履修登録を終えた翌日には、講義で使う参考書の販売が始まっていた。水雪は重たそうに参考書の束を抱え、コーヒースタンドで一服することにした。普段、コーヒーは滅多に飲まないが、秋奈の影響で、時々ではあるがここのコーヒーは飲むようになっていた。
「なんで今の時代、紙の本なんて持たなきゃいけないんだよ。電波喰い終わったんだろ? 前時代的過ぎるだろ。それにしても重たいよぉ……」
紙袋に入れた参考書を家まで持っていかなければいけないことを想像すると憂鬱になる。まだ残暑もあるし、帰ったらシャワー浴びなきゃなぁ……。そんなことを考えてコーヒーカップを捨てる。紙袋を持って学園から出ようと正面玄関に進むと、道中の掲示板に目が行った。
「色々あるんだなぁ。なになに? パソコンの資格取得講座、学園内コーヒースタンドのアルバイト募集……、ん?」
掲示板の中央部分に、あるチラシを見つける。その内容に目を通すと、彼女は食い入るように何度も読み返した。
「テンブリッジ大学に短期留学……? 何それ凄いじゃん。あのイギリスの名門、テンブリッジに行けるってこと?」
善は急げとばかりに、水雪は留学担当の教授の研究室へと足を運ぶ。幸い、教授は在室しており、留学の詳細を聞くことが出来た。
留学の期間は1か月であること。イギリスの文化や言語を学ぶための留学となっていること。条件として、書類審査や英語の試験が必要であること。英語や英国文化に関する資格があれば有利に働くことも教えてくれた。彼女の積極性に教授は顔を綻ばせており、二つ返事で資料を渡してくれたのだった。
「ただいま!」
誰もいない自宅に響く水雪の声。それもすっかり慣れた彼女だったが、今日は珍しく、キッチンに塔子がいた。
「あれ? お母さん仕事は?」
「今日は休み貰ったの。最近、あんまり二人に構ってあげられなくてさ」
「そんなこと無いよ。お母さんはゆっくり休んでよ」
「そうさせて頂きますか……。それにしても、まだ参考書なんて使ってるのね。もう電波喰いも終わったから、全部インターネットで講義するのかとばっかり思ったよ」
「あのね、お母さん」
「ん? どうした水雪」
「これなんだけどさ」
水雪は掲示板に貼られていたチラシと同じものを、塔子に渡す。テンブリッジへの短期留学という文字に、塔子は目を丸くしていた。
「あたし、死ぬまでに1回はイギリスに行きたいって思っていたの。試験に合格すれば、旅費は学校が出してくれるっていうから。それにお母さんも、テンブリッジの医学部で学んだことがあるって言ってたよね? あたしもその空気を感じたいの!」
「水雪は積極的だ。でも、学校の単位はどうするの? 1か月もイギリスにいるんでしょう?」
「先生が取り計らってくれるみたい。Eメール? っていうのを使ってレポートを提出したりするだけで良いんだって。講義受けなくても」
「なるほど……。水雪は本当に用意周到だ。留学の為の試験はいつ?」
「今から1か月後。もしかしてお母さん、行っても良いの?」
「ここまで言われて、ダメだって言えないよ。出来る限りのサポートはするから、頑張って」
「……うん!」
水雪は希望に溢れた瞳で、塔子を真っすぐ見つめていた。これで退路を断った彼女は、翌日から留学の準備を開始した。留学に必要な物を揃えたり、休みの日は学園付属の図書館に行き、遅い時間まで英語を基礎から勉強した。
ある日曜日、いつものように図書館に行くと、見慣れた金髪の男がコーヒーを飲んでいた。
「お、イシマルじゃん。おはよう!」
「あれ? 水雪ちゃん。こんな時間からどうしたの」
「聞いて驚け? テンブリッジに留学する為に頑張っているのだ!」
「おぉ! すげえ! そういえばチラシ貼ってあったな。試験あるんだっけ」
それから水雪は、留学の詳細を説明した。イシマルはうんうんと首を縦に振り、机に置かれた英語の参考書と水雪を交互に見る。
「1か月かぁ。ソラと離れ離れになるの、寂しくない?」
「ううん。お兄ちゃんも椿姫の研究室にこもりっきりなんだ。だから暫く会えてないの」
「マジ? あいつ、また水雪ちゃんほっぽり出して……」
「いやいや、お兄ちゃんは責めないで。飛び級で卒業出来そうなんだから」
「は? それ初めて聞いたぞ……。俺、知らないことばかりだよ」
「そのことはお兄ちゃんから追々説明があると思うからさ。イシマルも勉強?」
「まあそんなところかね。夜通しやってたからコーヒーが手放せなくなったよ」
大きく伸びをすると、鞄を背負って立ち上がる。
「それじゃ、帰るわ。水雪ちゃんなら、テンブリッジ行けるって信じてるからな!」
「ありがとう! イシマルも頑張れよー!」
イシマルを見送ると、机に参考書を広げて勉強を始める。家族だけじゃなく、友人も応援してくれていると知った彼女は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
秋の風が吹く頃、水雪は留学の為の試験を受けていた。筆記試験は高等教育卒業程度の難度で、面接は全て英語。参加者のほぼ全員が頭を抱えていたが、彼女だけは日頃の勉強の成果と、誰にでも物怖じしないコミュ力を遺憾なく発揮して乗り切った。それでも試験終了後は、ふやけた茶魂くんのように伸びきっていた。疲れた身体を無理矢理起こして、コーヒースタンドでコーヒーを注文する。
ストローでコーヒーを吸っていると、秋奈が大きく伸びをしているのが見えた。まだバイト先の制服姿だが、どうやら仕事は終わったらしい。豊満なバストが強調されており、童貞男子の視線を釘付けにしている。水雪は自然と、自分の胸元を見つめた。
「いつも思うけど、少し胸の脂肪分けてくれないかなぁ、秋奈」
「……分けられるものなら分けたいよ」
「え? うわ、聞いてたの?」
慌てて顔を上げると、先ほどまでバイトをしていた秋奈が目の前にいた。秋奈は水雪の隣に座って、持参した水筒を取り出す。
「イシマルから聞いたよ。テンブリッジ大学に留学するんだって?」
「まあまだ決まったわけじゃないけどね。今日、選考試験受けてきた」
「お疲れ様! あ、だからこんな疲れた顔して、私の胸見てたんだ」
一瞬だけジト目で水雪を見るが、直ぐにいつもの笑顔に戻る。
「まだ1年生だからね。出来ることはどんどんやっていけばいいよ。もし留学したら、何をするつもりなの?」
「いっぱいやりたいことあって困ってる! もっと英語読んだり書いたり出来るようになりたいし、本場の紅茶文化も体験したいし」
「あはは。若いって良いなぁ。1か月しかないから、時間は大事に使いたいよね」
秋奈がいつもの調子で笑う。それを見ただけで、水雪は心が軽くなるような気がしていた。
「ねえ、秋奈。今から言うことは他言無用いい?」
「いきなりどうした? 良いけど。どうぞ」
「あたしが留学したいのはね、色々学びたいことがあるってのは一番よ?」
「うんうん」
「あと、もう一つ理由があるんだ」
「ほお。それは?」
「お兄ちゃん、学園を卒業する為に薊野教授と研究しなきゃいけなくなって、それで、あたしがいたら邪魔になるかなって思って、日本から出ることにしたんだ」
「そっか……。え? 待って。ソラってまだ2年生だよね?」
「秋奈にはまだ言ってなかったか。お兄ちゃん、飛び級で卒業する為に、人工鳩についての研究をしてるんだ」
秋奈はしばし唖然としていたが、水稲のお茶を一口飲むと平静を取り戻す。
「あたし、今回はお兄ちゃんの邪魔になるかなって思って。少しの間だけでも、研究に没頭出来る時間を作らせなきゃなって」
「……ソラは良い妹を持ったなぁ。その気持ちだけでも、ソラは嬉しいと思うよ?」
「あはは、そうかな?」
「うん! 直接言うのは照れちゃうかもしれないけどね」
「秋奈はなんでも分かってるなぁ……」
その後、二人は日が暮れるまで学園内でお喋りを楽しんだ。終わった頃には、水雪が感じていた疲れはすっかり吹き飛んでおり、憑き物が落ちたような気持ちで家に帰ることが出来た。
留学試験の合格通知が届いたのは、それから2日後のことだった。
それから1か月後、水雪は鳴山国際空港にいた。ソラと塔子、秋奈、イシマルといつもの面子に、この日はかぐやも、国際線のロビーに集っていた。
「これから1か月、頑張ってこい。水雪ちゃん」
「身体に気を付けてね。寂しかったら連絡しても良いからね」
「水雪。1か月経って成長した姿を楽しみにしているね」
三人とそれぞれハグをすると、残っていたのはソラだった。隣にはかぐやもいる。
「みずき。頑張って」
「かぐやも来てくれたんだ。本当にありがとう! 頑張ってくる!」
「うん! ソラも、何か言ったら?」
「ん? ああ。俺からは特別なことは何も言うことないかな……。ただ水雪が1か月無事に留学をしてくれれば、俺は満足だよ」
「えへへ……。まあ怪我なく病気なく過ごすよ。ありがとう、お兄ちゃん」
ソラとハグをすると、ロンドン行のゲートが開いたとアナウンスが鳴る。水雪は皆で集合写真を撮った後、キャリーバッグを引っ張って、ゲートの奥へと消えて行った。
「……行っちゃったな」
「ああ。なんだか凄く、頼りがいのある背中に見えた。ほんと自慢の義妹だよ」
「そういうのは直接言えば良いのに。兄妹揃って似てるんだもんなぁ」
あの日から2年経った水雪の成長は、皆の目にしっかり映っていた。底抜けに明るいムードメーカー的な存在だった彼女が、今度は頼もしさも身につけ始めている。塔子の目には、涙が溜まっていた。
「塔子さん、泣いてるの?」
「当たり前でしょ! これで泣かない親が何処にいる!」
「そうだぞ、ソラ。親っていうのはこういう生き物なんだから」
「イシマルお前、親になったことないだろ。それどころかバキバキの童貞だろ」
「悪いか! 非童貞のお前には俺の気持ちなんてわからねえよ!」
「こらこら、こんなところで下ネタ混じりの喧嘩しないの!」
対する三人は、いつもの調子で笑い合っていたのだった。