留学21日目。この日も午前中のみの講義だった水雪は、大学の敷地外に出ていた。イリアには事前に連絡を取っており、あまり大学から離れないという条件付きで許可を得ていた。街の方まで出てきた彼女は、大学に一番近い紅茶店へと足を運ぶ。
店内は紅茶の販売とカフェの形態で、学生がスマホ片手に学友と雑談に花を咲かせている。一人でこのような場所に行ったことがない水雪だったが、ソワソワした様子は見せず、紅茶の茶葉の棚で商品を選んでいた。自分へのお土産を含め数種類の茶葉を買うと、満足して店を出ようとした。
すると、出入り口でばったりと四五と遭遇した。「あっ」と立ち止まるが、直後に四五は優しい笑顔を返してくれた。
「こんにちは。カサブランカ以来ですね」
「はい! 一二三教授もお疲れさまです!」
「ここで立ち話もなんですから、私の部屋でどうですか?」
「え? 良いんですか?」
水雪は二つ返事で了承すると、四五の買い物に付き合った。彼女はお茶菓子を手に取っては成分表や表示内容を凝視している。
「あの、何を確認しているんですか? カロリーとか?」
「それだけじゃないですよ。内容量、成分の含有量、値段も。私は、数字に目が無い人間なので」
「そうなんですか……」
それから二人はお茶菓子を20分ほどかけて吟味して、アフタヌーンティー向けの物を購入して退店した。研究室に到着すると、水雪は「失礼します」としっかり一声かけてから入室する。室内は修二と同じく、教授にしては異様なほど何もなかった。
「この前、朝永教授の部屋にお邪魔したんですけど、一二三教授も、部屋にびっくりするほど何も無いんですね……」
「あら? そうでしたか」
「あたしが知ってる教授の部屋って、本とか研究資料とかがそこかしこにあったので、皆こうなのかなって」
「まあ、私も33日前まではこうでしたね。研究に使う本が235冊、机と本棚に積んでいた論文が109編、コップやお皿、銀食器も15はあったんですけど」
「……まさか全部正確な数覚えてるんですか?」
「はい。この部屋の間取りも」
お茶菓子を来賓用のテーブルに広げながらあっけらかんと答える四五。軽く引いていた水雪だったが、直ぐに気を取り直して、持参した急須と茶葉を取り出す。四五はそれが目に入ると、懐かしそうに見つめていた。
「お茶が好きなんですね」
「はい! イギリスへの留学も、ぶっちゃけ紅茶のことを学びたいっていう理由もあって」
「そうですか。若いのに珍しいですね」
「よく言われます。お湯沸かしても良いですか?」
「どうぞ」
修二の時と同じように、手際よくお茶の準備を始める水雪。白いティーカップに注がれる澄んだ緑色のお茶に、四五の目は釘付けになった。
「まあまあ、まずは飲んでください。お口に合えば良いんですが……」
「そうします。いただきます」
一口飲むと、四五の口元が綻ぶ。どうやら不味くはなかったようで、水雪はホッと胸を撫で下ろした。それから二人でお茶菓子を食べていると、お茶は直ぐに無くなってしまった。
「久し振りの緑茶、ご馳走様でした。日本に帰ってきた気分ですね」
「ありがとうございます。いきなりなんですけど、数字が好きな一二三教授に、今回は特別に水雪スペシャルのレシピをお見せします」
「このお茶の、ですか?」
「そうです! あたしが最適な分量、お湯を沸かす時間、蒸らす時間を研究した結果です」
鞄から一冊のノートを取り出すと、該当箇所を見せる。ノートに穴が空く勢いで読む四五。本当に数字に対して目が無いらしく、水雪が解説する暇もない程だった。
「伊達にイギリスまで日本茶の茶葉を持ってきてませんね。その熱量、良いですね」
「あ、ありがとうございます……」
「今日で留学してから何日目でしたっけ?」
「あ、はい。21日目です。あと10日切りました」
「ここでの生活を満喫しているようで何よりです」
水雪がもう一杯、番茶を淹れる。四五が買ってきたのは、オーソドックスなバタークッキーだった。
「少しお話でもしながら、一緒に頂きますか」
「はい。ありがとうございます」
四五はメジャーを取り出すと、クッキーの直径を測る。それから一口食べ始めた。この光景にもはや慣れた水雪は何も言わず、お茶をすする。
「さて、月見里さんはもう少しで日本に戻ると言っていましたね」
「はい。折角イギリスに慣れてきたんですけど、名残惜しいです」
「私と朝永教授、来年は日本を訪れる機会が増えてくるかもしれません」
「え? マジですか?」
「はい。電波喰いが終って、国際線が稼働するようになったので。電波喰いが終る前は船で行こうとも考えたんですが、日本からイギリスの最寄りの港まで24日もかかると聞いたので、時間の無駄だと思ってやめました」
「……途方もない時間が掛かるんですね。日本に着いたら、何をしたいですか?」
「そうですね。先ずは朝永教授のおじいさんに一声掛けたいと思っています。東京の屋内墓地に眠っていると、朝永教授から言われたので。それから、色々な大学から外部講師の依頼が来ているんです。首都圏を中心に、12の高校・大学から」
修二と四五の評判の良さが日本でも伝わっていることを知らなかった水雪は驚いていた。「はぁ~」と感嘆のため息をつくことしか出来なかった。
「その中には確か、鳴山公空学園とその付属校もありました。きっとそう遠くない内に、貴女にまた会えるかもしれませんね」
「マジすか! じゃあ講演あったら最前列で聴講します!」
「いつになるかは分かりませんけどね、でも、気持ちだけでも嬉しいですよ。ありがとう」
四五がフッと微笑むと、ぬるくなったお茶を飲む。バタークッキーはいつの間にか無くなっていた。
「月見里さん。少し昔話をしても良いですか?」
「はい! 勿論! 何時頃の話ですか?」
「そうですね。私と朝永教授、いや、朝永くんがまだ学生だった頃。2017年の時ですね」
「カサブランカで少しだけ言ってましたね。朝永教授、科学を辞めたかったとかなんとか」
四五は無言で頷く。そこから少しの間を置いて、彼女は語り始めた。
「私は、そんな朝永くんに科学を諦めて欲しくなかった。おじいさん、修一郎さんの存在を重荷に感じていたあの人を、もう見たくはなかった。だから私は、強制的にテンブリッジに連れて行ったんです」
水雪はうんうんと相槌を打つ。
「そこで沢山の仲間と出会って、朝永くんは科学への情熱を取り戻していきました。アイザック・ニュートンやエドモンド・ハレー、アントワーヌ・ラボアジェのことをより深く知っていったことも、あの人の情熱を呼び戻した大きな要因だったと思います」
「あ、なんか聞いたことある。全員科学者の名前ですね」
「そう。ニュートンは言わなくても分かると思います。ハレーはハレー彗星の発見者で、ラボアジェは質量保存の法則の発見者。研究した分野は違えど、あの人たちは全員が科学者。彼らのことを知って、大きな刺激を受けたのかもしれません。私もそうでしたから」
昔を回想するかのように頬杖をつく四五。しかし彼女は、これでも言葉を慎重に選んでいた。タイムトラベルのことは修二や、今は亡き修一郎からも絶対に喋ってはいけないと言われている。情報を取捨選択しながら、水雪に昔話を語っていく。
「月見里さんは、カサブランカについて何か話を聞いていますか?」
「あ、えっと、シェイクスピアが来店して、マッシュポテトを教えてくれたと聞いたことがあります。イリアのお母さんが作ってくれたんですけど、普通に美味しかったですよ」
「それは私も知りませんでした……。さて、私、カサブランカで人生初めてお酒を飲んだんです。それも、朝永くんと一緒に」
「お? なんか話の流れが変わったぞ?」
「私、加減が分からずに飲んだものだから、酔い潰れて眠ってしまったんです。結局、朝永くんが背負って運んでくれましたけど」
「ひょー、朝永教授やるねぇ……」
「あの時は、色々な感情があって、飲んで忘れてしまいたいという若気の至りみたいなものがあったのかもしれませんね。結局、朝永くんに迷惑をかけてしまいましたけど」
「……もしかして一二三教授、朝永教授のこと、好きだったんですか?」
「単刀直入に聞きますね。はい。あの時はそうでしたね。テンブリッジに来た16日目、私は朝永くんに気持ちを伝えました。でも、願いは叶わなかった」
水雪が「あっ」と気まずい空気を作ってしまったような顔になるが、四五はフッと笑って話を続ける。
「でも、今はそれで良かったと思っています。月見里さんが見た通り、朝永くんとは今でも仲良くやっています。流石に住む家は別々ですけど」
そう言って、四五はデスクから一枚の写真を取り出す。そこに写っていたのは、タイムトラベルから帰ってきた直後の修二、四五、そしてタイムトラベルを仕掛けた張本人である修一郎だった。三人とも笑顔が眩しい。
「これが初めてテンブリッジに行った時の私たちです。あんまり人に見せたりはしないんですけど、今回は特別ですよ」
「……一二三教授、凄く綺麗。秋奈に引けを取らないくらいですよ」
「秋奈? 月見里さんのお友達?」
「あ、そうです。教授には見せてなかったですよね。これです」
かつてイリアに見せた集合写真を見せる水雪。それぞれの関係性を一通り紹介すると、四五はうんうんと頷く。
「良いお友達に恵まれたんですね。朝永くんと同じように」
「あたしの自慢の友達とお兄ちゃんですよ」
水雪はようやく、四五と打ち解けられたような気がした。
「あの、ちょっとだけ踏み込んだこと聞いても良いですか?」
「何処までにもよりますが、どうぞ」
「……朝永教授って、童貞ですか? なんとなくそんな感じがして」
四五は腕を組んでうんうんと唸ると、暫くして顔を上げる。
「いいえ。テンブリッジの学生寮で金髪の美少女としていた筈です」
「なんでそこまで知ってるんですか……」
「偶然、目にしてしまったんです。朝永くんを起こそうと思ったら……」
それから二人は、表では話せないような女子トークを日が暮れるまでしていたのだった。
その日の帰り、いつものようにイリアの車に乗る水雪。彼女はニヤニヤが抑えきれていなかった。流石のイリアも苦笑いしかできない。
「あのさ、なんか良いことあった?」
「一二三教授と女子会してきた。あの人えぐいね」
「どうえぐいのかはあまり聞きたくないけど、良いなぁ。女子会か。でも意外だな。一二三教授ってそういうことしない人っぽいのに」
「あの人案外乙女だよ。今度遊びに来ても良いってさ。イリアも」
「良いのかな……。私、教授と全く接点無いんだけど。専攻もまるで違うし」
「大丈夫だよ。あたしなんて農学部よ? 専攻が違うくらいどうってことないって!」
「まあそうだよね! 次は一緒に行こう!」
車を走らせ、カサブランカへ。この日はやることが終っていた水雪は、カサブランカの手伝いをしていた。
彼女はリタに頼んで、皿洗いを担当することになった。お客さんはまばらだったが、ジョッキの量は多かった。それらを一つずつ、手洗いで捌いていく。トマス曰く、≪食器洗いは全部手作業がカサブランカ流だ≫とのことだった。秋が深まるこの時期は水も冷たく、一時は涙目になりながら食器を洗っていたが、それでもめげない。1か月ここに住まわせてくれた、せめてもの恩返しをしたかったのだった。
結局水雪は、日付が変わる直前まで働いていた。お客さんが殆どいなくなると、イリアの両親が軽食を持ってきてくれた。
≪お疲れ様。手が真っ赤だけど大丈夫?≫
≪大丈夫ですよ。お母さんがいない時はよく家事してましたから≫
≪それでも、こんなに大量の食器は洗ったことがなかったろう?≫
≪それはそうです……。いつもこんなに大変なんですか?≫
≪今日はたまたまお客さんが多かったな。本当、水雪がいて助かったよ。ありがとう!≫
自分が役に立ったことが嬉しくて、水雪は笑顔になっていた。かじかむ手で軽食をつまみながら、リタとトマスの仕事ぶりを眺めていると、接客をしていたイリアが彼女の隣に座った。
「お疲れ様! 明日も講義あるのに大丈夫?」
「明日は少し遅い時間からだから大丈夫。デイリーレポートも終わったし」
「そっか。でもまだお店開いてるから、食べ終わったらシャワー浴びて寝なよ?」
「了解。ありがとう。イリアは優しいな」
その言葉にドキッとしたイリアだったが、水雪はいつもと変わらぬ笑顔だった。結局、シャワーを浴び終えたのは夜の1時を少し回った所だった。