「……まりさ。何してんの」
午前四時、二人で郷じゅうを飛んで回ったその日の明け方だった。霊夢は布団でぬくぬく夢を見ていたところにいきなり叫び声が飛び込んできて、寝直せないくらいには目が醒めてしまったところで、魔理沙が箪笥の小瓶をいじっているのを月明かりで見た。
声に応じて魔理沙の手が止まる。
「何してんの。それ。わかってるでしょ」
痛み止めのフェンタニル速溶錠。強烈な麻薬。
「……わかってるなら、心配ないだろ」
「どこも悪いところないじゃない」
「っ、わかったような口聞かないでくれよ。こういうときはさっさと寝ちまうのが一番いいんだ」
慌てて小瓶を取り上げる。
「だめ。どうせ使う量増えてくんだから」
「こいつの依存性なんて知れてるだろ。返せよ」
「やっぱわかってなかったのね。……あんた、最近夜中に泣かなくなったでしょ」
泣いているのがばれていることに気づいていなかった。
「何、言ってんだ」
「泣けなくなってんのよ、あんた」
「返せよ、今日くらい良いだろ」
「……だからバカって嫌いなのよ」
唖然としていた。天才肌の霊夢にいつも追いつこうとして、追い越そうとして、今の今まで並々ならぬ努力を重ねてきた。それでも埋まらない能力差を霊夢は一度だって口にしたことはなかったし、だからこそ魔理沙は霊夢と対等にやっていけていると、時に思い込むことで自分を落ち着かせていた。なのに今、よりによってトラウマと不能感の悪夢に情緒をめちゃくちゃにされている今、面と向かって、突き放された。
「あんまりだろ、そんなの。私がバカだってこと、前からわかってたんなら、わかるように逐一説明してくれよ。変な言い回しばっかりしてさ、それで私なんかが天才さんの言う事理解できると思ってたのかよ」
「魔理沙」
「霊夢っていっつもそうだ。私が何日もかけて何かやってる横でその場で追い越しちまう。バカで不器用で愚直なのわかってて見せつけてたのかよ」
「一日だけよ」
小瓶を差し出す。
「夜中に何か考えたってろくなことにならないわよ。明日話そう」
「……、」
「私だって何でもできるわけじゃない。現に私のせいで今魔理沙を傷つけた。ごめん。寝よ、私も飲むから」
目が醒めたのは昼だった。恐ろしいほどに整った霊夢の寝顔を見せつけられている。そういえば同じ布団で寝たんだった。
結局今も嫌な気分は変わらず胸の中にいる。どうしてこんな醜い自分なんかがよりによって霊夢と同じ床についているのか。逆立ちしたって霊夢に勝る部分はどこにもなかった。
霊夢は孤児で、魔理沙は人間の風上に決して置けない腐りきった両親がいた。でもそのせいで今の歪んだ自分がここで腐っていて、そんな親がいなかった霊夢がこんなにも順調に育ってしまっている。結局親がいてもその影響は親次第で、魔理沙にとってむしろ孤児であるほうがずっと魅力的だった。
先に起きた方が朝食(昼食)の準備を始める。霊夢の起床時間は日によってばらばらで、日の出前に境内の掃除から炊事まで終えていることもあれば、夕方に起きてきてまたすぐに寝直すこともある。今日は魔理沙が作る。
「おはよ」
ちゃぶ台に並ぶ二人分の食事を囲む。
「昨日は言葉が足りなかった。……、何度も言うけど、これは私が天才さんじゃないどころか、たった一人にすら正しく物事を伝えられない、愚鈍だからよ」
霊夢は自らの過ちを認めた。魔理沙は認められない。自分も同じ愚鈍さによって、なんの事情も知らない霊夢に対し、投げやりな物言いをした。内心ではわかっているのに、どうしても喉から出てこない。さらに霊夢は、そこまで見通していて、あえて追及しなかった。
「……もう随分前になるな。霊夢と出会って、初めて、居心地がいい人ってのを知った。どうあがいても肩を並べられない人ってのも」
魔理沙は霊夢がこれを聞きながら考えていることを知らない。霊夢は箸と口を動かしながら同時に様々な思案を巡らせられる人で、自分はできない人だった。
「私の少ない人間関係の中で、いつも自分と同じ方向に進んでくれる人って、霊夢しかいない。だからいつも霊夢の隣に私がいて、私の隣に霊夢がいる。それで、肩はいつまで経っても揃わない」
「……」
「霊夢って器用なんだよ。撃ち合いで機転が利くだけじゃない。私が何日もかけてできた閃きを、掃除のさなかに思いついちまう。そりゃ、追いつけないわけだよ」
「私はそんな卑屈でどうしようもない魔理沙を見たくて一緒にいるわけじゃないわ。……魔理沙って、そんなことで夜中に叫びだすような人じゃないでしょう。どんな夢を見たの」
思い出すだけで胸がむかむかする。未だ消化できていない、大きな癌が、頭を何年も締めつけている。
「いつも……同じような夢を見る。何もできないんだよ。夢の中で。叫ぼうとして出た声はかすれて誰にも届かないし、どっかに行こうとしても、振り向くとまた元の場所に戻ってる。もどかしさで頭ん中がいっぱいになってどうしようもなくなるんだ。それで、……あの……お、とうさ まが…… 言わなきゃだめか?」
「地位を笠に着たクソ野郎だって言ってたわね。いいわ」
「寝てるとどうにかなっちまいそうなんだよ。あれ飲めば、夢なんか見なくていいんだ」
「その使い方、常習を前提にしてるでしょ。薬を使うにしたって、魔理沙に必要なのは麻薬じゃないわ」
「嫌なこと全部忘れられる魔法の薬でもあるのかよ、それこそ麻薬や覚醒剤のたぐいだろ」
「少なくとも長期戦の対症療法にこれを使うのはだめ」
「……なんで。なんで真剣なふりするんだよ。他人のことだろ」
他人。突き放すような言葉に霊夢は言葉を見つけられなかった。
「他人?」
「言葉尻とらえないでくれよ、他人ってのは…… 自分以外だ」
「……、……そう。ほんとに悪かった。魔理沙は自分以外のことなんか考える必要ないって教えられてきて、……私もそう感じさせてたのね」
「なんの、話だよ」
「こんなに、人の両親を恨んだことってないわ」
ある調剤薬局の一人娘として育った。はなから局を継がせる気で育てられた。
その時は調剤なんかに興味はなかったが、母は薬局の次代としてしか魔理沙のことを見ておらず、「あなたは優秀なんだから」との言葉を置いて、二言目には何をすべきか指示をしてくるばかりで、親として認識したことはなかった。
客や卸業者との会話や処方は身近だったので、仕事に興味はなかったものの、父のことは能力において尊敬している部分があった。
父が向けた目は、次代としてだけではなかった。
十二のある晩。
「……お父様?」
自室の布団で、
「えっ」
その日から、父への畏れは、恐れに変わった。
長らくは、ただされるがままでいた。歯向かえば心の傷だけでは済まなかったから。
ある日、この家に甘んじている必要はないことに気がついた。
父の影響は広きにわたっていて、里からは出るほかなかった。
森の空き家に棲みつくことにした。
皮肉にも父譲りの口で、妖怪は手玉に取ることができて、食べられそうになることはあまりなかった。
それから初めてできた仲間が、里の外で唯一顔を知っていた、決まって初詣をする博麗神社の巫女だった。
「りんご。初めて会ったとき、あんまりみすぼらしかったから。まだ受け取れないわけ」
ちゃぶ台越しにりんごを差し出す。
「!!」
魔理沙が口を押さえながら縁側へ飛び出した。朝食を吐き戻す音が狭い境内中に響く。
「りんご?」
「違うんだ。来ないでくれ。頼む」
うずくまって震えている。
「魔理沙」
背中に手をかけた。びくっと体が跳ねたあと、さらに小さくなる。
「息して。こっち見なさい」
魔理沙の顔の前へ来てむりやり頭を上げさせた。
「口閉じてていいから。息吸って。……こっち見て。誰かわかる?」
「……れいむ」
「よくできました。あんたはもうあの家の子じゃない。そうでしょ。あんたのことをこれっぽっちも思ってないのはご両親だけ。ちょっとは人の親切を知りなさいな。あんただっていつもあんなにお節介焼いてくれるじゃないの」
「……。食べるよ」
霊夢は目を細め、ひとかじりしてりんごを手渡した。
叡智だね