無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
溝櫛瑠璃華に見つからない。
分岐元、幸せの黄色いドーナツ
お兄さんがわたしのことをおうちに置いてくれるようになって、しばらくが経ちました。わたしに優しくしてくれるお兄さん。少し家事をするしかできないわたしに、なんでお兄さんはこんなにも優しくしてくれるのかが、わかりません。
確かに家事はしていますが、それくらいで、わたしを家に置くというリスクが犯せるものなのでしょうか。何かを間違えれば、自分の生活を丸ごと失ってしまうかもしれないのに、そんなことを許容できるのでしょうか。
それが心配になって、お兄さんにそれとなく聞いてみました。少し困ったような顔をして悩みながら返ってきたこたえは、わたしがただそこにいてくれるだけでも十分だというもの。わけがわかりません。わからないけど、お兄さんがわたしには言えない、言いたくない理由があって、わたしを置いてくれていることだけはわかりました。
いつかは、理由を聞かせてくれるのでしょうか。聞かせてほしいとは思いますが、下手に聞いて嫌な気持ちにさせてしまうのも嫌です。いつでも家の中で動くことができて、わたしが作ったごはんを食べてくれる、一緒にご飯を食べてくれる幸せがなくなったら、今度こそわたしはどうすればいいのかがわからなくなってしまいます。
だから、嫌がられそうなことは何も聞きません。今のわたしはまだ、お兄さんの前ではニコニコ笑っているかわいいだけのお人形さんでいいのです。かわいいと思ってくれているかはわかりませんが。お兄さんがそう求めてくれるのなら、それに答えるだけでこの幸せは続くのですから。
こわい外に出なくてもよくて、わたしのことを慈しんでくれて、わたしのことを褒めてくれる。わたしがいても嫌な顔をしなくて、わたしとお話してくれる。ただそれだけの事が、わたしがずっと欲しかったものです。お母さんに求めていて、ダメだったものです。
わたしはただ、家のお掃除をして、ご飯を作るだけ。それだって、やれることが何も無かったのと比べたら、天国みたいなものです。もしかしたら本当に天国に来てしまったのではないかと思ってつねってみたら痛かったので、天国ではありませんでしたが。
次の日のご飯の食材を買ってきてくれるよう、お兄さんにお願いして、晩御飯の準備をします。冷蔵庫の中の人参に元気がなくなってきたから、今日は人参マシマシです。それでもさすがに全部使うと今日のビビンバの半分以上が人参になってしまうので、多い分は調理してから冷蔵庫にしまいます。わたしの数日分のお昼御飯が決まってしまいましたが、それでも冷凍庫にしまうよりはずっといいです。あのぶよぶよの食感は、お腹が空いているときでも食べたくありません。
ところで、今思い出しましたがつねったら覚めるのは夢でしたね。勘違いしてしまったことに気付いて、顔が赤くなるのを感じます。今ここに、お兄さんがいなくてよかったです。もしいたら、一体どうしたのかと心配させてしまったでしょうから。そうなることは本意ではありませんし、それで理由を話すことになったらもっと恥ずかしい思いをするところでした。
熱いのは火を使っているせいだと、ちょっと無茶な言い訳を自分にして、意識を料理に戻します。メインはビビンバでいいとして、サブはどうしましょうか。冷蔵庫の中に入っているレタスを千切るサラダと、ほうれんそうのお浸し、汁物は卵スープにしましょう。いつもと比べるとだいぶ簡単な仕上がりですが、そもそもビビンバ自体が単体で三菜を体現しているようなものなので、おまけの一汁さえ用意してあれば問題ないでしょう。
ちょっと持て余してしまった時間を使って、お兄さんに使わせてもらっているスマホをいじります。調べ方さえ間違わなかったら危険なものの作り方まで簡単にわかるというこの道具は、何度使ってみても意味が分からないほど便利です。古い小説を無料で読むこともできるし、勉強もできます。ひとつあるだけで、何でもできてしまいます。
けれど、何でもできると言っても決してわたしが使いこなせるわけではないので、基本的な使い道はお兄さんと連絡を取ることと、料理のバリエーションを増やすために検索することくらいです。お兄さんはもっと遊ぶのに使ってもいいのだと言ってくれましたが、わたしにはこの使い方だけで十分でした。
たくさんの料理を知れて、それを実際に試すことができて、上手に出来たら褒めてもらえるのです。こんなに楽しいことがあるのに、それを楽しまないなんてもったいありません。
たくさんのレシピを見て、動画を見て、お勉強をします。お兄さんが美味しいと言ってくれた味と、頭の中で想像する味のどれが合いそうか、どれを作ったらお兄さんが喜んでくれるかを考えます。ただ想像しているだけなのに、うれしくなってきてしまうからお料理はすごいです。
そうして調べているうちに、途中で変なサイトに入ってしまって慌てて戻ったりしながら、お兄さんが帰ってくるまでの時間を潰していると、いつもと同じ時間帯にお兄さんからのメッセージが届きました。内容はいつも通り簡単なもので、今会社を出たから何時ごろにつきそうだというもの。
その時間に合わせて温かい出来立てになるように時間を調整しつつ、温めと最後の仕上げを済ませれば、あとはお兄さんが帰ってくるまでの短い時間を玄関の前で待っているだけ。いつも通りの同じ時間に帰ってきてくれることもあって、ここで待っている時間は長くても二分程度。
この時間だけは、何度経験しても、いつも同じものであっても、つい緊張してしまいます。ちゃんとお迎えできるかとか、服装がおかしくないかとか、帰ってきたら何を話そうとか、思い浮かぶことがたくさんで頭の中身がパンクしてしまいそうになりますが、胸がポカポカして大好きな時間です。
玄関の鍵が開く音がします。ドアノブが回されます。そしてゆっくり開けられて、お兄さんが顔を出します。
「ただいま、すみれちゃん」
たった二言の、小さな声。
いつもと同じ、変わらない言葉です。何も特別じゃない、日常の言葉です。そのはずなのに、もう聞きなれた言葉のはずなのに、不思議とわたしの心は弾みます。弾んで、それと同時に一番緊張します。
「おかえりなさい、お兄さんっ」
気持ちを出し過ぎると、自然と大きな声になってしまうから、努めて冷静にふるまいます。それでも、うれしいのは本当だから、つい声は弾んでしまいます。幸せでへろへろになりそうな顔に意識を集中して、お母さんに昔かわいいと褒められた笑顔を浮かべます。
お兄さんの表情が、わたしのことをみて和らぎました。お仕事のあとの疲れた顔が、明るいものに変わります。それを見て今日の笑顔も完ぺきな出来だったと確信します。
そのままお兄さんの荷物を受け取って、食材を冷蔵庫の中にしまいます。数日分で少し多めにお願いしたせいで、冷蔵庫の中はパンパンです。もう少し大きい冷蔵庫があればいいのにと思ってしまいますが、スペースがあったら消費しきれない分まで詰めてしまいそうなので、今のままでいいのかもしれませんね。
先に座って待ってくれているお兄さんの元に、ご飯を持っていきます。器の数が足りないせいで、普段ご飯が入っているお茶碗にお浸しが入っていますが、小鉢が足りないので仕方がありません。ちょっとおかしさを感じますが、ないものはないのです。今度お兄さんに買ってきてもらいましょう。
クッションに腰をかけて、向かい合って座ります。一緒に手を合わせて、いただきますをします。お兄さんが食べ始めるのを待って、顔がほころんだのを見てから食べ始めます。予め味見をしていても、多分大丈夫だとわかっていても、実際の反応を見るまではやっぱり安心できません。今日はいつもよりも反応がいいので、大成功ですね。明日も同じくらい喜んでもらえるように頑張らないといけません。
今日あったことをお話したり、何か近いうちに食べたいものはないかリサーチしたりしながらご飯を食べます。ご飯を食べながらほかのごはんのはなしをするのも、少し変な気はしますが、こういう雑談の中で聞くのが、一番自然に聞き出せました。
一緒にご飯を食べて、お兄さんがお風呂に入っている間に洗い物を済ませます。そうしたらあがったあとは、おしゃべりをしたり、お兄さんに借りた本を読んだりして好きなように過ごします。
そのまま少し過ごしたら、あとは寝る時間です。お布団に入って、おやすみなさいと挨拶をして、一日が終わります。もう終わってしまうのはさみしいですが、寂しいということはそれだけいい一日だったのでしょう。また明日、明日はもっといい日になりますように。