人間は勇気の生き物であるとあたしは思う。
彼らはパチパチ燃える、身体焼きかねない炎に手を伸ばした。それが未知に対する克己心だろうが欲した結果であろうが、大した違いはない。
結局のところ、彼らは思い切って大したエネルギーに親しむことを可能にしたのだ。
これまでおおよそ全ての獣が恐れた火を取り込み、今や人類はこの世をかっかと暑くするくらいには燃えている。
まあ、それだって恒星や大地の中身と比べてしまえば哀れなほどかもしれないが、しかし生き物にしては過分とあたしは思うのだ。
そして、それが勇気の産物であるならば、誠己の恐怖を乗り越える心というものは素晴らしい。
それこそ、あたしの前であった龍のハリボテなんかには持てなかったものであるから。
「ふむ。恋しています、か……」
週に二回程度の出社日。その帰り道に、あたしは先に聞いた言葉をオウム返しに零す。
人混みの邪魔であるあたしは、だからこそ四方をよく観ながら、遅めに歩く。だからこそ、このように考え事の出来る隙間は開いた。
「これは、恋文とやらか? 今のあたしになってからは、はじめてだな」
初対面ではなく、オフィスに通う際に時折挨拶はしていた他社の者。
なにやら手紙を押し付けてきた高いところからつむじを観た彼は、だがどうにも真面目そうで言葉には嘘がなさそうだった。
顔がいいのはあたしの平常。だが、もしやと期待してあたしは自分の頬に両手で触れてみたが、そこに過分な熱は感じられなかった。
心もどうやら平常運転のようで、残念だ。恋に熱情持てない、あたしは果たして前世で何年生きて死んだのだろう。老境に愛せるのは自然ばかりではない筈なのだが。
「先の唐突な自己紹介だと、ささきのぶゆき……佐々木伸之でいいだろうか。まあ、これまでの記録を見返すに関係は薄そうだ。それで恋するとは、勇気のあるというか何というか」
心の臓の熱に浮かれるのは何も人間ばかりの得意ではないが、しかし人は時に状況すらを忘れてしまう。
正直なところ、そこそこすら知らない男に恋を伝えられるとか、あたしは困惑するばかりだ。
蛮勇をも褒める度量はあたしにはない。これは、佐々木伸之という男性の拙速な失敗だろう。そんなものを、慮れるほど、出来てはいなかった。
「やれ。後で彼に伝えるべきはごめんなさいのみ、か」
彼はきっと、格好いいのだろう。髪の毛はそれなりに整髪料で整えていたし、マスクで隠したところでその目はぱっちり鼻筋も綺麗で悪くはなさそうだった。
だから、そんな伸之君をごめんなさいで、さようならしてしまうのは本来は勿体ないことかもしれない。キープしておけば、と昔のあたしが文句をつける。
だが、そんないたずらに想いを繋げてしまうのは、彼にとって良くはない。そもそも、デカいあたしが跨るには、少し彼は華奢な気がする。
まあ、恐竜的に人間的な格好良さは通じず、つまりタイプではないということだろう。
そう結論付け、あたしは家までの距離をようやくゼロに出来た。
二階建て一軒家。新しいとはもう言えない我が家は、オフィスから歩いて二十分とかからない。便利の中に住めているなとあたしは思う。
「ん?」
そして自ら鍵を差し込み回す前に、向こうからノブが、がちゃり。下手人は誰かなと疑問に首を傾げるあたしにそっと扉が開く。
あたしより一本多いツインのテールがちらり。大きく、歓迎の声が響いた。
「おかえりー、姉ちゃん! お疲れ様!」
「ふふ。大したことはしていないため疲れてはいないが、ありがとう」
普通ならば大きめの、だがあたしと比べれば小ぶりな女の子があたしのまえできゃっきゃと騒ぐ。
まるで、何時ぞやの子どもたちの元気と似ていて面白い。これで、高校生であるというのだから、身体に見合わない幼さである。
とはいえ、この子がどこぞの男子とキスをしている写真を一時携帯電話の待ち受けにしていたことはあたしも知っていた。
初期背景のままの残念姉とくらべたら、青春して成長しているには違いない。あたしはそういう意味でも微笑んで手を口元でそれを隠そうとする。
「おっと」
すると、手紙を持っていた右手が自然持ち上がり、結果意図せず恋文を目立たせることと成った。
ああ、これは良くないなと思ったところ、妹はまるで叫ぶように言う。
「おうっ、超久しぶりに姉ちゃんがラブレター持ってきた!」
小さめのラプトルのような声を出すな、と思いきやそのまま駆け出し中へと妹は消えていく。
やれやれと思いながら、あたしは追いかけるように背を屈めつつ実家に入るのだった。
「ただいま」
「あら、お帰りなさい、ヨーコちゃん。お疲れ様」
「母さん……やれ、たしかに今日の仕事はそうでもなかったが、多少面倒なことが起きて疲れたな」
「ふふ……男の人の告白を面倒なんて、ヨーコちゃんも大人に成ったわねぇ」
「ふむ。貴女にはそう思えるか。まだまだダメなあたしだがな」
すると、どうせ二階から見て事前にデカいあたしの帰宅を察したのだろう妹のように、若い母がぱたぱた私の元へやってきてカバンを掻っ攫っていく。
人の世話を焼くのが好きな人だと感謝しながら、あたしはコートと靴を脱いで、室内へ上がる。
遠く、カレーの複雑な香りがした。あたしは、眼下の母にわかりきったことを尋ねる。
「今日はカレーかな?」
「そう! グリーンカレー、ヨーコちゃん、確か好きだったわよね?」
「ああ。肉抜きなら尚更ね」
「今日はお魚入ってるけど……ごめんね?」
「いや、今日は文句を飲み込みいただくよ。何時までも親に棘を向けていては大人ではないからね」
「ヨーコちゃん……」
好きではない。けれども大事にしたい相手があたしをうるうるとした瞳で見上げる。
それに心動かされるほど軽いあたしではないが、けれども、それに感動すべきだろうと思う心もあり、微笑んだ。
すると、満面笑顔になる、愛らしい還暦前の母。シワがこの頃増してきたようだが、それだってただの歳の克明。あたしには、確かな線が綺麗にすら思えるのだった。
魚の生臭さを忘れ、グリーンカレーの刺激を口内で想像しよだれを我慢するあたしに、恐る恐る母は聞いてくる。
彼女の視線は、私の右手にある文に向いていた。
「それで、そのラブレター……どうするの?」
「どうもこうも……こうだ」
「わっ」
「あ、姉ちゃんがラブレター破った! 中身見たんかよ、勿体ねー!」
どうするの、と言われたので破いたことに、家族は驚き声をあげた。
あたしの膂力からすると簡単極まりないことをまるで大した事のように言う彼女らに、あたしは首を傾げざるを得ない。
何しろ、要らないものを大事にするような、悠長さは前世に捨てていた。だから、さっぱりしたいと真っ二つにしたというのに。
あたしは、二人に尋ねる。
「勿体ないか?」
「そりゃ、カミソリとか悪意でも入ってなきゃ、無下にすることなくね?」
「そうね……私も、折角だから目を通して上げてもよかったと思うわ」
「ふむ」
なるほど、とあたしは二人の意見を聞いて思う。
二人の優しさは、確かに正しい。他人の心を気にしてあげるというのは人間の思いやりであるし、あたしが行うべき愛のある行為だろう。
だが、それでもあたしは裏に嗅いでいた。あの男の愛欲、執着の気持ち悪さを。開くまでもなく、この文に書かれているのはきっと妄言ばかりで。
「本当に嫌なものは全部燃してしまうのが正解だからだ」
そう断言し、あたしは自己愛ばかりに由縁する他者愛という理解できない代物をゴミ箱に捨てて、味見をするためにキッチンへと一人進むのだった。
『私なんて、燃えちゃえばいいんだ』
ああ、だから。あたしはあの子があたしたちのために自らを罰してしまったことが理解できない。
勇気持って、炎を受け入れた彼女の決意はどれほどだったのだろう。
あたしはだから、その他者愛から来る自分を殺してしまうほどの優しさ、人としての最期の勇気を想像することしか出来ないのだった。