水雪、イギリスへ行く   作:ゼリーフィッシュ

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テンブリッジへ その2

 翌朝、水雪は登校する為にイリアの車に乗っていた。彼女の操るコンパクトカーは、通勤ラッシュの街を相手に軽快に運転しており、難なく大学の駐車場に到着した。

「私も最初は第1ブリッジ前の講堂で講義があるんだ。一緒に行こうか」

「うん! でもそれにしても広いなぁ。流石名門大学」

 駐車場から第1ブリッジまでは歩いて10分と、結構な距離がある。その間に、水雪は道行く人たちを物珍しそうに見ながらイリアについて行っていた。何もかもが初めてで、親鳥について行く雛のような歩き方で、後ろにぴったりついて行く。

「着いた! ここが講堂だよ」

「でか! 何? ここで講義受けるの?」

「そうだね。中に入ろうか」

 イリアは事もなげに入室するが、水雪はびくびくだった。自分みたいな人間が、超がつくほど優秀な人間しか入ることを許されないテンブリッジ大学の講義を受ける。恐ろしさや不安と同時に、謎の高揚感が現れ始めていた。イリアの隣の席につくと、暫くして担当の講師と思われる男が登壇する。本日最初の講義、そして水雪の留学が今、ようやくスタートした。

 

 講義は全編英語で行われた。水雪はメモを取るので精一杯で、1限が終っただけで疲れ果てていた。水筒のお茶を飲むと、イリアが笑いながら話しかけてきた。

「水雪、お疲れ様。今日はあと1つだけだっけ」

「うん。あたし農学部だから、そこ中心に講義を受けるんだ。イリアの学部は?」

「私はね、医学部。とは言ってもまだ1年生だから、基礎科目ばっかりだけどね」

「ほえぇ……。お母さんと同じだ。医者になるの?」

「どうだろう。医師免許は取るつもりだけど、そこからは分からない。コナン・ドイルも、医者になってからシャーロックホームズの冒険を書いたっていうし」

 次の講義まで2時間以上あるので、水雪はイリアにテンブリッジを案内して貰った。第1から第10までブリッジがあり、各ブリッジ前には講堂や実験室がある。中央の広場には、かつて日本人の学者が研究に使ったと言われる小屋や、大学付属の図書館が建っている。食堂も同じく中央広場にあり、そこで学生は雑談や研究の話題に花を咲かせている。学生寮も敷地を出てすぐの場所にあり、そこでは300年以上前より代々、寮母さんと数名のメイドが切り盛りしているという。

 一通り回ると、昼休みになっていた。学生たちの一部はアフタヌーンティーを楽しんでおり、水雪はそれに興味津々だった。

「アフタヌーンティーに興味が?」

「うん! こういう文化って、やっぱり触れておきたいじゃん?」

「今は時間が押しているから出来ないけど、あと1週間もしたら少しずつ落ち着いてくるから、その時に教えてあげるよ」

「やった! お手柔らかにお願いしますねぇ」

「あはは、了解。次は何処だっけ」

「今日はずっとさっきの所だよ。イリアは?」

「第7講堂なんだ。6時に図書館の前で落ち合わない?」

「オッケー!」

 イリアと別れる水雪。水筒を取り出してお茶を飲む。日本からホームシック対策として持ってきた粉末の緑茶だ。今頃、皆は何をしているんだろう。片時も頭から離れる時は無かった。

 

 講義の時間には少し早かったが、講堂の席に座る。すると、認知され始めたのか、ちらほらと声を掛ける学生が現れ始めた。

≪初めまして。日本から来たの?≫

≪え? あ、はい! 今日から1か月ここにいます!≫

≪テンブリッジにようこそ。楽しんで≫

≪はい! ありがとうございます!≫

 講義を受ける生徒に挨拶されるうちに、水雪は少しずつだが緊張が解けていく感覚になった。この日の講義が終わると、最初に覚えた疲れとはまた違うものを感じていた。

 図書館で英語の文献を読みながらイリアを待つ。『農学部の学生へ』という書棚に足を運び、紅茶についての書籍を何冊か借りる。留学生も学生証を見せれば本を借りられることに、彼女は満足げだった。

 図書館から出ると、ちょうどイリアが歩いてくるのが見えた。

「お疲れ様。帰ろっか」

「うん!」

「しかし初日だっていうのに、結構馴染んでるね。図書館で本借りてるし」

「それが向こうから話しかけてくれるんだ。日本人ってそんなに珍しいのかな」

「そりゃそうだよ。飛行機が使えなくなってから15年以上経って、日本人を見る機会なんてすっかり減っちゃったんだから」

 雑談をしているうちに、イリアの車が見えてきた。水雪は助手席に乗り、運転に揺られる。今日もいつもと同じように帰れると思った二人であったが、生憎彼女らが乗った車は、帰宅時間の交通ラッシュに呑まれてしまった。

「ここの通りって、こういうのあんまり無いんだけどなぁ……」

「私の住んでる場所も地下鉄があるから、あんまり渋滞に引っ掛かったりはしないかな。それにしてもなかなか進まないね」

「はぁ……。まあたまには良いかもね。少しゆっくり話してみたかったし」

「そうだね。まだここに来て2日しか経ってないし」

 夕陽に照らされる水雪の笑顔を見て、イリアは安心したような表情を浮かべていた。

「水雪。今日の講義はどうだった?」

「お母さんみたいなこと聞くね、イリア。正直、めっちゃ疲れた」

「だろうね。最初はこんなもんだよ」

「帰ってから、学園に出すためのデイリーレポート書かなきゃいけないし、復習もしなきゃいけないし。予想以上に大変」

「そっか。じゃあ夜中まで勉強だ」

 水雪が大きくため息を吐くが、表情から苦痛さは感じられなかった。そんな彼女を、イリアはまじまじと見つめている。

「ん? イリアどしたん?」

「え? いや、なんでもないよ。そうだ! 今日は私が料理作らなきゃいけないんだった!」

 渋滞がなかなか解消されないのか、イリアは埒が明かないとばかりに進路を変更した。コンパクトカーでなければ通れないような裏路地を通っていく。大きな通りを走るのと同じくらいの速さだったので、水雪の顔が曇る。

「ここ通って大丈夫? 車擦ったりしない……?」

「平気だって。遅刻しそうになる時はここいつも通るし」

 数分で通りを抜けると、朝に通った道が現れた。どうやらカサブランカはもうすぐらしい。そのままスピードを速めていく。水雪が心配そうな顔でイリアを見つめるが、警察官に捕まることなく我が家へと辿り着くことが出来た。扉には『CLOSED』と看板が掛かっている。

≪ただいまー! あれ? 今日は店開けてないの?≫

≪当たり前よ。今日から月見里 水雪さんのテンブリッジの生活が始まるんでしょ?≫

≪それを祝して、今日は早めに店を閉めたんだ。簡単だが料理も作ってるぞ≫

≪今日私がご飯作る番じゃなかった? まあ良いけど。パパ、ママ。ありがとう≫

 少し遅れて水雪がカサブランカに入る。彼女は入って早々、本来はお客さんが使っている筈のテーブルに料理が置かれているのが視界に入った。

「え? どういうこと?」

≪水雪さん、イングランドへようこそ! これから1か月、頑張ってね!≫

≪え……? リタさん? 嘘でしょう!?≫

 英語で驚く水雪。ほどなくして歓迎パーティーが始まった。料理に舌鼓を打つ水雪とイリア。大人たちは料理はそこそこに、エールを楽しんでいる。彼女らは未成年なので、エールは飲めなかったが、その代わりイギリスの紅茶を頂くことになった。

≪イリアから聞いたよ。紅茶に興味があるんだって?≫

≪はい! お茶が大好きなので≫

 リタは沸騰したお湯を陶磁器のティーポットに入れる。人数分の白いカップを用意すると、そこに手際よく紅茶を淹れた。注がれた瞬間からベルガモットの香りが部屋の中に広がり、水雪は今日一日の疲れが吹き飛んだ気分になった。

≪茶葉は何を使っているんですか?≫

≪ダージリンベースのアールグレイよ。爽やかな香りが良いでしょう?≫

≪本当だ……。なんかレモンみたいな香りがする。いただきます!≫

 フーフーと息を吹きかけ、一口飲む。口いっぱいに爽やかな味と香りで満たされ、水雪は心底幸せそうな表情になった。本場の味を体験した彼女は、ますます紅茶に興味を持つことが出来た。イリアも料理をつまみながら、リタの淹れた紅茶を楽しんでいる。水雪を横目に見ながら、ふっとため息を吐いて。

 夜になった。リタとトマスはまだ酒を飲んでおり、カウンターで談笑している。未成年の二人は2階に上がり、それぞれのやることに手をつけていた。水雪はデイリーレポートの作成、そしてイリアは紅茶を淹れていた。ほどなくして、水雪の部屋をノックする。

≪大丈夫ですよ≫

 ドアを開けると、2人分のカップを持ったイリアが入ってきた。

「なんだ、イリアだったんだ。今日はお疲れ様」

「水雪が頑張ってると思ったから。はいこれ。私も紅茶淹れてみた。ママの物真似だけどね」

「おお! ありがとう! これもダージリン?」

「うん。さっき飲んだのと一緒。飲んでみて」

 二人でレポートの休憩がてら、紅茶を楽しむ。やはり、水雪は笑顔になった。イリアも釣られて笑ってしまう。

「イリアが淹れた紅茶も美味しいね。お母さんの真似って言うけど、負けてなかったよ」

「ありがとう。水雪が忙しくない時に、淹れ方教えるからね。飲んだら机の上に置いておいて。私、適当な時間に来て片付けるから」

「え? そんな悪いよ」

「良いの。私が好きでやってることだから」

 そう言って、イリアは上機嫌で部屋から出て行った。たった10分そこらだったが、部屋の中には眠気を覚ますような爽やかな香りでいっぱいになっている。レポートを手早く終わらせた水雪は、日付が変わる直前まで借りた本を読んでいた。

 

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