時過ぎて(大人悪魔ほむら×大人さやか短編集) 作:さんかく@
美樹さやかには気になる事があった。そうは言っても時折ふと思うくらいのものであるが、それは『彼女』の元の家のことだ。一部取り戻した記憶の中にも美樹さやかが彼女の家を訪ねたというケースはなかった。いや正確にはなかったように思う。
――あんなに無数に世界はあるのに、あいつの家に行ったことが無いなんて。
カタン、とコンロにケトルを置いて、肩をすくめるとさやかは漠然と周囲を見渡した。広いキッチン。ここに住むようになってからは、さやかが綺麗に掃除をしている。収納棚や観葉植物はさやかが置いたものだ。それまでは機能的だがどこか無機質なキッチンだった。その時さやかは思ったのだ、あいつの元の家もこんな感じだったのではと。
――ここではいろんなものが見えるんだよ、さやかちゃん――
そう言って女神となった幼馴染が『世界』を見せてくれたことをさやかは漠然と覚えている。その時さやかは垣間見たのだ、彼女が繰り返し続けてきた時間を。それは驚くべき内容であったが、何故かそこで印象に残っていたのが彼女が住む家だった。佐倉杏子や幼馴染が彼女の家を訪れている様子を見た時のあの何も無い、時計を模したような空間のある部屋――。
あれは彼女自身の様だ、そうさやかは感じた。ただひとつのために全てを犠牲にしてきたあの少女の。あれから記憶を奪われたものの、再び取り戻してから8年、紆余曲折あったが今はこうして彼女と一緒にいる。
「夢みたいだわ」
さやかはぽつりと呟いた。どうにも…こうして実際に住んでいるというのに未だに信じられないのだ、あんなに誰よりも険悪だった自分と彼女が共に暮らしていることが。信じられないといえば、自身が大人になったこともそうだが、ついでにいえばあの頃――魔法少女システムに翻弄されていたことすら夢のように思える。そう、何もかもが夢のようで。だからなのか、さやかは縋るようにここに必死に跡を残そうとしているのかもしれない。自分が此処にいるということを、観葉植物や収納棚、いろいろなもので。だってもう、あの頃のことを知っているのは、あの怖いくらい綺麗なあいつだけなのだから。
ピ―ッ
ケトルが鳴いた。いつの間にか結構な時間が経っていたようで。コンロを止めると、カチャカチャと棚からカップを二つ取り出す。上品なティーカップは見る度に師であり良き先輩であるあの女性を思い起こさせて。軽く首を振るとさやかはポットに茶葉を入れ、お湯を注いだ。そろそろ彼女が起きてくるだろう。
「いい香りね」
抑揚のない、だが艶のある声がさやかのすぐ後ろで聞こえた。感じる体温。緩む口元。
「でしょ?」
そうして嬉しさを隠そうともせずにさやかは振り向いた。すぐ近くにある美貌の主はそんなさやかを呆れたように見上げ囁いた。
「変なひとね、何がそんなに嬉しいの」
「全部よ」
さやかは満面の笑みを浮かべると、かみしめるように言った。その美貌の主の名を。
「おはよう、ほむら」
長い黒髪の女性――暁美ほむらは、ただ嬉しそうにその目を細めたのだった。
*******
目が覚める。
未だに白い天井があの病室のものに見えてしまうことがある。だが違う、ここは新しい家の天井だ。そう、新しい家――そう思っただけで、重しが取れたように心が軽くなる。ああ、私は嬉しいのだ、と暁美ほむらはどこか他人事の様に冷静に分析する。ふふ…と声が漏れた、それが自分のものだと気づくのもタイムラグが生じる。長い間…気の遠くなるほど長い間己を押し殺し続けたせいなのだろう、まるで自分が二人に乖離しているようだ。左手で何かを探す様に傍のシーツをくしゃくしゃにするようにまさぐる。まだそこは温かい。あの『おせっかい焼き』の体温を感じ、ほむらはまたふふ、と笑った。今度はタイムラグは生じなかった。
「夢のようね」
ほむらは身体を起こし、窓の外の風景を眺めながらそう呟いた。映し出されているのは青空と高層ビル。微かに成人した自分の姿が重なって。
あの病室の天井を見上げ続けてきた頃の私がまさかこんな風になるなんて想像もつかなかった。愛しいたったひとりの大切なひとを知り合い、魔法少女になり、そして――悪魔になった。だが一番想像もつかなかったことは、あの単純で愚かな『おせっかい焼き』とこうして暮らす様になったことだ、こうやって体温を感じ、それを私自身が受け入れている。そのことがほむら自身今でも信じられなかった。昔の自分が知ったとしたら卒倒するだろう。
ギシ…
ベッドの縁に腰をかけ、ほむらは露わになった素足をシーツで隠した。床はひんやりと冷たくそれが心地よい。キッチンから物音が聞こえ、ほむらの顔が自然と綻んでいく。ゆっくりと立ち上がり、纏っていたシーツを脱いで傍に置いてあった部屋着用のワンピースに着替える。さらり、と右手で長い黒髪を梳いて。
「美味しいお茶でも淹れてもらおうかしら」
そう呟くと、ほむらはキッチンへと向かう、音もなく静かに。そうしてこちらに背を向けてポットに茶葉を入れている『おせっかい焼き』の背中を認め目を細めた。ほむらより背の高い、蒼い髪の女性。灰色の上下のスウェットはほむらが彼女にプレゼンとしたものだ。
「いい香りね」
その背中に向かって囁くと、ほむらはその肩に頬を寄せ、ぴったりと身体をつけた。まるで猫のように。
「でしょ?」
ものすごく嬉しそうな顔がこちらを見ている。その顔はまるで飼い主に褒められて喜ぶ飼い犬のようにほむらには見えた。
「変なひとね、何がそんなに嬉しいの」
「全部よ」
迷い無く蒼い髪の女性は満面の笑みを浮かべてそう答えた。そして言葉を続ける。
「おはよう、ほむら」
『眩しさ』に目を細めながら、しばらくほむらはその顔を見上げる。そうしてゆっくりと唇を動かして。
「おはよう、さやか」
飼い犬兼おせっかい焼きの名前を呼ぶと、ほむらは強くその体を抱きしめたのだった――
*******
「私さあ…」
「何?」
「覚えている限り、あんたの元の家行ったことないと思うんだよね」
「…そうだったかしら」
「え、行ったことあるの?」
「さあ?」
「う、思わせぶりな表情!」
「フフフ…そんな些細なこと気にしてどうするの?」
「え?」
「今の私だったら、何度でも貴方をあの家に連れていくわよ?」
そう囁かれたら、美樹さやかはもう何も言えなくなる――嬉しさで。
「あら、何、そんなに嬉しいの?」
「――うん」
目を潤ませながら鞄持ちには正直に答えた。
「馬鹿ね」
呆れたような、でもどこか優しい声色。鞄持ちの肩に顔を埋めながら悪魔は言葉を続けた。
「それに、ここが今は家よ」
そうして鞄持ちの手に自分の手を重ね、囁く。
「私たちの」
それからしばらくの間、二人はキッチンでそうしていたという――