時過ぎて(大人悪魔ほむら×大人さやか短編集) 作:さんかく@
「おじさん、この犬の名前なんて言うの?」
魚屋の主人は驚いた。いきなり店先で声をかけられたからではなく、声を発した女性があまりにも美しかったからだ。
「ああ…その犬は」
男は右手に鮮魚を持ち、呆然としたまま女性を見つめる。夕暮れ時の下町の市場にはまったくそぐわない、黒づくめの服が似合う長い黒髪の美しい女性。その整った容貌にどれくらい見惚れていたのか。怪訝そうな表情をして女性がこちらを見たので、慌てて男は首を振る。そのアメジストの瞳に魅入られないように。
「…ポチっていうんだ」
しょぼくれた、雑種犬。どこからやってきたのかわからないが、店先でくうん、と鳴かれて情にほだされた男が餌をやったのだ。それから犬は居つき始めてもう何年になるだろう。
「ふうん…」
女性はその場にしゃがみ込み、犬の頭を撫でた。犬はくうん、くうん、と情けない声をあげて後ずさる。それが面白いのか、女性はくすくすと笑いだした。妙齢の女性だというのに仕草も行動もあどけなく、つい男は微笑んで尋ねた。
「その犬、気にいったのかい?」
「ええ、うちの人に似てるわ」
「へえ…」
――「うちの人」…旦那のことだろうか?
男は首をかしげる。確かにもう結婚してもいい年頃だろうが、どうにもこの浮世離れした美人には所帯が似合わない。何故か気になってしまい、男はつい聞いてしまう。
「どういうところが?」
女性は質問されると思わなかったのだろう、一瞬きょとんと男を見て、そうして、また「ポチ」を見つめた。口元は僅かばかり緩んでいて。そうね、と目を細めて犬を見つめたままま囁いた。
「情けなくて、しょぼくれたところね」
そりゃひどい、と男がつい呟くと、女性はフフフと笑って立ちあがった。
「でも本当のことよ?」
そう言うと、女性は犬に「じゃあね」と言って去っていった。
* * *
「おい、ポチ、今日もあの女の人こねえなあ」
男は店を閉めながら、犬に話しかける。あれからもう一ヵ月ほど経っただろうか。あまりに美しかったため、忘れようにも忘れることもできない。
――ポチをいたく気に入ってたから、また来ると思っていたのだが…
と、女性の騒がしい声が聞えてくる。
「…なんで、もうしまってるじゃない…」
「別にお魚を買う訳じゃないわ」
「じゃあなんで…」
声の主は女性二人。
一人はあの美しい女性だった。そうして、もう一人手を引かれて困った顔でひょこひょこついてくる女性。
ああ、なるほど、と男は納得する。そうして笑いながら、女性に声をかけた。
「よお、嬢ちゃん、その人がポチに似ている人かい?」
「ええそうよ」
ええ?と後ろで変な声をあげる女性と、にこやかな黒髪の女性を交互に見て、魚屋の男は笑う。「情けなくて、しょぼくれた」雰囲気は男はその女性からは感じ取れなかったが、ポチと彼女の髪の色は全く同じ蒼色だったのだ。
黒髪の女性はさも自慢げに蒼色の髪の女性に囁いた。
「ほら、さやか貴方に似てるでしょ?」
END