約12時間のフライトを終え、指定された場所へと向かった水雪。タクシー乗り場で待っていたのは、一人の女の子だった。茶色混じりの黒髪をポニーテールにしており、ライトグレーのデニムパンツと黒いブレザージャケットをすっきりと着こなしている。見た目は水雪と同年代に見えたが、彼女には女の子の方が何倍も大人に見えていた。
「こっちですよ! 月見里 水雪さん!」
「あ、はい! ってあれ? 日本語?」
女の子の車に乗ると、空港からロンドンの街に向けて出発した。
「初めまして。イングランドにようこそ! あれ? どうしたの? まだ緊張してる?」
「あ、あの……。てっきり私、英語で話さないといけないのかなって思ってて。イリアさんって、日本語話せるんですね」
「ああ、そういうこと。私はね、ほんの少しだけど、日本人の血が入ってるの。だからなのかな? 昔から日本に興味があって。今ではこれくらいなら話せるんだ!」
ホームステイ先の女の子、イリア・リードは車を運転しながら、少し癖のある日本語で話していた。水雪の言うこともきちんと理解できているようで、終始笑顔だった。「今日はもう遅いから」と、1か月お世話になる場所へと案内される。薄暗い裏路地へと入ると、ヘッドライトの明かりがより際立つ。
「この地区はイングランドの有形文化財に指定されていて、およそ400年前の景観をなるべくそのまま残すように作られているんだ。ほら、さっきまでアスファルトだったのに、ここから石畳でしょ?」
「本当だ。なんだか日本の京都みたい」
「京都? ああ。めっちゃ有名な観光名所だよね!」
「うんうん! 景観を損ねないように、高層ビルとか建設しちゃダメな地域があるんだよ。ここもそうなん?」
「そうだね。似たようなものだと思う。石畳は定期的に保全活動で綺麗になっているし、家の外観も修復を繰り返しながら保ってる。あ、そろそろ着くかな」
車を停めて少し歩くと、一軒のパブがあった。今では珍しい白熱電球の明かりが、ほんのりと窓の外から漏れている。
「ようこそ! パブ『カサブランカ』へ!」
イリアが扉を開けると、入店を知らせる鐘が鳴った。中には常連さんと思われる数人の男女が、料理を囲んでエールを片手に談笑している。日本でも居酒屋に入ったことが無かった水雪は、しばし呆然とした。本場のパブを目の当たりにし、いよいよ自分がイギリスに来たことを思い知らされたのだった。
暫くして現実に戻った水雪は、2階の部屋で荷物をまとめていた。留学で使用する勉強道具や、緊急時の翻訳機など、学校で使うものは普段使う鞄に入れる。現地で使う為の現金は、手持ちは最小限に留めて、残りは鍵付きのキャリーバッグに入れる。そして、おなりくんの缶バッジ、茶魂くんのマスコットも忘れていなかった。茶魂くんの方は、飛行機に酔ったのか非常に毒々しい色になっていたが、頭の部分を撫でたらすぐに元の緑色に戻った。
一通りまとめ終わると、ノックの音がする。「どうぞ」と英語で言うと、入ってきたのはイリアだった。
「まだ営業中なんだけど、私の両親が、水雪に挨拶したいって」
「あ、そっか。そういえばまだだったね。忙しそうだったからいつ声掛ければ良いか分からなかったんだ、あたし」
「そういうことだから、レッツゴー!」
急に流ちょうなイギリス英語を口にするイリア。水雪は彼女がイギリスの人であることを改めて知る。1階では、先程までいた常連さんは退店しており、中にいたのはイリアと両親だけだった。
「こっちがママのリタ。こっちがパパのトマス」
「英語で話した方が良いんだよね?」
「まあね。ママは少し日本語分かるけど、パパは全然」
初めてまともに英語圏の人と会話をする緊張で身体が強ばるが、水雪はイリアの両親を見つめて口を開いた。
≪あ、あの、初めまして。あたしは月見里 水雪と言います! 日本の鳴山公空学園から来ました! 1か月という短い間ですが、よろしくお願いいたします!≫
深々とお辞儀をしてから顔を上げると、両親は笑っていた。
≪こちらこそよろしく。テンブリッジを楽しんで≫
≪何か出来ることがあれば言ってくれ。ま、俺達が出る前にイリアが解決しちゃうかもな≫
≪パパ、ママ。私を買い被らないで。水雪、明日は何時から?≫
≪えっと、9時までにテンブリッジの第1ブリッジ前の講堂だって≫
≪オッケー。今日はもう遅いから寝ようか。シャワー借りても良いよ≫
挨拶を済ませると、再びお客さんが入店してきた。秋も深まるロンドンでは、暖を取る為にお酒を注文する客が多い。カサブランカも例外ではなく、この日はエールやスコッチがよく売れた。2階にあるシャワー室を借りた水雪は、イリアの部屋にお邪魔することにした。
「水雪です」
「おお、どうぞ入って」
快く迎え入れるイリア。水雪はまだ緊張しているようだった。
「眠れないの?」
「うん。時差ぼけもあるのかな? 飛行機の中では寝てきた筈なんだけどさ……。ところでカサブランカって、いつ営業終わるの?」
「んー。まだまだ終わらないよ。12時になったら最後のお客さんがはけるから、片付けが終わる頃には2時くらいになってるかな。その分、開ける時間は少し遅いけどね」
「そうなんだ……。イリアのご両親も大変なんだね」
「まあね。私もたまに手伝う時あるよ。だけど未成年だしお酒は出せないから、お料理ばっかり作ってる」
時計を見ると、もうすぐ日付が変わろうとしていた。日本ではどうしているんだろうか。お兄ちゃんはもう起きて、椿姫と研究をしているんだろうか。日本にいる友達のことばかりが頭に浮かぶ。
「ところで水雪は、どうしてテンブリッジに留学したいって思ったの?」
「あたし? まあそんなかっこいい理由じゃないんだけどね、電波喰いが終ったじゃん? だから好きに海外に行けるようになって。今行かないと、もう二度と行けないんじゃないかって思ったんだ。大学1年生って忙しいと思ったけど案外やること無いし」
「私も一度で良いから、日本、行ってみたいなぁ。祖先がそこに住んでいたって言うから。それとさ、テンブリッジで何を学びたい? 1か月しかないから、そこまで出来ることは少ないかもしれないけど」
「まずは英語、あと現地の文化も学びたい。それと私、お茶が好きなんだ」
「お茶?」
「うん。ティー。イギリスってさ、紅茶の国って呼ばれてるくらい紅茶飲むでしょ? だから、本場の飲み方とか淹れ方とか、この目で見たいし学びたいなぁって思って」
「そうなんだ……。私と同い年なのに珍しいね。お茶が大好きって」
水雪の興味関心に目を見張るイリアだったが、視線はずっと水雪のパジャマに向いていた。
「ずっと気になってたんだけど、このパジャマもお茶由来?」
「うん! お茶の魂と書いて、ちゃんこん君! お茶の精霊っていう設定のキャラクターなんだぁ。ゆるキャラってわかる?」
「ゆるキャラ……。名前は聞いたことあるし、有名なものは知ってる。熊とか梨とか。あそこ……、じゃなかった。お茶のゆるキャラは知らなかったな。あはは……」
流石のイリアも茶魂柄のパジャマを目にしては苦笑いしか出なかったのだった。