残念ながら、前世からずっとあたしは賢くはなかった。
人になって頭部の比率が大きく変わったところでそれは同じ。足らずを知らず、ただ生きていた女の子はもう居ないが、あたしが今のあたしになったところで賢しくは生きられない。
しかし、旧いからと負けるものかと前世を思い出してから頭でっかちに知識をため込んではみたが、その程度で今を生きる人間たちに勝ることは難しい。
特に、唯一の友達であるところの男子、広瀬大地には中々敵うところではなかった。彼は、馬鹿なあたしによくこう言うのである。
「葉子は鈍感、だな」
「ふむ」
生の流動の中で静止を選ぶ。秋に燃える木々の下、ベンチに座って道歩く人数を数えてばかりの男女があたしたちだ。
しかし、ずっとそのまま揃うわけでもなく、大地はふぅと呆れるように空を見上げる。だが、あたしはまずまず面白いので、栄える人々を見続けてしまう。
視線は交わされず、互いが向ける愛だってすれ違い。だが、それでもこの男の隣は安心できた。
それは、大地の言う鈍感なあたしであっても、そのままで許されると信じられるからだ。この大人になりたがらない男は、ずっと人に優しくなりたがっているから。
奇矯な音色をぶつけ合って幸せそうに騒ぐ子供の群れを見て、あたしはその平和な心を面白いと思う。同時に、短い波長のそれを虚しいな、とも考えた。
この世の片隅で人は死に、人類全体大いに生きている。そんな、連続性に保証のない繁栄はなんとも人間性とすれ違い、軋んで悲しい音を立てるもの。
私の笑顔のためにお前は死ねという野性的な文句を嫌うようになってしまった人間は、ああどうして鋭くも賢くも弱いのだろう。
そして、その中の変わり種であるあたしは。短くなりすぎた不器用な首を傾げて、彼に何時ものように尋ねる。
「あたしは、それほど鈍感か?」
あたしは実のところ鈍感であると自認してはいない。何しろ前世と比べれば刺激を覚えやすいこの身体が不感であるとはとても思えないからだ。
だが、感じることを忘れるのはよくあった。それは、楽しくて。そも、夢中に愛を感じることなど出来るものだろうか。
胡蝶の夢。今の生がもし今際の際の竜の夢だとしても、あたしが驚くことはないだろう。
そんなあたしの隣で、全体がっちりとした、しかし小さな彼は続ける。
「そりゃそうさ。あんな場所に俺らを棄てた親と今も一緒にいられるなんて、その極みさ」
「親子は共にあるべきだろう?」
「それはそうなんだけれどね……だからこそ、間違っても親は子を棄てちゃだめなのさ」
「そうか」
吐き捨てるように、そんなことを口にした大地の言はきっと間違っていない。
子は親の愛を参照に、絆を知る。ならば、その愛が偽物だったともし、理解してしまえばどうなることか。
きっと何も信じることなど出来なくなるだろう。そして、現にそうなった。それが、大地という青年の心である。
しかし、あたしは前世のために愛の実感なんて自らの舌先でしか知らない。故に、愛なんてものがもし今の世になかったとしても、あたしはきっと愛せてしまうのだ。
それを鈍感とするならば、なるほどその通りなのだろう。叡智という余計によって育まれた人界にて、あたしは生のままの己の感情を大切にする。
けれども若くしか見えない男の背中はあたしの隣で丸まり、決してベンチに預けられることなどない。
ちらりとあたしの方を向いた大地の瞳はどこまでも冷たく、しかしそれでも彼は、他人を見つめている。
痛みを知る少年は、傷んで壊れた大人に成った。果ては、崩れて消え去るのが定めか。しかし、そんなことは嫌だと大地は首を振りながら言った。
「それは、俺だって葉子みたいにありとあらゆるものを愛するなんてしてみたいよ」
「なら、してみればいい」
「そんなの無理さ。葉子と違って、俺は地面に近すぎる。細かいものが見えすぎるんだ」
「なるほど」
あたしと他人は視座が違う。それは、誰だって同じことではあるが、その中でも極まって大地は近くでものを見すぎる。
分からなくって怖くって、それで近寄って見つめて傷つくばかりを繰り返していた少年は、大人になっても近視的だ。多くの些細を目に入れて、恐れてばかりだった。
その点あたしは楽である。見えないなら、見なくていいと割り切ってしまうから。
だがそんな大女の考えを、この賢い青年は理解できないようである。一度見て、しかし首を振ってから、大地は最後に己を見続けてしまう。
そう、間違いだらけで、正しくはなれない普通の人間。そんなものを一番近くにて見つめてばかりの彼は、どうにも歪んでいた。
あばたが嫌で、真っ直ぐなりたくて、それが無理でもだからこそ。男はせめて人に優しくなりたいと、願い続ける。
でもそんなだから、彼は震えを抑えてあたしに触れられたのだろう。
昔々。踏みつける脚の音、遠く望むその頭の遠さ、比較にならない巨大。その全てに、小さな哺乳類は逃げ回っていた。
そう、普通は、恐竜なんて怖いもの。
でも、この鬱々とした彼だけは違う。だから、あたしは幾ら間違えていたって彼を友とする。潰さないように、触れ過ぎないように、気をつけながら。
そして、そんな自分が嫌いだからこそ人に心から優しくしたいと願う彼は、相変わらずにこう結論付けた。
「俺は、自分を信じる。そして、自分しか信じられる人間が居ないから、だから自分だけは信じられる人間でなければならない」
「ふむ。なら、それをどうして赤裸々にもあたしに語る?」
「簡単さ」
何も信じない。そう言い張る男は、だがしかしあたしにばかりは明け透けだ。たしかにサイズは似たようにかなりあるが、それでもあたしは物言わぬ塀ではないというのに。
それは当然、言葉を捨てずに思いやったりもするだろう。いかに鈍感だろうと、心の臓腑が鳴るなら愛はある。考えなくても、思うのだ。
あたしは、この悲劇からうつ病に至っても諦めず就労の訓練のために薬で重い体で這いずり回っている男が心配だ。
デイケアで知り合ってから仲良くしているらしい男友達と遊べる休みの片割れを必ず友達の居ないあたしなんかと会うのに割いてしまう、そんな優しさが苦しい。
あたしはこの人が好きといえば、好きだろう。けれども、それはあの日に見つめた遠い月に向けたものとは程遠く。歌えない。
そして、本心から人を恐れている彼が、あたしに恋しているわけなんてないのだ。
とても冷たい目をした彼は、だからとても悲しい本音を呟くのだった。
「俺はさ。葉子になら、別に殺されたって良いってだけだ」
「ふむ……」
この男にとって、果たして死とはどれほどの意味を持つのか。捨て鉢な、彼の生はしかし決して吹けば飛ぶようなものではないだろうに。
傷つけることはあってもあたしは、決して大地を殺さないだろう。友に悪意なんて持てる筈がないのだ。
けれども、彼はそんなことすら信じることが出来ない。それでも、たとえ殺されようとも腹を割って一緒にいようと思ってくれるのだ。
幻の竜があたしの頭の中で、小さな小さな魂を舌先で味わい、そしてそれを旨いと思う。ああ、あたしったら肉食じゃないはずなのに。
「それは、光栄だな」
微笑み、あたしは、頷く。
あたしは、この日友の生殺与奪の権利を得たのだ。
そんなものいらないのだけれど、怖くても腹を出して服従してくれた小動物が可愛くないかと言えば、愛おしいに決まっていた。
「うぉ」
だから、当然のように、あたしはごわごわの大地の頭を撫でる。快くは、なかった。ただ、悪いとは思えないから不思議だ。
あの日と違って今の世界で月は決して綺麗ではないけれども、それでも全てが輝く昼間だって面白いほどに胸を打つ。
きっと賢ければ醜さが分かるのだろうけれども、あたしは馬鹿で、それでいい。そして鈍感だからこそ。
「あたしは、いい友達を持った」
「……そっか」
彼の震えを見なかったことにして、大地の必死の愛に感動できるのだった。
もう青年とは言いにくくなった男は、あたしを、その隣の誰かを見つめて。
「俺も、お前が居てくれて良かった」
ああ、目を細めれば全ては光に眩しく、一様で愛おしいどうでもいいもののようで。
そうやって今日もあたしは、失恋を忘れて生きている。
『大地、葉子、私があなた達を絶対に助けるから!』
あたし達には、もう一人だけ友達がいたことがある。
彼女はまるで、月のような、少女だった。
『……ごめんね?』
そして、とうに月は没していて、だからあたしは今も彼女を探している。