留学28日目、講義が終わった水雪は図書館にいた。いつものようにデイリーレポートを仕上げているが、この日はイリアも同席していた。彼女もレポートをやっており、水雪にデレている時とは考えられないほど真剣に取り組んでいる。
「どう? 水雪。終わった?」
「もう少しかなぁ。イリアは? 簡単には終わらない量っぽいけど」
「下手したらここだけじゃ終わらないかも……。ごめんね、だいぶ待たせちゃうかも」
「大丈夫。イリアも大変なのはわかってるからさ」
水雪の気遣いに頬を赤らめるイリアだったが、気を取り直して作業に取り掛かる。しかし結局、日が傾いてもイリアの課題は終わらなかった。大きく伸びをして、最後のデイリーレポートを終わらせた水雪を見る。彼女は名残惜しそうに英語の文献を読んでいた。
「水雪、最初は英語についていくだけでも精一杯だったよね。今はこんなに本読んで凄いな」
「ここまでくると、慣れなのかなぁって思うよ。課題終わった?」
「ううん。家帰ったら仕上げる。ママに今日は手伝えないって言わなきゃな……」
二人はパソコンを片付け、図書館から出ようとする。すると偶然、修二と四五が歩いてくるのが見えた。
「あ、朝永教授と一二三教授じゃないですか! お久しぶりです!」
「あの時以来か。明日で講義は全部終わるんだよな?」
「はい! 今までお世話になりました!」
「お、今日はカサブランカの看板娘もいるじゃないか。なんでも医学部は今忙しいんだって?」
「ええ、まあ。今日も水雪と一緒に課題やってました。こんな遅くまで付き合ってくれて申し訳ないです」
四人はしばし図書館で雑談をするが、思い出したかのように修二が口火を切った。
「ああそうだ。思い出した。君たち、アイザック・ニュートンは知ってるよな?」
「はい! 万有引力の法則を定義した、イギリスで一番有名な科学者ですよね」
「この図書館には、そんなニュートンの秘密が眠っている。どうだ。知りたくないか?」
「朝永くん、良いんですか? 彼女たちにとって、いえ、私たち以外の人間にとっては刺激が強いものだと思いますが」
「せっかく日本人がここまで来てくれたんだ。それにテンブリッジの留学を終えようとしている。リードさんの娘さんは、いつも俺に旨い飯を振る舞ってくれる。ちょっとしたご褒美ってことで良いじゃないか」
四五を上手く言いくるめた修二は、再び二人に向き合う。
「だけど、これから見るものは絶対口外してはいけない。家族にも、友達にも。それが守れるなら、ついてきてくれ」
「……はい。お兄ちゃんにも絶対言いません!」
「私も! ここだけの秘密にしますから!」
二人はすっかり、アイザック・ニュートンの秘密を知りたいようだった。その勢いに修二はにっこりとほほ笑む。四五は説得を諦めたようで、二人を図書館の奥へと連れて行った。
専門書の書棚の更に奥にある扉の前に立った修二。彼は白衣のポケットから大きめの鍵を取り出すと、扉を開ける。そこは薄暗く、少し埃臭い部屋だった。不気味な雰囲気に、水雪とイリアの顔が少しひきつる。対照的に、修二はこれから起こることを想像して意気揚々と歩みを進めている。
「あたし、ここまで入れるとは思ってなかったよ……。ただ1か月留学するだけのつもりだったのに」
「私もだよ。このまま平凡な学生生活を送るだけで終わると思っていたけど……」
「いやテンブリッジ入れる時点で平凡じゃないと思うんだ。ましてや医学部とか」
「それはそうだけどさぁ」
「二人とも、そろそろですよ」
四五が二人の注意をひくと、薄明かりがついた書庫に到着した。光量を増やすと、そこには図書館に並べられているものよりも明らかに古い書物が敷き詰められているのが見えた。
「ここはテンブリッジの歴史の核と言っていいくらい、重要な書物が並んでいる。俺達みたいな名誉教授クラスしか扱えないから、二人はここで待ってなさい」
四五と一緒に革張りのソファーに座る二人。埃を被った本の表紙を軽く手で払うと、修二はテーブルにそれを置いた。慎重にページを開く修二。紙は経年劣化でぼろぼろだったが、そこにはしっかりとテンブリッジの歴史が記されていた。
アイザック・ニュートンとロバート・フックとのやり合いが記された章もあれば、エドモンド・ハレーとの交流が詳細に記された章もある。
「なんか、言葉に出来ない凄さがある……」
「あたし、ここに留学して良かったぁ……」
ため息を吐くことしか出来なかった。普通の人は一生目を通すことが無い書物を、思いもよらぬ形で読んでいるのだ。物理学や化学が分からなくても、自然と感動と興奮が胸の奥から湧いてくる感じがしていた。気付けば二人は、幼子のように物語の続きをせがんでいた。修二は二人の笑顔や感動した表情を見つめながら、次々とページをめくっていく。四五は2017年の頃を思い出しながら、留学生とその友達からねだられる修二を微笑ましく見つめていた。
「……結婚するということが、ようやく定義出来たような気がします」
「四五? どうした」
「いえ、なんでも。というより、そろそろじゃないですか? 例の絵」
「ああ、そうだったな。二人とも、いよいよ次のページだ」
ページをめくる手を止める修二。水雪とイリアはお互いに顔を合わせる。
「これから見せる肖像画みたいなものは、下手したら物理学の歴史が根底から覆るものだ。だから絶対に口外してはいけない。スマートフォンの電源は切っておいてくれ」
「分かりました……」
「よし、大丈夫だな。それじゃ、ページを開くぞ」
修二は緊張した面持ちになっている二人を一瞥すると、ゆっくりとページを開く。そこに写っていたのは、二人の少女だった。一人は満面のどや顔でピースをして椅子に座っており、もう一人はメイド服を着て佇んでいる。水雪とイリアは絵を見ると、修二の方を見た。
「あの、この絵がさっき言ってた、歴史が根底から覆るものですか?」
「ああ」
「見たところ、可愛い女の子二人が可愛らしく絵になっているようですけど……」
「そうだな。その二人こそ、アイザック・ニュートンなんだよ」
「……え?」
「ええええええええええええ!?」
二人は叫び声に近い声量でびっくりしていた。修二の予想通り、二人は取り乱していたが、四五が落ち着かせることでなんとか場を取り直すことが出来た。修二が咳払いをする。
「いいか? このツインテールのロリっ娘がアリス・ヘッドフォード。このメイド服を着た貧乳がエミー・フェルトン。アリスはテンブリッジ大学で学生をしていて、エミーは学生寮のメイドさんだったんだ」
「まだ信じられないけど、この貧乳二人があの、超天才科学者のアイザック・ニュートンなんですよね? 他に証拠はあるんですか?」
「次のページに進んでみようか」
ページをめくると、再び文が羅列されていた。それを四五がゆっくりと読んでいく。
「この二人は女学生とメイドという身分を隠して、男性の名義で論文を投稿していた。当時テンブリッジの学長だったロバート・フックに対抗し、この大学を根本から変えてやろうという野心と熱意を持って動いていたものと思われる、ですって」
「まあ間違ってはいないかな。最初はアリスだけで動いていたけど……」
「あの、朝永教授。あたし疑問に思ったんですけど、どうして男性の名義で論文を投稿するんですか? あれだけの天才だったら、名前なんて変えなくても通るはずじゃ……」
「私もそう思います。まさか、女性だから差別されたんじゃ」
「そのまさかだよ、リードさん。当時は17世紀。男女平等なんてこれっぽちもない世界で、ましてや大学はバリバリの男社会だ。だから、男性の名義で出せばある程度融通してくれていたんだ」
残酷な真実を告げる修二。イリアの表情が曇る。
「……本当は、アイザック・ニュートンなんて名義を使わなくても、アリスさんとエミーさんは認められたと、私は思います。時代が違っていれば、二人の名前が教科書に載っていたかもしれないのに」
「それが一番良いんだが、なにせ時代が時代だったからなぁ。彼女たちが出来た唯一の悪あがきが、このアイザック・ニュートンという名義だったのかもしれない」
「……決めた。私頑張る。女だからって舐められないくらい、医学の道を進んでやる!」
「その意気ですよ、リードさん。私も朝永教授に負けないように頑張ったから、今の自分があります。今は性別で何かが不利になるというわけではないですから、自分のやりたいことを究めていけば良いと、私は思います」
新たな目標を見つけたイリアを横目で見た水雪は、修二に向き合った。
「朝永教授、今日はありがとうございました。この留学の中で一番印象に残った気がします」
「こちらこそありがとう。これが何かのきっかけになることを願うよ」
「……一二三教授から聞いたんですけど、テンブリッジから出ていくというのは本当ですか?」
「あいつ……。まあ出ていくというのはちょっと語弊があるけど、概ねそんな感じだな。テンブリッジに籍は置いているけど、今後は日本での講演を中心に活動する予定でいるんだ。俺ももう若くないから、日本でじいちゃんに、成長した姿を見せてやりたいなって思ってな」
「あたし、アリスさんやエミーさん、そしてイリアみたいに頭は良くないですけど、もっと勉強頑張ります。そして成長した姿を見に来て下さい! あたしも、お兄ちゃんも、薊野教授も、絶対に歓迎しますから!」
2年前の泣き虫な水雪とは決別したかのように、そこには真っすぐな瞳で修二を見つめる水雪がいた。修二は微笑んで、本を閉じる。
「ああ。楽しみにしてる」
物語はあと少しだけ続きます。