留学してから2週間が経った。水雪は午前中で講義が終わったため、図書館でデイリーレポートを書いていた。書き方にも慣れた彼女は、記憶が新しいうちにそれを終わらせると、第1ブリッジ前にある研究棟へと足を運ぶ。理学部の教授がいる階まで行くと、目的の場所に到着した。
扉には『Shuji Asanaga』と書かれている。教授の研究室に足を運ぶのは、日本にいても数えるほどしか経験が無かったので、彼女はしばし扉の前で立ち止まっていた。しかし、思い切ってドアをノックする。≪どうぞ≫と英語で帰ってくると、慎重にドアを開けた。
「失礼します!」
「ああ、月見里さんか。お疲れ様。今日はもう終わったの?」
「はい。今日は午前中で講義が終わったので」
「あれ? あの看板娘は? 一緒だと思ったんだけど」
「なんか、今日は医学部の付属病院で講義があるから来れないって言ってました。18時に図書館で待ち合わせしてますけど」
修二に促されるがままに腰掛けるが、なかなか落ち着かない。
「あの、朝永教授?」
「どうした?」
「ちょっと、お湯沸かしても大丈夫ですか?」
「ああいいけど、紅茶でも淹れるの?」
「いえ、紅茶ではなく。あたし、日本から持ってきたんです。緑茶」
鞄から真空パックに小分けされた茶葉と、愛用の急須を取り出す。修二からポットを借りてお湯を沸かす。
「……その急須、自分でもってきたの?」
「はい! あたし、お茶が好きなんです。電波喰いが終ってお兄ちゃんが眠っている間に、お茶の資格を色々取るくらいには」
修二にとって少し引っ掛かる部分があったが、水雪の手際の良さを見るとそれも有耶無耶になる。人数分のカップを出すと、少しだけ急須の中で蒸らした後に注ぐ。透き通った緑色のお茶が差し出されると、修二は急に懐かしさを覚えた。
「どうぞ。お口に合えば良いですが……」
「ありがとう。いただくよ」
一口すする。ほのかな渋みと爽やかな香りが口いっぱいに広がると、修二はふっと息を吐いて笑顔を見せた。
「美味しい。流石、日本茶をイギリスまで持ち込むだけあるな」
「えへへ。ありがとうございます。本当はホームシックの対策で持ってきたんですけど、思ったよりここでの生活が楽しくて、使う暇が無かったので……」
「そうだったか。ここでの生活は楽しいか。それは俺にとっても安心だ」
修二は笑顔を絶やさずに、水雪を見ていた。
「ところで、君は鳴山公空学園から来たんだろう? 薊野 椿姫って子を知ってるか?」
「……はい。2年前の夏休みに知り合いました。朝永教授もご存知ですか?」
「それはもう。日本で歴代最年少の教授、知らない人はいないんじゃないか? さっき君が、電波喰いが終って云々言っていたのが気になってね。それは薊野教授がやったのか?」
「はい。でも、あの人だけの力じゃありません」
「葉月 かぐやだな?」
修二から柔和な笑顔が消える。彼は最初から分かっていた。
「葉月 伊耶那博士は、そりゃもう優秀な研究者だった。彼女一人の知力は、俺達テンブリッジの教授陣が束になっても敵わなかったくらいだよ。彼女の発明は常軌を逸する発想から生まれたものばかりだった。特に人工鳩。あれは画期的だと思った」
「……だけど、電波喰いが起こったんですよね?」
「そうだ。俺達テンブリッジのチームも電波喰いの解決方法を探ったんだが、箸にも棒にも掛からなかった。その間に、博士は殺されてしまった。出来ることなら一度顔を合わせたかったよ」
「そうだったんですね……。朝永教授は、葉月 伊耶那博士のこととか、かぐやのこと、薊野教授を恨んでるんですか?」
水雪が単刀直入に質問するが、それを聞いた修二は再び笑みを零した。
「恨んでる? 確かに電波喰いで新たな研究が出来なくなったとかそういう悔しさはあるけど、彼女自身を恨んだことはない。ただ俺は、じいちゃんや四五以外の人に、久し振りに嫉妬したんだ。葉月 伊耶那博士と、彼女と共に活動出来る薊野 椿姫教授に」
「嫉妬、ですか……」
「うん。四五は特に感じていなかったらしいけどな。君は、誰かに嫉妬したことはあるか?」
修二に優しく諭されるように質問されると、彼女はすぐに口を開いた。
「……ちょっとだけ、かぐやに嫉妬していました」
「おお。俺が母親なら君はその娘か。どうして?」
「私の大好きなお兄ちゃんを、取られたような気がして」
「兄……。ああ、月見里 ソラか。あの事故で唯一の生存者としてニュースになってたね」
「正確には血が繋がっていないので義理の兄なんですけど、お兄ちゃん、電波喰いを止めるために、あたしたちの反対を押し切って、2年間の眠りについたんです」
「……なるほど。そういうことか。電波喰いを止める方法、大体理解した。つまり君は、義理の兄のことが好きだったわけだね? そんな彼をかぐやに取られて嫉妬していると」
「付き合えないっていうのは分かってたんですけど、いざお兄ちゃんが他の女の人と一緒になっていると、なんか胸の奥がざわつくというか……。今はそういうことは減りましたけど。どうせ童貞卒業したんだろうなぁとか、今日も帰り遅いからヤってんだろうなぁとか、軽い気持ちで考えるようになりました」
「童貞て。ヤってるて……。麗しの女子学生がこんな言葉使っちゃダメでしょうが」
「え? 家ではいつもお兄ちゃんのこと童貞弄りしてましたよ。例えば、朝起きて直ぐとか」
「どんな家庭だよ。間接的に俺も傷つくよ。こんな露骨な童貞弄り、アリスを思い出すわ」
「どうかしましたか?」
「いやなんでも! 話を戻そう。俺は葉月 伊耶那博士のことは恨んでいない。罪を憎んで人を憎まずってやつだ。ただ、この頭脳をほんのちょっとだけでも、俺に分けて欲しかったなぁとは今でも思っている!」
修二がまくしたてるように話を切り上げると、ウェストミンスターの鐘の音が鳴った。時刻は15時を示していた。水雪はカップを洗うと、茶葉や急須を片付け、鞄に入れる。
「すみません。こんなに長居してしまって。教授もお忙しいのに」
「いや、良いんだ。寧ろありがとう。15年以上募っていた思いを吐き出すことが出来た。これで、電波喰いの恨みつらみとはおさらばだ」
「……そうだったんですね」
「またいつでも来てくれ。2017年の話でもしてあげるから」
水雪は深々と一礼して、教授の研究室から退室した。ドアが閉まる音が聞こえると、修二は大きく伸びをして呟いた。
「……そういやあの子、エミーの声にそっくりだな」