思惑はきっと、
━━必ず殺す技を編み出せ。
ということだ。
「イメージも名前も固まってるのに、形にならないぜ……!」
魔理沙が右手を夜空に掲げながら呟く。
「ますたぁぁ……すぱぁぁく……」
力なく技名を声に出してはその手をだらりと落とす。
彼女の頭にはもうなにか強力な一撃が創られているようだ。その一方、俺は何一つ形づけることはできていなかった。
なにものをも貫く鋭い一撃。剣か槍か矛か、鋭ければなんでもいい。
「なんか難しく考えてねえか?」
妹紅先生が、大の字で横たわる俺の顔を覗き込む。
「難しく、すか?」
「ああ。おまえいま、岩に穴空ける為にどんな武器を使うか悩んでるぞ」
「そりゃあ、貫けって言われてますから」
俺は疲労に満ちた身体を起こし、先生に向き直る。
「イメージは剣か槍、矛でもいいです。ただ、そこからが進まないんです。ただの刃物じゃなくて、より鋭いもの。鍛錬されたものといった方がいいんでしょうか」
「いつから私たちは鍛冶屋になったんだよ」
俺の言葉に妹紅先生が鼻で笑い飛ばした。
「私たちが扱うのは矛か? それとも盾か? いや、そのどれでもない」
叩かれたように、後頭部に強い風を感じた。
吹き荒れる風に乗った桜の花弁が、舞い踊っては俺たちの頬を撫でる。
「私たちが使うのは、
色素の薄い白い髪を靡かせながら、先生は優しく笑う。
「これから先、おまえたちは異変っていう超常の事件を解決していくんだぜ。その事件に常識なんて一切通用しない。ありもしない、想像もしたことがないような幻が襲い掛かってくるんだ。それをおまえは剣で挑む気なのか?」
「それは……」
「あの獏竜を相手に、精巧な剣一本あったら勝てたと思うのか?」
「……いえ、思いません」
「だったら、常識になんて囚われるなよ。幻想は骨の髄まで幻想だ」
そして、先生はある一点に視線を移す。その先にいたのは、今泉影狼だった。
彼女は目を閉じ、ひたすらに深い呼吸を繰り返しながら岩石に近づいていく。その身体からはなにか言い寄れない力が漂っているように感じる。
自然と周りの生徒たちも活動をやめ、今泉に視線を集めた。
「よく見てろよ」
先生はこれから起こることがすべてわかっているようだった。
言う通り、俺は今泉から視線を外さない。
彼女は岩石の目の前まで歩くと、静かに目を開き、拳を構えた。その拳は赤黒い光を発し始める。
固唾を飲んだ。
彼女は、何人もの幻想を以てしても傷一つつかない巨岩に、拳一つで挑もうとしている。
「ハァァァッッ!!」
威勢よく伸びた拳が岩石に直撃する。響いた轟音が空間が揺らした。
そして一拍遅れて、反対側から赤黒い光と共に岩の欠片が噴出する。
『━━ッ!?』
「はは! まさか拳で空けちまうとはな!」
絶句する俺たちを掻い潜って、妹紅先生の笑い声が響いた。
「よっしゃあ、今日の授業はここまでだ! 忘れた頃にもう一回やるから、ちゃんとできるようになっとけよ!」
待ち遠しかった授業終わりの合図がきても、俺たちはしばらく動くことを忘れていた。
☆ ☆ ☆ ☆
「いやー、すごいぜ! ありゃあ、たまらん!」
放課後、寮までの帰り道は午後の授業の話題で持ち切りだった。
「魔理沙ったら、そればっかり! アリスの方が穴は綺麗だったわよ!」
「それはそうなんだけど。火力を求めてきた私としちゃあ、あの今泉のばこーんっていう一撃に憧れちまうぜ」
「ふん! 魔理沙ってホント派手好きよね、幻想師っていうのはもっとお淑やかでいるべきだわ。上白沢先生みたいに」
「お淑やか? 私はごめんだぜ! 幻想は爆発だ!」
「お淑やか!」
「爆発!」
言葉を投げつけ合う二人の背中を眺めながら歩く。少し小さな歩幅で、隣にいるアリスと霊夢に合わせる。
「はぁーあ、結局穴を空けられたのはアリスと今泉だけかよ」
「おかげさまで有意義な時間だったわ」
アリスが上機嫌に微笑む。
「すごいなーアリスは。私も頑張らなくちゃ」
「特別待遇受けてた生徒が何言ってるのよ」
「それはみんなに申し訳なかったわ……」
ため息を吐く霊夢。アリスは「別に誰も気にしてないわよ」と続けて、お食事処で注文しなかったお団子の話で彼女と盛り上がり始めた。
━━幻想は骨の髄まで幻想だ。
不意に、妹紅先生の一言が頭を過る。
結果は伴わなかったけれど、俺もあの時間は有意義だったと感じる。
いま考えれば簡単にわかるけど、俺は岩石を貫けるほどの精巧な剣を知らない。見たことがない。だから、いくらイメージしようが無理だった。と、それを理解できただけでも
大きな成長を遂げたんじゃないかと思う。
「あら、随分とか弱い人が迷い込んだものね」
「━━ッ」
刺すような寒気に包まれ、全身から鳥肌が立った。
刃物で骨を撫でられでもしたような悪寒。痛みすら感じてくる。
無意識にしたまばたきの後、世界は一変していた。
夜空に浮かんだ青白い満月。その光に反射して発光する紫色の鈴蘭の花が、全方位、水平線の彼方まで隙間なく咲き誇っていた。
そして、その中心には桃色の傘を差した女性が立つ。
癖のある緑色の髪に、真紅の瞳。黒地に赤いラインの入った学園の制服に身を包んだ彼女の顔は笑っているのに、感じさせるのは恐怖しかなかった。
「……ここは」
なんとか絞り出した言葉は、これから自分を殺す死神の名ではなく、死地の名を問うものだった。
「≪無名の丘≫、よ。ここは≪送り花≫が作り出す記憶の世界、千年前に消えたこの場所を大切に保管しているの」
「無名の、丘……」
「その由来はね、まだ名すら与えられていない幼子をこの鈴蘭の毒で殺して間引きする場所だったから、なんですって」
彼女はその事実になんら嫌悪感を感じていない様子で淡々と語る。
「こんな場所に迷い込んだのだから、あなたってもしかして名無しなのかしら? なんて、そんな筈ないわよね」
「一年生の二葉稜花、です」
「二葉稜花……」
俺の名を口ずさむ彼女の視線が静かに突き刺さる。少しでも動けば、その部位が一瞬で消し飛んでしまう気がした。
そして、数秒後、彼女は太陽のように微笑む。
「驚いたわ、とても素敵な名前じゃない」
彼女をふわりと跳躍し、スカートを揺らしながら、まるで羽でも生やしているかのように穏やかに俺の眼前に着地した。
数ミリで肌が触れ合うくらいの距離。彼女の髪から漂う向日葵の香りに、つい頬が火照るのを感じた。
「いつもならすぐ消してしまうから、名前なんて聞かないのよ。覚える気なんてさらさら無かったし。でも、あなたの名前は覚えようかしら」
そう言って俺の頬に手を添える。間違いなく頬なのに、なんだか心臓に触れられているかのような息のし辛さが圧しかかった。
それでも俺は、必死に言葉を絞り出す。
「できれば、消されたくないです……」
「ふふ、素直ね。そこも好きだわ、花みたいで」
好きなら、その殺気をどこかへ仕舞っておいてほしかった。
「いままで出逢った人は騒いで襲い掛かってきたり、泣きじゃくる人たちばかりで、会話なんて碌にできなかったのよ。わかるでしょ、すぐ消し飛ばしたくなる気持ち」
「……はい」
「なら、素敵な名前を持つ花を手元に置いておきたいっていう気持ちも、わかってくれるかしら」
「━━っ!」
途端、俺の頭にあった危機感が弾け飛ぶ。
しかし、動くよりも先に地面から生え出た無数の蔦が俺の手足を絡めとって拘束した。
「別に、名前だけでいいのよ」
彼女は余裕に満ちた笑顔を浮かべ、俺の身体を上から順番に指先でなぞり始める。
「美しいその名前はどこに刻まれているのかしら。目、それとも心臓、それとももっと奥にあるもの?」
いくら藻掻いても拘束は解けない。
「そう、教えてはくれないのね」
彼女は少し寂しそうに表情を曇らせ、右手を俺の胸に添える。
それが何を意味しているのか理解できない俺の鼻孔を、焼け焦げたような熱い匂いが包み込んでいく。
それは次第に強くなり、添えられた彼女の掌が雷撃にも似た音を立てながら赤く発光して━━、
「入学したばかりの生徒を苛めるのは関心しないわね、風見幽香」
どこからか響いた第三者の声と共に、彼女の手から匂いも光も消えていく。
「あら、魅魔先生。帰ってきてたんですね」
彼女の後ろには、悪魔のような翼を生やした女性が立っていた。
濃い緑色の長い髪と瞳。青いベストとスカートに身を包むその女性を、死神は魅魔
刹那、どこからか白い霧が立ち込め、次から次へと状況が変化していく。
「容赦がないのは死戦においては良いことよ。けれど、こと学園生活においてそれは調和を乱すだけ。あなたには何度も忠告していると思うけど」
「忠告、ですよね。命令ではない」
「それで何か━━」
霧が濃くなるにつれて二人の声が徐々に遠ざかる。
次第に妙な浮遊感に襲われた。
気持ち悪い。
目を閉じて吐き気を押し殺した。
「稜花!」
少し冷たい聞き慣れた声に名前を呼ばれる。
アリスだ。
ゆっくりと目を開けると、さっきまでの鈴蘭の花群は跡形も無く消え、いつもの下校道が広がっていた。
目の前にいたのは、アリスたち四人ではなかった。きっと上級生たちだと思う、見知らぬ面々が心配そうに俺を見ていた。
「おらー、どけどけー。天子様一行のお通りだぞー!」
奥から人の群れをかき分けて、青い髪の女性が現れた。手には緋色に輝く剣が握られている。
「ちょっと早いってば、天子!」
「ふぅー、やっと追いついた」
少し遅れて、顔立ちの似た二人の女性も現れる。
金色の髪を縦に巻き、ネックレスや指輪で着飾る女性。もう一人は、長い青髪を青い大きなリボンで結んだ女性。一見して彼女たちは双子に思えた。
「…………えっと、なにこれ」
事態が飲み込めずに問いかけると、魔理沙が心労を込めた息を吐く。
「いやいや、それはこっちのセリフだぜ……。いきなり音も無く消えちまったんだから。
偶然通りかかった上級生が≪送り妖怪≫の仕業だって教えてくれて、助けまで呼んでくれたんだぜ」
「助け……?」
助けっていうのはこの三人の事だろうか。なんて疑問を霊夢が即座に解消してくれた。
「この方たちは三年生の比那名居天子先輩、依神女苑先輩、依神紫苑先輩よ。彼女たちならあなたを助けられるだろうって、先輩方が呼んでくれたの」
「そうだったんですか、ありがとうございます……」
会釈すると、緋色の剣を持つ女性━━比那名居天子先輩は苦笑する。
「いや、私は何もしてないから。……それより、怪我はない?
「大丈夫です、妖怪には襲われなかったんで……」
無意識に含んだような言い方をしてしまい、先輩たちが首を傾げた。すると、金髪を縦ロールに巻いた女性━━依神女苑先輩が口を開く。
「妖怪には、ってことは別の何かってことね? もったいぶらずお姉さんに教えてごらんなさい」
俺もまだ、あの存在を完全に理解できたわけじゃない。
例えるなら、大きな死の塊。だったと思う。目が合ったら最後、逃げることは叶わず、消されるのを待つだけ。
そういう存在を、人と呼んでいいのだろうか。
「きっと……人、だったと思います。名前は、風見幽香っていう」
『━━ッッ!?』
「「「?」」」
彼女の名を口にした瞬間、流れていた空気が凍てついた。
周りにいた上級生と霊夢は目を見開いて後退り、俺たちだけが取り残された。
「マジかよ……」
「ちょっと……私帰る……!」
先輩方が次々とその名に怯えて逃げていく。
「え? え? どうして先輩方は帰っていくの?」
チルノが困惑した声を上げると、長い青髪を青い大きなリボンで結んだ女性━━依神紫苑先輩が応える。
「怖いからよ。このままここにいたら、次は自分なんじゃないかって」
「そんな……。風見幽香って一体何者なのよ……」
「風見幽香は学園の五年生で、この幻想郷に伝わる禁忌の一つ」
「禁忌……?」
紫苑先輩はこくんと頷き、続けた。
「一つは学園の地下、夜よりも暗い世界の一室に入ってはならない。そしてもう一つは━━風見幽香の視界に入ってはならない」
前者は入校式の時に学園長が言っていたことだ。後者については何も言っていなかったことから、風見幽香に関しては生徒たちの間で創られたものなんだろう。
それを禁忌とした理由は痛いほどわかる。
あの人は、危険すぎる。
「そういうわけだから、私たちもここを離れましょ。大丈夫、あんたたちは私たち三年生が責任もって寮まで送るから。天子もそれでいいでしょ?」
「え、ああ……そうね」
「ん? どうしたのよ」
比那名居先輩の反応の鈍さに疑問を持った女苑先輩が、彼女に尋ねた。すると、比那名居先輩は考え込むように口元に手を添え、次第に口を開く。
「二人はわからないの? 目の前の異変が」
「異変?」
「どういう意味?」
「禁忌なのよ、風見幽香という存在は。誰かが大袈裟に触れ回ったものじゃない。実際に彼女に消された生徒が二十はいて、その凶悪さから先々代の学生総代が禁忌と指定した。一度視界に入れば誰これ構わず消す。そういう存在なのよ、彼女は」
「それがなによ……」
投げかけられる疑問も、視線も、すべてを集約して放ったように比那名居先輩は俺を真っ直ぐに見据えて、告げた。
「この子は、あの風見幽香と邂逅して無傷で帰って来たのよ」
それが異変であると言わんばかりに。