秋沢愁、19歳。今は大学に行きながら家庭教師をしている。
俺の今日からの担当は森本さんという人。高校2年生で、来年控える大学受験へ向けた指導をお願いしたいらしい。
俺がやってる家庭教師は、時給2000円と、家庭教師の会社で比べると平均、バイトで考えるとかなりいい時給だ。それに、今回の森本さんの場合は特殊で、金曜~日曜の週3日、金曜は90分、土日は180分の予定が組まれていた。これで週給9000円、月給約2万7000円。
あとはもう1つの家庭を兼任(毎週土日、それぞれ120分)しているため、これと合わせて月給は約4万8000円。土日たった300分働き、金曜90分働くだけで4万8000円も稼げれば上出来だ。あとは月曜~木曜19時~23時のスーパーのバイトを入れる。スーパーのバイトが時給1080円で、週給4320円、月給は約1万3000円。合計で月給6万1000円。
週5でスーパーのバイトをやっても週給5400円、月給1万6000円なのもあり、結構稼いでいる。
仕送りもあり、1ヶ月の生活は賄えているし、1ヶ月に数千円程度貯金もできるほどの余裕もある。
土曜、俺は森本さんの自宅に向かっていた。女子高生相手らしいが、どんな性格だろうか。ここまで約20年間女子とほぼ関わりが無かった俺には重大な事案だった。
俺の自宅は南武線の中野島、大学が根岸線の港南台、森本さんの自宅が南武線の武蔵中原の徒歩5分圏内だったため、交通費はかからなかった。
予約の時間は10時。中野島9:30発の各駅停車で登戸、快速に乗り換えて武蔵中原には9:50に到着。
家に9:55分過ぎに着き、俺は外のインターホンを押した。
(大丈夫か……ギャルとかじゃ、ないよな?)
ギャルは少し苦手だ。ギャルじゃないといいが……
「家庭教師ですか?」
「はい、今日から担当させていただく秋沢です」
しばらくして、ドアが開いた。
「初めまして、母の森本
出てきたのは、アイドルかも思うくらいのかわいらしいお母様だった。
「こんにちは。今日からよろしくお願いします」
「外も暑いですので、どうぞ、中へ」
「すいません、失礼します」
俺は家の中に入る。
俺は椅子に腰を掛け、俺の生徒の紹介をお母様がしてくれる。
「この子です」
お母様が連れてきたのは、黒髪のロングヘアがよく似合う、見るからに素直そうな子だった。
「は、はじめまして……森本
凪紗ちゃんは緊張しているのか下を向き続けている。
「はじめまして。緊張しなくていいからね、凪紗ちゃん」
俺は優しく声をかける。すると、凪紗ちゃんはビクッと震えて、顔を赤くした。
「あら?どうかしたの、凪紗」
「あ、あう……うぅ……」
声が出ていない。
「大丈夫、かな?」
凪紗ちゃんは椅子に素早く座った。緊張しすぎてる、だけだよな。
〈森本凪紗〉
今日から家庭教師が来るらしい。それも前日になって急に言われた。
「もうそろそろ来る頃ね」
「むぅ……要らないって言ったのに」
前々から家庭教師は要らないという話はしていた。ただ、1学期期末考査で点数が落ち、家庭教師を呼ぶことにしたらしい。
ピンポーン
インターホンが鳴った。もう腹を括るしかない。
家庭教師を嫌ってる訳ではない。そういう訳ではないが、家庭教師には話しにくい、自分の話を聞いてくれないようなおじさんが多いイメージがある。偏見だが、そういうイメージが拭えない。
お母さんが家庭教師を入れてきた。どうせ話を聞いてくれない、頭の固いおじさんだ。
「は、はじめまして……森本凪紗、です」
「はじめまして。緊張しなくていいからね、凪紗ちゃん」
声は若そうで、優しそうだった。私はゆっくり家庭教師の方を見る。
かっこいい。第一印象がそれだった。顔が熱くなり、身体がビクッと震えた。
「あら?どうかしたの、凪紗」
「あ、あう……うぅ……」
声が出ない。今日からこの人と2人きりの時間ができるんだ。
「大丈夫、かな?」
私は慌てて椅子に座った。
現実「緊張しすぎないでね。これから一緒に勉強するんだし」
凪紗の脳内「緊張しないでね。これから2人きりなんだから」
あぁ、2人きりになっちゃうんだ。えへ、えへへ~……
「よ、よろしくお願いします!」
「うん、よろしくね」
私と先生は早速勉強をするために部屋に行った。先生と一緒……なんだよね。
《秋沢愁》
いつもだったら、ひたすらやらせるのだが、今日は1問終わったら答え合わせを行う。そうすることでできてる実感を感じさせるのだ。
「なるほど、ここは苦手なんだね」
「はい、よく分かんなくて……」
だが、今この場で手元で教えても分かってもらえる気がしない。そしたら、やはり今教えるのは得策ではないか。
「じゃあ次回教えようか。今日はこの10問解いて解説したら終わりにしよう」
まだ2時間半しか経っていないが、時間を稼ぐしかない。
問題はすぐに終わった。解説も20分で終わり、結局15分ほど余った。
「時間余っちゃったな。凪紗ちゃんは何かしたいことある?」
すると、凪紗ちゃんは俺の手を握ってきた。
「なんか、何でもいいので話したいです……」
凪紗ちゃんの手は俺を離すことをしなかった。
「何でもいいか……だったら、凪紗ちゃんの学校での様子聞きたいな」
「私の、ですか?」
「うん。どんな感じなのか聞きたいなって」
俺がそう言うと、凪紗ちゃんはゆっくり話し始めた。
「けど、そんなに面白くないですよ?普通の高校生ですし」
「あれ、そうなの?」
俺がふざけ混じりでそう言うと、凪紗ちゃんは顔を赤くして言った。
「どう思ってたんですか!」
「あはは、冗談だよ。普通だと思って聞いてるから」
凪紗ちゃんは頬を膨らませた。
「むぅ……あ、友達からは天然って言われます。自覚はないんですけど」
まぁ、その友達の言うことも分かる。十分天然に思える性格してるよ、凪紗ちゃんは。
「無自覚の内が一番天然なのかもね」
「先生もそう思ってるんですか!」
おっと、少し口を滑らせたか。
「おっと、ノーコメントだ」
「なんでですか!教えてくださいよー!」
凪紗ちゃんが俺の身体に密着してくる。俺の胴体に柔らかい感触が伝わってくる。
「ちょっと待って、凪紗ちゃん。この体勢じゃ見つかったらまずいんじゃないか?」
「え?」
凪紗ちゃんはようやく今の状況に気付いたらしく、いくら天然でも見られたらまずい、ということは察することができたらしい。まぁ、そうだよね。
「ご、ごめんなさいっ!」
「別に謝る必要はないけど、見つかってもいいんだったらあのままでもよかったんだよ?」
「揶揄わないでください!」
朝俺と会う時みたいに緊張した様子はすっかり無くなっていた。というか、本当に緊張してたのか?全く今はそんな様子ないけどな。
初日が終わり、俺は次の担当の家に向かった。明日も凪紗ちゃんのところには行くが、なんか楽しい家庭だな。なんか毎日が楽しみだ。
しばらく経った夏、俺の大学もかなり長い夏休みに入り、次の登校日は10月といったところで、俺はもう1人の担当と相談して家庭教師のバイトを水曜と木曜にシフトした。これで水曜~日曜に1人ずつになってくれた。俺の疲労も少なくなる。
〈愁先生、暇ですか?〉
凪紗ちゃんからのメッセージ。先週行ったときに交換したのだ。
〈どうかした?〉
〈暇だったので〉
時刻はもう夜11時を過ぎていた。こんな時間に連絡なんて、夜更かしな子だ。
〈そうか?あんまり遅くまで起きてると身体に悪いぞ〉
〈まだ日付変わってないので大丈夫ですよ〉
まぁ、高校生なんかそんなもんか。と思いつつ、俺は凪紗ちゃんとのやり取りを始めた。
気付けば日付が変わり、0時を少し過ぎた時間だった。
〈もう夜遅いな。そろそろ寝るか〉
〈はい。おやすみなさい、先生〉
凪紗ちゃんとのやり取りが終わった。こんな夜まで何をしていたんだろうか。
7月半ば、俺は車で少し寄り道をして帰っていた。バイトからの帰りで、今日は昼間で終わる日だった。学校の前を通ると、みんなの下校の時間だった。
(そうか、高校生は今ぐらいが学期の終わりか)
俺はある有名な高校の前を通り、そのまま帰っていると、歩道を集団で歩く高校生の前で、ただ1人で歩いている子を見つけた。
(周りと一緒に帰らないのか?)
そう思っていると、ちょうどその子は目の前の横断歩道を渡ろうとしていた。俺は車を止め、先にその子を通した。
(あれ、あの子……)
俺は窓から顔を出し、その子を呼んだ。
「あれ、凪紗ちゃんだよね?」
呼ぶと、凪紗ちゃんは俺の方を見た。
「愁先生!」
すると、後ろの集団が凪紗ちゃんにかなり強い力でぶつかった。
「すみません!」
集団は凪紗ちゃんに謝った。悪気は無いみたいだし、問題ないか。
「凪紗ちゃん、乗ってく?」
「いいんですか?ぜひ!」
凪紗ちゃんは俺の車に乗る。
「誰とも帰らないの?」
「今日は友達が部活で。なので私だけ先に帰ったんです。愁先生は?」
「バイトの帰りだよ。昼で終わったからさ」
なので私だけの学校での姿とまではいかなくとも、どんな生活を送っているかは何となく分かった。
「忙しくないんですか?」
「そんなには。というか凪紗こそもう暇だろうに」
「そうですね、もう学校も終わっちゃいましたし」
学校が楽しいと思えるだけ、ずいぶん充実した学校生活を送っているようだ。
凪紗ちゃんの家で降ろし、俺は次に来る日を約束してから家に帰った。
凪紗ちゃんは楽しそうだった。高校生活が満喫できていそうだった。有名な高校なのもあるんだろうか。
(きっと凪紗ちゃん自身も凄いんだよな)
このとき、凪紗ちゃんの悩みを俺は知らなかった。
夏休みも半ばに入ってきた8月、俺はいつも通り、凪紗ちゃんの家に行き、勉強を教えていた。だが、凪紗ちゃんの様子はいつもとは違っていた。いつもより殺気立っているというか、他を寄せ付けない何かを感じる。
「凪紗ちゃん、そろそろ休憩でもとらない?」
「……」
黙ったまま勉強に打ち込んでいた。たった来ていなかった1週間のあいだに何があったんだろうか。
俺はその真相を知るべく、お母さんに話を伺いたかった。俺は部屋を出て、リビングのお母さんと話をした。
「すいません、今お時間よろしいですか」
「えぇ、構いませんよ」
俺は凪紗ちゃんのことを聞いた。
しかし、お母さんも心当たりは無いようだった。
「本気になるのはいいことですけど、そんな……」
お母さんも心配そうだ。
「ですが、今このことを打ち明けると深く傷ついてしまうと思うんです。熱中している今だからこそ」
俺がそう言うと、お母さんも賛同してくれた。
「そうですよね、ただ落ち込んでも困りますし」
「なので、過保護にならない程度で悩みを聞いてあげるのが最適かと」
お母さんは悩んだ。
「どうかしましたか?」
「あの、実は凪紗、結構悩みを話す性格じゃなくて。自分で抱え込んじゃう子なんです」
抱え込む子だったか。けど、微かにそんな感じもする。そうなると、かなり厳しいかもしれない。俺は1つ、事例を知っていた。
周りからの過度な期待や模試等の結果の下落から、メンタル面が不安定になり、最終的に自分で手首を切ってしまった子がいた。俺の最初の家庭教師としての担当だったその子は、1度こそ回復したものの、入院中の期待も悪化させてしまい、退院してすぐ、俺の目の前で、
ビルの8階から。当然、助かるはずもない。高さは余裕で20mを超える。もう、目の前から姿が消えたときには遅かった。
遥か下の地面から、グチャ、バタン、ドン、と入り混じった音が聞こえた。俺はその時、生徒を亡くしたのだ。俺の期待もあったんだろうか。そうだとしたら、俺のせいで死んでしまったとも言える。
もうそうはなってほしくない。その一心から、期待はし過ぎ無いようにしたのだ。凪紗ちゃんが、亡くなったら……考えたくもない。
「そしたら、今は放って置く形にしましょう。しばらくは凪紗ちゃん自身に任せます」
「でも、もし病んじゃったりとかしたら……」
「大丈夫です。俺に任せてください」
そのあとは凪紗ちゃんにただ勉強を教え、心配している様子は見せないようにした。
8月の盆休み。お母さんから凪紗ちゃんの様子がおかしいと聞き、家庭教師の予定のない日だが凪紗ちゃんの家に駆けつけた。
「どうしたんですか、お母さん」
「今日の朝から凪紗、自分の部屋で定期的に叫んだりしてて……呼んでも出てこないんです」
放置しすぎたか、もうメンタル面が不安定になってきてしまったのか。こうなったら、もう一か八かしかない。
足は少し重かったが、俺はその動きづらい足を無理やり動かし、凪紗ちゃんの部屋へ向かった。
凪紗ちゃんの部屋の前で、一度凪紗ちゃんに声をかけてみた。
「凪紗ちゃん!俺だ、愁だ」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
凪紗ちゃんは必死な声で叫んでいた。
「ドアを開けてくれないか。一緒に話をしよう」
「無理です!もう無理なんです!」
俺は取り乱すことなく、冷静な声で声を掛ける。
「一度話をしよう。その理由も聞いてあげるよ」
「結構です!もう放っておいてください!」
非常によろしくない状況だ。無理に引きずり出すことも体力差の関係で可能だろうが、もうするとまた、あの時みたいなことが起こりうる。
「放っておけないよ。俺は君の、君だけの先生なんだ。悩みは聞く。だから、開けてくれないか。いるのは俺だけだ」
そう言うと、凪紗ちゃんは何も反応しなかった。
「凪紗ちゃん、落ち着いたかい?」
俺がそう言いかけると、凪紗ちゃんはドアを開けてくれた。
「入っていい?」
凪紗ちゃんはこくりと頷いた。俺は凪紗ちゃんの部屋の中に入った。
凪紗ちゃんの部屋の中は凍えるほど寒かった。夏なのに、この部屋だけが寒かった。凪紗ちゃんは掻きむしった跡なのか、顔は至るところに切り傷があり、髪もボサボサだった。
「何か悩み事があるのか?」
「……もう、諦めたいんです。受験」
凪紗ちゃんはそんな事を言いだした。
「どうして?」
「私、自分自身が好きになれないんです。ミスは多いし、1回間違ったのもまた間違えるし」
凪紗ちゃんはもう自暴自棄だった。
「もう嫌なんです。だから、だから……」
俺はそんな凪紗ちゃんに言った。
「自分を好きになれるやつなんて、まずいない」
凪紗ちゃんは驚いた様子で言った。
「ミスが多い、2度間違う。それが人間なんじゃないか?もしミスをしない、2度間違えないのならば、それは人間じゃない」
俺はそのまま続けた。
「凪紗ちゃんが見ればいいのは自分じゃない。凪紗ちゃんを見ればいいんだ」
「凪紗ちゃん、って、自分じゃないの?」
「凪紗ちゃんが今見ているのは偽りの自分。完璧になりたいだけの、偽り。見ればいいのはそうじゃない。真実の自分、それが凪紗ちゃんだ」
凪紗ちゃんはじっと聞いている。
「偽りを見てどうする。偽りで自分を覆いたいか。そうじゃないだろう?」
凪紗ちゃんは頷いた。
「凪紗ちゃんは凪紗ちゃんであれ。偽る必要なんてない」
「でも、真実の私っていうのが、ミスをしないっていう人じゃないの?」
俺はそんな凪紗ちゃんに答えた。
「それは真実じゃない。頭の中にいる理想の凪紗ちゃんだ。こうなりたい、こうじゃないといけない。そういう理想。でもそうじゃない。凪紗ちゃんが見なきゃいけないのはありのままの自分。理想なんて関係ない」
凪紗ちゃんはうつむいたままだった。
「ありのままの、私……」
凪紗ちゃんは少し涙を流し始めた。俺は凪紗ちゃんの頭を優しく撫でた。
「怯えないで。みんな凪紗ちゃんの味方だよ」
俺は凪紗ちゃんの背中を優しくポンポンと慰めた。少しずつ、凪紗ちゃんは落ち着きを取り戻し始めた。
それからは、俺とお母さんで協力して、あまり負担をかけず、間違ったところを大きく意識させないようにした。それに加えて、2週間に一度、リフレッシュのために俺と凪紗ちゃんで遊びに行くようにもなった。
今日はその遊びに行く日。勉強のことは一度すべて忘れて、とにかく俺と凪紗ちゃんで楽しむ。今日来ていたのは遊園地。凪紗ちゃんがジェットコースターとお化け屋敷を克服したい、とのことだ。なんか克服したいものがかわいい……
「せんせ!最初あれ行きたいです!」
凪紗ちゃんが俺を呼ぶ。凪紗ちゃんの先にはコーヒーカップがあった。うん、やっぱりかわいいわ。
「いいよ。行こう」
俺は凪紗ちゃんと一緒にコーヒーカップに乗った。
いつもは机に向かっているからか凪紗ちゃんが俺と一緒にいるときに笑うことはあまりない。なのに、今日はずっと笑っている。うれしい。
「先生、私、気づいちゃったんです」
「ん?何に?」
凪紗ちゃんは俺の手を握って、コーヒーカップの中で俺の向かい側に座った。
「先生のこと、私、好きなんだなって」
凪紗ちゃんは俺のことをじっと見つめる。
一瞬何を言われたのか分からなかったが、少しずつ分かってくる。俺はさっき、告白をされた。自分の生徒に。
「えっと、好きって、俺を?」
「そうです。あ、もちろん異性として」
さらなる告白。これは断るわけ無いだろう。
「ありがとう。でも、担当の家庭教師と付き合うとかはできないからね?」
「じゃ、じゃあどうすれば……」
「3月まで待ってくれれば、ね」
3月になれば俺は凪紗ちゃんの担当から外れる。そしたら、担当の生徒と付き合っていることにはならない。
「分かりました。3月まで待ちます」
凪紗ちゃんとの関係は、それまで維持ということになった。3月になって、どうなるかはその時次第だ。
10月、凪紗ちゃんの家庭が急遽引っ越すことが決まった。どうも身内の方が亡くなってしまった関係らしい。そしてその家の近くに引っ越すことになってしまった。それと同時に俺との家庭教師の契約は終了。結局、3月になるまで待っているまま、俺と凪紗ちゃんの関係は終了した。
凪紗ちゃんの家庭は遠くに引っ越したらしく、転校もしたらしい。そう凪紗ちゃんから連絡が来た。
(そうか、凪紗ちゃん、引っ越しちゃったか)
空虚感でいっぱいになった俺は、しばらく調子が悪かった。大学に行ってもどこか魂が抜けたような感じがしているし、友人からも
「どうしたんだよ、愁。なんかボーッとしてるぞ」
と言われていた。
家庭教師のバイトもやっていけなくなり、俺は家庭教師のバイトを辞めた。スーパーのバイトのみになり、バイトの給料も若干落ちた。
「まずいな、このままじゃ生活もまともに過ごせなくなる……」
凪紗ちゃんのことを考えすぎていたからだろうか。だとしても、俺に原因があるわけだし、凪紗ちゃんに罪をなすりつけるわけにもいかない。
「なんとかして、給料を戻さないと……それで凪紗ちゃんのことも忘れないと」
俺はそれから過労死寸前までバイトを詰め込んだ。スーパーのバイトに加え、飲食店、テーマパークのバイトを多くて1日3つ、週7で働き始めた。いつの間にかバイト以外を考えられなくなり、もう10月のことなんか何も覚えていなかった。
4月初頭、俺は深夜の0時半過ぎに家に着いた。武蔵中原行き最終で帰ってきたため、もうクタクタだった。明日も朝7時には家を出なければならない。
「明日も朝早いからな……」
俺はその場で寝ることにした。
翌朝、俺は家を出て武蔵中原のスーパーのバイトに行った。今日は12時までやったあと、14時から川崎で飲食店のバイトだ。
「あ、いたいた。先生っ」
俺の後ろから声がした。
「俺のこと?」
俺が聞き返すと、その子は頷いた。
「そうですよ!4月になったので会いに来たんです!」
その子は元気に俺に言った。だが、俺と会う約束なんてしてた人はいないし、ましてや4月に会うことを限定しているなんて、一体どんな約束だ。
「えっと……誰かな。君、見た感じ高校生だろう?俺、高校生と仲が良かった覚えなんてないんだ。多分人違いじゃないかな」
その子は落胆したように動きが止まった。なんだろう、そんなに大事な人だったんだろうか。
〈森本凪紗〉
福岡に引っ越してから何か月か経ち、4月になった。私は1人で飛行機を使ってもともと住んでいた武蔵中原に行った。ある人に会うために、ある人と"付き合うために"。
武蔵中原の駅に着くと、奇跡的にお目当ての人が目の前を通り過ぎた。私はその人の後を追いかけて話しかけた。
「あ、いたいた。先生っ」
私は背後から先生に声をかけた。確かに先生だった。
「俺のこと?」
私はうなずいた。
「そうですよ!4月になったので会いに来たんです!」
私がそう言うと、先生は悩んだような素振りを見せた。たしかに顔も、声も先生と同じだけど、どうしたんだろう。
「えっと……誰かな。君、見た感じ高校生だろう?俺、高校生と仲が良かった覚えなんてないんだ。多分人違いじゃないかな」
先生はそう言った。私のことを、もうすっかり忘れていたのだ。私は全身の力が抜け、地面に崩れ落ちた。
「大丈夫か?何か飲み物とかいるか」
先生は本当に忘れているようだった。
「……家庭教師、やってますよね?」
私はそう聞いた。すると、先生は答えた。
「え?まぁ、今は辞めたけどね。でも、そうしてそのことを?」
家庭教師を、辞めた?でも、やってたんだったら覚えてるはずなんだけど。
「担当してた人、覚えてますか?」
「女子高生2人だったな。あまり覚えてないけどね」
それすらも覚えてないなんて、なんで忘れちゃったの……3月まで待って、って言ってたのに……
「もう、いいかな。俺もバイトがあるんだ」
「待ってください!まだ、まだ……!」
私は先生の袖をつかんだ。絶対、思い出してほしい。だって、そうでもしないとここまでしてきた意味が、全部なくなっちゃうから。
「だったら、18時まで待っててくれ。18時になったらまたここの駅に来るから」
先生はそう言って私の手を引き離した。
先生はそんな性格じゃなかったのに。もう、変わり果てていた。私の知ってる、先生じゃない。
私はまた1人で駅の近くにあったベンチに座った。ここで半日くらい待てば、先生はここに来てくれる。そうすれば──
そうすれば、なに?もう先生は私を覚えてないのに、その先に何が待ってるっていうの?もう、なにも待ってないに決まってる。今までの私の成果は、何もない。
(帰ろうかな……あ、お金、ないや……なんで、私……)
18時、私の前に人が立った。
「ちょっと、寝てるのか?」
先生だった。でも、もうどうでもいい。
「すみません……」
「俺が忘れてるだけかもしれない。帰ればわかるかもしれないし、ついてきてくれ」
先生は私の手を引いていく。
先生の家に着くと、先生はパソコンを開いて私に画像を見せた。
「これが俺が家庭教師をやっていた時の写真だよ」
「そう、ですか……」
続けて、先生は話し始めた。
「バイト中に思い出してみたんだけど、俺が家庭教師を辞める前に、引っ越していった生徒がいた気がするんだ。でも、その名前が思い出せなくてね」
ちょっとずつ、私に近づいてきたかもしれない。そんなわずかな望みを胸に私は聞いてみた。
「その子のこと、どう思ってました?」
「え?どう思ってたって……う~ん……」
先生は今までよりももっと悩んだ。今だったら、何か画像を見せれば思い出してくれるかもしれない。私は先生と一緒に撮った写真を探した。
「あっ!」
私はあの時、遊園地で一緒に撮った写真見つけた。
「先生、これで思い出しませんか!」
先生はその写真を見て、じっくり考えた。
5分くらい考えて、先生はふと言葉を漏らした。
「凪紗……」
私の名前を呼んでくれた。
「そうです、凪紗です!」
「凪紗……凪紗……!」
先生は私の手を握った。
「凪紗!」
「はい!」
先生は私を優しく抱きしめる。そうだ、これが私の知っている先生だ。
「凪紗か!ごめんな、忘れちゃて」
「いいんです!私、先生の返事を聞きに来たんです」
私がそう言うと、先生は言った。
「もちろん、付き合おう、凪紗」
「……!」
私は嬉しかった。とにかくうれしくて、私は先生に飛びついた。
「はい!」
それから4年、私は大学3年生、先生──愁は社会人となり、社会人1年目で頑張って働いている。
生活はというと、愁が福岡に引っ越してくる形で、私と愁は同居を始めた。アパートで2人仲良く暮らしている。
愁もどうやらかなり環境の良い職場に就けたらしく、有給も気楽にとれるし、給料も初任給が22万と、福岡県内でいえば全然悪くない給料。
しかも、私が何より嬉しいのが、帰って来る時間。早すぎて毎日17時とかに帰ってこられても、私のほうが遅いことが多いのだが、毎日ほぼ18時半前後に帰ってくる。毎週水曜日が定時退社の日らしく、水曜日は18時に帰ってきている。今日は木曜日。18時半くらいに帰ってくることだろう。
「ただいま〜」
そんなことを考えているとちょうど愁が帰ってきた。
「おかえりなさい。ごめんね、まだご飯できてなくて……キャッ!」
愁は私のことをハグしてきた。
「全然大丈夫。凪紗と一緒に食べれるなら」
キュンってしちゃいそう。というか、実際した。毎日こうされるんだけど、毎日キュンってしちゃう。
「分かった。じゃあ、しよ?」
「あぁ、いいよ」
キスする。ここまでが毎日帰ってきてからのルーティン。
「じゃあ、待ってるね」
「うん」
愁はシャツを脱ぎ始めた。肌着の状態になるんだけど、愁の身体がまたいい。マッチョみたいなムキムキじゃないんだけど、お腹周りがキュッとしてて、腕も少し筋肉があるような感じで、逞し
い。もうその状態で抱きついちゃいたい。
「どうかした?」
「あ、ううん、なんでもない」
きっとその状態で抱きついたらもう料理なんか作っていられなくなっちゃうし。
毎朝、私は愁の弁当を作る。大学生なのにそこまで、と言うかもしれないが、愁にはなるべく楽してほしい。それが私にも繋がるかもしれないし。
「じゃあ、行ってきます」
愁が荷物を持って家を出ようとする。
「行ってらっしゃい。気をつけてねっ」
愁は家を出ていく。あとは大学に行くだけ。今日は9時半に家を出れば間に合う。
「さて、愁の写真でも見よっ」
これで今日の学校も頑張れる。
「あれ?この袋……」
なんかこの時間にいつも見ない袋。でもいつも触ってる。って、これ……!
「お弁当!」
私は急いで着替えて、家を飛び出した。駅までは徒歩5分。まだ愁も電車に乗ってないはず……!
駅まで走った。改札の前に愁はいなくて、私は改札の中に入った。もう改札通っちゃってたのかな。もしかして、乗っちゃってる?
私は階段を駆け下りてホームにたどり着く。愁はどこにいるんだろう。
と探していると、駅の放送で次の電車がやって来ることがホームに鳴り響く。5分遅れていた電車がもうすぐ着くらしい。
「あっ!いた!」
愁が並んでいるのを見つけた。電車が来る前に渡さないと、愁もお腹すいたままになっちゃう!
「愁、お弁当!」
私がそう言うと、愁は驚いた様子で私の方を振り向いた。
「凪紗!?」
「お弁当、忘れてたよ」
私がそう言うと、愁は私の頭を優しく撫でて言った。
「ありがとう。ごめんね、こんな苦労かけて」
「えへへ〜、大丈夫だよ。気をつけてねっ♡」
それと同時に電車のドアが開く。私は乗る人達に巻き込まれないように列から抜けようとする。しかし、もう思ったときには遅かった。乗る大量の人に私は押され、押しつぶされるようにして電車の中へ入らされてしまった。
「大丈夫?凪紗」
幸い、知らないおじさんとかとくっついているわけではない。すぐ目の前には愁がいたし、反対側のドアまで押されちゃったから愁が私の壁になってくれていた。
「ごめんね、愁。こんなことに……」
「凪紗は悪くないよ。とにかく、空いた駅で降りないとね」
次は桜坂。まだ人はいっぱい乗ってくる駅だ。しばらく降りれないかもしれないな。
「むぎゅぅっ」
駅につくと愁に押しつぶされちゃった。愁も腕に力をいっぱい入れて守ってくれてるんだけど、それも虚しく押されちゃってるみたいだった。
「苦しいよね。ごめん」
「大丈夫……愁に押しつぶされるんだったらご褒美だよ……」
ちょっと苦しいけど、それよりも愁とずーっと密着してられるから嬉しい。
「……そうか」
愁は笑いながらそう言った。