第一話 雷竜だった姉
畢竟――あの世界には愛が足りなかったのだろう。だから滅んだ。それは当然のことかもしれない。
その後に残ったのは、骨の空虚と生きた痕。
それらの証拠にて幾らこれは恐ろしい竜だと想像されようが、それでも我らは彼らと断絶している。想いは決して伝わらない。
けれども、それでもあたしは覚えているのだ。あの巨きな月の青。そこに上がらない頭を精一杯持ち上げて、誰よりも高く何よりも近くまで首を伸ばして。
「精一杯、恋を言葉にしたことを」
ああ、言葉を知らない太古の獣の無意味の羅列。それらは果たして、恋に足り得なかったのだろうか。
世界は滅んでいる。そんなことは、私にとっては当たり前のことである。
ジュラの森影形もなく、そびえ立つは山ほどの鉄の盛り。偶によるものではなく、意思により塗り替えられた世界はどこまでも通りが良い。
けだもの地味た猥雑さは蔵されて、薄っぺらに貼られているのは綺麗事ばかり。繁殖を愛に言い換えて、どこまでも空は高く近くなった。
ああ、総じて、この世は人の世なのだろう。学び、そうして私は結論付けた。ならば、この世界もまたいつか滅ぶのだろうと。
「生に価値などない」
世界とは地べたに貼られた一枚のレイヤ。不安定な、安定求める、一つ。
そこに付いた埃にのみ価値を見つけるのは酔狂であり、ならば生命のみに恋するのは酷く主観的であるのだろう。
意味とは連続性であり、故に多様性を便利に複写続ける命というものはどうにも頼りなかった。
それこそ、誰より高く頭持ち上げようとも、塊のような複雑に至ろうとも、永遠性とあたしたちの仲は悪く、故に無意味と帰すのは自然だったのだ。
「だからこそ、愛おしいが」
そして、あたしの結論は何時だってそこに至る。煌めきこそが瞳に映るのであれば、多面こそ美に近い。
それを思えばずたぼろに近いまま、足掻く不定形なんて、嫌でも応援したくなるもの。
お目々は二つが交じって一つを映すが故に酔っ払ってしまうくらいに偏って。小さい人々は、だからこそ愛おしくてたまらなかった。
手は、勝手に動く。労いは、触れ合いにて。
小さくて辛かったろう、苦しかったろう。けれども、その鼓動の速さこそ波紋の揺らめき。巨大には覚えられない、高音の命の歌だ。
あたしは、何より愛のために、妹を撫でた。
「よしよし」
「なんで撫でるん?」
「愛らしいから、だな」
「こんなでっかい妹を捕まえて、愛らしいとはまたでっかい姉だなあ」
「これでも矮小だ」
「この姉、八尺に足らなきゃ全部小さい扱いかよ。たまげたなこりゃ」
我が卵ほどの大きさだったあの赤子が、今や胸元ほどに背を伸ばし、しかしあたしと比較してしまえばあまりに小さい。
八尺。なるほど今の我が身はそれにすら届かない、二メートル足らず。しかし、それですら、人の間では埋没し得ない高さの天井付近。
背一杯つま先伸ばしたところで、先のあたしの心の臓にすら届かない、その程度ばかりが地べたを埋め尽くす。それがあまりに愉快で愛らしい。
「ふむ」
あたしは、撫でるのを嫌がらない、とても出来た妹のつむじを見下げながら思う。
左に回ったこの回転。毛は鱗と起源を同じとすると聞く。しかし、この触りの良さといえばどうだろう。
舌で撫でた我が子のざらりとした、その感触とは大違いだ。なんとも柔らかで、頼りない。
「にしても姉ちゃん、どうして私の部屋に来たん? そして、またレトロチックな図鑑を持ってきたん?」
「それはな」
先まで妹の部屋――単の色をせめぎ合わせたような眩い部屋――の文机に置いた図鑑を、とあるところで開いて渡す。
彼女の小さな手元にて、開いた部分は雷竜のあたり。それこそ、写っているのは太古のあたしの似姿。
妹は、当たり前のようにその名を読み上げた。
「わっと。んー? 何この首長えの。ブロントサウルス? 何だか脳みそと全体の比率ヤバくてめっちゃ頭悪そうだけど、これがどうしたん?」
「ふふ、それがあたしの前世だとしたら、どう思う?」
「えー……」
妹は、あたしの言葉を空言と取る。まあ、それも仕方がない。別種、そして絶滅という断絶が人と恐竜にはある。
想像することすら難しい、遥か彼方の空の青。その元にて生を競い合っていた獣を、このただの人の娘と結びつけるにはどうにも我が事ながら無理がある。
でも、忘れがたいことはあるのだ。愛の無き世界、競うばかりの輩の中で、たった一人だけ空を見上げた時に感じた心。
どうしようもなく、あふれる熱量、世界を燃やすほどの心の狂いによって。恋をした、その感覚だけは捨てられない。
しかし爪をかじり――彼女の悪い癖である――妹はあたしに断じる。
「以前から口調とかこじらせてるとは思ってたけど、こりゃ無理っしょ。っていうか、前世語るならこう、もっと格好いいのない?」
「ロマンはたっぷりだが?」
「子供のロマンだよこれー。恋だ愛だのそんな物語が欠片もないじゃん」
「それだ」
「はぁ?」
なるほど、妹が否定する理由がよく分かった。
人の繁殖に恋だの愛だの物語が必要であるのならば、それがない簡素な交合を繰り返していた我々はどうにも単純に思えてしまうのだろう。
だが違う。そればかりは否定せざるを得ないのだ。あの日あの夜、物語は確かにあった。
あたしは月を見上げて精一杯、愛を言葉に。音色にして届けんとした。ならば、あれはかもすれば最初の。
「歌、だったな」
「……どういうこと?」
「いや、この生き物がもし、この世ではじめて歌を歌った生き物だとしたら、どう思う?」
「えー……珍奇だな、って感じ?」
「そう、か」
まだ撫でられながらも、前世のあたしと同じ一つ尻尾の髪を僅かに揺らし、妹はあたしの顔を見上げた。
そこには不安げな色が見える。不明を口にする肉親に対する恐れではない、別のなにか。それは果たして。
「ねえ。そこまで言うならまあ、それで良いにしてさ。で、何かその、ブロントさん……」
「ブロントサウルスだ」
「そう、それから引き継いだものとか姉ちゃんにあるの?」
「勿論」
あたしは、当然と頷く。何もかもの高みをあの世に持っていかれようとも、それでも相似する箇所は多分にある。
そうでなければ誰が姿見を見るたびに、雷竜を思い出すものか。それに普通は夢の中で人々を足蹴にすることもないだろう。
あたしは、前と比べればあまりに薄い唇を舐めてから、語りだす。
「この人にしては高めな長身と……」
「まあ、それは言うと思った」
呆れる妹に、続けて恋だ、とは恥ずかしくて言えずに。
「野草も旨く食えるところだ」
「えー……」
そうつまらない本当を口にすることで、あたしは話の全てを冗談にしたのだった。
前世と違って頭でっかちな主人公さんでした!