ドラゴニック・マシュマロ☆トゥナイト   作:涼代 条

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雨のち竜、ときどきメイド。(1)

 

曇天の街、夜の21時過ぎ。

大きな交差点、行き交う人皆が透明の傘を開いて、水溜まりに俯きながら立ち止まる。

目の前をビュンビュンと過ぎていくカラフルな車が時折水溜まりを跳ね上げて、飛び散った水滴がコンクリートに吸い込まれる。

人の往来も、車のエンジン音も。

煩わしいくらいガヤついてる筈なのに、全部が雨音に飲み込まれて。

不思議な程、その夜は静かだった。

信号が青に切り替わる。

ぴよぴよと間の抜けた音を鳴らして、眩しい緑色を照らし出す。

商業施設、掲げられた電光掲示板に表示されたデジタルな時計。

でかでかと主張するアイドルの広告を、これでもかと照らしつける8つのライト。

雲を突き抜ける勢いの高層ビルにぼやけて灯る、赤色の障害灯。

ギラギラと眩しい人工的な光に飲み込まれて、雲に隠れた朧月を見落とすほど、その夜は眩しかった。

駅前の高架下、上を過ぎていく快速急行が音を立てて突き抜けていく。

鉄骨を揺らす勢いで通過した衝撃で、高架下に伝う雨雫がピタピタと降り注ぐ。

冷たい雨粒が傘からはみ出した肩に直撃して、何事かと体が跳ねる。

右の手で肩に手を乗せれば、小さくパーカーが濡れている。

指先の冷たい感覚を認めてから、一つ溜め息を漏らした。

憂鬱だ。

雨の日は嫌いじゃない。

香るぺトリコールも、雨音も。

風情がある、と言って良い。実にリラックスできる。

ただ、夜の雨は嫌いだ。

都会の雨の日も。

肌から熱を奪う感覚、いつもよりも暗くなる夜空、水を切り裂く音で騒音を倍増する車の群れ。

いつもはなんとも思わない足元の小石を、思い切り蹴飛ばしてやりたくなるくらい、陰鬱になる。

 

真っ黒な折り畳み傘を閉じて、バサバサ水気を切る。

畳む時にまた手が濡れて、1つずつ憤りを積み重ねていく。

例えば、肩がけのカバンが改札に引っかかったり。

例えば、ホームに向かう階段の途中、濡れた靴のせいで転びそうになったり。

数知れずの災難が降り注ぐせいで、電車に乗り込む頃には、気付けばすっかり心は荒みきっていた。

損ねた機嫌のおかげでスマホを覗く気にもならず、電車の中、ドア沿いの手すりに手をかけながらぼんやりと外を眺める。

雨粒が窓を叩いて、凄い勢いで走り抜ける電車のスピードで、張り付いた雨粒がゆっくりと流れて剥がれていく。

ぼんやりとその様子を見つめているうちに、外の景色はみるみる変わる。

トンネルを抜けたり、ビル街を横断したり。

幾つかの景色を覗かせて、乗り込んでから駅を3つ過ぎる頃には苛立った心は一周して呆れを覚え始めていた。

興奮して高まった心はゆっくりと苛立ちを覚えていた自分を客観視させて、心を落ち着かせる代わりに、実に惨めな気分を背負わせる。

「…こんなはずじゃ、なかったのに」

誰にも聞こえないくらい小さな声で、ぽつりと呟いたそんな言葉が雨降る夜の街に染み込んでいくと共に、私の心をポッキリと、実に容易く折り、砕いてしまった。

機械的なアナウンスが、最寄り駅の名前を告げる。

その声で気付けば、地元の町に帰ってきていたことを知って、体はふらりと電車から降りてしまう。

おぼつかない足取りでホームを抜ける。

改札は、今度は驚く程スムーズに抜けることが出来た。

何も意識していなかったからだ。

外からは、ごうごうととてつもない音が響いている。

学校の駅前より、天候は荒れているらしい。

風が吹き付けて、雷も鳴っているかもしれない。

駅の軒先から、1歩外に出る。

そういえば、傘を差すのを忘れていた。

突風がバタバタとフードを靡かせて、降りしきる豪雨が金色の長い髪をじっとりと濡らしていく。

ここから家まで、徒歩10分もかからない。

酷い雨だけど、酷い雨が、身体中を飲み込んでいくけれど。

ゆっくりと、顔を上げる。

ぼんやりと見上げた夜空には、星も月も無かった。

 

瞼の端が、じんわりと熱くなる。

胸の奥から色んな感情が押し寄せて、心臓あたりがきゅうと締め付けられる感じ。

手足がだんだんと震え始める。

きっと寒いからではないのは、私が一番よく分かっていた。

がばり、と膝から体が崩れ落ちる。

見上げていたはずの視線が、がくりと地に落ちる。

喉奥から掠れそうな声で漏れてきた呻き声は、本当に情けなくて。

惨めな心がまた、すすり泣く私を貫いていく。

顔はぐしゃぐしゃに歪んで、覆い隠すみたいに必死に涙を拭う両の手を、伝う雨粒が容赦なく襲いかかる。

真っ白のパーカーが思い切り雨粒を吸い込んで、ずしりと重く体にのしかかる。

ずっと見て見ぬふりを続けてきた不安が、一気に崩れて押し寄せてきたのが、心をいっぱいに染め上げる"怖い"という気持ちで良く分かった。

吐き出す息が震えていて、真っ白に空に登っていく。

震える体に色んな思いが、重たい思いがのしかかって、立ち上がることができなくなる。

涙は止まらないのに、雨粒が伝うせいで、自分が泣いているのかも分からない。

大声を上げて泣きたいはずなのに、臆病な私がそれを許さなくて。

私の体がゆっくりと、静かな夜に沈んでいくようだった。

途端、ビシャン!と凄い音がして、思わずビクリと体を跳ねあげる。

口元から小さくひっと声が漏れて、同時に真っ白な閃光が視界を覆う。

眩しすぎる光に思わず目を瞑った直後、耳を突き破りそうな轟音が、辺り一体にこれでもかと迸った。

世界そのものを引き裂くみたいな稲妻。

同時に苛烈さを増す暴風と、大きな雨粒が弾丸のような勢いで吹き付ける。

泣きじゃくって詰まりきった鼻がふと、するりとほどけて、舞い上がる埃っぽいぺトリコールを嗅ぎ分ける。

そこで、辺りの空気が一変した。

雷が轟いた時には、気が付かなかった。

なのに今、ぴくりと鼻に抜けた刺激的な香りで、確かに変わったと確信づく。

ごうごうと、遠くから猛るような音が聞こえる。

風の音でも、雷の音でもない。

雨音でも、ましてや車なんか。

大気を震わして、空気を切り裂いて、まるで、飲み下すような。

不気味ではないが、恐ろしい。

理解できないもの、ではない。

ただ知っているからこそ、その圧倒的な暴力の理不尽に、体が抗えない。

ふるふると震える首が、ゆっくりと、顔を上げる。

視線の先、ビルの向こう、分厚い雲を巻き込んで夜空を背負うソレを捉えた。

 

それは、端的に言えば、穴だった。

大穴、空にぽっかりと空いた大穴のような。

一本のひも状の、ボロボロの布みたいな黒光りする細長いものが、ぐるぐると螺旋を描いてその身体らしきシルエットを構成している。

サイズは、大きすぎて分からない。

ただ、この辺りで1番大きいビルを容易く背負い飲み込む程、巨体を誇る。

うねうねと体を畝らせ、蛇行し、伸びた羽のような器官をバサリとはためかせる。

辺りは、風が逆巻いている。

吹き荒れ、そしてその全てが、一点に収束している。

ソレの、恐らく真正面は、比較してかなり大きくそして丸く、螺旋が広がっている。

シルエットだけでいえば、円錐を寝かしたような形だ。

そこに全てが、例えば、砕けたコンクリートの破片。

例えば、止められたスポーツカー。

例えば、大きなコンビニの看板なんかが全部宙に飛んで、ぐるぐると回りながら吸い込まれていた。

それは唐突に、分厚い雲の向こうからやってきたようだった。

他の人の、悲鳴やらは聞こえない。

酷い轟音のせいなのか。

私が泣きじゃくっている間に皆、吸い込まれてしまったのか。

あんなにも高く、空を覆っていたタワーマンションがごっそりとその5分の1も残さずに削れている。

雲を突き破り、塔を飲み込んだソレは、夜の向こう側から唐突に襲来した。

視線が釘付けになる。

規模感が壮大すぎて、恐怖すら薄まってくる。

私は漠然と、それを見つめていた。

ソレは進行を止めない。

ひとつ、体をふるわせる度に稲妻が5つは轟いて、風が肌を切り裂いてしまいそうなくらい勢いを増す。

なのに。

雨雲を飲み込んで、ビルの全てを飲み込んで。

空と地平線を開いて、星と月を照らし出して大海原のような宇宙を泳ぐその姿が、私にはたまらなく、そしておかしくなってしまいそうなくらい、美しいと思えるようになってしまった。

愛おしい、美しい。

流した涙が、暴風に運ばれて。

きらりと月明かりのプリズムだけを返して、ソレに飲み込まれていく。

涙はしゅるしゅると螺旋を描く。

空を泳ぐソレみたいに、ただ、光を放って。

 

ごくり。

ふと、何かを飲み下すような、そんな音が。

大きな音で、辺りに響く。

「え」

小さく、口から短い音が漏れる。

途端、ぐるりと巨体が踵を返す。

大穴を、その切っ先を、こちらに向ける。

突然、凄まじい重圧が体を駆け抜ける。

ズドンと効果音が響きそう。

体だけじゃない、地面が、大気が、ぶるぶると大きく震えている。

銃口を突き付けられる感覚に、似ているのかも。

いや、それよりももっと、身動きの取れないプレッシャーを身体の髄まで刻み込まれている。

「…ぁ…」

声を出さないと息すら忘れてしまいそうで、口をパクパクさせながら捻り出した声が、そんなか細く頼りない音。

 

『────────────────────!!!!!!!!!!』

 

声にならない声、音として認識しずらい、恐らく雄叫びや遠吠えに近い絶叫。

ぶるぶるとその巨体を震わせてめいっぱいに、ソレが大声をあげる。

ビリビリと全身の毛が逆立って、辺りに落雷が数え切れないくらい迸る。

世界の終わりそのものみたいだ。

雄叫びを上げたソレが突然こちらに向き直り、しばらくの間見つめ合う。

目は無いから、視線が合っていたのかは分からないが。

じっと、静かな時間が数秒流れたあと。

ぐわんと突風がうねると共に、ソレが、私目掛けて飛び込んできた。

思わず情けない大声を上げて、両の腕で顔を隠す。

なんの意味もないことは分かっていても、身体の防衛本能が自然と、私にその姿勢を取らせた。

風切り音が聞こえる。

ソレがこちらにとてつもないスピードで迫っているのが分かる。

甲高い私の金切り声も、その爆音に飲み込まれて耳に届かない。

ぐんぐんと迫るとてつもない威圧感だけを感じ取って、体が押し潰されそうになった時。

 

ふと、あんなにも吹き荒んだ風が、ピタリと止んだ。

破裂しそうなくらい締め付けられていた心臓が、気付けば圧を感じていない。

何かがそこに、巨大な何かが私の目の前にいる、という気配だけは感じるのに。

恐る恐る、力強く閉じた瞼と、顔を覆う両腕をほどく。

「ひっ!」

ソレが、目の前にいた。

最早、全く全貌は認識できない。

そのソレを構成する、布のような謎めいた物体。

一端だけで私の体程ある真っ黒なそれが、眼前にある。

身動きは当然取れない。

腰は抜けて、足には力が入らないから。

何をされるのか、想像もつかない。

ただ飲み込むだけなら、今まで通り漂っていれば、私1人簡単に吸い込まれていた。

産まれたての子鹿よりも情けなく、私は震える事しか出来ない。

急に、全身をぞわりと気持ち悪い感覚が撫でる。

ザラザラとして、湿っぽい何かが、私の肌をべろりと舐めた。

そう、舐めたのだ。舐められたのだ。

目の前のソレには当然、舌どころか歯すらない。

無いのに、確かに、見えない何かに舐められた。

困惑、混乱。

何をされたのか分からないまま固まってしまう。

ひと舐めで足先から頭のてっぺんまでを舐め尽くされた私の体は、強ばってガチガチに込められた力がへたりと抜けてしまう。

思わず戸惑いの眼差しを、目の前のソレに向けて、きょとんと互いに再び見つめ合う。

今度は先程と違って確かに、視線があった、という不思議な実感があった。

 

気付けば辺りの暴風も雨も、雷も何も止んでいた。

とても、静かだ。

あんなにも猛り狂い、荒れ果てていたソレが、何か力が抜けるみたいにぐったりと姿勢を変える。

仰け反り、天を仰ぎ、翼をゆったりと大きく広げる。

何が起こっているのか、理解するよりも先に、辺りの風景がみるみるうちに変わっていく。

削られたビルの向こう側。

ソレが飲み下し、現れた雨雲の隙間。

今は大きな穴がぽっかりと空くようにくり抜かれたそこから、ゆっくりと、金色の光が差し込んでくる。

ソレはそこに導かれるように、先程までの荒々しさとは一転、ふんわりと舞うような動きでその光の柱が差し込む場所へ吸い込まれていく。

辺りが真っ黒な曇天の夜の風景とは一変し、昼間にしても眩しい位の光を力強く放っている。

ぽかんと思考の追いつかない間に、ソレはどんどんと遠のいていく。

仰け反る体勢は大きくは変えずに、光の中心にやがて辿り着いた時。

突然、どこからともなく、不思議なコーラスが響く。

人はいない、辺りを見回してもあるのは、ソレに吸い込まれたものの残骸だけ。

なのに確かに力強く、恐らく、光の中心、雲の上。その向こうから。

神々しいコーラスが、確かに聞こえてきていた。

ソレが、解けていく。

その巨体が空へと昇るとともに、ゆっくりと、ひも状の螺旋が解けていく。

光に包まれて、巨体を構成するひもをするすると広げながら、開きながら。

ゆっくりと、促されるように空へと昇り、吸い込まれていく。

重苦しい灰色の雲に空いた大穴から、スポットライトみたく差し込む金色の光の、その向こう側へ。

ふと、優しい鳴き声。

今度ははっきりと、聞き取ることが出来た。

鯨の鳴き声に良く似た、絆されていくような声。

時間とともに螺旋が花開いて、一本のひも状に戻ったソレが、金色の光に飲み込まれる。

昇天するソレの姿が、時間の経過とともにゆっくりと見えなくなる。

空の向こうにその姿を、少しづつ隠していく。

時間にすれば多分、3分も経ってはいなかったと思う。

ただ、私の視線はその時間、目の前の光景に釘付けになっていて、空へと昇るその様が、随分と長い間流れているように感じていた。

ゆっくりと、優しいコーラスが遠のいていく。

少しづつボリュームを落として、それと同時に、差し込む光がどんどんと弱くなる。

空高く、天の向こう側。

一本の紐の、その最後の端が雲の向こうに飲み込まれた時。

金色の光は途絶え、どこからか聞こえたコーラスが、ピタリと止んでいた。

 

何が起こったのか、理解できない。

気付けば辺りはすっかり暗くなって、先程までの光景が嘘みたいに、夜の街に静まり返っている。

へたりこんだまま呆然と、ソレが消えていった夜空を見上げている。

幻でないのは分かる。

いくつものビルが倒壊し、コンクリートの地面はばっきりとヒビ割れ、酷い跡がこの場にしっかりと刻まれているから。

だからこそ、現実離れしたその体験が、正しく受け止めることができない。

ボロボロの街。

災害の爪痕だけが残るその中で、雨の止んだ夜空をぼんやりと眺める。

頬は煤けて、髪の毛はボロボロ。

服はビシャビシャに濡れて、透けて。

分厚い雲が、ゆっくりと流れていく。

空いた大穴も、流れに逆らわず、ゆっくりと左向きの流れに乗じる。

雲の向こう。

夜空の先から。

朧気だった、金色の満月が、浮かび上がる。

 

星空は満天だった。

雨雲に蓋をされた夜空は、ここ数年で一番の絶景で。

差し出された月明かりは、金色に優しく煌めいている。

それを全身にめいっぱい浴びれば不思議と、恐怖と寒さですくんだ足でも、ゆっくりと立ち上がることができた。

ふと、短いズボンのポケットが、短くブーと震える。

取り出した携帯の画面は、奇跡的にヒビひとつない。

待ち受けに表示される、見慣れない連絡先。

これからお世話になる、私の本当の実家から寄越されたメッセージ。

遅れている事への心配と、待っているという旨の知らせだった。

帰らなくちゃ。

あんなことがあったのに、何故か漠然と、けどとても強くそう思えた。

とにかく今は、誰か人と会いたかった。

床にばら撒かれた、カバンや荷物を拾い上げる。

細々とした物は見当たらなくなっていたが、財布や着替え等、大切なモノは幸いすぐ近くに散らばっているだけだった。

目につくモノをひとまずカバンに詰め込めば、無くなったものもあまり重要ではない、例えばティッシュだとかの消耗品だと分かる。

一息をついて、肩にカバンをかけ直す。

濡れたパーカーは1度脱いで、雑に絞って染み込んだ雨を抜けるだけ抜く。

逃避、だったのかもしれない。

とにかくそのときは、その場を一刻も早く離れたくて。

済ませることを済ませた後、駆け足気味に帰路を辿った。

 

帰り道を進めば進む程、あれが残していった被害の跡が薄くなる。

私が居たあそこが、被害の中心地であったことが、その様子から見てとれた。

それでも、走り抜けようとかなりのスピードで道を進んでも進んでも、どこかしらに被害の跡が絶えない。

電柱が折れていたり、ガードレールが歪んでいたり。

その規模の大きさが、随分なものなのが分かった。

しばらくの間ひたすら走り続けて、もう随分と、あれの面影も薄くなった頃。

ふと、足を止めて今までの道を振り返る。

駆け抜けてきたこれまでの道のりの有様は、目も当てられないほど散々なものだった。

歪に道が隆起していたり、瓦礫の山が積み上がる。

電柱がバッキリと折れて、ビルだけじゃない、戸建ての民家までもが倒壊している様子が見て取れる。

夢中で走っていたせいで、気が付かなかったが。

私が元々住んでいた住宅地も、私はもう随分と前に、抜けてきていた事に気がつける。

ただ、見渡しても背後にあるのは、いくつもの残骸だけ。

きっと、飲み込まれてしまったのを、察することができてしまった。

顔が強ばって、奥歯がギリと音を立てる。

少しだけ俯いてからばっと踵を返して、もう走る必要も無いのに、足が加速をやめなかった。

 

景色は普通の街並みから、車道だけが舗装された山奥へと変わっていく。

山に反って伸びる長い坂道。

その少しだけ奥に、目的の家、私がこれからお世話になる館がある。

駆け出した両足。

止んだはずの冷たい雫がふと、頬を伝う。

先程までの弱い涙とは違うのに、なぜだか流れて止まらない涙が、駆け足で抜ける坂道にぽつりぽつりと染み込んでいく。

ゴシゴシと腕で涙を無理に拭っても溢れる涙は止まらなくて仕方がないから、思い切りばっと、せめて勢いよく顔を上げることにした。

走る。

暗い夜道を駆け抜ける。

落ちていく涙が月明かりをきらりと浴びて、静かで暗い夜山の道で、明るく眩しく、輝いていた。

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