留学生活は順調だった。10日が経ち、テンブリッジの講義にも少しずつついて行けるようになっていた。講義が終わる度に疲労が滲むが、今や達成感の方が強い。英語で講義を受けることが当たり前になっていた彼女は、自分から英語で生徒に話しかけるようにもなっていた。一日毎に成長していると、肌で感じていた。
そして彼女の支えになっていたのは、イリアが作ってくれるアイスティーだった。毎朝早起きして、水雪とイリアの二人分を作ってくれる。水雪はストレートティーだが、イリアはレモンを搾ってから水筒につめるのが好きだという。この日も水雪は紅茶を飲みながら、次の講義の準備をするために学内を移動していた。
第1ブリッジ前の講堂に着く。この日最後の講義だったが、水雪は疲れた顔一つ見せていない。講堂に入り、教室へと歩いていく。その時だった。
彼女の前から二人の男女が歩いているのが見える。女性は正装だったが、白髪交じりの男性は、長白衣こそ着ているものの、その下に着ている服はラフそのものだった。
「テンブリッジには色んな人がいるんだなぁ……」
呟いて通り過ぎようとしたが、顔を見ると、彼女の足が止まった。
「え……? 日本人?」
彼女の呟くような声に、通り過ぎようとした二人が立ち止まる。
「四五、久し振りにお前以外の日本語を聞いたような気がするんだが、まさかな」
「朝永くん、そのまさかです。聞いてないんですか? 日本から留学生が来ているって」
振り返ると、そこには二人を呆然と見つめる水雪がいた。
「あの……、お二人、日本人なんですね」
「ああそうだ。俺は理学部物理学科名誉教授の
「初めまして。私は理学部数学科名誉教授の
修二は豪快に歯を見せて、四五は優しく笑って見せた。
講義終了後、いつものようにイリアと並んで歩いていた。借りた本を返却する為に図書館に向かっていた所で偶然会った形だった。二人は図書館で紅茶の本を読みながら、今日起きたことを話している。
「ねえ。テンブリッジって日本人の教授がいたんだね。あたし知らなかった」
「ああ、シュウジ・アサナガとヨツコ・ウタカネね。私が産まれる前からテンブリッジにいるらしいんだけど、結構人気あるみたいだよ。なんかあったの?」
「あたし、講義の前にたまたま会ったんだ。凄く印象良かったよ」
「私以外にも日本語が通じる人と会えたってわけだ」
イリアは水雪がテンブリッジにすっかり馴染んだことに安堵していた。日が落ちそうになる時間帯、二人は図書館を出て駐車場に向かう。イリアは何か意味ありげな視線を水雪に向けているが、水雪はそれに気付いていない。すると、先ほど見た二人がブリッジを歩いていた。それに気付いた水雪が声を掛ける。
「朝永教授―! 一二三教授―! お疲れ様でーす!」
「あ、あの子はさっきの……」
「それに、もう一人いますよ。お友達でしょうか」
「ほら、イリアも行こうよ!」
「え? いきなり? あっ……」
水雪がイリアの手を繋いで、二人の名誉教授の元へ駆けていく。直ぐに追い付くと、相変わらず二人は笑っていた。
「お疲れ様。今日はもう帰るのか?」
「はい! あ、この子、イリアって言います!」
「あ……、イリア・リードです。医学部の1年です。よろしくお願いします……」
イリアは二人に挨拶をするが、水雪に握られた方の手を気にしていた。
「随分と日本語が達者ですね。日本人のハーフか何かですか?」
「あ、いえ。日本人の血はほんのわずかですけど……。400年くらい前に、日本人と先祖が結婚したって話は聞いています……」
「そうなんだな。でも君、前に何処かで見たことあるような」
「そうですそうです! カサブランカで両親の手伝いしてるんです! 教授はたまに来るので覚えてますよ! うちの売り上げに貢献してくれてありがとうございます!」
「ああそうだ! 君はカサブランカの看板娘だったな! ん? 待てよ……。カサブランカ、400年前……。あ、まさか」
「朝永くん、もしかして修一郎さん……」
「ん? どうかしましたか?」
「ああいや、なんでもない。俺の祖父、修一郎って名前なんだけども、アイザック・ニュートンに憧れて科学者になったんだ。そのニュートンが万有引力の法則を発見したのって、もう400年前の出来事なんだなぁって。あはは」
「正確には、今は2063年なので、376年前ですけどね」
「うわぁ、一二三教授、細かい……。流石数学科だわ」
修一郎が過去で起こしたであろうことを思うと、修二は苦笑いとため息しか出なかった。もしもタイムマシンが現存していれば、説教しに2017年まで飛んで行こうとも思う位に。それから四人はカサブランカへ向かう。開店直後なのか、店内に客は一人もいなかった。
≪ミスターアサナガ、今日もありがとうね≫
≪今日は偶然、大学でマスターの娘さんに会ったものでね。俺と四五は車で来たから、ノンアルコールビールを頼むよ≫
≪私も同じものをお願いします≫
≪はいよ。何か食べていくかい?≫
≪そうですね。折角なので、ここのうどんをお願いします≫
「え? うどんなんて出してるの? パブなのに?」
「うん。カサブランカの看板メニューなんだって。なんかご先祖様が日本人から教わって、馬鹿みたいに売れたからレギュラーメニューにしたみたいだよ」
≪二人も、食べていきなさい。水雪もそろそろ日本が恋しくなってきただろう≫
両親が厨房へと姿を消す。二人は修二に手招きされ、されるがままに席に座った。こうしてカサブランカの店内で食事をすることは、水雪にとって初めてのことだった。それも、テンブリッジ大学の名誉教授と一緒に。変な緊張感で肩に力が入っている。その様子を、四五は笑って見ていた。
「緊張、していますか?」
「あ、はい。まぁ……」
「ここは月見里さんの家みたいなものなんですから、もう少し肩の力を抜いても良いんじゃないですか? 尤も、私も最初にここに来た時は少し緊張していましたけど」
「初めてここに来たのは、いつなんですか?」
「2017年。朝永くんが科学を辞めようとしていた時です。最初は朝永くんを説得するために、科学の本場であるテンブリッジに行きました。そこで色々あって、カサブランカに辿り着いたんです」
水雪は、目の前にいる名誉教授が科学を辞めようとしていた事実に言葉が出なかった。四五の隣で、修二は面目無さそうな顔をしている。
「まあ、四五の言ったことは事実だよ。あの時は若かったから、俺は科学に向いていないなんて馬鹿な事を考えていたもんだ。でも、テンブリッジ大学を見て、アイザック・ニュートンという人間を知って、考えが変わったんだ。俺はまだ変われるって」
「そうだったんですね……」
「それから私たちは、日本の大学を卒業後、揃ってイギリスに飛びました。テンブリッジ大学の大学院に合格したので。それから、日本とイギリスの往復だったんですけど、電波喰いが始まってからはずっと、イギリスに滞在しています」
簡単に昔話をしていると、厨房から懐かしい匂いが漂ってきた。水雪が匂いの方を向くと、リタが人数分の丼をお盆に乗せ、歩いてきた。
≪これがカサブランカ名物のうどん。熱いから気を付けて食べてね≫
「おぉ……」
水雪は目を丸くしていた。僅かに色がついている程度の透き通った関西風のつゆに、鶏肉とネギというシンプルな具。ご丁寧に割り箸までついており、ここが日本の定食屋だと錯覚するようだった。
「ここは折角なので、日本風の食べ方で行きましょうか」
「ああ、そうだな。じゃあ皆さん揃った所で、いただきます!」
「いただきます!」
三人の日本人と、一人の日本に憧れる女学生が、イギリスの地でうどんに舌鼓を打つ。イリアにとっては店の看板メニューだったが、皆で食べるそれは、少し特別なものに感じられた。それから教授陣はノンアルコールビールで、学生たちは紅茶を片手に食事会を楽しんだのだった。
夜9時、ぼちぼち他の常連客が入ってくる。修二と四五は会計を済ませると、車に乗って帰宅しようとしていた。水雪とイリアが見送る。
「教授、今日はありがとうございました!」
「月見里さんもリードさんも、機会があったら研究室に遊びに来ても良いですよ。今の時期は少しだけ暇が出来たので」
「本当ですか! では水雪と一緒にお邪魔させていただくかもしれません!」
「こっちはいつでも歓迎だよ。じゃあ、今日はお疲れ様。勉強もほどほどに、ゆっくり休んでくれ!」
学生たちが礼をすると、車はゆっくりと走り去っていった。それを確認した二人は、未だに賑わうカサブランカの店内に入る。2階に上がると、水雪はいつものようにデイリーレポートの作成に取り組み始めた。
「うどん、美味しかったね。流石カサブランカの看板メニュー」
「お礼はご先祖様にどうぞ。じゃあ私、紅茶淹れてくる。今日はどうする?」
「いつも通りで大丈夫。あの香り、好きになっちゃった」
「そっか。じゃあ下行ってるね」
イリアは階段を降りていくが、踊り場で立ち止まった。テンブリッジから帰る直前、水雪に手を握られた感触を思い出していた。咄嗟に掴んだ手は、包み込まれるような温かさがあり、シルクのような滑らかさも感じ取れた。
また、あの子の手を握りたい。言葉では表現しがたい感情が、心の奥底から湧き出てくる気がした。