山の上では天気は安定せず晴れ間など月の半分もない。冬ともなればなおさらで麓の村では草木が顔を見せ始めた今でさえ、景色は白一色に染まっている。そんな過酷な環境に、ハンターでもないただの村娘は住んでいた。独り身の彼女は好きなように生きても迷惑をかける相手はいないと、真冬の間は村の宿を間借りしてくらしているが、少しでも春を感じられるようならこの山小屋へ戻ってきていた。彼女は自ら望んでここにいるのだ。
風に煽られカタカタと揺れる窓辺に座り、遠くを見つめる村娘の表情は、これから危機が訪れることをわかっているかのように暗い。だが、その憂いも一つの出来事さえ起これば跡形もなく霧散する。
「クゥルルルル」
雪の中でも遠くまで響き渡る獣の咆哮が轟いた。喉を震わせるような高音の鳴き声は、彼女が待ち望んだものだ。
「レイギエナ!」
窓に張り付くようにして外を確認するも吹き荒れる吹雪の中では姿は見えない。だが声の響から近くまで帰ってきていることを理解し、村娘は慌ててカーテンを閉めた。保温性に優れた厚手のカーテンは寒さだけでなく音も遮断してしまうが、彼女が翼の羽ばたきを聞き逃すことはない。待ち焦がれていた羽ばたきと振動で、レイギエナが近くに着地したことが伝わってくる。
村娘は慌てて服装を確認する。茶色の膝丈まであるワンピースの上に可愛らしい動物模様のストールを羽織り、厚手のズボンにブーツと手袋。腰には使い古された革袋を下げていた。暖炉に火をつけた室内ではいくら冬場でも暑すぎる格好だが、これからのことを考えれば防寒をしておいたほうがよい。それに怪我の予防にもなる。
壁の鏡を見て、一纏めにした髪が解れていないことを確認し、それでも髪の毛が跳ねているように見えて綺麗に結びなおす。こんなことは意味ないことはわかっているのだが、少しでも見た目をよくしようと鏡の前を何往復もするのだった。
逸る気持ちをこらえ、十分時間が経ったことを確認し、暖炉を消し居間を出て廊下を慎重に歩く。空気が肌に触れるたび身震いしそうになるほど寒く、明かりの少ない廊下はより寒々しく感じられる。だが今の彼女にとって身を震わせるほどの寒ささえ心地良く感じられるほど、体は熱を放っていた。
廊下の突き当りより少し前、裏口へと続く扉の横に目的のドアがある。それは家に併設された倉庫に繋がっている。だが今は倉庫としては使われていない。出会った時から、そこはレイギエナの巣になっていた。
倉庫へとつながるドアを開け、数段の階段を下り、先ほどよりも頑丈そうなドアに手をかける。そして音を立てないように、ゆっくりと開けば、そこにはレイギエナが立っていた。
紺青とアイボリーに彩られた蝶を思わせるような翼膜を広げた姿は、高名な彫刻家が作り上げたかのように異彩な存在感を放ち、鋭敏な月の色をした瞳は注意深く辺りを見回している。均一に揃えられた肉食獣らしく獰猛な牙をむき出し、周囲を見回しながら浅い呼吸を繰り返す姿は、酷く興奮していることを示していた。雪より優しい色をした胴体には切り傷や噛み跡が赤く刻まれ痛々しい様である。
村娘の手が、祈るように胸の前で組まれた。胸が詰まり、鼓動がゆっくりと速度を上げる。それに同調するかのように体の中心から熱が広がり四肢の先端まで熱くさせる。いつもそうだ。真剣な眼差しで彼を見つめる。
その存在に、見惚れてしまう。
偶然の邂逅から村娘のすべてが変わった。美しい獣を前にして、彼女は選べなかった、その存在を忘れることを。それから村娘は少しでも傍へ行けるように尽力をし、近くに住まえるまでになった。
それからずっと見つめてきた村娘には、レイギエナの様子から縄張り争いをしてきたのだろうとすぐにわかった。奇妙なシェアハウスが始まったころは心配していたが、今ではそういうものであると理解している。それでも、彼女からしてみれば放っておけるものではない。手当をしようと倉庫のドアに手をかければ、寒さに歪んだドアが僅かに軋む音を立てた。その音に反応し、レイギエナは村娘のほうに視線を向けると、威嚇をするように大きく体を反らし、翼を広げる。明らかな拒絶に村娘はドアを閉めると、ドアにもたれかかりながら座り込んだ。
相手は野生のモンスターで、村娘は人間である。仲良くなるには障害が大きいことは彼女も理解していた。近くに住むことはできているが、レイギエナの縛るものはない。いつ飛び去ってしまうかは村娘にもわからなかった。
だからこそ、と村娘は腰にさげていた革袋から緑色をした球を取り出し僅かに開けたドアの隙間から倉庫の中へと投げ入れた。小さな破裂音。その後に煙と共に立ち昇る香りは甘く優しい花のような匂いをしている。しかしそれだけではなく奥底に葉をすり潰したような匂いとぬかるんだ土のような匂いが隠されている。消臭玉の作り方を元に村娘が作ったこれは玉ネムリ草とマヒ茸が使われており、捕獲麻酔玉と同じような効果がある物だった。村娘は吸わないように口元を覆いながら素早くドアを閉めると息をひそめる。
レイギエナは破裂音に一度は警戒を強くしたが、やがて訪れた睡魔には勝てず大きな欠伸をすると、鳥のように翼を折りたたみ床に座り込んだ。そのまま動きがないことを確認した村娘は倉庫の中へと足を踏みいれる。先ほどのように警戒されることがないままそろりと近づき、顔を確認したときにはもう夢の中に入っているようで、かすかな寝息が村娘の耳に聞こえてきた。思わず緊張のゆるみから笑顔が零れた。だがすぐに次の行動へと移る。
村娘は倉庫の扉をしめ、脇に置いてあった簡易ストーブに火をつける。レイギエナの巣となっている倉庫だが、別に物を置いたところでレイギエナはあまり気にしなかった。興味はあるのか確認はするが、害がなければさわりはしない。そのため倉庫の中には多くはないが物が置かれていた。
息が白く染まるような寒さではあるがレイギエナが熱がらないようにとストーブの火はできる限り落とす。処置箱から薬草入りの軟膏と消毒薬を取り出すと、手慣れた様子で傷の手当てをしていく。深そうな傷には布に軟膏を多く塗り、傷口の上にかぶせる。固定はしない。レイギエナが嫌がるから。
手袋の上からでも寒さにやられ、すっかり悴んだ手で傷の一つ一つを丁寧に手当していく。
声も物音もほとんどしなくなった室内で、ストーブの火が揺らめいている。
倉庫の中が冬の終わりほどの室温になった頃、ようやく村娘は手当を終えた。まるでタイミングを計ったかのようにレイギエナは大きく寝返りを打った。倉庫が暖かくなったことで熱を逃がそうと体ごと天井を向き、床に翼を広げている。すっかり安心して寝入っている様子である。
村娘は軟膏がついてしまった手袋を外すと、満足そうに艶やかなレイギエナの肌へ触れる。薄く細やかな鱗に覆われた皮膚は、触れた瞬間は冷たかったが徐々に人間よりも少し低いレイギエナの熱を感じられる。
村娘は愛おしげに何度か撫でると寄り添うように横になった。ひんやりと冷たく硬い床の感覚に、熱を求めてレイギエナに身を寄せる。間近になったレイギエナの体を見つめ、ゆっくりと目を閉じる。暗闇の中にいても、レイギエナの気配が感じられる。それがとても安心できた。