無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
「お兄さん、ちょっとお願いがあるんです」
ある平日の夕食後、以前までなら直ぐに僕がシャワーで、すみれが洗い物をしていたタイミングだが、
もうこの時点で、僕の中で断る気なんてものは限りなくゼロに近くなるまでなくなってしまっているが、一応話を聞かないことには何も決められない。何も聞かないままなんでもOKなんて脳死するわけにはいかないのだ。
「実は最近、外に出る時に寒さが気になって……防寒具を買おうと思うのですが、一緒に選んでもらえませんか?」
裾をいじれるくらいの至近距離で、上目遣いになりながら、ちょっと恥ずかしそうに切り出すすみれ。わかっていてやっているのだろうか、さすがに完全に天然というわけでもないだろう、実にあざとい。
それはさておき、おねがいへの答えはもちろんYESだ。元々必要になったら買おうと話していたものだし、今すみれが使っているのは僕のお下がりのマフラーだけ。むしろどうしてこれまで買わなかったのかというくらいである。
買いたいものや、どこに行きたいか、いつがいいかなんてことを話して、週末。初めて買い物に連れて行った時と同じショッピングモールに行く。
あの日と同じように車に乗って、同じように駐車場に停めた。あの日とは違って丁寧に車から降りるすみれは、もうすっかり外慣れたようで、自動ドアにもエレベーターにも驚いていない。
当たり前のことなのに、どこか感慨深いなぁと思っていると、すみれが半眼でこちらを見ていることに気付いた。失礼なことを考えてないかと聞かれてごめんと返しながら、3階のフロアに降りる。
かつてまともに呼吸も出来なくなっていたとは思えないほど、自然体で過ごしているすみれ。普通にしていられることも、外に慣れたこともいいことではあるのだが、ここまで実感してしまうとどこか寂しさがあった。
「おにいさん、その、よかったら手を繋いでくれませんか……?」
掴まれていない左の裾を、なにか物足りない感覚で気にしていると、すみれがおずおずとそう言った。
断る理由もないし、物足りない感じを埋められればと思ってイエスと返す。ひんやりとした、小さな手が僕の手の中に収まった。
「えへへ、お兄さん、いきましょう!」
小さな手が、冷たい手が、僕を優しく引っ張った。
『もうっ、遅いよお兄ちゃん、こっちこっち!』
小さな手が、子供特有の高い体温が、僕を急かすように引っ張った。
重なって、一瞬混ざって、溶けて消える。残ったのは温かい子供ではなく、冷たい少女。僕が守れなかった子供ではなく、守らなくてはいけない少女。
冷たい手に引かれて、衣料品売り場に向かう。ふわふわでモコモコなガウンや、あたたかそうなコートなどを通り過ぎて、耳当てやマフラーなどのコーナーに着く。
すみれが手に取って確かめているのは、耳当てと手袋、帽子。ネックウォーマーやマフラーはいらないのかと聞いてみると、僕のお下がりのものがあるからいらないとのこと。お下がりのものは見た目もそれほど良くないし、何よりくたびれているから新しいものの方がいいのではないかと思い聞いてみたが、これでいいのではなくてこれがいいのだと言われてしまったので、それ以上言うのはやめておいた。少し気恥ずかしくはあるが、自分が使っていたものを大切にしてくれると言うのは、案外嬉しいものだ。
「お兄さん、これとこれなら、どっちがいいと思いますか?」
すみれが差し出しているのは、右手に持った明るい灰色の耳あてと、左手に持ったベージュにピンクが混ざったような色のもの。
どちらも似合いそうなので、どちらをつけてもいいと思うが、灰色の方だと僕がもらったマフラーの色と同じになってしまい、身につけている防寒具の色がほぼ同じになってしまうので、左の方をゆびさす。あまり色合いや組み合わせに詳しい訳では無いので、あくまでただの感想、一意見だが、すみれはそれを聞いて決心がついたらしく、その耳あてと、同じ色の手袋を選んだ。
自分のお小遣いの中からお金を出そうとするすみれに、これはすみれの趣味じゃなくて生活に必要なものだからと言い聞かせてお金を払い、ついでにこれまで買っていなかったヒートテックも必要分揃える。あまり合わないとかの理由で着ないことはあるかもしれないが、ただでさえ基礎体温が低いのだから、少しでも暖かい格好をするに越したことはない。
会計を済ませて、衣料品店を出る。せっかくここまで来たのだから、他にも見ていきたいものの一つや二つくらいあるだろうと聞いてみて、それじゃあと連れていかれたのは製菓専門店。
「実はお菓子作りに興味がわいたので、色々買ってみたいものがあるんです」
そう言ってすみれが買ったのは、数種類の小麦粉と砂糖、バターにベーキングパウダー、電子測りを買う。お菓子作りというのだから、結構な量の小麦粉を揃えるのかと思いきや、一種類一種類の量は200グラム程度。正直予想外だったが、きっとすみれにも何か考えがあるのだろう。そうでもなければこんな奇妙な買い方はしない。
すみれが自分のお小遣いで買ったのを見て、袋くらいはと預かる。一つ一つはそれほど重くなくても、合わせれば二、三キロくらいにはなるだろう。それをそのまま持たせるのは僕の矜恃が、と言うよりも、お兄ちゃんとしての経験が許さない。
他にはなにかないかと聞いて、何も無いと言われたので今日の目的は概ね達成。あとは、どうせなら大きなお店で食材を見てみたいと話していたすみれの希望に従って晩御飯の分の買い出しをするくらいだ。
「お兄さん、連れてきてくれたお礼も兼ねて、今日はお兄さんが食べたいものをなんでも作っちゃいますよ!」
言ってくれればいつでもお兄さんが食べたいものを作りますけど。といたずらっぽく言って、すみれは僕に夕飯の希望を聞く。こんなことを言っているが、実際に好きな時に好きなものを食べたいと希望を出したら、栄養バランスを考えるすみれの負担が大きくなってしまうため、僕はなかなか言うことが出来ない。
本人は頼めば喜んで苦労してくれそうではあるが、僕としてはすみれの料理がなにか考えながら待つことも楽しんでいるので、不思議なバランスである。
「それなら、今日は魚介が食べたいかな。寒いから鍋で、何かある?」
少し考えて要望を伝えてみると、すみれは一瞬固まって、ちょっと待ってくださいと言ってスマホを確認し始めた。
あまり心当たりがないなら別のものでもいいと伝えるも、新しく開拓するための一歩になると聞かずに調べるすみれ。鮮魚コーナーで色々見ながら三分くらい経って、何かを見つけたらしく、ようやく表情を明るくした。
「お兄さん、ブリしゃぶが美味しいみたいです!……お肉と比べるとやっぱり、ちょっと高くなってしまいますが、どうでしょうか?」
しっかり考えて、値段まで踏まえて少し難しいかもと尋ねるすみれ。普段の一食と比べるとそこそこ高くつきそうだが、すみれが即興でここまで考えてくれたのだから、水を差すのも無粋だろう。
本当はシーフードミックスか何かを使って、鍋とは言ってしまったがカレーなんかを作ってくれれば満足だったことは胸の内にしまいつつ、僕からのOKを聞いてパッと華やいだすみれを見る。
今まで食べたことの無い鍋の味を想像しながら、これがあったらもっと美味しいかもなぁなんて独り言を言っているすみれ。この日すみれが作ってくれたブリしゃぶは、初めて食べた味だが美味しかった。