ロリババアの道程   作:穢銀杏

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 我を強く張ること、捉え得るものに対してはすべて遠慮会釈なくつかみかかること、保持し得るものは頑固に保持し置くこと、これらの性質が生存競争には肝心である。

(トマス・ヘンリー・ハクスリー)



本編

 

 自分の口調が同年代の少女達のそれと比べていささか以上に奇異なこと、誰の指摘を待つまでもなく、むろん彼女とて気が付いている。

 自己の客観視もまともにこなせぬ幼児性とはとうに縁を切ったのだ、無自覚でいられるわけがない。過不足なく理解して、その上でなお、彼女は矯正を選ばなかった。我が身に宿る奇天烈をそっくりそのまま肯定し、今日まで歩み続けてきたのだ。

 

 簡単なように見えて、これが存外難しい。胆力を要する。

 

 初対面の相手は十中八九顔と口調のギャップに戸惑い硬直するし、ある種の変人だとレッテルを張られるのも避け得ない。どうしても色眼鏡で見られてしまう。

 そのあたりを危惧してか、面倒見のいい仕事仲間が寄ってきたのも一再ではない。どこで発掘したのやら、前時代のマナー事典を片手に持って迫りくる、お調子者までいたものだ。

 

(あやつらは根っから好意の心算(つもり)なんじゃろが、こればっかりは、どうも、のう)

 

 如何に世間並から外れていようが、彼女にとってはこれこそが()。キャラ作りだの何だのではなく、通常の喋り方、大仰な言葉を敢えて使えば本性である。それを態々曲げ直す苦労と、しばらくの間羞恥心と画一化への欲求に耐えること。どちらの方が精神の磨耗は少なくて済むか、彼女は彼女なりの慎重さで天秤にかけ、結果後者を採ることにした。

 

 人間には慣れという、たいへん便利で厄介な機能が生得的に備わっている。最初は違和感に眉をひそめる刺激でも、連日連夜、繰り返し同様のものに曝されるうち、やがて感覚は鈍化して、ついには何も感じなくなる。それが当たり前のものとなる。

 

 ゆえに彼女は、しばらく耐えさえすればよいと見積もった。予想通り、今となってはもう誰も、彼女の口調を異としない。むしろいまさら世間並みの言葉使いに直した日には、十人が十人、驚きのあまりすわ天変地異の前触れかと腰を抜かすに違いない。

 早い話が、日常の中に溶けきった。

 お陰で彼女は目下のところ、何ら気負う必要の無い悠々自適たる日々を送れているというわけだ。

 

(うむ、安気安気。やはりこうでなくてはな)

 

 それはそうだろう、ただでさえ戦場暮らしの身の上である。

 生と死の境界が限りなく薄まる異常な「場」へと年がら年中突っ込まされて、それだけでもうストレスを溜め込むには充分なのに、この上さらに分厚い仮面を被せられてはたまらない。真剣に窒息の危機である。気の抜きどころがないではないか。心の疲弊がやがてミスの呼び水となり、ドミノ倒しさながらに大失態を誘発し、取り返しのつかない欠損、破綻、死にでも至ろうものならば――ああ、これほど馬鹿げた話もあるまい。そんなマイナスのわらしべ長者みたいな話は金輪際ごめんであった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 戦場。

 上の単語は、比喩で用いたわけでない。純粋にそのままの意味で使ったまでだ。

 彼女の職場、一日の大半身を置くところは、この上なく命の軽い(いくさ)の庭なのである。

 と言っても、その戦争は人類が遥か太古より飽きもせず延々繰り返してきたそれ(・・)でなく。

 アラガミという、冗談染みた超生命体との種の存亡を賭けた闘争なのだ。勝つか負けるかではなく、喰うか喰われるか。講和の余地なく、捕虜条約も有り得ない。兵士と市民の区別だと? 寝言は寝て言え、期待する方が間違っている。同類以外は皆殺す。互いに絶滅させる気で向かい合わなければならぬ。自然界の法則にこの上なく忠実な、言うなれば生存競争の一種だろうか。ともあれ人間同士の戦いとは根本を異にしていよう。

 

 で、肝心要のその中身、戦況はどうなっているかというと、これが人類に大いに不利。その一因として見逃せないのは、やはりアラガミに対して既存の兵器、その一切が通用せなんだことだろう。

 これはアラガミの肉体が「オラクル細胞」と称される特殊至極な細胞群から成り立っているに起因する。常軌を逸した強靭さとしなやかさを兼ね備えたこの結合を破壊するには、銃だろうが爆薬だろうが、それこそ「核」であろうとも、とてものこと歯が立たぬ、役者不足であったのだ。

 

 そんなデタラメな細胞があってたまるか、と言いたくなる気持ちも分かるが、現実としてここにあるのだから仕方が無い。

 こうした次第で、こっちからの攻撃は微塵も効果がないくせに、あっちときたら紙細工でもひっちゃぶく(・・・・・・)ような容易さでこちらをぶち殺せるという、闘争に於いて最大級の悪夢が地上に具現した。

 戦車はティッシュの空き箱で、シェルターはまあ、いいとこデコレーションケーキだろうか。アラガミの食欲は有機無機の区別なく、文字通りなんでも平らげるのだ。

 

 対抗手段がない以上、人類としては敗北するより他にない。

 その個体数はいっそ笑ってしまいたくなるばかりの速度で激減し、国家は軒並み機能を停止。先人たちが心を砕いて築き上げ、歴史の滲みた大都市は、アラガミどもの口腹をいっとき満足させんがための単なる餌場と化し去った。朽ちて廃墟となるほうが、まだしも救いがあったろう。

 

 

 

 そんな世の中なものだから、ただでさえずっとありがちだった二束三文の悲劇というのが、いよいよ無料配布でも始めたみたいに大発生するわけである。

 

 

 

(そう、別に珍しいことではない)

 

 親を、兄弟を、親族を、友を、およそ頼るべき一切を亡くして天涯孤独の境遇に堕ちる子供など、この空の下には掃いて捨てるほど存在するのだ。

 彼女もまた、そんな変わり映えのない、よくいる餓鬼の一人だったらしい。

 

 らしい、といったのは彼女の記憶の何処を探っても父や母と共にあった映像が見つからないためである。ここから推測するに、彼女はよほど小さな――それこそ赤子同然の時分に於いて両親を亡くしてしまったようだ。果たしてそれは幸いなのか不幸なのか。

 

「愚問を唱えるのう、幸運だったに決まっとろうが」

 

 容赦なく一刀の元に切り捨てたのは、祖母を名乗る老婆であった。

 彼女と老婆の間に血縁関係があったかどうか、今となってはもう永遠に確かめる術は無い。が、

 

(なかったと見て間違いなかろう)

 

 と彼女は合点していた。

 もし本当に血の繋がりがあったとすると、必然彼女の死んだ両親、そのどちらかは老婆にとって実子にあたることになる。にも関わらず、かくも冷静に淡々と、その早逝を幸運と言い切れるものだろうか。

 

(否、断じて否)

 

 祖母がそんな人間ではないことは、共に暮らした彼女自身が誰よりもよく承知している。

 

(あの婆様なら親より先に逝くなど何事か、これ以上の不孝はないと激怒する。その裏に同量の悲しみを抱えながら。そういう人だ)

 

 何故両親が早くして死んだのが幸運なのか、その理由を問うと祖母は莞爾と笑ってみせて、彼女の小さな頭の鉢をぺしぺし叩いた。

 

「今回は教えてやるがの、次からはもっと自分の頭で考えるようにするんじゃぞ。おうおう、ようけ中身の詰まっとるいい音がするわい。せっかくこうまでみっちり詰まってるんじゃから、使わにゃあ損じゃないかえ」

 

 とどめとばかりに祖髪を滅茶苦茶にかきまわしてゆく。しなびた手がわさわさと蜘蛛のように蠢きまわるあの感触を、今でも頭皮が記憶している。

 

「なあに、至極簡単なことじゃて。お陰でお主は変にひねず(・・・)にすんだ。もしあと何年か遅れ、父母の愛を理解出来るようになってから死別を味わわされてみよ。やわなお主の精神は激烈な感情の濁流により壊れるか、最低でも何らかの歪みが生じておったに違いない。そんなものを態々拾って形を整え直してやるほど、わしはお人よしではないわ」

 

 いくら愛を注がれようと、それを認識出来ねば何にもならない。

 憎悪や憤怒、悲嘆といった感情は何かを奪われてこそ発生するのである。逆に言えば、真実何も持たぬ者にはどうしたってその手のものは感じられない。

 出会ったばかりの頃の彼女はまさしくそんな状態だった。何を失ったかも分かっていない、まっさらで素直なままの生地。だからこそ祖母は彼女を放置せず、庇護し養育したのだと言う。

 

「でも」

 

 泣きそうな声であった。彼女の胸には何やら自分がひどく下劣な不貞を犯しているような、やるせない気持ちが次から次へと沛然として湧いており、声にでもして排出せねば五体がいまにも破裂しそうであったのだ。

 

「でもそれじゃあ、いくらなんでもととさまとかかさまが――」

 

 ――哀れではないか、と言いたかったのであろう。されどまだまだ発展途上、貧相な語彙力が仇となる。どうしても相応しい言葉を発見できず、彼女のべそは余計、いっそう、加速した。

 

「報われず、哀れじゃと。なるほどのう、よくぞそこまで気が回った」

 

 だから、祖母がその言葉を代弁してくれた時は本当に嬉しかったし、救われたような気さえしたのだ。

 

「そう思うのは決して悪いことではない。むしろこんな時代によくぞかくも真っ直ぐ育ったと、わしア鼻が高いわい。しかしじゃな、気に病むのあまり無用に自責を積み重ね、ついには自虐へといきつくような真似ばっかりはよすんじゃぞ。あんなものは百害あって一利なし、どうしようもない最底辺の人間がするもんじゃ」

「うん、わかってる」

 

 自虐についての講釈はそれこそ耳にタコが出来るほど聞かされていたので、彼女は大人しく頷いた。

 

「お主が両親に報いたいと欲するなれば、月並みじゃが精々必死に生き抜いてみせよ。それが唯一、父母の死を無駄死にに堕とさず、注がれた愛への感謝を形にする方法じゃ」

 

 

 

 ああ、そうだ。祖母はいつも彼女に対して二言目には生き延びろと説いていた。

 

 

 

「よいか、必要とあらば例え相手の靴を舐めてでも生にしがみつくんじゃ」

「冗談じゃろ、そげな誇りもなにもあったものではない真似をしてまで、わしア生き延びたくないわい」

 

 舌っ足らずな喋り方はなりをひそめ、自我の芽生えが見えてくると彼女は時折祖母の教えに反発するようになった。

 

「たわけぇっ」

 

 すると祖母は、荒れ果てた荒野のような顔面を真っ赤にして怒鳴るのだ。

 

「小娘がさかしらなことを抜かすでない、誇りの意味も分かっちょらん分際で」

「なんじゃと、老いぼれが」

「本当に誇りがあるのなら、一時の屈辱くらいなんじゃ。頭を垂れつつ腹の中には殺意を溜めて、逆襲の時まで耐え忍ぶのが正道じゃろうが。それを沸点低く、簡単にぶっちぎれてどうする。無為に死ぬだけなのは火を見るよりも明らかではないか」

 

 お互い興奮して、いつ胸倉を掴んでもおかしくない雰囲気である。意見が食い違うと、彼女らは万事この調子だった。

 

「機が来なかったらどうする、いくら待てど暮らせど来なかった場合は。こんな事ならあの時暴発しておれば、と悔いながら生きよとほざくんか」

「屁みたいなことを抜かすでないっ。己が踊る舞台ぐらい、手前で築く意気がなくてどうする」

 

 受動的にただ待つのではなく、能動的に自ら動いて機を作れという意味だろう。

 

「昔日の平和だった時代ならわしもこんなことは言わん。当時は口でなんと言おうが、実際に命の危機に晒されることなど皆無に等しかったからな。が、今は違う。今日びお主のように死を飾りたがる大馬鹿は、本来三日も生きられん世になってしまったのじゃ」

 

 平和な世界で前半生を送った祖母だからこそ言える、実感籠もった言葉だった。アラガミに世界が貪り食らわれていく、その一部始終を老婆はいったいどのような心境で見届けたのか。

 

「酔っ払って安易に死のうとするな。そんなものは所詮、過酷な現実に立ち向かえない臆病者の逃げに過ぎぬ。真の強者とは、例えどんなに長く険しい道のりであろうとも、その途中で如何に屈辱そのものな、糞土に塗れる思いをしようと、決して初心を投げ出さず、歯を喰いしばって前に進める者をいう。よいか、生きることから逃げるでないぞ。とりあえず生きてさえいれば、どれほどの苦境・苦難であろうといつか跳ね返し得るんじゃからな」

 

 当時の彼女にはさして響かなかったこの言葉が、いつの間にかその背骨――髄を貫き五体を支える信念にまでなろうとは、当の祖母自身思わなかったに違いない。

 

 

 

 このように彼女を守り、多くを与えた祖母が、ある日死んだ。

 

 

 

 死因は老衰、生きとし生けるおよそ全ての宿命である。病的な生存至上主義から危機察知能力におそろしく長け、それをフルに活用することにより、幾度となくアラガミの爪牙をかわし続けた祖母であっても、自分の寿命からだけはついぞ逃れ得なかった。

 

「随分遠回りを重ねたものの、わしはついに辿り着いた。見よ、我が勝利はここにある」

 

 彼女に手を握られながら、祖母が残した最後の言葉。

 ひどく抽象的で理解し難くはあるが、その声色から、その表情から、籠められた想いは自然じねんと伝わってゆくものらしい。

 

 祖母は真実満たされていた。最早この世に何の未練も残っておらぬと、晴れ晴れとした穏やかな心で最期を迎えたのである。

 

 枯れ木のような祖母の身体が、この時ばかりは内から光輝いているかのように彼女の瞳に映ったものだ。

 

「――」

 

 力が抜け、だらんと垂れ下がった腕。

 物言わぬ亡骸と化した祖母に縋りつき、彼女はわんわん泣きに泣いた。

 

 彼女にとって祖母とは親であり教師であり、またかけがえのない親友でもあった。彼女の半分は祖母のものと言っても過言ではなかろう。

 

 故に血の繋がりがあったとか無かったとか、そんなことはどうでもよい。些末、二の次三の次以下の事項に過ぎない。彼女にとってあの老人は、どこまでいっても絶対的に祖母なのだ。

 然らばこの反応は当然、健康な精神性の発露に他なるまい。愛する者の喪失とは、斯くも重かりしものなのだ。

 

(なるほど、婆様の言った通りじゃ)

 

 自然死、それも考えられる最高の逝き方をされてもこれである。もしもアラガミに捕喰されるとか、その手の理不尽極まりない無念の死を目の当たりにした暁には、心の一つや二つ程度、ぶっ壊れてもなんら不思議でないだろう。

 祖母の言った通り、そんなものを認識せずにすんだ己は幸運なのだと、彼女はこの瞬間に及んで漸く真に理解した。

 

 

 

 祖母が死んでしばらくすると、当たり前に彼女は飢えた。

 

 

 

 遺産を頼りになんとか細々と食い繋いできたとはいえど、元々たかが知れている額の上に収入が一切無いときた。これではいくら節制を心がけようと、底が見えてきてしまうのは道理だろう。

 

 何かしら職に就こうと足掻きもしたが、十代前半の幼さで発育ぶりもさしてよくない彼女を敢えて雇用する、物好きな職場は何処にもなかった。それはそうだろう、どう贔屓目に眺めても満足に仕事をこなせるとは思えない。男子に生まれついていたならば、まだしも見込みはあったのだろうが。

 

(これはいよいよ、身売りを考えねばならんかな)

 

 が、絶望するにはまだ早い。女には売るものがある。ちょっと男に真似のできない仕事というのも、確かに存在するではないか。

 今でこそみすぼらしさの具現だが、なあに、素材は悪くないのだ。ほんの少しの研磨剤――栄養と化粧を投入すれば、充分人並み以上にはなる。更に付け足すのであれば、そちらの業界には彼女のような未成熟な少女にこそ興奮する客も多いとか。

 散々足を引っ張ってきた属性が、悉く武器に変わるとは、いったいなんたる皮肉であろう。

 

 このまま窮迫からの脱出口が見付からないのであるならば、本当に堕ちるも已むを得ず――と血を吐く思いで決断しかけていた時分。彼女に一つの、決定的な転機が訪れた。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 目下地球で人類が生を繋げる場所といったら、フェンリル謹製「ハイヴ」以外にあり得ない。

 主神を喰らう魔狼の御名を表看板に引っ提げる、彼らは他のどんな団体・国家より、オラクル細胞の深奥に通暁した機関であった。

 なればこそ、大抵のアラガミが喰らうを厭う特殊防壁を開発し、その素材により支部の周囲をぐるりと囲む、安全地帯の創出さえも可能としたわけである。

 このようにして確保された領域こそがすなわちハイヴ。世界各地に点々と建設された希望の巣穴。もっとも水漏れはしょっちゅうで、中枢に棲むフェンリル基幹要員でもない限り安息とは程遠い、薄氷の上の希望であるが。

 

 彼女が生まれ育ったのは、極東に作られた第八ハイヴ。計十四万もの人間を擁する、半径千四百メートルの巨大な構造体である。これだけの人間がひしめき合っていたならば、貧富貴賤――格差が蘊醸されるのは、考えるまでもなく自明であろう。

 

 悲しいかな、完全環境都市(アーコロジー)たるハイヴにも宿命的に吹き溜まりは発生するのだ。

 

 住民同士の強盗強姦は当たり前、三日に一度は脳の煮立ったカルト野郎が怪しげな集会を開催し、運なく腕なく攫われてきた生贄が哀れな悲鳴を響かせる。いっそアラガミに殲滅されてしまえと良識ある層の大部が考えている悪徳の温床。

 そんな場所で起こったとある事件の容疑者として、あろうことか彼女が拘束されてしまったのである。

 

(冗談ではないわい)

 

 濡れ衣を着せられた彼女はあまりのことに呆然としつつも、同時にどこかで安堵していた。

 

 進退窮まり、とうとう身を売る決意をかため、残金はたいて少しでも血色・肉付き・総じて見栄えをよくするために、比較的豪勢なめしを掻っ込んだのが前の晩。一睡もできず朝を迎えて、濡れ手拭いで身を清め、(ウチ)と呼ぶ掘っ立て小屋から這い出した。

 

 人の皮を被った獣、暴漢どもに見付からぬよう抜き足差し足忍び足で息を殺して掃き溜めの奥へひた(・・)潜る。ややあって、けばけばしいネオンサインが見えてきた。木製の、しかし金属質な光沢のある扉に触れて、さあいよいよだと喉を鳴らした一刹那――

 

「全員動くな!」

 

 すぐ横合いの闇だまりが、武装した屈強な男どもを前触れなく吐き出した。伸ばした腕をなすすべなく捉えられ、捩じ上げられてそのまま地面に抑え込まれる。フェンリル職員殺害容疑がどうたらこうたら言っていたような気がするが、要するに悪い時に悪い場所に居合わせてしまったという話だろう。

 

(ここまで思い通りにならぬか、わしの人生)

 

 悲愴な覚悟は宙に浮き、肩透かしだけが残された。

 脱力するのも無理はない。

 所詮こんなのは先延ばし、肢体を蹂躙されるのが僅かばかり遅くなっただけと分かっているが、それでも心の箍が緩んでしまう。もっともこの嫌疑が晴れなかった場合、純潔どころか命まで()られる公算が大であったが、

 

(大丈夫じゃろ、フェンリルとて無能ではない。早々に誤認逮捕と判断してくれようぞ)

 

 楽天的な考えである。むろん、本心からのものではなく、こう思い込もうという自己暗示の一環だ。

 

 生殺与奪の権限はとっくに他者に握られている。涙ながらに無実をわめき、ガタガタ格子を揺らそうが、エネルギーの浪費にこそなれ、事態はちっとも好転しない。

 

 打つ手はない。

 何一つない。

 ならばいっそ開き直って、無一物な自己の外側、幸運の女神の慈悲に賭けよう。禍福は糾える縄の如し、悪いことの次にはきっと善いことが起こるのだ。やけくそと呼びたくば呼べばいい。悲観に意気を沈めるあまり気鬱にかかりでもしたら、それこそ最悪ではないか。助かるものも助からなくなる。

 ゆえに彼女は、ひたすら思考を楽天的な方へ方へと押し上げる。これもまた、生き延びる術の一ツなれば。

 

 

 

 ところが事態は彼女の予測を遥か斜めに上回り、まったく思いも寄らない軌跡を急速に辿りつつあった。

 

 

 

 ――おいおいなんだよ、この数値。なんでこんなのが今まで見過ごされてきた?

 ――フェンリルの管理体制にも、まだまだ穴があるってことだ。

 ――もっと網目を密にするよう、上に提言するべきか?

 ――検体はいくらあっても困らん、言うだけ言ってみるのもよかろう。だがまずは、目の前のやつに集中しようか。

 

 牢に叩き込まれる直前、手続きとして経た検査。そこで採取された彼女の生体サンプルが、係員らを狼狽させた。驚異的と呼ぶしかないほど際立った、神機との適合性が確認されたのである。

 

 左様、神機。

 

 これぞ人類存続の鍵。絶対の捕食者たるアラガミに対し、泣きたくなるほど貧弱なホモ・サピエンスが抗し得る唯一の法理に相違ない。

 

 その正体は簡潔に言うと、「人為的に調整されたアラガミ」だ。アラガミと同じオラクル細胞によって構成されているがゆえ、連中の強力無比な細胞同士の結合を「喰い破る」ことで破壊する。

 

 毒を以って毒を制す、鬼を斬るため鬼となる。なんのことはない、脅威と相対した際人はいつもそうしてきたではないか。言ってみれば使い古された手だ。

 神機を扱う者が神機と文字通り一体化し、半アラガミ染みたモノへと化するのも鳥瞰すればまったく自然だ。何もおかしなところはない。

 

 ただ、希望さえすれば誰であろうと神機使いになれるわけではない。完全に先天的な資質が必要となる。

 

 ざっくばらんに述べてしまうと、この資質とやらが適合性だ。これを有さないにも拘らず無理に神機を持とうとすると、神機はたちまち制御を振り切り、アラガミの本性に立ち返り、身の程知らずを捕食して、後に残るは肉片ばかり、そういう酸鼻な仕儀になる。

 実際問題、ひとむかし前の技術が未熟な時代には、珍しからぬ事故だった。

 

「ははあ、わしにそんなものが」

 

 そして彼女が秘めていたのは千篇一律の適合性にとどまらず。

 開発されはしたものの、こと極東に於いては扱える者いまだ皆無な、「新型」神機との適合性に他ならなかった。

 

 故に驚異。故に僥倖。戦力の増強もさることながら、貴重なデータを吸い上げるモルモット的な価値すら有す。願ってもない掘り出し物であったろう。フェンリルはその名の通り餓えた狼さながらに、この「肉」めがけて喰いついた。

 

(愉快痛快。まっこと人生とは分からぬものよ、よもやこのような形で風穴が開くとは)

 

 神機使い――ゴッドイーターが如何に危険で命の軽い職種なのかは彼女とて、重々承知の上である。

 と言うより、知らぬ者こそ面妖だろう。タイムスリップを疑われてもおかしくはない。ハイヴの住人であるならばごく当たり前に身に着けていて然るべき、一般常識の領域だ。

 

 ゆえに、神機との適合性が見つかりながら、嫌だ俺はやりたくないと駄々をこねる手合いというのも少なからず居るという。

 

 が、その反面給金は高く、衣食住に至るまで、相当高水準な手当てがつくのがゴッドイーターなる商売だ。彼女の如きド貧民にしてみれば、これは天界の境遇といってしまっても差し支えまい。

 中にはこの好待遇を指して特権階級だと悪し様に罵り、目の敵とする輩もいるが的外れも甚だしい。骨を折った者がその報いを得るのが道理なれば、仕事の難度に従って報いが肥大してゆくのもまた道理。なに(・・)と向き合わされているのか勘案すれば、これでも安過ぎるほどだ。

 

 いずれにせよ、適性が発見された時点で逃げ道など存在しない、涙と唾を撒き散らし、身をよじって抵抗しようがフェンリルはその悉くをへし折って、無理矢理にでもゴッドイーターに仕立て上げる。

 

 戻り道がないならば、猛然と前方に突進するのがまだしも活路に近かろう。

 

 角度によっては生活の場と強力な牙をいっぺんに手に入れられたのだ――と、そのように見えないこともない。

 

(ならば、喜べ)

 

 彼女はまたもや、自己への命令者になった。

 

(餓死も戦死もわしア御免じゃ。こうなれば、我が命を脅かすのなら例え神であろうと鏖殺してやる)

 

 狂気の域に達して久しい。

 彼女の中の、生に対する執着は、だ。

 卸元たる祖母はといえば、未来予知と見紛うばかりの危機察知能力を開眼し、アラガミによる襲撃をすんでのところで免れること、ほとんど三桁の大台に及んだ。

 それが意味するところはすなわち、第六感の鋭敏化に相違ない。

 

 不吉な予感、虫の知らせ――そうしたものを度外れた感度で感じ取り、かつその直感に躊躇うことなく身を委ねられる度量および胆力が、あの老躯には備わっていた。だからこそ天寿を全うするという、このご時勢においては至極希少な最期を迎えられたのだ。

 

 では、その特性をそっくりそのまま受け継いだ彼女が戦場に出ればどういうことになるのであろう。答えが判明するまでに、さして時間はかからなかった。

 

 

 

 当たらないのだ。

 

 

 

 アラガミがどんなに趣向を凝らした攻撃を仕掛けようとも、彼女には決して当たらない。まず回避されるか、展開した装甲に防がれる。絶対に直撃はしない。

 

 例え死角から無音のうちに奇襲をかけようが同じこと。本能と呼ぶべきものが思考を無視して勝手に体を駆動させ、その場における最善手を自動的に選択し実行する。脊髄反射に近いであろうこの恩恵で、対処に失敗したことはいまだかつて一回もない。

 

 相対するアラガミにとってはたまったものではないだろう。これも一つの理不尽の権化だ。

 

 それでも入隊したての頃は膝が震えて同僚の死をみすみす許してしまったり、攻撃の挙動が荒っぽく、雑で無駄の多いものであったりと、つけこむべき隙が確かに随所に散見された。もしこの当時、ヴァジュラやボルグ・カムランなどに遭遇していたならば、さしもの彼女もただではすまなかったろう。

 

 が、休暇という概念を忘却したかのように毎日毎日ひっきりなしに出撃し、神機をふるい続けるうちに、それらの要素は影も形も無くなった。強張りは融け、あらゆる挙動が滑らかに、豊かな弾性を帯びだした。

 

 ――あんなオーバーワークでは遠からず潰れる。

 

 囁かれるのもむべなるかな、一見命知らずの馬鹿そのものな行動だったが、しかし結果から観測すれば、身を危険に晒して命を大事にしたということになるだろう。命を大事にするといっても指先の怪我程度に一々死ぬような大騒ぎをするわけではない、むしろ死を避けるのに必須ならばどのような損害をも厭わないのが彼女という人間らしい。

 

 先人達が何年もかけてようやっと登りつめた場所。それを一足飛びに通り越し、いまや彼女は前人未到の極地に立ってなおも処女雪を踏み続けている。第一種接触禁忌種のアラガミを単独かつ無傷で撃破するなど、最早あらゆる意味で人間を超越しているだろう。

 

 そして、そんな彼女だからこそ。

 

 誰よりも死を忌避し、強迫観念じみた生存への渇望を力の根源とするこの怪物であればこそ。

 フェンリル極東支部の長、ヨハネス・フォン・シックザールが極秘裏に進めていた計画――「アーク計画」の全貌を知ったとき、大いに揺れ、惑い、狂おしく悩乱させられた。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

「どうしたもんかのう」

 

 フェンリル極東支部、通称「アナグラ」のエントランスに設置されたソファーの上に身を投げ出して、彼女はぽつりと呟いた。

 あてどもなく分散させていた視線。霞がかったような目つきが、触媒を得て一気に定まる。

 収束した視線の先には、同じく前途に迷うゴッドイーター、台場カノンの姿があった。

 

「カノーン、カノンや」

 

 間延びした声で呼びかける。猫に似ていた。ちょいちょいと、福でも招き寄せるみたいな、特徴的な例の手つきまでしてみせる。

 

「………。あ、はい?」

 

 数瞬、反応が遅かった。

 答えの出ない思考迷路に――無限ループの悪弊に嵌り込みつつあったにしては、まず上等なほうである。

 乾いた瞳を、ぱちぱちと、目蓋の裏で撫でさすり、カノンの意識は現実へと回帰した。

 

「ちょいとここに同座して、話でもしていかんかえ。共に惑う者同士、胸襟を開き合うもよかろう。さすればまた何がしか、新たな展望が開かれるやもしれんぞよ」

「私は――いえ、そうですね」

 

 それじゃ、と断りを入れてカノンは行儀良く対面のソファーに腰掛ける。

 

「あなたも迷っているなんて、ちょっと意外でした」

第一部隊(ウチ)の衆は皆、どちらであれ旗幟を鮮明にしておるからのう。頭であるはずのわしがこの様とは、情けないことこの上ないわな」

「いえ、そんなことは」

「よいよい、擁護など無用よ。射線上に味方がいようが遠慮なくぶち抜くお主にゃ似合わん」

「そ、それは言わないでくださいよぅ。私だっていつもああじゃないんですから。ただ、その、いざトリガーをひく時になると……」

 

 ごにょごにょと弁明を続けるカノンに、呵呵と笑って彼女は返す。しかしその実、内心彼女は他の誰より高くカノンを買っていた。

 なぜならば、この台場カノンこそが天上天下に唯一人、彼女に対し直撃弾をぶち込んだ存在なのだから。

 

(あの衝撃、舎利になるまで忘れることなど出来まいよ)

 

 彼女は己が超直感を自覚し、また頼りにもしていた。それが高じてこれさえあれば大丈夫、どんな戦場だろうとも無事に潜り抜けられる――と、野放図にもつけあがるほど。

 

 ところがその日、自慢の玩具は何の役にも立たなかった。一切何をも感ぜられぬまま、カノンの弾に撃ち抜かれたのだ。

 

 たとえるならばある穏やかな昼下がり、野原を歩いていたら突然なんの前触れもなく足下が海に変わったような――まさしく晴天の霹靂としか言いようのない大異変。それに直面した彼女の心情はとても筆舌に尽くせない。肉体上の、若干吹き飛ばされる程度の衝撃など、精神に喰らったものに比すれば物の数ではなかったろう。

 

「射線上に入るなって、私言わなかったっけ?」

 

 有無を言わせぬ、氷のような低い声。罪悪感など毫も含まず、邪魔なんだようろちょろするな目障りだとの不快の念が形をとったようだった。

 

 彼女がカノンの渾名の一つ、「誤射姫」の意味を畏敬の念と共に――なんて、ちょっとずれた形で認識したのはこの時である。

 

 当節彼女の心の中では種々の感情が入り混じり、わけの分からぬマーブル模様が描き出されていたのだが、その中で最大面積を誇る色は、あろうことか「感謝」であった。

 

 己が増上慢、天狗の鼻っ柱をへし折ってくれたことに対する圧倒的感謝。もしあのままであったならいずれ頼みの綱の直感を自ら曇らせ、どこかのつまらぬ戦場で死骸を晒す末路であったと悟ったゆえに。

 

 自分も所詮取るに足らない、油断すればあっけなく死んでしまう存在なのだと。完全無欠の絶対者になど、どうあってもなれないのだと。死に対する恐怖、その本質を思い出すことができたから。

 

 彼女はカノンに対し、もういっそ抱き締めたくなるまでの感謝と敬意を覚えたのだ。

 

 むろん、それを口に出したりはしていない。誤射してくれてありがとうなどと言う輩は誰が見たって気味が悪いし、下手をすれば気が狂ったとさえとられかねまい。

 

「――と、晴天の霹靂と申さばこれもじゃな。まさか終末捕喰が単なる都市伝説にあらずして、真実起こり得るとは、の」

「ええ、本当にショックでした。今でこそちゃんと受け止められているけれど、最初はなんだか白昼夢を見ているような、目に薄い膜がかかったような、兎に角奇妙な感じで」

 

 アラガミ同士の共喰いの果て、その行き着く究極のところ。史上最大のアラガミ「ノヴァ」が誕生(あらわ)れ、地球そのものを喰い尽くす――それが終末捕喰。巷間に溢れる「黙示の日」預言のひとつであった。

 なんともスケールの大きな話だ。そのせいか、根っからこれを信じている者は極めて少ない。精々が集団自殺を呼びかけるカルト教団ぐらいだろうか。一般人には大抵、何を馬鹿なと鼻で笑い飛ばされている。が、しかし、

 

「支部長と榊博士……この二人が認めている以上、疑う余地は無しか」

 

 就中、ペイラー・榊は過去にアラガミ防壁の基礎を設計したりした、アラガミ研究の第一人者だ。勲一等といっていい。そういう彼に反証を突き付けられるほど、彼女もカノンも学識豊かな頭脳ではない。

 

「にしても、どいつもこいつも対応が早いったらないわなァ。未だ決断を下せておらぬのは、ひょっとするとわしとお主だけやもしれんぞ」

「リッカさんも先日決めちゃいましたしね。乗らないって聞いた時、ああ、やっぱりなあって思いましたよ」

「頑固一徹然としたところのある娘じゃからのう。ああした気骨の入っている、確たる自己を持つ者は見ていて清々しいわい」

「娘って。あなた確か、リッカさんより三つか四つ下でしょう」

「なんじゃ今更、わしの言葉遣いは今に始まったことではなかろう。第一それをいうならば、わしは同じく四つほど上のお主に向かい、こうしてオヌシ呼ばわりしとるわけじゃが、それはよいのか」

「う、そう言われてみれば……」

「ふむん、随分疲れておるのではないかや。現実の輪郭がぼんやりしておろう」

「疲れもしますよ、告白しちゃうとここ何日か碌に眠れてませんもの」

 

 自嘲気味に唇を歪ませ、カノンは深々とため息をついた。

 

「私にはリッカさんみたいに沈みゆく船を猶も信じて、最期まで運命を共にするだけの度胸も矜持もない。自分が死ぬのも、近しい誰かが死ぬのも嫌なんです。考えただけでも怖くてたまらないんですよ。でも、だからと言って世界中の人を見捨てて自分達だけのうのうと逃げ延びるなんて……きっと罪悪感と自己嫌悪がいつまでも離れない。べったり背に張り付いて、いつの日かその重みに耐え切れなくなり潰されるのが目に見えるようです。結局どっちつかずの中途半端」

 

 きっとそんな自分自身こそ本当に許せないのだろう。赤く充血した瞳が、それを何より雄弁に物語っていた。

 

 

 

 終末捕喰は回避不可能。いずれ必ず来る運命と定義して、ならばせめてそのタイミングをコントロールしてしまえというのがシックザール支部長の計画だ。

 

 

 

 発生のタイミングが制御可能であるならば、その間生かすべき生命を安全な場所――すなわち宇宙空間に逃がしておくのもまた可能。さながら大洪水を乗り切り種の保全を図る方舟、アーク計画の名に偽りなしというべきか。

 補足すると、シックザールの説明するところでは、終末捕喰の先に待っているものは「生命のリセットされた新世界」との事である。何から何までかの伝説をなぞるようで、いっそ嫌味なものさえ匂い立つ。

 

 問題は、人類総てが方舟に乗船できるわけでないこと。

 

 その定員は実に千。アラビア数字で、1の隣に0みっつ。これを多いととるか少ないととるかは各々の価値観なりなんなりで意見が分かれるだろうから一概には言えないが、人類の総数から見てみれば、

 

「圧倒的に少ないな。人類総てどころか、この第八ハイヴから見ても一パーセントにすら満たん。雀の涙もいいところじゃ」

 

 まさに命の選別、選民思想の極北。

 

「それでも零よりはまし、と考えてしまうのはあさましいことでしょうか」

「まさか、誰だって思うさ。誤解を承知で言わせてもらえば、人間なんて放っておけばいつの間にやらばんばん増えてる生き物だからの」

 

 万年発情期は伊達ではないわ、他の戒律はみーんな忘却したくせに、産めよ増やせよの一条だけは後生大事に遵守(まも)りくさって――と。

 彼女は殊更に高く笑った。

 

「もっとも、アーク計画が発動しなければ必ずしも零になると決まったわけではない。終末捕食が事実だろうと、我々ゴッドイーターが事前にその芽を摘み取り続ければいいだけの話」

「できるんでしょうか、そんなこと」

「紙のように薄いが、まあ皆無ではなかろう。可能性はあると見た。が、そんなちっぽけな光明に縋れる者が果たしてどれほどいることやら」

 

 倍率で言えば百倍か千倍か、あるいは更にその上か。

 言うまでも無く馬鹿気た賭けだ。こんなものに全財産はおろか五臓六腑の悉くをつぎ込むだなんて、冗談にもならぬ狂気の沙汰に違いない。

 

「シックザール支部長はそうではなかった。彼は賢明じゃよ、物事を高い視点からよく見ておる」

 

 もし仮にアーク計画をぶっ潰し、人為的な終末捕喰を喰い止められても、その先に自然の(・・・)終末捕喰が起きてしまっては何にもならない。人類が滅亡したその後で、ごめんなさい、失敗しちゃったやっぱり私が間違っていましたなどと詫びても遅いのだ。

 

「あなたはアーク計画を正しいと思っているんですか?」

「筋は通っているし、何より堅固で確実な道だと思っておるよ。種の保全、人類の足跡を絶やさぬことを第一目標とするのなら文句の付け所がない。ああ、じゃがしかし、終末捕食を防ぎ続けられる可能性があるのなら例えどんなに低かろうとそれを追い続けるのが正道だろうと言えなくもないし」

 

 お手上げだ、と言わんばかりに彼女は天井の照明を眺めた。

 

「駄目じゃな、堂々巡りになっておる。可能性の話をしだしたらきりがない。すまぬなカノン、新たな展望どころかこれでは余計に混乱させてしまったようじゃ」

「いえ、そんなことは。弱音を吐けたお陰で、ちょっと気も楽になりましたし」

「ひとつヴァジュラでも狩りにいかんか」

 

 なにをとち狂ったのやら彼女は話を急転直下させ、カノンを呆然とさせた。

 

「こういう時は引き篭もってうじうじ考えていてもよくないのよ。血が鬱してきて逆効果を呈するわい。それよりアレじゃ、思い切り暴れて泥のような眠りに就いた後にこそ、知恵というやつは湧いてくる」

「な、なんですかその体育会系みたいなノリ。大体私、こんな体調だからどんなヘマをすることやら」

「なあに、心配無用。わしと共に出撃()る以上、何があろうと絶対に死なせなどせんよ」

 

 ともすれば大増上慢ととられかねない台詞であった。彼女もそれを理解しているから、常日頃なら絶対にこんなことを口にしたりはしない。

 にも拘らず現ににこうして言ってしまった。ということは、見えにくいだけでどうやら彼女の精神状態も大概並ではないようだ。

 

「ほれ、善は急げじゃ」

「あ、ちょ、待ってくださ――ひゃあん、何処触ってるんですか!」

 

 半ば引きずっていくような強引ぶりで、彼女はカノンをミッションへと連れ出した。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 結論から述べてしまうとミッション自体は成功。事前に言った通り、彼女は自分はおろかカノンにさえも傷一つ負わせることなしに、ヴァジュラを滅殺してのけた。

 

 が、アナグラに帰投した途端、宛然糸を切られた傀儡みたく、台場カノンは意識を喪失。鬱屈を晴らすかの如く、常時の倍近い苛烈さで目を爛々と輝かせながら戦っていた所為もあり、ついに疲労が限界を振り切ったのだろう。安らかな寝顔を浮かべていた。

 

「よっ、と」

 

 そんなカノンをベッドに送り届けると、彼女もまた自室に戻り、布団の上にダイブする。

 別に眠気は感じていない、それどころか今すぐにでも再出撃が可能なまでの、力の漲りがわかる。

 

「血の巡りもようなった。思案を再開するとしようか」

 

 さながら宣誓の如く呟いて、彼女は意識を自己の内海へと埋没させた。己が根幹を見つめ直し、最も納得できる答えを手にするために。

 

(わしにとって絶対に譲れぬものとは何か)

 

 愚問。命を存続させること、これ以外に何がある。

 

(然らば話は簡単じゃ、アーク計画に乗ればよい)

 

 カノンの前では言わなかったが、現生人類の九割九分を見殺しにすることに対して、彼女の胸にはほんのわずかな痛痒も兆してなどいなかった。

 否、痛まない、どころの騒ぎでは済まぬ。

 

 きっと快感があふれるだろう。

 

 その光景に(まみ)えたならば、だ。

 

 力は眩しい。

 殺戮は愉しい。

 罪とはなんと甘美な味か。

 考えてもみるがいい。

 ちょっと以前(まえ)の彼女が仮に世界の破滅を願ったところで、それは所詮負け犬の自慰、仕事に行くのが厭だから職場に隕石が落ちないかなと祈念する、空虚な遊びそのものでしかなかっただろう。

 ところがいまや望みさえすれば本当に(・・・)、天地狂乱の大厄災が発生(おこ)るのである。

 

(わしもエラくなったわい)

 

 社会という、かつて自分を圧し潰さんとのしかかった得体の知れぬ怪物を、いまや逆に組み敷いて首筋に刃を当てているのだ。

 生かすも殺すも胸先三寸。

 

(垂涎、垂涎)

 

 わが身の浮上を実感せねば嘘だろう。人類の運命を掌握(にぎ)るのは、彼女にとって重荷ではなく充足だった。蟲は、弱者は、他人どころか自分一個の運命(さだめ)すら、満足に操作できないのだから。

 数知れぬ運命を弄べるということは、それだけ雄なる存在である証明だろう。選べる(・・・)とは、なんたる贅沢であることか。彼女は心底幸福(しあわせ)だった。

 

(とは、言い条――)

 

 むろん彼女は己を包むエラさとやらが実は自分に由来せず、元を探れば結局は、シックザールの余慶に過ぎぬと理解している。

 

(わしはただ、投げ渡される命に従い、わけもわからずがむしゃらに、作事場で手足を舞わせておった一介の職人でしかない。棟梁は、全体図を引いたのは、あるかどうかもわからぬゴールに鋼の意志で邁進したのは、ヨハネス・フォン・シックザール、彼のみよ)

 

 もっとも彼女の演じた「舞い」は、ふりつけひとつ、指一本の置きどころを違えただけで即座に首が飛ぶという、異常な難度のものであったが。

 

 まあ、それはいい。

 

 とまれ彼女は「理解(わか)っている」と自身に言い聞かせることで、能の奥の熱っぽさ、うぬぼれの酔いを醒まそうとした。

 

 決断は、シラフでするべきだろう。

 

 憂慮すべき要因が、皆無というわけでもないのだ。

 

「ソーマ、サクヤ、アリサの三人。ネックはやはり、ここに収束するわけか」

 

 気付けば口に出していた。

 共に学び、共に笑い共に泣き、戦場から戦場へ、共に死線を駆け抜けた第一部隊の仲間たち。彼らはアーク計画に反対し、その意図を挫かんと画策する側にまわっていた。サクヤとアリサなど既に犯罪者としてフェンリルから追われる身空だ。

 

 アーク計画に乗るというのは、すなわちこの三者を切り捨てること。その決断ばかりは流石に軽々に下すことはできない。見ず知らずの他人の命百万よりも、身近な一人の行く末こそを差し迫った問題として気にかける、ごくありきたりな精神機能がこの破綻者にも存在していた。

 

 特にアリサ・イリーチナ・アミエーラとは肌を重ねて互いの心を伝え合った――何も間違ったことは言っていないはずである――仲なのだ。どうしてこれを素っ気もなしに切り捨てられよう。

 

「しかし、よしんば彼等に同調しても、今度はコウタの願いを砕く悲愴が待っておる」

 

 第一部隊最後のひとり。彼女と日を同じくしてフェンリルへ入隊(はい)った藤木コウタは、アーク計画の全貌を突き付けられるや間髪入れず、はっきり表明してのけている。自分はアーク計画に乗るんだ、と。

 家族への愛に裏打ちされたその決意、よもや覆りなどすまい。

 

「まあ、やはり、な。誰もが等しく納得し、円満に迎える幕引きなんぞ夢物語じゃ。板挟みは避けられぬ。流血が不可避であるならば、わしが採るべきは、ふむ、いっそのこと……」

 

 がちっ、と犬歯を噛み鳴らす。

 しぜんと頬が引き攣って、猛獣の笑みが広がった。

 

「やるかァ」

 

 貪欲になれ、飛躍せよ――と、彼女は己を励ました。

 

「事ここに至れば是非もなし、ソーマ、サクヤ、アリサの三人、無理矢理にでも気絶させてふん縛り、方舟に放り込んでしまおうぞ」

 

 それはまるで癇癪を起こした子供の発想。相手の思いも信念も一切斟酌してやらず、我儘を貫く以外のすべてを念頭から排除した、暴虐の発露に他ならなかった。

 

「失望されはするだろう。蛇蝎の如く憎まれもするに違いない。怨嗟の的になるであろうな。しかしそれでも、喪失よりはいい、喪失よりはッ。生き延びさえしたならば、遥かな未来(さき)で再び道が交わる卦とて、極微なれども確かに残っているではないか」

 

「魂の死」には目をつぶる。

 そのフレーズを、意志の力で思慮からむりやり締め出した。

 どこまでも厚顔に、破廉恥に。彼女は己の粘着性を、ただひたすらに高め続ける。そうだ、諦めてなるものか。絆とは鎖の別名だ。ひとたび紡いでしまった以上、同胞(はらから)よ、断つは容易でないと知れ。

 

「さて、そうなると、ただ漫然と流れに身を任せているわけにもいかんな。わしが直接彼らと対峙し、叩きのめす必要がある」

 

 果たしてそれができるかどうか。互いに勝手知ったる仲間が相手なのである、しかも最悪三対一。

 どう考えても一筋縄ではいかないだろう。場合によっては手加減できず、殺してしまう可能性とてなくもない。

 

「よしんばそうなったとしても、わしのあずかり知らぬ所で死なれるよりかはずっとましじゃて。最後の呼吸(いき)は、この手の中で。ぽっと出の馬の骨には渡さぬよ、例え(ノヴァ)であろうとな。愛は独占を強いるもの、独占の極致は、ああ、畢竟『殺』の一文字か。すべてを奪うということは、すべてを捧げることに通ずる。……捧げてやろう、受け止めてたもれ、いいじゃろう? わしらは仲間であるゆえな」

 

 腹は決まった。

 決まってしまった。

 感情面でも理屈の上でも、これこそ己が歩む道と太鼓判を押せる。

 

「いよし、わしは方舟に――」

 

 乗る、と宣言しかけた寸前で。彼女の総身はだしぬけに、金縛りにでも遭ったが如く、引き攣りそのまま停止した。

 

「ぬ――くっ、は……あっ……」

 

 唇が、舌が、声帯が麻痺して微動だにしない。さっきまであれほど流暢に、あられもない譫言をべらべら喋っていたというのに、この急変はどうだろう。口から漏れるは掠れた喘ぎ声だけだ。

 

(な、何ぞ?)

 

 ほどなくして気がついた。何かが彼女を止めている。

 見えない腕で、肩をつかんで。よせ、よさんかこの救えぬ阿呆めが、ぬしの選択は間違いだぞと、空気を揺らさぬ叫喚を、力の限りぶつけているのだ。

 

(馬鹿な。理はある、この上なく精確に積み上げられた理があるというのに)

 

 なら、それの正体はさしずめ理外の理。第六感、本能に属するものであろう。有り体に言ってしまえば直感である。

 

 いったいこれはどうしたことか。これまで彼女の生命を守るにあたって最大の貢献をなし続けてきた直感が、生き永らえるための決断を阻んでいる。矛盾相克が起きているのだ。

 もし仮に、直感こそを信じるのなら、この現象が意味するのは、つまり――

 

(見落としがあるということか? わしや榊博士はおろか、支部長ですら気付いていない致命的な陥穽が、アーク計画の横腹に)

 

 そう考える以外になかろう。アーク計画など所詮は徒花、実の生らぬ花に過ぎないと。

 脳ではなく、脊髄が叫喚して告げているのだ。

 

 科学的根拠は何も無い。なんの論拠もなしに、ただなんとなく嫌な感じがするのでこれは欠陥品だと思いますなんてふざけているにも程があろう。仮に良識のある大人が聞けば失笑するか、さもなくば激怒するに違いない。

 

「馬鹿も休み休み言え。シックザール支部長の下、最高峰の技術者たちが結集して築き上げたプロジェクトだぞ。一発で土崩瓦解に至る危険性を見逃すなどと、烏滸(おこ)を抜かすのも大概にしろ」

 

 とでも言って。

 良識と本能が激突し、がりがり互いを削り合う。そんな混沌そのものな彼女の脳内風景に、あるイメージが光輝を纏って飛来した。

 

(……シオ)

 

 どこか舌っ足らずな喋り方をする、天真爛漫な純白乙女。なんの因果か、ヒトのカタチを模したアラガミ。その肌のように純粋無垢な心の持ち主であるシオに、彼女も少なからずひきつけられた。

 

 真っ白ということは、見方を変えればどんな色にでも染め上げられるということで。とくれば俄然、教育意欲が湧き上がってくるではないか。その点、シオは非常に呑み込みの早い、煎じ詰めれば「いい生徒」であったゆえ、なおのこと教え甲斐があった。

 

(幼児であったわしを拾った婆様も、あるいはこんな心境だったのやも知れぬ)

 

 シオの頭を撫でながら、そんな風に遠い日へ想いを馳せたりしたものだ。無垢な素材を己好みに変えゆく悦――なるほどこれはたまらない。

 

 だが、そのシオはもういない。シックザールの指示によって連れ去られ、今頃はもうコアを摘出されてしまった後だろう。

 

(あの男は躊躇などすまい)

 

 何故ならシオこそアーク計画における最大最後の鍵だから。終末捕食の起点たるノヴァにあてがう核として、支部長様が血眼になり追い求めたものだから。

 

 口惜しくは、あるけども。

 仇を打ってやりたいとも、思うけど。

 死者に拘泥するあまり命を喪失してしまうような行動が、彼女にはどうしてもできない。 根本的にそんな形になっているのだ。

 

(……ん?)

 

 と、ここで何がしかの引っかかりを覚え、彼女は一旦この思考を中断させた。

 

(待て、待てよ。シオのコアがノヴァのコアに、という事は――そも、アラガミのコアとはぜんたいどのような代物じゃった?)

 

 古びた記憶を掘り返し、コウタやアリサと共に受けた榊の講義へ立ち返る。

 

 アラガミとはカツノオエボシの如き細胞の群体であり、消化器官等の臓器は存在しない。オラクル細胞自体が捕食を行うから不要なのだ。

 このオラクル細胞群の指揮、統制を行いアラガミをアラガミたる形に保っているのがコアである。コアが残っている限り例え体を砕いても、いずれ再びそれをよすがにオラクル細胞が結集し、全く同一のアラガミが復活する。こういうあたり、コアこそアラガミの本体と換言してもいいだろう。

 なればこそ、容易に引っこ抜かれないよう格納されてもいるのだが――いや、ちょっと待て。

 

 本体?

 意志の、心の、宿る場所?

 

「まさ、か――!」

 

 天啓のように、彼女の中を一つの想念(イメージ)が貫いた。

 

(いや、まさかそんな。いくらなんでもロマンティックに過ぎる。まるで前時代の餓鬼共が偏愛した御伽噺ではないか)

 

 ところがどうしたことだろう、その御伽噺こそが真実に違いないと確信する己も確かに存在するのだ。

 

(この想像が正しければ、確かにアーク計画は失敗しよう。その気配が濃厚じゃ。博士や支部長が気付けぬのも道理、むしろ学問に秀でた者ほどこの陥穽には引っ掛かる)

 

 最後と思っていた選択肢、だがその先にはもう一段、更なる選択が待ち構えていた。

 流石にこれ以上はないだろう。これから下すものこそが、真に最終最後の決断。

 現実的な土台のもと、営々と積み上げられた理を信ずるか。それとも直感以外に何も頼るところの無い、女子供の絵空事に飛びつくか。

 

「まあ、愚問よな。こんなのはもう、一六勝負ですらない。踏み外す余地なき鉄板よ、安気して乗らせてもらおうではないか――」

 

 迷う事など欠片もないと、彼女は即決してみせた。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 アーク計画遂行の地、エイジス島が崩壊し、月がかつての地球の麗姿を思わせる、色彩豊かな天体へと変貌したのは数日後のことである。

 この結果から、彼女がどちらを選択したのか、答えはおのずと察せよう。

 

「かくて人は相も変わらず穢れた大地にへばりつき、目には映れど届くことなきかの楽土へと胸を焦がし続けるか。それもよかろう、悪くない。少なくとも、見えるようにはなったのじゃから。一歩前進というものよ。こうして足掻き続けておれば、いつか真っ当な手段で以って、なんら気兼ねする要もなくそこへ行ける日が来るやもしれぬ。いやさ、待ち遠しい限りじゃて」

 

 彼女が歩みを止めることはない。誰よりも泥臭く、臆病で、そして真摯な生き方を、これからもずっとずっと続けるのだろう。

 

 アラガミの屍骸で出来た山。月光を浴び、歪な影を、輪郭を、地に投射する頂上で、それを築いた咎人は、神を斬獲せし者は、静かな微笑を浮かべつつ、自慢の牙を愛撫した。

 

 

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