水雪、イギリスへ行く   作:ゼリーフィッシュ

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プロローグその3

 それから更に半月後、学園の後期日程が始まった。それと同時にソラは復学が認められ、約束通り椿姫の研究室に足を運んだ。いつものように、研究室には鍵がかかっておらず、部屋の中はほんのりとタバコの匂いが残っている。ホワイトボードには、『屋上にいる。13時には戻る。』と走り書きがされていた。

「ここで待ってるか……」

 水雪とここに来て以来、彼は毎朝、学園までの道のりを散歩するようになった。体力をつけるリハビリというのも理由の一つだが、2年間の埋め合わせをするかのように、水雪と一緒にいることが最大の目的だった。最初は長めに休憩をとらないと帰って来れないほど疲れていたが、今では休憩なしで往復出来るレベルまで回復している。ふうと一息ついて長椅子に腰を下ろすと、奥の部屋から葉月 かぐやが出てきた。

「ソラ! おかえり!」

「ただいま、かぐや……、おっと、いきなり抱き着くなよ。病み上がりなんだから」

 かぐやは心底嬉しそうにソラとハグをする。ソラもそう言うが、満面の笑みでハグに応えた。2年間”一緒に”過ごしてきたが、こうして肌を触れ合うのは起きた直後以来だった。

「薊野教授は、タバコ吸いに?」

「うん。つばき、何度言っても辞めないの。タバコは寿命を縮めるのに」

「まあ、大人になったら色々あるんだよ。あの人、ああ見えて偉い立場なんだから」

「それは分かってるけど……。ところで、つばきに呼ばれてここに来たの?」

「ああ。そろそろ戻ってくる筈なんだけど……」

 かぐやが身体を離す。時計の針は1時を指していた。話とは一体、何なのだろう。心当たりがないまま、寄り添うかぐやの頭を撫でていた。

「ソラの手、あったかい。ずっと待ってた」

「俺もだよ、かぐや……」

 “一緒に”いた時には気付かなかったかぐやの匂い。ふんわりとソラの感覚を刺激する。深く愛し合う関係になってからは、無限にそれを感じたいと思うようになっていた。二人の視線が熱を帯びる。僅かな理性で、駄目だとは分かっていても、沈黙は了解とばかりに深い口づけを交わそうとした。しかし、その時だった。

「そこまでだ。邪魔して悪いな」

 二人が慌てて身体を離すと、出入り口の前に椿姫が立っているのが見えた。彼女は呆れたようにソラを睥睨し、かぐやを無言の圧力で退室させる。

「す、すみません。俺、教授の研究室でとんでもないことを……」

「未遂に終わって良かったよ。ところで、あの時に話した件だったな。かぐや。お前は研究の続きだ。私は奥の部屋でソラと話さなきゃならないことがある」

「……分かった。つばき」

 気まずそうな表情のかぐや一人を残して、二人は研究室の奥の部屋に入る。そこはテーブルと椅子、そして数台のパソコンが置かれているだけのシンプルな配置だった。机の上には、何冊かの書類が積まれている。

「座れ」

 促されるままに座る。先ほどまでの状況が状況であったため、ソラは椿姫と目を合わせられない。椿姫は灰皿を取り出すと、そこで堂々と煙草を吸い始める。

「復学おめでとう、ソラ」

「あ、はい。どうも……」

「今の立場上、お前は2年生のままらしいな。休学していたから」

「そうなんです。秋奈とイシマルは今年度でこの学園を卒業するって」

「そのことなんだが、お前、あいつらと一緒に卒業できるとしたら、どうする?」

「え……?」

 驚きに顔を上げるソラ。耳を疑う話が飛んできた気がして、少し視線を泳がせている。そんな彼を無視するように、椿姫は一つの大きな封筒を開けた。そこには、『卒業認定資格』と書かれていた。

「これは……?」

「要するに、飛び級でこの学園を卒業できる書類だ。学園の中でも極めて優秀な成績を修めた者、スポーツで一定の成績を残した者、今後の未来に繋がる研究を発表した者、そういう連中にチャンスがある。学園内で審議にかけられて、最終的に1年で1名のみ選出される。まあ、そうポンポンと簡単に出るものではないがな」

「そんな大事な書類を、俺が受け取る資格があるんですか?」

「……まあな。お前は自分の意志で、人工鳩による電波喰いを終息させた。そのことだけでも書類を出すに十分な理由がある」

「それじゃあ、今すぐに書類を……」

「いや、そうもいかないんだ。この書類のめんどくさいのは、実績だけでなく、成果物を提出しなければいけない所なんだ。あるだろ? 成績表とか、大会のトロフィーや表彰状とか」

 電波喰いを止めたという成果物……? ソラは考えた。そういえば、人工鳩を回収してメカニズムを解明しようとしたことがある。あのようなものを論文に落とし込めば良いのだろうか。自分だけで考えても分からなかったので、ソラは好機を逃すまいと質問する。

「教授、どういった成果物を出せば、卒業できる決定打になるんでしょうか」

「それを今、私とかぐやで取り組んでいる。電波喰いはなぜ起きたのか、どのようなメカニズムで起こったのか、それが解明したとして、他の技術に転用することは出来ないか……。研究内容は尽きることが無い。そのほんの一部だけでもわかれば、お前の助けになる。そして、次の未来に繋がる」

「教授。俺もその研究を手伝って、少しでも前向きな事象が起これば論文として提出すれば良いんですね?」

 椿姫が煙草を吹かす。白い煙から見えた彼女の口角は、少しだけ上がっていた。

「病み上がりの身体で申し訳ないが、もう時間がない。今年中に一つでも論文を完成させ、今年度中に卒業できるよう持っていく。明日から、ここに来れるか」

「勿論です」

「返事は良いな。それじゃ、家族にそれを伝えてくれ。2年前みたいに、勝手にいなくなったらそれこそ大目玉だろ?」

 ソラは苦笑することしか出来なかった。あの日のことは未だに覚えている。泣きながら背中にしがみついて離れようとしなかった水雪、必死に制止してきたイシマル。そして椿姫には一言も声を掛けずに研究室から去り、かぐやと共に1タミに籠った。特に水雪には、未だに当時のことを言われる。

「分かりました。帰ったらすぐに伝えます。また怒られるかもしれませんけど」

「そうだな。早く行け」

 ソラは軽く一礼すると、椿姫の部屋から退室した。かぐやが不安そうな目で見つめているが、彼は心配ないとばかりに首を横に振る。2年前と違って、嬉しい知らせだから水雪もきっと了承してくれる筈だ。家に帰るまでの足取りは、これ以上なく軽かった。

 

 帰宅すると、手持ち無沙汰な水雪が茶魂くんのぬいぐるみを弄っていた。

「それまだ持ってたのか。腰につけてるやつだろ?」

「うん。ちゃんこんくんだよ。2年見てなかったからもう忘れちゃった?」

「忘れるわけないだろ。こんなち〇ち〇みたいな形してる淫獣(ゆるキャラ)

「ち〇ち〇じゃねぇし、茶魂(ちゃんこん)くんだし! ところで、今日は随分早いね。講義無かったの?」

「ああ、そのことなんだけど、ちょっと話がある」

 ソラがソファーに座ると、水雪の表情が曇る。二人分のお茶を淹れると、水雪はソラの隣に座った。

「良いニュースと悪いニュース、どっちから話せばいい?」

「……いきなり何? そりゃ良いニュースの方が良いけどさ」

「じゃあ話す。俺、飛び級で学園を卒業出来そうなんだ」

「え……? マジで?」

 水雪の目が驚きに開く。それを見たソラは、椿姫に言われたことをそのまま話した。飛び級での卒業は1年に1人出るかどうかのレベルであることや、研究をする為に講義を休まなければならないことといったことも。

「それ凄いじゃん! 秋奈とイシマルと一緒に卒業できるってこと?」

「ああ。このままいけば、論文を出せさえすれば審議に通るだろうとは言われてる」

「うん! 電波喰いはお兄ちゃんが止めたようなもんだしねぇ」

「……で、悪いニュースなんだけどさ」

 またも空気が重たくなる。水雪は言い出しづらそうなソラをじっと見つめていた。

「講義を休んで研究に専念しなきゃいけない。そのために、当分は泊まり込みで研究室にいることになりそうなんだ。だから、お前とまた離れ離れになる時間が増える」

「……そうなんだ。せっかくお兄ちゃんとゆっくり出来ると思ったのに」

 水雪はため息をついて俯いてしまう。しかし、それはつかの間のことであった。彼女は再びソラと目を合わせると、笑って見せた。

「でもさ、ずっと会えないわけじゃないじゃん? お兄ちゃんが眠っていた2年間に比べればあっという間だよ。長くても半年でしょ? だったら全然耐えられるって!」

「水雪……」

「良いよ、お兄ちゃんの卒業の為だもん。でもたまには顔見せてね。お母さんも心配すると思うから」

「ああ。塔子さんにも伝えるつもり。また家を空けることになりそうだって」

「オッケー。じゃあ決まりだ。頑張ってね、お兄ちゃん」

 水雪はソラの顔を見ずにハグをした。兄の熱が伝わってくると、自然と笑みが零れる。彼女はもう、弱くなどなかった。

 

 

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